作品タイトル不明
第百四十七話 尾張の火
しばらく沈黙が落ちた。
祝言の後の灯は、まだ残っていた。
だが、この部屋だけは、祝いの余韻から切り離されている。
その中で、信長が口を開いた。
「欲しいものがある」
惟種は、思わず目を細めた。
「この状態でよくもまあ要望が出せるな」
流石、信長といったところか。
「鉄砲だ。火薬の筋も欲しい。鍛冶も、弾を作る者も、尾張へ寄越せ」
平手政秀の眉が動いた。
「若」
「分かっておる。高い買い物だ」
信長は、平手を見ずに続けた。
「だから、こちらも出す」
そこで、惟豊が静かに口を開いた。
「織田三郎」
「はい」
「それは、誰の名で求める」
信長の目が、わずかに動いた。
「わしの名で」
「尾張の名ではないのだな」
「まだ、尾張はわしのものではない」
「ならば、阿蘇も尾張へは出せぬ」
惟豊は言った。
「出すなら、織田三郎信長という一人の若者へ出すことになる」
信長は、少しだけ笑った。
「それでよい」
「よくはない」
平手政秀が、低く言った。
「若君お一人の名で、鉄砲も火薬も鍛冶も動かせば、尾張の内に何と響くか」
「響かせぬ」
「響きます。銭も人も、動けば跡が残ります」
信長は否定しなかった。
ただ、惟種を見る。
惟種は黙っていた。
信長は、その沈黙を拒絶とは取らなかった。
値を問われていると見た。
「尾張に、阿蘇の蔵を置け」
宗運の目が、わずかに動いた。
平手政秀は息を呑み、惟豊の眉もかすかに動く。
「蔵は、旗に似る」
信長が惟豊を見る。
「旗?」
「そこに阿蘇の蔵が立てば、人は阿蘇が尾張に手を入れたと見る。商いの蔵であっても、兵の蔵と疑う」
「疑わせればよい」
「疑いは、銭より早く走る。そして、火よりも消しにくい」
信長は、楽しげに目を細めた。
「ならば、なおよい」
「若」
政秀の声に、怒りが混じった。
信長は構わず続ける。
「阿蘇の札を持つ商人は、わしが守る。尾張へ入る荷、尾張を通る荷、東へ流す荷。わしの手が届くところでは、関も兵も寺社も触れさせぬ」
「黙れませぬ」
政秀の声が、初めて強くなった。
「尾張は、まだ若君の国ではございませぬ。津島も熱田も、守護代も分家も寺社も、それぞれに筋がございます。そのような約定を、若君お一人の口でなされば」
「だから、わしの手が届くところと言うた」
信長は即座に返した。
「今のわしが尾張一国を差し出すなどと言えば、嘘になる。だが、わしの館、わしの兵、わしの息がかかる市、わしに近い商人。そこから始めることはできる」
惟種は、静かに信長を見ていた。
「それだけか」
「足らぬなら、道も出す」
「道」
「三河、美濃、今川。尾張に入る噂、兵の動き、銭の流れ。それだけではない。阿蘇の者が東へ入るなら、泊まる場所、通る道、会うべき者を用意する」
信長の目が光った。
「博多と堺の先を、尾張で受ける。阿蘇が西を握るなら、東へ流す口をわしが作る」
部屋の空気が変わった。
ただの若者の大言ではない。
これは、取引であった。
平手政秀の顔色が悪くなる。
「若君、それ以上はなりませぬ」
「まだある」
「なりませぬ!」
政秀の声が、部屋に強く響いた。
信長が、初めて平手を見た。
政秀は深く頭を下げながら、それでも言葉を止めなかった。
「この場の言葉が漏れれば、織田家は危うくなります。信秀様は、九州の阿蘇と通じ、鉄砲を求め、今川と美濃を探り、尾張に阿蘇の蔵を置こうとしていると見られましょう」
政秀は顔を上げた。
その目には、怒りと恐れがあった。
「尾張は、まだ一つではございませぬ。若を嫌う者は、内にも外にもおります。今の言葉は、若君の首だけでは済みませぬ」
信長は、しばらく政秀を見ていた。
やがて、短く笑った。
「だから、じいを連れてきた」
「笑い事ではございませぬ」
「笑っておらぬ」
信長の目は笑っていなかった。
「危うい話だと分かっておる。だから、ここで言うた」
宗運の視線が鋭くなる。
「漏れぬと見たか」
「漏れれば、わしは死ぬ。織田も傷む。阿蘇も疑われる」
信長は平然と言った。
「ならば、ここにいる者は皆、漏らせぬ」
政秀が息を呑んだ。
惟種は、信長を見ていた。
危うい。
あまりにも危うい。
だが、ただの無謀ではない。
この若者は、自分の言葉を人質にして、場を縛った。
「まだ値が足らぬ」
惟種は言った。
信長の笑みが、わずかに深くなる。
「そう言うと思った」
「何を出す」
「血を出す」
平手政秀の顔色が変わった。
「若君」
惟豊の目も、静かに細くなる。
信長は、平手を見なかった。
「今すぐではない。今のわしに、それを動かす権はない。父上もおる。家中も黙らぬ」
「ならば、何の話だ」
「約だ」
信長は言った。
「わしが尾張を握った時、妹を阿蘇へ送る」
部屋の空気が凍った。
平手政秀が、ほとんど叫ぶように言った。
「若!」
信長は止まらない。
「証人として。学ばせる名で。将来の縁も含めてな」
宗運の目が、はっきりと鋭くなった。
惟種は、表情を変えなかった。
だが、その内側では、確かに何かが軋んだ。
お市。
その名を、惟種は知っている。
織田信長の妹。
後に浅井へ嫁ぎ、三人の娘を産み、その血は天下の行く末に絡む。
その女を、ここで阿蘇へ寄越すと言う。
信長は知らない。
自分が何を差し出そうとしているのかを。
だが、知らぬからこそ、恐ろしい。
その時、惟豊が低く言った。
「女子を札にするな。それにいくつだ?」
「札ではない、数えで四だ」
信長は怯まなかった。
「話にならん」
惟豊は信長を見据えた。
「その言葉は、父君の前で言えるようになってから持ってこい」
信長の目が、わずかに動く。
惟種も続けた。
「その名は、軽く出すな」
「軽くはない」
「分かっておらぬ」
「何をだ」
「妹を出すとは、織田の未来を差し出すことだ」
平手政秀が息を呑んだ。
「そして、阿蘇の未来も変える」
信長は、惟種を見つめた。
「やはり、お前は見えているな」
「見えすぎるものは、毒だ」
「毒でも、飲まねば国は変わらぬ」
「飲む者を選ぶ」
惟種は言った。
「今のお前に、妹を差し出す権はない。だから、この場では受けぬ」
信長の笑みが消えた。
「逃げるか」
「違う。時を定める」
「いつだ」
「尾張を一つにしろ」
信長の目に火が灯った。
「それが条件か」
「そうだ」
惟種は言った。
「尾張を一つにした時、改めて使者を寄越せ。阿蘇は、その時に考える」
「考える、か」
「受けるとは言わぬ」
「十分だ」
信長は笑った。
「考えさせるところまでは、値を積めたわけだ」
平手政秀は、深く頭を垂れたまま震えていた。
◇
「本日の話は、外へ出せませぬ」
宗運は信長を見た。
「織田殿にも、でございます」
「分かっておる」
「漏れれば、阿蘇も尾張も敵を増やします」
「面白い」
「面白くございませぬ」
平手政秀が、心底から言った。
「まことに、面白くございませぬ」
信長は笑った。
だが、先ほどより少しだけ静かだった。
「外では言わぬ」
「信じてよろしいので」
「じいの腹に誓う」
「若!」
「では、父に誓う」
「殿に叱られます」
「ならば、わしに誓う」
信長は言った。
「わしはまだ、ここで死にたくない」
平手政秀は、何か言おうとして、やめた。
惟種は信長を見た。
「通交は結ぶ。だが、急がぬ」
「わしは急ぐ」
「ならば、急ぐお前を見て、こちらは動く」
「よい」
信長は立ち上がった。
平手政秀も慌てて立つ。
信長は惟豊に向き直り、今度は先ほどより深く頭を下げた。
「無礼を申しました」
平手政秀が、目を見開いた。
信長が謝った。
しかも、自分から。
惟豊は、静かに頷いた。
「無礼であった」
「はい」
「だが、つまらぬ言葉ではなかった」
「ならば、よし」
「よくはない」
宗運が即座に言った。
信長はまた笑った。
惟種は、最後に言った。
「信長」
「何だ」
「尾張へ帰ったら、まず生き残れ」
信長の笑みが、少し変わった。
「当たり前だ」
「当たり前ではない」
「ならば、生き残る」
「そして、大きくなれ」
信長は、じっと惟種を見た。
「それは、阿蘇のためか」
「日の本のためだ」
信長の目が、わずかに揺れた。
そして、楽しげに笑った。
「やはり変だ、お前は」
「お前ほどではない」
「また会うぞ」
「生きていればな」
「生きている」
信長は背を向けた。
平手政秀が深く頭を下げ、慌ててその後を追う。
廊へ出た信長の足音は、来た時と同じだった。
遠慮がない。
迷いもない。
見たいものを見て、次へ進む足音だった。
◇
足音が遠ざかった後、部屋にはしばらく沈黙が残った。
惟豊が、ぽつりと言った。
「あれは、何だ」
惟種は答えた。
「火です」
「火か」
「はい」
「味方にすれば暖かいか」
「近すぎれば焼けます」
宗運が、疲れた声で言った。
「若君は、どうしてああいうものばかり拾われるのでございますか」
「拾ったわけではない」
「呼びました」
「そうだったな」
宗運は深くため息をついた。
惟豊は、惟種を見た。
「わしが退く話」
「父上」
「いずれ、改めて話す。急にはせぬ」
「はい」
「だが、お前も考えておけ」
惟豊の声は穏やかだった。
「阿蘇は、もうお前なしには動かぬところまで来ている」
惟種は、胸の奥が重くなるのを感じた。
信長の無礼。
惟豊の決意。
宗運の疲れた横顔。
そして、尾張の火。
すべてが、一つの夜に押し寄せていた。
「分かりました」
惟種は、ようやくそう言った。
宗運が静かに告げる。
「今宵の話は、ここまでにいたしましょう」
「そうだな」
惟豊が頷く。
「祝言の夜だというのに、天下の火種まで抱え込むとはな」
惟種は、少しだけ苦笑した。
「申し訳ございませぬ」
「謝るなら、明日は休め」
「それは難しいです」
「だろうな」
惟豊は立ち上がった。
「ならば、せめて少し眠れ」
惟種は頭を下げた。
宗運も下がる。
やがて部屋に一人残った惟種は、庭の方を見た。
火薬の匂いは、もう薄れている。
だが、どこかにまだ、夜空へ上がった火の残り香があるような気がした。
尾張の火。
阿蘇の理。
どちらが先に天下へ届くのか。
あるいは、どちらも届かぬまま、別の何かに呑まれるのか。
惟種には分からなかった。
未来を知っていても、すべてが見えるわけではない。
むしろ、自分が動いたことで、知っている未来はもう変わり始めている。
それでも。
今夜、織田三郎信長と細い糸を掛けた。
焼けるかもしれない。
切れるかもしれない。
いつか、自分の首を絞めるかもしれない。
だが、掛けねばならぬ糸だった。
惟種は、静かに呟いた。
「生き残れ。そして、新たなる時代の為に全て壊せ」
夜の阿蘇は、祝言の熱を少しずつ冷ましていく。
だがその裏で。
尾張へ伸びた細い火種が、静かに灯り始めていた。
◇
後日、尾張より文が届いた。
差出は、織田信秀。
文面は丁重だった。
祝言への祝い。阿蘇の厚情への礼。
そして、三郎が若気に任せ、過分の言を重ねたことへの詫び。
だが、その奥にあるものを、惟種は読み違えなかった。
信秀は、知っている。
信長も平手政秀も、あの夜のことを隠さず報せたのだろう。
文には、こうあった。
――三郎、若年の身にて、思慮足らざる言葉も多く候。
されど、貴家におかれましては、それを外聞に立てず、内々にお納めくだされ候由、まことに忝なく存じ候。
このたび結ばれし往来の筋、織田家としても軽んずるものにあらず。
以後は父信秀が心得、礼を失わぬよう取り計らうべく候。
惟種は、文を畳んだ。
呆れたのだろう。
怒りもしたはずだ。
だが、それでも信秀は、阿蘇との通交を手柄と見た。
息子の無礼を詫びながら、その無礼が開いた細い道を、潰さず拾った。
信長は火だ。
だが、尾張にはまだ、その火を見ている者がいる。
そう思うと、かえって始末が悪かった。
尾張へ伸びた細い火種が、静かに灯り始めていた。