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作品タイトル不明

第百五十話 紙と声

天文十九年(一五五〇年)九月。

評定から、ひと月ほどが過ぎた。

阿蘇の館には、祝言の名残はもうほとんどない。

来賓の多くは帰路につき、残った者たちも、それぞれの役目へ散っている。

代わりに増えたのは、紙である。

勘定方の部屋には、帳面が積まれていた。

人別帳。

村帳。

軍役帳。

蔵帳。

疱瘡帳。

その名を聞くだけで、惟種は少し頭が痛くなる。

だが、これから九州を治めるには、避けて通れぬ。

国を取ることと、国を回すことは違う。

戦で勝っただけでは、米も道も病も、民の腹も変わらない。

それを変えるには、まず数えねばならない。

人を数える。

米を数える。

病を数える。

兵を数える。

商いを数える。

数えられぬものは、救えない。

惟種は、そう思っていた。

宗運が報告に来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。

その後ろには、島津貴久と日新斎もいた。

珍しい組み合わせではない。

だが、三人の顔つきが妙にそろっていた。

何かを決めてきた顔である。

惟種は、嫌な予感を覚えた。

「何だ」

宗運が頭を下げる。

「南の件にございます」

「早いな」

「早うございます」

宗運は淡々と言った。

「旧伊東方の端、肝付の旧臣、山間の土豪、港の抜け荷商人。そのあたりに小さな火が出ております」

惟種は眉を動かした。

「反乱か」

「反乱と呼ぶには、まだ小さくございます」

貴久が答えた。

「阿蘇目付を追い返した村が二つ。蔵帳を出さぬ地侍が一人。人別帳を拒む寺が一つ。港では、荷改めを嫌った商人が船を隠しました」

「大きくはないな」

「はい。ですが、放っておけば、南では広がります」

日新斎が静かに続けた。

「島津の名だけで南が静まるなら、苦労はございませぬ」

惟種は、日新斎を見た。

「島津が押さえられぬと?」

「押さえられます」

日新斎は即答した。

「兵を出せば、すぐにでも」

「では、出すか」

「出せば、静まります。ですが、恨みが残ります」

宗運がそこで口を開いた。

「斬るだけなら容易にございます」

その声は冷静だった。

「ですが、斬れば、残った者が山へ逃げます。山へ逃げた者は、次の火種になります。火種が消えぬまま南を差配すれば、島津も阿蘇も、ずっと兵を置かねばなりませぬ」

「それは困る」

「はい」

惟種は、机の上の地図を見た。

南九州。

日向。

大隅。

薩摩。

山と海と川が入り組み、阿蘇の手はまだ薄い。

島津は阿蘇の内へ入った。

島津貴久は、阿蘇に臣礼を取り、南九州差配の役を受けた。

もはや島津は、阿蘇と並び立つ外の家ではない。

阿蘇家中に列し、南を預かる家である。

だが、貴久と日新斎が腹を括ったからといって、島津の末端や旧伊東、肝付、山の者、海の者までも

が、すぐにそれを呑み込めるわけではなかった。

まして旧伊東、肝付、山の者、海の者にとって、阿蘇はまだ遠い。

「予想はしていた」

惟種は言った。

「紙と語り部の支度は?」

「進めております」

宗運は答えた。

「木版も彫らせております。絵入りにしました」

「絵入りか。よいな。字を読めぬ者にも伝わる」

「はい」

「語り部は」

「寺、市、港、村の辻へ送ります。医者、勘定役、目付、護衛の兵も組ませます」

「それでよい」

惟種は頷いた。

紙と声で、阿蘇の考えを広げる。

帳面が何のためにあるのかを知らせる。

従えば米が来る。

病を隠さねば医者が来る。

荷改めは商いを殺すためではなく、盗人と間者を防ぐためだ。

阿蘇兵は民の飯を奪わない。

理は、届かなければ意味がない。

「なら、何を相談に来た」

惟種が言うと、宗運が一瞬だけ黙った。

その沈黙で、惟種の嫌な予感は強くなった。

「ただし」

宗運は言った。

「少し、色を付けました」

「色?」

「はい」

日新斎が穏やかに笑った。

「殿」

その呼び方に、惟種は少し眉を動かした。

若君ではない。

殿。

評定の後から、家中の呼び方が少しずつ変わっている。

惟豊は大殿。

惟種は殿。

それは、惟種が前へ出るということでもあった。

まだ、慣れない。

「南の民は、帳面の理だけでは動きませぬ」

日新斎は続けた。

「米が来る。医者が来る。灯がともる。兵が乱暴せぬ。それだけでも、たしかに驚きます。ですが、それをただの政として語るより、阿蘇大明神の御恵みとして語った方が、南には届きます」

惟種は、嫌な予感が形を持ったのを感じた。

「……何をした」

宗運が、静かに頭を下げた。

「殿を、阿蘇大明神の御前で、国を太らせ民を飢えさせぬと誓われた方として語らせます」

「えぇ……」

惟種の口から、思わず声が漏れた。

貴久が少し視線を伏せた。

日新斎は笑わない。

宗運も笑わない。

三人とも、真面目であった。

「わしは、神ではない」

「存じております」

宗運は即答した。

「ですから、神とは申しませぬ」

「同じようなものではないか」

「大きく違います」

「どこがだ」

「神を騙るのではございませぬ」

宗運は淡々と言った。

「阿蘇の大宮司家が、阿蘇大明神の御前で、民を飢えさせぬと誓う。病を隠させぬ。道を守る。兵を乱れさせぬ。そう語るのです」

「……」

「殿のなさっていることを、民の言葉に直すだけにございます」

「民の言葉が、だいぶ神寄りではないか」

日新斎が、そこで口を開いた。

「南では、それでよいのです」

惟種は日新斎を見る。

「よいのか」

「はい」

日新斎の声は静かだった。

「殿。南の者は、阿蘇の蔵をまだ知りませぬ。阿蘇の医も、阿蘇の灯も、阿蘇の兵も知りませぬ。知らぬ者に帳面を出せと言えば、奪われると思います」

「だから先に見せる」

「その通りにございます」

日新斎は頷いた。

「米を見せる。灯を見せる。傷つけぬ兵を見せる。病を救う医を見せる。そして、それらは阿蘇大明神の御恵みであり、殿がその御心に沿って行っているのだと語る」

「……」

「恐れで縛れば、恐れが消えた時に離れます。ありがたみで縛れば、飯を食うたびに思い出します」

惟種は返せなかった。

嫌だ。

ものすごく嫌だ。

だが、理屈としては間違っていない。

貴久も静かに言った。

「島津家中にも、阿蘇に臣従したと腹を括った者はおります。

ですが、島津を恨む者もおります。

旧伊東、肝付、山の者、海の者。

彼らの中には、島津が阿蘇に膝を折ったと見る者もおりましょう。

そこへ阿蘇の目付が入れば、必ず騒ぐ者は出ます」

「出たな」

「出ました」

「それで、わしを神がかりにするのか」

「殿を神にするのではございませぬ」

宗運が再び言った。

「阿蘇の政に、神威を借ります」

「言い方を変えただけだ」

「言い方は大事にございます」

宗運は真顔だった。

「殿は、以前から申しておられました。民に伝わらねば、理は理のまま死ぬ、と」

「言った」

「ならば、伝わる形に直しました」

「直しすぎではないか」

「南では、ちょうどよいかと」

惟種は、深く息を吐いた。

宗運は、たまにこういうことをする。

惟種が一を言うと、三どころか五くらいまで進めてくる。

しかも、たいてい正しい。

「ただし」

惟種は、そこで声を低くした。

「ひとつだけ、絶対に誤るな」

「はっ」

「阿蘇の神威は、あくまで阿蘇の地と民を鎮めるためのものだ。主上の御威光、禁裏の御権威を侵すものではない」

宗運の顔が引き締まった。

貴久も日新斎も、深く頭を下げた。

「無論にございます」

宗運は言った。

「阿蘇は禁裏を仰ぎ、幕府の筋を立て、その上で阿蘇大明神の御神徳をもって九州の民を鎮める。その線は、決して越えませぬ」

「越えたら止める」

「承知しております」

日新斎も静かに言った。

「殿。南へも、そのように伝えます。阿蘇は帝の御代を乱すものではなく、御代を乱さぬために九州を鎮める家である、と」

「それならよい」

惟種は頷いた。

「わしを持ち上げるのは、まだ我慢する。だが、禁裏を軽く見るような言葉は許さぬ」

「心得ました」

惟種は、もう一度息を吐いた。

自分が神であるつもりはない。

まして、帝の上に立つなど論外である。

阿蘇は阿蘇である。

大宮司家であり、九州を鎮める家である。

だが、それは禁裏の御威光を仰いでこそ意味を持つ。

宗運が、一枚の刷り物を差し出した。

まだ試し刷りである。

惟種は受け取った。

紙には、絵が彫られていた。

中央には、阿蘇山を背にした社。

その前に、米俵を運ぶ者たち。

病人の家へ向かう医者。

夜道に灯る石炭の灯。

槍を持ちながらも、田を踏まぬ阿蘇兵。

子に字を教える僧。

上には、大きく文字がある。

『阿蘇の帳に名を載せよ。名ある者を、阿蘇は見捨てぬ』

惟種は黙った。

悪くない。

非常に分かりやすい。

字が読めぬ者にも、絵で伝わる。

語り部がこれを持って話せば、さらに伝わる。

だが、社と光の描き方が、少しばかり大げさである。

「……わしの後ろが光っていないか」

「神威にございます」

「光らせるな」

「では、控えめに」

「消せ」

「控えめにいたします」

「消せと言った」

宗運は聞こえなかったように、次の紙を出した。

惟種は額に手を当てた。

二枚目には、疱瘡を隠した村と、届け出た村が並べて描かれていた。

一方では黒い煙のようなものが広がり、もう一方では医者と看病役が病人の家に入っている。

文字が添えられていた。

『病を隠せば、隣も死ぬ。病を届ければ、医と薬が来る』

「これはよい」

惟種は素直に言った。

「脅しも入っておりますが」

「必要だ。病は隠されると困る」

宗運は頷いた。

「三枚目は、港でございます」

今度は、港の絵である。

荷改めを受ける商人。

印を受けた荷。

捕らえられる抜け荷の者。

港の外で睨む間者らしき男。

『荷改めは商いを止めるためにあらず。盗人と間者を止めるためなり』

「これもよい」

惟種は言った。

「商人には効く」

貴久が頷いた。

「南の港でも使えます」

「四枚目は兵でございます」

宗運が次を出す。

絵には、二つの軍勢が描かれていた。

一方は乱れた兵で、村の米を奪い、女や子を泣かせている。

もう一方は整った阿蘇兵で、田の外に陣を置き、村人に銭を払って米を買っている。

『阿蘇の兵は、民の飯を奪わぬ。兵は兵として鍛えられ、民は民として田を作る』

惟種は、そこで少し目を細めた。

「これは大事だ」

「はい」

宗運の声も低くなる。

「兵農分離は、民には分かりにくうございます。ですが、乱暴しない兵、田を荒らさぬ兵と語れば分かります」

「そうだ」

戦で一番苦しむのは、戦わぬ者である。

兵が通る。

米を奪う。

女を奪う。

家を焼く。

田を踏む。

それが当たり前になれば、民は兵を敵として見る。

阿蘇の兵は、そうしてはならない。

「阿蘇兵に徹底させろ」

「すでに命じております」

「破った者は」

「罰します」

「身分に関わらずだ」

「承知しております」

宗運の返答に、迷いはなかった。

「語り部には、何を語らせる」

惟種が問うと、日新斎が懐から別の紙を出した。

「南向けの言葉にございます」

「読む」

惟種は紙を受け取った。

そこには、語りの文句が書かれていた。

難しい言葉は少ない。

市や寺の前で語るためのものだ。

『阿蘇の帳は、民を縛る縄ではございませぬ。

飢えた時、米を届けるための道しるべにございます』

『名を隠した家には、米を届けられませぬ。

病を隠した村には、医を送れませぬ。

ゆえに、名を届けよ。病を届けよ。

阿蘇は、届けた者を見捨てませぬ』

『夜には灯をともしまする。

道には兵を置きまする。

兵は民の飯を奪いませぬ。

民は安心して田を作りまする』

『禁裏の御威光を仰ぎ、阿蘇は九州を鎮めまする。

阿蘇大明神の御前に、殿は誓われました。

民を飢えさせぬ。

病を隠させぬ。

道を守る。

乱す者を許さぬ』

惟種はそこで読む手を止めた。

「誓った覚えがない」

「これから誓っていただきます」

宗運が言った。

「順番がおかしいだろう」

「先に文を作らねば、木版が間に合いませぬ」

「だからといって」

日新斎が穏やかに言う。

「殿。誓えぬことではございますまい」

惟種は黙った。

誓えぬことではない。

民を飢えさせぬ。

病を隠させぬ。

道を守る。

乱す者を許さぬ。

それは、惟種がやろうとしていることそのものだった。

ただ、それを阿蘇大明神の御前で誓うとなると、話が大きくなる。

「……わしは、そういうのが苦手だ」

「存じております」

「なら、やめろ」

「やめませぬ」

「なぜだ」

「必要だからにございます」

宗運は即答した。

惟種は、また深く息を吐いた。

この男は、惟種が本当に嫌がることはしない。

だが、惟種が嫌がっても必要なことはする。

そこが厄介だった。

貴久が言った。

「南では、阿蘇の豊かさを見せねばなりませぬ」

「見せる」

「はい。ただし、ただ配るだけでは足りませぬ」

「どうする」

「従った村から先に、米を入れます。医者を入れます。灯をともします。道を直します」

「反乱した村は」

「すぐには焼きませぬ」

貴久の声は落ち着いていた。

「周囲から切り離します。従えば米が来る。従えば医者が来る。従えば阿蘇兵が守る。それを見せます」

日新斎が続けた。

「反乱に加われば、古い面目は守れるかもしれませぬ。ですが、腹は膨れませぬ。病は治りませぬ。夜道は明るくなりませぬ」

「それで、周囲を動かさせない」

「はい」

宗運が言った。

「火種は斬る前に、薪を湿らせます」

「米でか」

「米で。医で。灯で。紙で。声で」

宗運は一拍置いた。

「そして、阿蘇大明神の名で」

惟種は天井を見た。

本当に、そう来るか。

しかし、分かってしまう。

戦は、兵だけで勝つものではない。

国も、法だけで治まるものではない。

人は、見たものを信じる。

食べたものを信じる。

助けられた記憶を信じる。

そして、神仏の言葉に背中を押される。

惟種が未来の知識で組み立てた理を、宗運たちはこの時代の言葉に直している。

それだけのことだ。

それだけのことなのだが。

「えぇ……」

もう一度、惟種は小さく漏らした。

日新斎が、今度は少しだけ笑った。

「殿は、民を神に頼らせぬ国を作りたいのかもしれませぬ」

「そうだな」

「ですが、今の民は、まだ神仏と共に生きております」

惟種は黙って聞いた。

「ならば、神仏を敵にしてはなりませぬ。神仏の言葉を借りて、民を良い方へ向ければよいのです」

「それは、騙しているのではないか」

「飢えた者に米を出し、病む者に医を出し、夜に灯をともすなら、騙しではございませぬ」

日新斎は静かに言った。

「御利益が、本当にあるのですから」

惟種は、言い返せなかった。

その夜。

阿蘇の工房では、木版を彫る音が続いていた。

こつ、こつ、こつ。

細い刃が、板の上を走る。

米俵。

灯。

医者。

兵。

子ども。

阿蘇の社。

刷り師たちは、墨を伸ばし、紙を置き、ばれんで擦る。

一枚。

また一枚。

さらに一枚。

紙の上に、阿蘇の言葉が増えていく。

同じ頃、語り部たちも集められていた。

寺で説法に慣れた者。

市で物語を語っていた者。

旅芸人だった者。

僧。

社人。

商人の手代。

彼らは、刷り物を手に、声の出し方を教わっていた。

「阿蘇の帳は、民を縛る縄ではございませぬ」

一人が読む。

「飢えた時、米を届けるための道しるべにございます」

別の者が続ける。

「名ある者を、阿蘇は見捨てぬ」

その言葉は、何度も繰り返された。

難しい法度ではない。

長い政の話でもない。

短く、強く、耳に残る言葉。

紙と声。

阿蘇の新しい兵であった。

南へ向かう一行は、数日後に阿蘇を出た。

先頭には、島津の案内役。

その後ろに、阿蘇の目付と勘定役。

医者。

薬を積んだ荷駄。

米俵を載せた荷車。

石炭ランプを納めた箱。

木版刷りの触れ。

語り部。

護衛の阿蘇兵は、静かだった。

彼らは村に入っても、田を踏まない。

米を奪わない。

女や子を追わない。

必要なものは銭で買う。

それだけで、南の村人たちは驚いた。

兵とは、奪う者である。

少なくとも、多くの民はそう知っている。

だが、阿蘇兵は奪わなかった。

ある村では、夜の辻に、阿蘇の灯がともされた。

石炭を扱う工房で作られた、まだ数の少ない新しい灯である。

小さな灯だった。

だが、夜の闇に慣れた者たちには、十分すぎるほど明るかった。

子どもが、口を開けて見上げる。

「昼みたいだ」

老人が、手を合わせた。

「阿蘇の火か」

語り部が、そこへ立った。

絵入りの紙を掲げる。

「聞かれよ、聞かれよ。阿蘇の御触れにございます」

人々が集まる。

「主上の御代を乱さぬため、阿蘇は九州を鎮めまする。阿蘇大明神の御前に、殿は民を飢えさせぬと誓われました」

語り部の声は、夜の辻によく通った。

「阿蘇の帳は、民を縛る縄ではございませぬ。飢えた時、米を届けるための道しるべにございます」

「名を隠した家には、米を届けられませぬ。病を隠した村には、医を送れませぬ。ゆえに、名を届けよ。病を届けよ」

医者が、熱を出した子の額に触れていた。

母親は不安そうに見ている。

「この子を、連れていくのか」

「連れていかぬ」

医者は答えた。

「熱を見る。水を飲ませる。寝具を分ける。誰が近くにいたかも聞く」

「焼かぬのか」

「焼かぬ」

母親は、そこで泣いた。

語り部の声が続く。

「阿蘇は、届けた者を見捨てませぬ」

その夜、その村では人別帳に名を載せる者が増えた。

もちろん、すべてがうまくいったわけではない。

山の小さな砦では、旧肝付の地侍が阿蘇目付を追い返した。

「阿蘇の帳など知るか」

地侍は叫んだ。

「南は南の者が治める。阿蘇の目で、蔵の中まで覗かれてたまるか」

彼は周辺の村へ使いを出した。

阿蘇に従えば、子まで兵に取られる。

帳面に名を載せれば、隠し米まで奪われる。

病を届ければ、家ごと焼かれる。

島津は阿蘇に膝を折った。

貴久は阿蘇の臣となり、南を阿蘇より預かる身となった。

だが、南は島津だけのものではない。

旧伊東も、肝付も、山の者も、海の者も、阿蘇の帳に縛られてたまるか。

南の者は、南の名を守れ。

言葉だけなら、勇ましかった。

だが、村は動かなかった。

隣村には、すでに米が届いていた。

熱を出した子を、阿蘇の医者が診ていた。

夜の辻には灯がともっていた。

道には阿蘇兵が立っていたが、誰の飯も奪っていなかった。

反乱に加われば、何が得られるのか。

古い名か。

古い面目か。

それで子の腹は膨れない。

疱瘡の熱は下がらない。

夜道は明るくならない。

だから、誰も動かなかった。

火種はあった。

だが、薪が集まらなかった。

砦の地侍は、三日で孤立した。

阿蘇は、すぐには攻めなかった。

周囲の村に触れを出した。

砦に加わらぬ者は罪に問わぬ。

名を届けた村には、米を送る。

病を隠さぬ村には、医を送る。

兵に乱暴をさせぬ。

ただし、目付を斬った者、蔵を隠した者、民を盾にした者は許さぬ。

語り部は、砦の見える村で語った。

「阿蘇の兵は、民の飯を奪いませぬ。阿蘇の帳に名ある者を、阿蘇は見捨てませぬ」

その声は、砦にも届いた。

地侍は怒った。

「嘘だ!」

だが、砦の中の足軽たちは黙っていた。

彼らの妻子は、麓の村にいる。

その村には、米が来ていた。

灯がともっていた。

阿蘇の医者が来ていた。

四日目の朝、足軽の半分が降りた。

五日目、砦の門が開いた。

地侍は捕らえられた。

阿蘇兵は、砦を焼かなかった。

麓の村も焼かなかった。

田も踏まなかった。

ただ、蔵を改めた。

帳面を作った。

隠されていた米を数えた。

名を記した。

首謀者は罰せられた。

従った者は許された。

だが、許された者も帳には載った。

阿蘇は助ける。

だが、数える。

名を届けた者は見捨てぬ。

されど、名を隠す者もまた、逃がさぬ。

その報告が阿蘇へ届いた時、惟種はしばらく文を見ていた。

宗運が控えている。

「広がらなかったか」

「はい」

「死者は」

「少なく抑えました」

「村は焼いていないな」

「焼いておりませぬ」

「兵の乱暴は」

「一人、米を勝手に取ろうとした者がおりました」

惟種の目が細くなる。

「処罰は」

「済ませました」

「ならよい」

宗運は、そこで少しだけ頭を下げた。

「阿蘇大明神の御神徳が、南にも届き始めております」

「その言い方も、まだ慣れぬ」

「では、阿蘇の触れが届き始めております」

「それでいい」

「ですが、効いております」

「分かっている」

惟種は、苦い顔で答えた。

分かっている。

だから困る。

紙と声は、兵よりも遠くへ届く。

米と医と灯は、刀よりも深く民の心へ刺さる。

神威は、そのすべてに意味を与える。

惟種は、それを認めざるを得なかった。

「宗運」

「はっ」

「やりすぎるな」

「承知しております」

「本当に承知しているか」

「殿を神とは申しませぬ」

「そこだけではない」

「阿蘇大明神の御心に沿う方、と申します」

「だから、それがぎりぎりだと言っている」

宗運は、ほんのわずかに笑った。

「ぎりぎりで止めております」

「信用ならぬ」

「信用していただかねば困ります」

「それと」

「はっ」

「禁裏の御威光を、必ず先に立てろ。阿蘇の神威は、その下で九州を鎮めるために使うものだ」

「心得ております」

「そこを誤る者が出たら、すぐに正せ」

「すでに語り部にも命じております。阿蘇は主上の御代を乱さぬために九州を鎮める、と」

「ならよい」

惟種は、深く息を吐いた。

南の火は、まだ消えたわけではない。

だが、大きく燃え広がる前に、周りの薪は湿り始めている。

米で。

医で。

灯で。

紙で。

声で。

そして、阿蘇大明神の名で。

惟種は机の上の刷り物を見た。

そこには、阿蘇山を背に、米俵と灯と医者と兵が描かれている。

文字は短い。

『名ある者を、阿蘇は見捨てぬ』

惟種は、その文字をしばらく見つめた。

自分が神であるつもりはない。

神の使いであるつもりもない。

だが、その言葉だけは、嘘にしてはならない。

「宗運」

「はっ」

「名を載せた者を、本当に見捨てるな」

宗運は深く頭を下げた。

「承知しました」

「紙に書いた以上、阿蘇が守る」

「はい」

「守れぬなら、書くな」

「守るために、書きました」

惟種は、そこでようやく小さく頷いた。

南を治める戦は、始まったばかりである。

だが、それは槍と刀だけの戦ではない。

紙が走る。

声が届く。

米が運ばれる。

灯がともる。

医者が歩く。

兵が守る。

そして人々は、少しずつ知っていく。

阿蘇に名を知られることは、縛られることでもある。

だが同時に、見捨てられぬことでもあるのだと。

惟種は、窓の外に目を向けた。

阿蘇の山が、静かにそこにあった。

神の山である。

その名を借りる重さを、惟種は初めて少しだけ理解した。