作品タイトル不明
第百四十六話 退け
「そなたがいるからだ」
その一言で、部屋の温度が変わった。
平手政秀の顔から、血の気が引いていく。
宗運の目が、刃のように細くなった。
惟種の表情は消えていた。
惟豊だけが、信長を見ている。
信長は続けた。
「阿蘇惟種は、そなたの庇護の内にいる」
「若!」
平手が叫んだ。
だが、信長は止まらない。
「そなたがいるから、無茶ができる。そなたが受けるから、惟種は最後の責を背負わずに済む」
惟種の内側で、冷たい火が灯った。
信長は、さらに踏み込んだ。
「退け」
平手政秀が、真っ白になった。
宗運の手が動いた。
惟種の声が、静かに落ちる。
「織田三郎信長」
低くはない。
荒くもない。
だからこそ、危うかった。
「死なすぞ貴様」
平手は息を止めた。
宗運は止めなかった。
信長は惟種を見た。
その目に、恐れはない。
むしろ、納得があった。
「そう怒るか」
「怒る」
「ならば、本当に大事なのだな」
「当たり前だ」
惟種は言った。
「父上も、宗運も、阿蘇の者も、わしの道具ではない」
「知っている」
信長は一歩も引かなかった。
「大事だからこそ、退かせねばならぬ時がある」
惟種の目が、さらに冷えた。
「そなたが退かぬ限り、惟種は阿蘇の主になれぬ。才があっても、火があっても、最後の名はそなたにある。だから、惟種はまだ動ききれぬ」
「黙れ」
惟種の声が落ちた。
「それ以上は、父上への無礼だけでは済まぬ」
「無礼は承知」
「承知で言うなら、なお悪い」
「言わねば分からぬこともある」
「分かっていて、言わぬこともある」
信長は、少しだけ笑った。
「それだ」
「何がだ」
「お前は、分かっていて言わぬことが多すぎる」
惟種は答えなかった。
信長は続けた。
「古い器のこともそうだ。父のこともそうだ。お前は見えている。見えているのに、言葉にせぬ。言葉にすれば、形になるからだ」
宗運の目がわずかに動いた。
惟種の表情は変わらない。
だが、部屋の誰もが分かった。
今の言葉は、惟種の奥へ届いている。
「若!」
平手政秀が、ついに声を荒げた。
「それ以上はなりませぬ。惟種殿の父君に退けなどと申すだけでも、万死に値します。そのうえ、阿蘇家の内事にまで踏み込むなど」
平手は深く頭を下げた。
「殿、若君、甲斐殿。尾張織田が阿蘇の館にて、これほどの無礼を重ねました。もはや言葉では足りませぬ」
惟種が目を向ける。
宗運も、動きを止めた。
平手政秀は、腰の小刀に手を伸ばした。
「この平手政秀が、腹を切ってお詫び申し上げます」
「じい!」
初めて、信長の声が乱れた。
平手は止まらない。
刃が、わずかに鞘から抜けた。
「止めろ」
惟種が言った。
声は大きくない。
だが、部屋の全員が止まった。
「平手殿。その刃を納めよ」
「しかし」
「ここで死なれては困る」
「若の無礼は」
「無礼だ」
惟種は即答した。
信長を見る。
「極めて無礼だ。普通なら、この場で首を刎ねてもおかしくない」
平手の顔色がさらに悪くなる。
信長は黙っている。
「だが、そなたが腹を切れば、これは尾張織田と阿蘇の傷になる。祝言の夜に、尾張の傅役が阿蘇の館で死んだとなれば、どれほど隠しても血の匂いは漏れる」
惟種は静かに続けた。
「そして何より、そなたが死ねば、この男が歪む」
信長の目が動いた。
平手も、わずかに顔を上げる。
「織田三郎信長には、そなたが要る」
惟種は言った。
「腹を切って詫びるより、生きてこの火を押さえろ」
平手政秀の手が、震えた。
宗運が、静かに近づく。
平手の小刀を押さえ、鞘へ戻した。
「お預かりしてもよろしいか」
平手は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……かたじけのうございます」
信長は、平手を見ていた。
初めて、言葉を失っていた。
◇
その沈黙を破ったのは、惟豊だった。
「織田三郎」
「はい」
「無礼ではある」
「承知」
「承知して言うあたり、なお悪い」
「言わねば、分からぬこともあります」
「分かっておる」
惟豊は、静かに息を吐いた。
「だが、それはわしも考えていたことだ」
惟種は、動きを止めた。
「父上」
「いずれ、退く」
部屋が静まり返る。
平手政秀も、信長も、宗運も、黙った。
惟豊は続けた。
「ここまで阿蘇を大きくしたのは、お前だ。わしではない」
「違います」
「違わぬ」
惟豊の声には、断じる重さがあった。
「わしは家を守った。宗運は道を整えた。だが、火を入れたのはお前だ。船を出し、府内を押さえ、商人を動かし、朝廷と幕府をつなぎ、島津を内へ入れる形を作ったのは、お前だ」
「父上がいたからできました」
「そうかもしれん。だが、無から有にするにはわしには出来ん。だから、段階を踏む」
惟豊は言った。
「すぐに退けば、家は揺れる。国人も、旧大友も、島津も、博多も、皆が測る。だから一つずつ譲る。名、政、兵、銭、人。それぞれを少しずつ渡すつもりでいた」
惟種は、言葉を失っていた。
宗運は、静かに目を伏せた。
惟種はそれを見た。
「宗運」
「はい」
「知っていたのか」
「察してはおりました」
「言え」
「言えば若君が嫌がります」
「嫌がる」
「ゆえに、申しませんでした」
信長が、そこで口を挟んだ。
「遅い」
平手政秀が、無言で目を閉じた。
惟豊は信長を見る。
「お前は急ぎすぎる」
「急がねば、間に合わぬ」
「急ぎすぎれば、家が割れる」
「割れたものを焼き直せばよい」
「焼き直して残るものばかりではない」
惟豊の声が低くなった。
「家は、残った者が生きていけねば意味がない」
信長は、その言葉を聞いて黙った。
初めて、少しだけ考える顔をした。
「なるほど」
「何がだ」
「阿蘇は、面倒だ」
信長は言った。
「だが、面倒だから強い」
しばらく、誰も口を開かなかった。
祝言の夜の灯は、まだ遠くに残っている。
だが、この部屋だけは、祝いの余韻から切り離されていた。
惟種は、信長を見た。
火だ。
近づけば焼ける。
遠ざければ、どこか別の場所を焼く。
そして、その火はすでに阿蘇の内側へ入り込んでいた。