作品タイトル不明
第百四十八話 加世の靴
祝言の翌日。
阿蘇の館は、まだどこか浮ついた空気を残していた。
庭には、昨夜の灯の名残がある。
火薬の匂いは薄れたが、夜空へ咲いた火の記憶は、まだ人々の口に残っている。
来賓たちは、ある者は帰り支度を始め、ある者は阿蘇の商人と話し込み、ある者は昨夜の氷菓子や玻璃の器について、飽きもせず語っていた。
その中で、惟種はようやく一つの用を果たそうとしていた。
加世に謝ることである。
◇
加世は、庭に面した部屋にいた。
祝言の装いは解いている。
だが、どこか昨日までとは違う。
島津の姫であり、阿蘇の客であった加世は、昨日を境に正式に阿蘇へ入った。
その事実が、部屋の空気にも、加世の座り方にも、わずかに表れていた。
惟種が入ると、加世は顔を上げた。
「惟種様」
「加世」
惟種は、少しだけ言葉に迷った。
戦の謝罪なら言える。
政の不備なら改められる。
だが、祝言の夜に花嫁を置いて別の客と密談していたことについては、どう言えばよいか分からなかった。
結局、惟種は素直に頭を下げた。
「昨日は、すまなかった」
加世は、ぱちりと瞬きをした。
「昨日、でございますか」
「祝言の後だ。加世を置いて、難しい話へ行った」
加世は少しだけ目を伏せた。
「尾張の方と、お話をされていたのですね」
「知っていたのか」
「皆が騒いでおりました。平手様のお顔が真っ白だった、と」
惟種は、思わず視線を逸らした。
「……まあ、そうだな」
「怒ってはおりませぬ」
加世は言った。
だが、すぐに小さく付け加えた。
「少しだけ、寂しゅうございました」
惟種は、もう一度頭を下げた。
「すまぬ」
「でも、惟種様は、きっと必要なお話をしていたのでしょう?」
「必要ではあった」
「ならば、よいです」
加世は柔らかく笑った。
「ただ、次からは、少しだけ先に言ってくださいませ」
「そうする」
「本当に?」
「本当だ」
「宗運様にも言っておいた方がよいです」
「なぜだ」
「惟種様は、お忙しくなると忘れそうです」
惟種は返せなかった。
否定できなかったからである。
◇
加世の前には、昨夜の残りではないが、小さな甘味が置かれていた。
冷たいものではない。
柔らかく甘い菓子である。
惟種が向かいに座ると、加世はそれを一つ差し出した。
「召し上がりますか」
「加世のものだろう」
「一緒に食べた方がおいしゅうございます」
惟種は受け取った。
甘い。
祝言の喧騒の中で食べたものより、ずっと静かな味がした。
しばらく、二人は黙って菓子を食べた。
それだけで、惟種は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
昨日は、朝廷、幕府、三好、博多、島津、尾張、信長。
目に映るものすべてが重かった。
だが今は、加世がいて、菓子がある。
それだけの時間である。
加世が、そっと口を開いた。
「惟種様」
「何だ」
「昨日の祝言で、私は阿蘇の者になったのですね」
「そうだ」
「島津の娘でもありますか」
「もちろんだ」
惟種はすぐに答えた。
「加世は島津を捨てて阿蘇へ来たのではない。島津と阿蘇を結ぶために来た。だから、島津の娘であり、阿蘇の者だ」
加世は、安心したように頷いた。
「よかったです」
「心配していたのか」
「少しだけ」
「それは、すまぬ」
「謝ってばかりですね」
「今日は謝る日かもしれぬ」
加世は小さく笑った。
◇
惟種は、そこで少し表情を改めた。
「加世に話しておくことがある」
「はい」
「父上が、いずれ退くと言われた」
加世の顔が、少し真面目になる。
「惟豊様が」
「すぐではない。だが、名も政も兵も銭も人も、少しずつわしへ譲るつもりだと」
「では、惟種様が阿蘇を背負われるのですね」
「もう背負っているつもりではいた」
惟種は、苦く笑った。
「だが、父上の口から聞くと、重い」
加世は、惟種をじっと見た。
その重さを、すべて理解することはできない。
だが、惟種の肩に何かが乗ったことは分かる。
「私に、何かできますか」
「今は、笑っていてくれればよい」
「それだけですか」
「それが大事だ」
惟種は、真面目に言った。
「加世が笑っていられるなら、阿蘇はまだ道を間違えていないと思える」
加世は、少しだけ頬を赤くした。
「そのように言われると、笑いにくくなります」
「そうか」
「はい」
二人は、少しだけ笑った。
◇
その後、惟種はもう一つ、言いにくい話をした。
「それと、夫婦のことだ」
加世の背が、少し伸びた。
「はい」
「祝言は済んだ。加世は阿蘇へ正式に入った。だが、子を望むことは、まだ急がぬ」
加世は黙って聞いていた。
「あと三年ほどは待つ」
「三年」
「ああ」
惟種は静かに言った。
「加世の体も、わしの体も、阿蘇の国も、もう少し整えてからだ。急いでよいことではない」
加世は、目を伏せた。
安心したようにも見えた。
少し寂しそうにも見えた。
「惟種様は、急がせませぬね」
「急げばよいことと、急いではならぬことがある」
「それも、理ですか」
「多分な」
加世は、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
「嫌か」
「いいえ」
加世は顔を上げた。
「惟種様がそう考えてくださるなら、私は待てます」
「すまぬ」
「また謝りました」
「今日は謝る日だからな」
加世は、今度ははっきり笑った。
◇
惟種は、そこで控えていた者へ合図をした。
小さな箱が運ばれてくる。
加世は不思議そうに首を傾げた。
「これは?」
「贈り物だ」
「私に?」
「そうだ」
箱を開けると、中には奇妙な履物が入っていた。
草履ではない。
足を包むような形をしている。
牛皮で作られ、底には黒く鈍い艶を持つものが貼られていた。
縫い目の一部にも、その黒いものが塗り込まれている。
加世は、目を丸くした。
「これは……草履ではございませぬね」
「靴だ」
「靴」
「南蛮の履物を元に、阿蘇で作らせた」
惟種は、靴を一つ手に取った。
「牛皮で形を作り、底と縫い目にインドゴムの樹のものを使っている」
「インドゴム」
「神屋を通じて手に入れた木だ」
惟種は、少し難しい顔をした。
「ただ、育てるのが難しい。阿蘇では寒すぎる。豊後でも、思うようには育たぬ。気温が足りない」
「寒いと、育たないのですか」
「そうだ。温かい地が要る」
「では、どうなさるのですか」
「琉球まで手を伸ばすか、考えている」
加世は驚いた。
「靴のために、琉球まで?」
「靴だけではない」
惟種は首を振った。
「雨具、医の道具、船の水漏れ止め、荷車の部品、兵の装備。使い道はいくらでもある」
「そんなに」
「うまく扱えればな」
惟種は、正直に言った。
「まだ試しだ。今のものは、夏は少し粘る。冬は硬くなる。長く使えば割れるかもしれぬ。見た目も粗い」
加世は、靴をじっと見た。
「でも、これを私に?」
「ああ」
「なぜですか」
「足を痛めぬように」
惟種は、少し照れたように言った。
「阿蘇は坂も多い。雨も降る。草履では足が濡れることもある。これなら、少しは歩きやすい」
加世は、しばらく何も言わなかった。
それから、そっと靴に触れた。
「私のために、作ってくださったのですか」
「最初はな」
「最初は?」
「うまくいけば、皆のために作る」
加世は、そこで笑った。
「では私は、最初の試し履きなのですね」
「危ないものではない」
惟種は慌てて言った。
「滑らぬように底も刻ませた。水にも強いはずだ。ただ、履き心地を見たい」
「やはり試し履きです」
「……そうとも言う」
加世は、楽しそうに笑った。
◇
加世は、女房に手伝われながら靴を履いた。
最初は少し戸惑っていた。
草履とは違う。
足を包まれる感じがある。
底が少し柔らかい。
加世は、畳の上でそっと立った。
「不思議な感じがいたします」
「痛くはないか」
「痛くはありませぬ」
「歩けるか」
加世は、ゆっくり歩いた。
一歩。
二歩。
少し慎重に、しかし楽しそうに。
「足の裏が、あまり痛くありませぬ」
「よかった」
「雨の日でも歩けるのですか」
「少しの雨なら」
「泥道は?」
「それも試す」
「やはり試し履きです」
「危なくはない」
加世はまた笑った。
その笑顔を見て、惟種は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
信長に語った天下。
惟豊から告げられた引退。
宗運の背負う実務。
朝廷、幕府、南蛮、九州諸家。
それらの重さとは違うものが、ここにはあった。
加世が新しい靴を履いて、少し不思議そうに歩いている。
それだけの光景が、惟種にはとても大事に思えた。
◇
「惟種様」
「何だ」
「これから、しばらくは戦ではないのですか」
「できればな」
「できれば」
「戦は、こちらが望まなくても来る」
惟種は苦笑した。
「だが、こちらから広げるつもりはない。しばらくは内政だ」
「内政」
「国を太らせる」
加世は、靴を履いたまま座り直した。
「何をなさるのですか」
「たくさんある」
惟種は指を折った。
「まず、疱瘡を防ぐ術を探す」
「牛の病を調べるのですか」
「牛だけではない」
惟種は首を振った。
「名に引きずられてはならぬ。牛に出る疱の病が手掛かりになるかもしれない。だが、その根が馬にあるかもしれぬ。馬の脚や鼻面に出るただれ、厩で働く者、牛を扱う者、乳を搾る者。その者たちが疱瘡に強いかどうか、すべて帳に取る」
「馬まで見るのですね」
「見る。ここを誤れば、人を救うどころか殺す。急いではならぬが、必ず見つける」
加世は、靴を履いた足元を見てから、惟種を見た。
「惟種様は、病とも戦をなさるのですね」
「戦より厄介だ」
惟種は静かに言った。
「敵が見えぬからな」
加世は真剣に聞いている。
「それから、嗜好品も増やしたい」
「嗜好品?」
「甘味、茶、香り、色蝋筆のようなものだ。人が楽しむもの」
「楽しむものも、国に必要なのですか」
「必要だ」
惟種は頷いた。
「飯が食えるだけでは、人は疲れる。楽しいもの、美しいもの、笑えるものが要る」
「笑えるもの」
「そうだ」
惟種は少しだけ考えた。
「芝居を見る場も作りたい。猿楽や田楽だけでなく、もっと多くの者が見られる劇場だ」
「劇場」
「歌や舞や話を見せる場所だ」
「楽しそうです」
「競馬場も作りたい」
「馬を競わせるのですか」
「ああ。遊びにもなるし、良い馬を選ぶ場にもなる。馬を育てる者も励みになる」
「それは、島津の者も喜びそうです」
「だろうな」
惟種は少し笑った。
「学校も作る」
「学校は、武士の子が学ぶところですか」
「武士だけではない」
加世は驚いた。
「商人や職人の子もですか」
「数を数えられる者が増えれば、国は強くなる。字が読める者が増えれば、嘘が減る。薬の使い方を読める者がいれば、人が助かる」
「民も、学ぶのですね」
「学べる者からだ。一度には無理だが、少しずつ」
加世は、じっと惟種を見た。
「惟種様の頭の中には、いくつ国があるのですか」
「一つだ」
「一つには、多すぎます」
「だから、時間がかかる」
惟種は言った。
「一度には無理だ。靴も、薬も、学校も、劇場も、馬場も、全部すぐにはできない」
「でも、作るのですね」
「作る」
「なぜですか」
惟種は、すぐには答えなかった。
庭の方を見た。
祝言の飾りが、まだ少し残っている。
昨日は、天下に阿蘇を見せる日だった。
今日は、加世に自分の作りたい国を話している。
「天下を取ると言った」
惟種は、ぽつりと言った。
「でも、本当に作りたいのは、加世が笑って、民が飯を食って、子が病で死なぬ国だ」
加世は、何も言わなかった。
「道に灯があって、雨の日でも足を痛めず歩けて、芝居を見て笑って、甘いものを食べて、学びたい者が学べる。そういう国だ」
「……はい」
「時間はかかる。邪魔も入る。失敗もする。ゴムの木ひとつ、まともに育てられぬ」
惟種は、自嘲するように言った。
「それでも、作る」
加世は、そっと靴を見た。
まだ粗い。
見慣れぬ履物。
底に貼られた黒いものも、少し不思議な匂いがする。
だが、それは惟種の言う未来の一欠片だった。
「では」
加世は、顔を上げた。
「私は、その国で笑っております」
惟種が加世を見る。
「惟種様が忘れぬように」
惟種は、少しだけ目を丸くした。
それから、静かに笑った。
「助かる」
「はい」
「忘れたら、言ってくれ」
「言います」
「厳しくか」
「少しだけ」
「宗運みたいには言うなよ」
加世は、袖で口元を隠して笑った。
◇
穏やかな時間は、長くは続かなかった。
廊の向こうから、足音がした。
加世が小さく笑う。
「宗運様ですね」
「なぜ分かる」
「惟種様が休んでいる時に来るのは、宗運様です」
その通りだった。
襖の外から、声がかかる。
「若君」
「何だ」
「お休みのところ、失礼いたします」
「休んでいると分かっているなら、少し待て」
「待てぬ用にございます」
惟種は、深く息を吐いた。
加世は楽しそうに笑っている。
「何の用だ」
「島津、相良、名和、龍造寺、鍋島の件で、評定の刻限を決めねばなりませぬ」
「もうか」
「もうでございます」
「祝言の翌日だぞ」
「祝言の翌日だからにございます。皆、まだ阿蘇におります」
正論だった。
惟種は立ち上がろうとした。
加世が、そっと声をかけた。
「惟種様」
「何だ」
「行ってらっしゃいませ」
「ああ」
「でも、あとで靴の履き心地を聞きに来てくださいませ」
惟種は頷いた。
「必ず」
「また忘れませぬように」
「宗運に言っておく」
襖の外から、宗運の声がした。
「わたくしの仕事を増やさないでいただきたい」
加世が、今度こそ声を立てて笑った。
惟種も少しだけ笑った。
祝言は終わった。
天下の話も、尾張の火も、阿蘇の重い荷も消えたわけではない。
それでも。
加世が新しい靴で歩き、笑っている。
その笑いを守るために、国を作る。
惟種は、そう思った。
やがて襖を開け、宗運の待つ廊へ出る。
背後では、加世がもう一度、靴で小さく歩いてみている音がした。
軽い足音だった。
惟種は、その音を背に受けながら、次の評定へ向かった。