軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百四十八話 加世の靴

祝言の翌日。

阿蘇の館は、まだどこか浮ついた空気を残していた。

庭には、昨夜の灯の名残がある。

火薬の匂いは薄れたが、夜空へ咲いた火の記憶は、まだ人々の口に残っている。

来賓たちは、ある者は帰り支度を始め、ある者は阿蘇の商人と話し込み、ある者は昨夜の氷菓子や玻璃の器について、飽きもせず語っていた。

その中で、惟種はようやく一つの用を果たそうとしていた。

加世に謝ることである。

加世は、庭に面した部屋にいた。

祝言の装いは解いている。

だが、どこか昨日までとは違う。

島津の姫であり、阿蘇の客であった加世は、昨日を境に正式に阿蘇へ入った。

その事実が、部屋の空気にも、加世の座り方にも、わずかに表れていた。

惟種が入ると、加世は顔を上げた。

「惟種様」

「加世」

惟種は、少しだけ言葉に迷った。

戦の謝罪なら言える。

政の不備なら改められる。

だが、祝言の夜に花嫁を置いて別の客と密談していたことについては、どう言えばよいか分からなかった。

結局、惟種は素直に頭を下げた。

「昨日は、すまなかった」

加世は、ぱちりと瞬きをした。

「昨日、でございますか」

「祝言の後だ。加世を置いて、難しい話へ行った」

加世は少しだけ目を伏せた。

「尾張の方と、お話をされていたのですね」

「知っていたのか」

「皆が騒いでおりました。平手様のお顔が真っ白だった、と」

惟種は、思わず視線を逸らした。

「……まあ、そうだな」

「怒ってはおりませぬ」

加世は言った。

だが、すぐに小さく付け加えた。

「少しだけ、寂しゅうございました」

惟種は、もう一度頭を下げた。

「すまぬ」

「でも、惟種様は、きっと必要なお話をしていたのでしょう?」

「必要ではあった」

「ならば、よいです」

加世は柔らかく笑った。

「ただ、次からは、少しだけ先に言ってくださいませ」

「そうする」

「本当に?」

「本当だ」

「宗運様にも言っておいた方がよいです」

「なぜだ」

「惟種様は、お忙しくなると忘れそうです」

惟種は返せなかった。

否定できなかったからである。

加世の前には、昨夜の残りではないが、小さな甘味が置かれていた。

冷たいものではない。

柔らかく甘い菓子である。

惟種が向かいに座ると、加世はそれを一つ差し出した。

「召し上がりますか」

「加世のものだろう」

「一緒に食べた方がおいしゅうございます」

惟種は受け取った。

甘い。

祝言の喧騒の中で食べたものより、ずっと静かな味がした。

しばらく、二人は黙って菓子を食べた。

それだけで、惟種は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

昨日は、朝廷、幕府、三好、博多、島津、尾張、信長。

目に映るものすべてが重かった。

だが今は、加世がいて、菓子がある。

それだけの時間である。

加世が、そっと口を開いた。

「惟種様」

「何だ」

「昨日の祝言で、私は阿蘇の者になったのですね」

「そうだ」

「島津の娘でもありますか」

「もちろんだ」

惟種はすぐに答えた。

「加世は島津を捨てて阿蘇へ来たのではない。島津と阿蘇を結ぶために来た。だから、島津の娘であり、阿蘇の者だ」

加世は、安心したように頷いた。

「よかったです」

「心配していたのか」

「少しだけ」

「それは、すまぬ」

「謝ってばかりですね」

「今日は謝る日かもしれぬ」

加世は小さく笑った。

惟種は、そこで少し表情を改めた。

「加世に話しておくことがある」

「はい」

「父上が、いずれ退くと言われた」

加世の顔が、少し真面目になる。

「惟豊様が」

「すぐではない。だが、名も政も兵も銭も人も、少しずつわしへ譲るつもりだと」

「では、惟種様が阿蘇を背負われるのですね」

「もう背負っているつもりではいた」

惟種は、苦く笑った。

「だが、父上の口から聞くと、重い」

加世は、惟種をじっと見た。

その重さを、すべて理解することはできない。

だが、惟種の肩に何かが乗ったことは分かる。

「私に、何かできますか」

「今は、笑っていてくれればよい」

「それだけですか」

「それが大事だ」

惟種は、真面目に言った。

「加世が笑っていられるなら、阿蘇はまだ道を間違えていないと思える」

加世は、少しだけ頬を赤くした。

「そのように言われると、笑いにくくなります」

「そうか」

「はい」

二人は、少しだけ笑った。

その後、惟種はもう一つ、言いにくい話をした。

「それと、夫婦のことだ」

加世の背が、少し伸びた。

「はい」

「祝言は済んだ。加世は阿蘇へ正式に入った。だが、子を望むことは、まだ急がぬ」

加世は黙って聞いていた。

「あと三年ほどは待つ」

「三年」

「ああ」

惟種は静かに言った。

「加世の体も、わしの体も、阿蘇の国も、もう少し整えてからだ。急いでよいことではない」

加世は、目を伏せた。

安心したようにも見えた。

少し寂しそうにも見えた。

「惟種様は、急がせませぬね」

「急げばよいことと、急いではならぬことがある」

「それも、理ですか」

「多分な」

加世は、ゆっくり頷いた。

「分かりました」

「嫌か」

「いいえ」

加世は顔を上げた。

「惟種様がそう考えてくださるなら、私は待てます」

「すまぬ」

「また謝りました」

「今日は謝る日だからな」

加世は、今度ははっきり笑った。

惟種は、そこで控えていた者へ合図をした。

小さな箱が運ばれてくる。

加世は不思議そうに首を傾げた。

「これは?」

「贈り物だ」

「私に?」

「そうだ」

箱を開けると、中には奇妙な履物が入っていた。

草履ではない。

足を包むような形をしている。

牛皮で作られ、底には黒く鈍い艶を持つものが貼られていた。

縫い目の一部にも、その黒いものが塗り込まれている。

加世は、目を丸くした。

「これは……草履ではございませぬね」

「靴だ」

「靴」

「南蛮の履物を元に、阿蘇で作らせた」

惟種は、靴を一つ手に取った。

「牛皮で形を作り、底と縫い目にインドゴムの樹のものを使っている」

「インドゴム」

「神屋を通じて手に入れた木だ」

惟種は、少し難しい顔をした。

「ただ、育てるのが難しい。阿蘇では寒すぎる。豊後でも、思うようには育たぬ。気温が足りない」

「寒いと、育たないのですか」

「そうだ。温かい地が要る」

「では、どうなさるのですか」

「琉球まで手を伸ばすか、考えている」

加世は驚いた。

「靴のために、琉球まで?」

「靴だけではない」

惟種は首を振った。

「雨具、医の道具、船の水漏れ止め、荷車の部品、兵の装備。使い道はいくらでもある」

「そんなに」

「うまく扱えればな」

惟種は、正直に言った。

「まだ試しだ。今のものは、夏は少し粘る。冬は硬くなる。長く使えば割れるかもしれぬ。見た目も粗い」

加世は、靴をじっと見た。

「でも、これを私に?」

「ああ」

「なぜですか」

「足を痛めぬように」

惟種は、少し照れたように言った。

「阿蘇は坂も多い。雨も降る。草履では足が濡れることもある。これなら、少しは歩きやすい」

加世は、しばらく何も言わなかった。

それから、そっと靴に触れた。

「私のために、作ってくださったのですか」

「最初はな」

「最初は?」

「うまくいけば、皆のために作る」

加世は、そこで笑った。

「では私は、最初の試し履きなのですね」

「危ないものではない」

惟種は慌てて言った。

「滑らぬように底も刻ませた。水にも強いはずだ。ただ、履き心地を見たい」

「やはり試し履きです」

「……そうとも言う」

加世は、楽しそうに笑った。

加世は、女房に手伝われながら靴を履いた。

最初は少し戸惑っていた。

草履とは違う。

足を包まれる感じがある。

底が少し柔らかい。

加世は、畳の上でそっと立った。

「不思議な感じがいたします」

「痛くはないか」

「痛くはありませぬ」

「歩けるか」

加世は、ゆっくり歩いた。

一歩。

二歩。

少し慎重に、しかし楽しそうに。

「足の裏が、あまり痛くありませぬ」

「よかった」

「雨の日でも歩けるのですか」

「少しの雨なら」

「泥道は?」

「それも試す」

「やはり試し履きです」

「危なくはない」

加世はまた笑った。

その笑顔を見て、惟種は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

信長に語った天下。

惟豊から告げられた引退。

宗運の背負う実務。

朝廷、幕府、南蛮、九州諸家。

それらの重さとは違うものが、ここにはあった。

加世が新しい靴を履いて、少し不思議そうに歩いている。

それだけの光景が、惟種にはとても大事に思えた。

「惟種様」

「何だ」

「これから、しばらくは戦ではないのですか」

「できればな」

「できれば」

「戦は、こちらが望まなくても来る」

惟種は苦笑した。

「だが、こちらから広げるつもりはない。しばらくは内政だ」

「内政」

「国を太らせる」

加世は、靴を履いたまま座り直した。

「何をなさるのですか」

「たくさんある」

惟種は指を折った。

「まず、疱瘡を防ぐ術を探す」

「牛の病を調べるのですか」

「牛だけではない」

惟種は首を振った。

「名に引きずられてはならぬ。牛に出る疱の病が手掛かりになるかもしれない。だが、その根が馬にあるかもしれぬ。馬の脚や鼻面に出るただれ、厩で働く者、牛を扱う者、乳を搾る者。その者たちが疱瘡に強いかどうか、すべて帳に取る」

「馬まで見るのですね」

「見る。ここを誤れば、人を救うどころか殺す。急いではならぬが、必ず見つける」

加世は、靴を履いた足元を見てから、惟種を見た。

「惟種様は、病とも戦をなさるのですね」

「戦より厄介だ」

惟種は静かに言った。

「敵が見えぬからな」

加世は真剣に聞いている。

「それから、嗜好品も増やしたい」

「嗜好品?」

「甘味、茶、香り、色蝋筆のようなものだ。人が楽しむもの」

「楽しむものも、国に必要なのですか」

「必要だ」

惟種は頷いた。

「飯が食えるだけでは、人は疲れる。楽しいもの、美しいもの、笑えるものが要る」

「笑えるもの」

「そうだ」

惟種は少しだけ考えた。

「芝居を見る場も作りたい。猿楽や田楽だけでなく、もっと多くの者が見られる劇場だ」

「劇場」

「歌や舞や話を見せる場所だ」

「楽しそうです」

「競馬場も作りたい」

「馬を競わせるのですか」

「ああ。遊びにもなるし、良い馬を選ぶ場にもなる。馬を育てる者も励みになる」

「それは、島津の者も喜びそうです」

「だろうな」

惟種は少し笑った。

「学校も作る」

「学校は、武士の子が学ぶところですか」

「武士だけではない」

加世は驚いた。

「商人や職人の子もですか」

「数を数えられる者が増えれば、国は強くなる。字が読める者が増えれば、嘘が減る。薬の使い方を読める者がいれば、人が助かる」

「民も、学ぶのですね」

「学べる者からだ。一度には無理だが、少しずつ」

加世は、じっと惟種を見た。

「惟種様の頭の中には、いくつ国があるのですか」

「一つだ」

「一つには、多すぎます」

「だから、時間がかかる」

惟種は言った。

「一度には無理だ。靴も、薬も、学校も、劇場も、馬場も、全部すぐにはできない」

「でも、作るのですね」

「作る」

「なぜですか」

惟種は、すぐには答えなかった。

庭の方を見た。

祝言の飾りが、まだ少し残っている。

昨日は、天下に阿蘇を見せる日だった。

今日は、加世に自分の作りたい国を話している。

「天下を取ると言った」

惟種は、ぽつりと言った。

「でも、本当に作りたいのは、加世が笑って、民が飯を食って、子が病で死なぬ国だ」

加世は、何も言わなかった。

「道に灯があって、雨の日でも足を痛めず歩けて、芝居を見て笑って、甘いものを食べて、学びたい者が学べる。そういう国だ」

「……はい」

「時間はかかる。邪魔も入る。失敗もする。ゴムの木ひとつ、まともに育てられぬ」

惟種は、自嘲するように言った。

「それでも、作る」

加世は、そっと靴を見た。

まだ粗い。

見慣れぬ履物。

底に貼られた黒いものも、少し不思議な匂いがする。

だが、それは惟種の言う未来の一欠片だった。

「では」

加世は、顔を上げた。

「私は、その国で笑っております」

惟種が加世を見る。

「惟種様が忘れぬように」

惟種は、少しだけ目を丸くした。

それから、静かに笑った。

「助かる」

「はい」

「忘れたら、言ってくれ」

「言います」

「厳しくか」

「少しだけ」

「宗運みたいには言うなよ」

加世は、袖で口元を隠して笑った。

穏やかな時間は、長くは続かなかった。

廊の向こうから、足音がした。

加世が小さく笑う。

「宗運様ですね」

「なぜ分かる」

「惟種様が休んでいる時に来るのは、宗運様です」

その通りだった。

襖の外から、声がかかる。

「若君」

「何だ」

「お休みのところ、失礼いたします」

「休んでいると分かっているなら、少し待て」

「待てぬ用にございます」

惟種は、深く息を吐いた。

加世は楽しそうに笑っている。

「何の用だ」

「島津、相良、名和、龍造寺、鍋島の件で、評定の刻限を決めねばなりませぬ」

「もうか」

「もうでございます」

「祝言の翌日だぞ」

「祝言の翌日だからにございます。皆、まだ阿蘇におります」

正論だった。

惟種は立ち上がろうとした。

加世が、そっと声をかけた。

「惟種様」

「何だ」

「行ってらっしゃいませ」

「ああ」

「でも、あとで靴の履き心地を聞きに来てくださいませ」

惟種は頷いた。

「必ず」

「また忘れませぬように」

「宗運に言っておく」

襖の外から、宗運の声がした。

「わたくしの仕事を増やさないでいただきたい」

加世が、今度こそ声を立てて笑った。

惟種も少しだけ笑った。

祝言は終わった。

天下の話も、尾張の火も、阿蘇の重い荷も消えたわけではない。

それでも。

加世が新しい靴で歩き、笑っている。

その笑いを守るために、国を作る。

惟種は、そう思った。

やがて襖を開け、宗運の待つ廊へ出る。

背後では、加世がもう一度、靴で小さく歩いてみている音がした。

軽い足音だった。

惟種は、その音を背に受けながら、次の評定へ向かった。