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作品タイトル不明

第百五十一話 三通の文

天文十九年(一五五〇年)十一月。

尾張、末森。

織田信秀のもとへ、九州より使者が来た。

阿蘇からである。

届けられたのは、文が三通。

そして、小さな薬箱が一つ。

使者は礼を尽くし、阿蘇の名代として深く頭を下げた。

「九州阿蘇より、織田弾正忠様、織田三郎様、平手政秀様へ」

信秀は、目を細めた。

「三通か」

「はい」

その場には、信長と平手政秀もいた。

信長は、面白そうに身を乗り出している。

政秀は、阿蘇という名を聞いただけで、すでに少し顔色が悪い。

信秀はそれを横目で見て、少しだけ笑った。

「政秀」

「はっ」

「なぜ、お前は阿蘇と聞いただけで腹を押さえる」

「……思い出すことが、多うございます」

「ほう」

信秀は、信長を見た。

「三郎。阿蘇で何をしてきた」

「話をした」

「何の話だ」

「天下の話だ」

政秀が咳き込んだ。

「若!」

信秀は黙って信長を見た。

信長は悪びれない。

「父上、阿蘇は面白い」

「それは聞いた」

「いや、聞いたくらいでは分からぬ。あれは家ではない。仕組みだ」

信秀の目が、わずかに動いた。

「仕組み」

「そうだ。飯、兵、船、火器、商人、帳面、医者、道、蔵、寺社。全部がつながっておる。祝言ですら、あの童は市に変えた」

「童か」

信秀は、阿蘇の使者が差し出した文に目を向けた。

「その童からの文か」

使者は、静かに答えた。

「恐れながら、阿蘇家中では、すでに惟種様を『殿』とお呼びする者が増えております」

信長が笑った。

「ほう。阿蘇の鬼童は、殿になったらしいぞ」

信秀は文を受け取りながら言った。

「早いな」

信長は即座に返した。

「遅い」

政秀が、深く息を吐いた。

「若、そこに食いつくところではございませぬ」

「食いつくところだ。あの惟種が前へ出たなら、阿蘇はさらに速く動く」

「速く動いておるのは若の口でございます」

「じいは黙っておれ」

「黙れませぬ」

信秀は、二人のやり取りを聞きながら、最初の文を開いた。

一通目は、信秀宛であった。

文面は丁寧である。

祝儀への礼。

尾張織田より使者を受けたことへの感謝。

信長が遠路を越えて来たことへの労い。

そして、今後の通交について。

信秀は、読み進めるうちに目を細めた。

「ふむ」

信長が聞く。

「何と」

「阿蘇は、尾張織田との通交を喜ぶ、とある」

「それはよい」

「ただし」

信秀は続けた。

「阿蘇が正式に相手と見るのは、この信秀だ」

信長は眉を上げた。

「わしではなく?」

「そう書いてある」

政秀の顔に、かすかな安堵が浮かんだ。

信秀は文を読み上げた。

「織田三郎殿の才気、阿蘇にて確かに拝見仕る。されど、家と家の通交は筋を違えてはならず。尾張織田との文、荷、商い、火器の件は、弾正忠殿の御名をもって受け申す。三郎殿には、その取次を願いたく候」

信長は、少しだけ黙った。

それから、笑った。

「なるほど」

「分かるか」

「分かる」

信長は文を見た。

「あの男、わしを焚きつけぬ形にしたな」

「そうだ」

信秀は頷いた。

「阿蘇は、お前個人と通じるのではない。尾張織田と通じる。その上で、お前を取次にする」

政秀が、深く頭を下げた。

「ありがたき配慮にございます」

信長は、少し不満そうに鼻を鳴らした。

「堅い」

「その堅さが、お前を守る」

信秀の声が、少し低くなった。

「三郎。もし阿蘇が、お前個人へ鉄砲や火薬を寄越すと言ってきたなら、尾張の内でどう見られる」

「わしが九州と勝手に通じたと見る」

「そうだ」

「面白いではないか」

「面白くない」

政秀が即座に言った。

「まことに、面白くございませぬ」

信秀は文を畳んだ。

「阿蘇は、お前に火を渡す気はある。だが、お前を火種として燃やす気はないらしい」

信長は、しばらく黙っていた。

やがて、口元を吊り上げる。

「ますます面白い」

二通目は、信長宛であった。

信長は、待ちきれぬ様子で文を奪うように受け取った。

政秀が眉をひそめる。

「若、文は丁寧に」

「読めればよい」

「そういうものではございませぬ」

信長は構わず開いた。

文は短かった。

だが、鋭かった。

『 織田三郎殿へ。

火を急ぐな。

火は薪がなければ消える。

尾張における薪とは、米、銭、道、市、商人、職人、人の名である。

まず津島と熱田の流れを太らせよ。

荷を守り、関を整え、銭を逃がすな。

鉄砲は少数送る。

だが、それより先に帳面を送る。

弾を数えよ。

火薬を数えよ。

火縄を数えよ。

兵の飯を数えよ。

数えられぬ火は、国を焼く。

数えられた火は、敵を焼く。

まず、生き残れ。

そして、大きくなれ。

阿蘇惟種』

信長は、読み終えてしばらく動かなかった。

政秀が、不安そうに見る。

「若?」

信長は、ぽつりと言った。

「けちだな」

政秀は肩の力を抜きかけた。

だが、次の言葉でまた固まった。

「だが、面白い」

信秀が文を求めた。

信長は素直に渡す。

信秀は目を通し、少しだけ感心したように息を吐いた。

「鉄砲ではなく、帳面か」

「阿蘇らしい」

信長は言った。

「わしは火が欲しい。あの男は薪を数えろと言う」

「正しい」

政秀が言った。

信長は政秀を見る。

「じいもそう思うか」

「思います」

「つまらぬな」

「つまらなくとも、正しいものは正しいのです」

政秀は真顔で言った。

「鉄砲を持つだけなら、どこかの国人でもできます。ですが、鉄砲を撃ち続けるには、火薬、弾、鉛、火縄、鍛冶、兵の飯、訓練、保管場所、湿気への備え、すべてが要ります」

信秀が頷いた。

「阿蘇は、それを知っておる」

信長は、文の一節を指で叩いた。

「数えられぬ火は、国を焼く。数えられた火は、敵を焼く」

信長の目が光った。

「よい」

政秀は、嫌な予感を覚えた。

「若」

「まずは津島と熱田だ」

「……やはり」

「商人を逃がさぬ。荷を守る。関を整える。銭を太らせる。鉄砲より先に蔵だ。腹は立つが、筋は通っておる」

信秀は、静かに信長を見ていた。

信長がここまで素直に人の言葉を受け取ることは珍しい。

いや、素直ではない。

受け取った上で、自分の火にくべている。

阿蘇の文は、信長を止めるものではない。

むしろ、進む道を整えるものだった。

この文は、のちに尾張の流れを変えることになる。

鉄砲が増えたからではない。

火薬が大量に来たからでもない。

信長が、火器をただの珍しい武器ではなく、国を動かす仕組みの一部として見始めたからである。

兵を動かすには飯がいる。

鉄砲を撃つには弾がいる。

弾を作るには鉛と職人がいる。

火薬を扱うには乾いた蔵がいる。

蔵を満たすには商人と道がいる。

商人を呼ぶには、市を守らねばならない。

その全てを数える。

この考えは、信長の進み方を変えた。

ただし、無闇に兵を出す方向ではない。

先に市を押さえ、商人を守り、荷の流れを太らせ、兵糧と火器を数える方向へである。

それは、後の尾張内部の争いに大きく関わってくることになる。

史実とは違い、信長はより早く、商流と兵站を一つの武器として使い始める。

槍を持って城を攻める前に、銭と米と道で相手を痩せさせる。

阿蘇の文は、尾張の火に薪を与えた。

しかも、ただ燃やす薪ではない。

燃やす順番を教える薪であった。

三通目は、平手政秀宛であった。

政秀は、やや警戒しながら受け取った。

「わたくしへ、でございますか」

阿蘇の使者が小箱を差し出す。

「文と、薬にございます」

「薬?」

信長が覗き込む。

「じい、毒ではないか」

「若」

政秀は目を閉じた。

「惟種殿がそのようなことをなさる理由がございませぬ」

「分からぬぞ。じいは阿蘇で腹を切りかけたからな」

「誰のせいでございますか!」

信秀が思わず笑った。

政秀は赤くなり、咳払いをして文を開いた。

『平手政秀殿へ。

先日の御労苦、察するに余りあります。

織田三郎殿の火は大きく、近くに控える御身の御苦労はいかばかりかと存じます。

阿蘇にて調えた胃の薬を同封いたします。

効き目は保証いたしますが、根本の病は薬のみでは治りませぬ。

どうか、火の近くに水を置き続けられよ。

阿蘇惟種』

政秀は、文を読み終えて、しばらく何も言わなかった。

信長は肩を震わせている。

「じい、よかったな」

「若」

「胃薬ですぞ。阿蘇から」

「誰のせいでございますか!」

「じいの胃が弱いからだ」

「若の口が強すぎるからでございます!」

信秀は、とうとう声を出して笑った。

「阿蘇の殿は、政秀の扱いも分かっておるらしい」

政秀は、文を丁寧に畳んだ。

小箱を開けると、薬包がいくつも入っていた。

香りは苦い。

だが、確かに薬である。

政秀は、複雑な顔でそれを見た。

「ありがたいことではございますが……」

「が?」

信秀が問う。

「なぜでしょう。効く前から、胃が痛うございます」

信長が笑った。

「飲め、じい」

「今飲む羽目になった原因も、若でございます」

信秀は、改めて三通の文を並べた。

自分宛。

信長宛。

平手宛。

どれも違う。

だが、すべて同じ筋で書かれている。

信秀には、家と家の筋を通す文。

信長には、火を大きくするための文。

平手には、火を囲う水としての文。

阿蘇惟種。

まだ若い。

だが、この若者は、相手ごとに何を渡せば最も効くかを知っている。

「三郎」

「何です」

「阿蘇との取次、お前に命じる」

政秀は顔を上げた。

信長は、笑った。

「よいのですか」

「よい」

信秀は言った。

「ただし、勝手に兵も鉄砲も動かすな。阿蘇との文、荷、商いは、わしの名を通せ」

「分かっております」

「本当か」

「多分」

「多分では困る」

政秀が即座に言った。

信長は面倒そうに手を振った。

「分かっておる。父上の名を使う。わしは取次だ」

「それが大事だ」

信秀は言った。

「お前が阿蘇と勝手に通じれば、尾張の内で敵を増やす。だが、わしが認めた取次なら話は違う」

信長は頷いた。

「使える名は使え、か」

「そうだ」

「阿蘇と同じだな」

信秀は、少しだけ口元を緩めた。

「阿蘇から学んだなら、少しは礼を言え」

「礼なら、あとで尾張を太らせて返す」

「大きく出たな」

「大きくならねば、阿蘇に笑われる」

信長は、惟種の文をもう一度見た。

「まず、生き残れ。そして、大きくなれ、か」

その言葉は、信長の中に残った。

生き残る。

尾張で生き残る。

家中で生き残る。

今川の圧に生き残る。

美濃との間で生き残る。

そして、大きくなる。

阿蘇の鬼童は、信長を止めなかった。

急ぐなとは書いた。

だが、進むなとは書かなかった。

むしろ、進むなら順番を間違えるなと書いてきた。

信長には、それが何より面白かった。

その夜、信長は平手政秀を伴い、津島と熱田の商人に関する帳面を持ってこさせた。

政秀は、嫌な予感を覚えながらも従った。

「若、今日はもう遅うございます」

「火は待たぬ」

「阿蘇殿は、急ぐなと書いておられました」

「急いで考えるだけだ」

「それを急ぐと言います」

信長は、帳面を広げた。

津島。

熱田。

関。

荷。

商人。

米。

銭。

「じい」

「はい」

「関を増やせば商人は逃げる」

「はい」

「商人が逃げれば、敵の蔵が太る」

「その通りにございます」

「なら、取るならどこで取る」

政秀は、少し考えた。

「道を塞ぐのではなく、守る代わりに取るべきかと」

「そうだ」

信長は笑った。

「阿蘇の言う薪とは、これだ」

政秀は、信長の横顔を見た。

危うい。

相変わらず危うい。

だが、ただ燃えるだけの火ではなくなりつつある。

火の周りに、薪を積むことを覚え始めている。

それは、良いことなのか。

悪いことなのか。

政秀には、まだ分からなかった。

ただ一つだけ、分かることがある。

阿蘇から届いた文は、信長を大人しくさせるものではない。

信長を、より遠くへ走らせるものだ。

そしてその走り方は、史実とは違うものになっていく。

銭を数え、飯を数え、火を数え、道を数える信長。

尾張の火は、ただ燃えるのではなく、燃やす場所を選び始めていた。

数日後。

尾張織田の内に、静かな噂が流れた。

九州の阿蘇と、織田弾正忠家が文を交わしたらしい。

阿蘇の鬼童は、すでに若君ではなく殿と呼ばれているらしい。

その阿蘇が、織田三郎を取次にしたらしい。

この噂は、小さかった。

だが、小さな噂ほど、尾張ではよく効く。

信長を侮る者は笑った。

「うつけが九州にかぶれたか」

商人は違う反応をした。

「阿蘇の荷が来るなら、道が動く」

家臣の中にも、違う目で見る者が出た。

「殿が認めた取次なら、三郎様もただのうつけではないのか」

信長への見方は、少しずつ変わり始める。

まだ大きな変化ではない。

だが、後に尾張の内を揺らす時、その小さな変化が大きく効いてくることになる。

阿蘇の文は、鉄砲より先に、信長へ立場を与えた。

阿蘇の帳面は、火薬より先に、信長へ順番を教えた。

阿蘇の胃薬は、平手政秀に少しの休息を与えた。

もっとも、その休息は長く続かなかった。

「じい」

「はい」

「明日、津島へ行くぞ」

「……なぜでございますか」

「商人を見る」

「若」

「阿蘇に笑われぬようにな」

政秀は、薬箱を見た。

そして、ため息をついた。

「一包、今からいただきます」

信長は笑った。

尾張の冬は近い。

だが、その内側で、ひとつの火が形を変え始めていた。