作品タイトル不明
第百四十九話 九州を太らせる
祝言の熱が、少しずつ阿蘇の館から引いていく。
来賓の多くは帰路につき、残った者たちも、それぞれの宿所で荷をまとめ始めていた。
だが、阿蘇は休めない。
祝言は終わった。
だが、祝言によって始まったものがある。
島津は阿蘇の内へ入った。
九州の南は、島津が支える形となった。
大友は名を残し、龍造寺も残した。
相良、名和、鍋島、旧大友の者たちも、それぞれ新しい立場を持つ。
ならば、決めねばならない。
これから九州を、どう治めるかを。
◇
評定の場には、主だった者たちが集められた。
阿蘇惟豊。
阿蘇惟種。
甲斐宗運。
甲斐親英。
田代宗傳、北里政久をはじめとする阿蘇の重臣たち。
島津貴久。
日新斎。
相良晴広。
名和行興。
龍造寺家宗。
鍋島信房。
鍋島種茂。
さらに、旧大友方からは吉弘、吉岡、臼杵の名代も控えている。
龍造寺家宗は、まだ顔色が悪かった。
隆信に斬られた傷は塞がっている。
だが、長く座るには苦しげで、背筋もわずかに硬い。
その背後に、鍋島信房が控えていた。
信房の顔は厳しい。
だが、家宗を見る目には、以前よりも深い責任が宿っている。
種茂は少し離れた位置で、複雑な顔をしていた。
龍造寺隆信は死んだ。
家宗は生きた。
龍造寺は残った。
だが、元通りではない。
残された家は、これから新しい形で立たねばならない。
◇
惟豊が最初に口を開いた。
「まず、皆に伝える」
その一言で、座が静まった。
「これより阿蘇は、惟種を前面に出す」
誰も大きく驚かなかった。
島津貴久は静かに頷き、日新斎は目を伏せた。
相良晴広も、名和も、鍋島信房も、表情を変えない。
むしろ、そうであろうな、という空気だった。
すでに阿蘇を動かしているのは惟種である。
皆、それを知っている。
惟豊は続けた。
「わしは、当主としての名と重しは残す。だが、政、兵、銭、人の差配は、少しずつ惟種へ渡す」
惟種は、静かに頭を下げた。
「父上」
「催事、面会、諸家との顔つなぎ。そうしたものは、わしも続ける」
惟豊は淡々と言った。
「隠居というには早い。だが、御隠居に近い立場になると思え」
宗運が深く頭を下げる。
「承知しました」
日新斎が、穏やかに笑った。
「なるほど。火を前へ出し、山は後ろに控えるということですな」
惟豊は少しだけ口元を動かした。
「火が燃えすぎぬよう、山も見ておく」
「それは大事にございます」
惟種は、少しだけ嫌そうな顔をした。
「皆、わしを火扱いする」
宗運がすぐに言った。
「昨日、尾張の火を拾われた方が何を申されますか」
「拾ったわけではない」
「呼びました」
「……そうだったな」
座に、わずかに笑いが漏れた。
重い評定の始まりに、少しだけ空気が緩んだ。
◇
惟種は、広げられた九州の地図を見下ろした。
「ひとつ、先に定める」
その声で、座が再び静まった。
「これより先、九州に独立して勝手に兵を動かす家は置かぬ」
場の空気が変わった。
島津。
相良。
名和。
龍造寺。
大友。
名は残る。
家も残る。
だが、その意味が変わる。
惟種は、地図の上に手を置いた。
「島津は島津として残す。相良は相良として残す。龍造寺も、大友も、名和も残す」
一拍置いた。
「されど、各々が勝手に兵を出し、勝手に税を取り、勝手に裁き、勝手に他国と結ぶ時代は終わりだ」
誰も口を挟まない。
惟種は続けた。
「九州は、阿蘇家中として治める」
その言葉は、静かだった。
だが、重かった。
それは同盟ではない。
かといって、ただの降伏でもない。
家を残したまま、国の形を変えられるということである。
だが、座に異論は出なかった。
出せなかったのではない。
出す意味がなかった。
相良も、名和も、すでに分かっている。
阿蘇の外から阿蘇を真似ることは、できない。
帳面を整えるにも、人がいる。
硝石を作るにも、火薬を扱うにも、銭と職人と守るべき場がいる。
道を通し、蔵を建て、港を締め、商いを太らせるにも、ひとつの家だけでは足りない。
阿蘇のやり方は、道具だけ盗めば真似られるものではなかった。
人、銭、法度、帳面、兵、商人、寺、職人。
それらを束ねる仕組みそのものが、阿蘇の力であった。
ならば、外に立って真似損なうより、内に入ってその仕組みを使う方がよい。
それは屈辱ではない。
少なくとも、家を残したい者にとっては、生き残る道だった。
龍造寺は内から裂けたばかりである。
鍋島は、その裂け目を縫い合わせるだけで精一杯だった。
旧大友の者たちは、名を残されるだけでも十分な立場である。
そして島津だけは、なお別格の家だった。
だが、その島津も、加世を阿蘇の正室として送り、南九州差配という役を得る。
阿蘇の外で牙を剥くより、阿蘇の内で南を預かる方が、はるかに実がある。
日新斎は、座の空気を見ていた。
不満がないわけではない。
面目もある。
家の誇りもある。
だが、不満と離反は別である。
阿蘇はすでに、硝石を作り、火薬を蓄え、大筒を据え、南蛮式の大船を造っている。
硝石で冷やした氷菓子を出し、石炭の灯をともして夜を明るくし、田を増やし、商いを太らせ、病にまで帳面を伸ばしている。
その上に、朝廷と幕府の名がある。
ここで背けば、ただ阿蘇に逆らうだけではない。
朝廷の筋に背き、幕府の筋に背き、九州の商いから外れ、火薬と医と銭の流れを失う。
しかも、勝てぬ。
勝てぬ謀反ほど、愚かなものはない。
◇
惟種は言った。
「家名を奪うのではない。役目を与える。土地を知る者が、その土地を治める。だが、阿蘇の法度、阿蘇の帳面、阿蘇の軍令、阿蘇の裁きの下で治める」
宗運が、地図の上に札を置いていく。
南九州。
肥後南方。
海辺。
肥前。
府内、豊後。
「日々の村裁き、小さな争い、山川の差配、寺社との折衝、旧臣の取り立て。そうしたものまで、いちいち阿蘇が奪うつもりはない」
惟種は、座を見渡した。
「土地のことは、土地を知る者が一番よく分かる」
何人かが、静かに頷いた。
「だが、死罪、所領争い、他家に及ぶ訴え、兵の動き、蔵の開閉、港の大きな荷、他国との文。これは阿蘇へ上げよ」
宗運が続けた。
「任せることと、勝手にさせることは違います」
その言葉に、座の空気が固まった。
惟種は言った。
「阿蘇の法度に従う家には、道を通す。蔵を貸す。医者を送る。商人を入れる。火薬を配る。飢えれば米を回す」
そこで、声を少し低くする。
「だが、法度を破る家には、それらを渡さぬ。兵を向ける前に、まず国が痩せる」
誰も笑わなかった。
それが脅しではなく、事実だと分かったからである。
惟種は言った。
「島津貴久殿を、南九州差配に任ずる。薩摩、大隅、日向の安定、伊東・肝付旧領の再編、南の軍事と統治を見よ」
貴久は、深く頭を下げた。
「島津は、南九州差配の任、謹んで拝命いたします」
それは同盟者の返答ではなかった。
阿蘇の内で役を受ける者の返答であった。
だが、島津の面目を捨てた返答でもない。
日新斎も続いた。
「島津は、阿蘇の下に置かれるのではございませぬ」
座の者たちの視線が日新斎へ向く。
日新斎は、静かに言った。
「阿蘇の内に入り、南を支えまする」
貴久も頷いた。
「そのための婚儀にございます」
惟種は、貴久と日新斎を見た。
「島津の面目は守る」
「ありがたく」
「だが、南の兵を預けることと、九州全軍を島津へ預けることは違う」
「無論にございます」
貴久はすぐに答えた。
「九州全体の軍令は阿蘇本家より出る。島津は南を支える柱として働きます」
「それでよい」
惟種は頷いた。
これで島津の立場は明確になった。
阿蘇に潰された家ではない。
阿蘇に並び立つ別国でもない。
阿蘇の内へ入り、南を支える家である。
島津にとっても、それは悪い話ではなかった。
南九州差配とは、島津が南を奪われることではない。
阿蘇の名と力を背に、南を預かるということである。
外に立てば、阿蘇と競わねばならない。
内に入れば、南の柱として立てる。
日新斎は、その差を見誤るほど若くはなかった。
◇
惟種は次に、相良晴広を見た。
「相良晴広殿を、肥後南方差配に任ずる。人吉、球磨、南肥後、山道、川筋、薩摩へ通じる道を見よ」
相良晴広は、深く頭を下げた。
「相良、肥後南方差配の任、謹んで承ります」
その返答に、迷いは少なかった。
相良は、阿蘇に近い。
近いからこそ、阿蘇の力を見てきた。
阿蘇のやり方を外から真似ることはできぬ。
だが、阿蘇の内に入れば、山と川を治める相良の力は活きる。
晴広は、それを選んだ。
「山と川は、国の背骨だ。そこが乱れれば、人も米も動かぬ」
「心得ました」
惟種は名和の当主へ向く。
「名和を海辺差配に任ずる。八代、宇土、海辺の道、船の出入りを見よ。荷に紛れる間者、港に潜む商人、勝手な船出を許すな」
名和の当主も、深く頭を下げる。
「海辺差配の任、拝命いたします」
名和にも、異論はなかった。
海を持つ家であればこそ、分かる。
阿蘇の船、阿蘇の帳面、阿蘇の火薬、阿蘇の商人。
それらの流れから外れた海辺など、ただの危うい浜でしかない。
阿蘇に縛られることより、阿蘇の外に置かれることの方が恐ろしい。
「海は銭を運ぶ。だが、敵も運ぶ」
「承知しております」
次に、龍造寺家宗と鍋島信房である。
惟種は、傷の癒えきらぬ家宗を見た。
「龍造寺家宗殿、鍋島信房殿」
「はっ」
家宗は、やや苦しげに頭を下げた。
信房も深く頭を下げる。
「龍造寺と鍋島を、肥前差配に任ずる。肥前の再建、有馬・大村残党の押さえ、港と道の警固を見よ」
家宗は、静かに言った。
「龍造寺は、阿蘇の裁きに従います。肥前差配の任、謹んで拝命いたします」
信房が続けた。
「鍋島は、龍造寺を支え、肥前を乱さぬよう努めます」
惟種は頷いた。
「隆信は死んだ。だが、龍造寺を焼くつもりはない」
家宗の肩が、わずかに震えた。
「家宗殿は傷を癒せ。信房殿は龍造寺を支えよ。種茂は、阿蘇と龍造寺の間をつなぐ」
種茂が頭を下げた。
「はっ」
龍造寺は、もはや勝手に兵を動かす家ではいられない。
だが、それは家を奪われるということでもなかった。
阿蘇の下で肥前を預かる。
その形でなら、龍造寺は残る。
家宗にとって、それは痛みを伴う救いだった。
惟種は、旧大友方の名代へ視線を移した。
「旧大友の者たちは、隼人を支えよ。府内と豊後は、阿蘇直轄のもとで補佐させる」
吉弘の名代が頭を下げる。
「承知いたしました」
「大友の名は残す。だが、兵と蔵は阿蘇が見る。二度と義武のような旗を立てさせぬ」
吉岡の名代も頭を下げた。
「異存ございませぬ」
宗運が静かに言った。
「隼人様を守ること。それが旧大友の者に残された大義にございます」
「はっ」
◇
惟種は、そこで全員を見渡した。
「各方面には、阿蘇目付と勘定役を置く」
座にわずかな緊張が走る。
目付。
勘定役。
それは、阿蘇の目と手が各家の内へ入るということだった。
「人別帳、村帳、軍役帳、疱瘡帳、蔵の帳。すべて阿蘇へ上げよ」
誰も反論しなかった。
反論すれば、面目は立つかもしれない。
だが、その後に何が残るのか。
火薬も来ない。
医者も来ない。
商人も遠のく。
阿蘇の船も、蔵も、道も使いにくくなる。
面目だけで、国は太らない。
皆、それを知っていた。
惟種は続ける。
「朝廷、幕府、畿内、大内、南蛮、博多、堺への文は、阿蘇を通す。勝手な軍事同盟、勝手な婚姻、勝手な誓紙は許さぬ」
名和の当主が息を呑む。
相良晴広も、わずかに目を伏せた。
それは、もはや独立した国人ではないという宣言だった。
しかし、同時に、家を残す道でもある。
惟種は言った。
「任せることと、勝手にさせることは違う」
宗運が続けた。
「阿蘇の法度に従う限り、家名と面目は守ります。所領も、働きに応じて安堵いたします。されど、法度を破り、民を乱し、勝手に兵を動かす者は、差配の任を解きます」
日新斎が、小さく頷いた。
「分かりやすい」
貴久も続いた。
「島津は、その筋に従います」
相良晴広も頭を下げた。
「相良も従います」
名和、龍造寺、鍋島、旧大友の名代も続く。
それは、同盟諸侯の返答ではなかった。
阿蘇家中として、役目を受ける者たちの返答であった。
◇
惟種は、改めて地図へ目を落とした。
「では、これより先の話をする」
声は若い。
だが、座の者たちはもう、その若さだけを見てはいない。
「阿蘇は、しばらく大きく外へは動かぬ」
その言葉に、何人かが顔を上げた。
「三年は、まともに外征へ動けぬと思ってほしい」
相良晴広が問う。
「三年、でございますか」
「そうだ」
惟種は頷いた。
「九州は取った。だが、治まったわけではない。戦で勝つことと、国が回ることは違う」
宗運が地図の上へいくつかの札を置いた。
府内。
博多。
肥後。
肥前。
日向。
大隅。
人吉。
八代。
島津。
「五年だ」
惟種は言った。
「五年で、九州を阿蘇の手法で回る国にする」
日新斎が、目を細めた。
「阿蘇の手法とは」
「帳面だ」
惟種は即答した。
「道だ。蔵だ。港だ。病の帳だ。人の帳だ。裁きの筋だ。兵と米の数え方だ。商人を逃がさず、民を痩せさせず、降る者を使い、乱す者を斬る。その仕組みを九州に行き渡らせる」
貴久が静かに言う。
「南も、同じく」
「そうだ」
惟種は貴久を見た。
「島津には南を任せる。だが、阿蘇の法度と帳面の形は通す」
「承知しております」
「民を乱す者、蔵を勝手に開く者、降った者を理由なく斬る者は、阿蘇も黙らぬ」
「心得ております」
日新斎が、深く頷いた。
「南も、ただ島津が広げればよい時代ではなくなりましたな」
◇
次に、惟種は中央への対応を話した。
「朝廷からは、疱瘡の件で求めが来る」
その言葉に、座が静まる。
「阿蘇はこれを進める。だが、京に持っていく前に、まず九州で形を作る」
宗運が補足した。
「疱瘡帳、病人の隔離、看病役の分け方、衣や寝具の扱い、薬草と薬品の集積、医者の育成。これを各地へ広げます」
惟種が続ける。
「それに加えて、牛馬の疱を調べる。厩、馬市、牛を多く飼う地、乳を扱う者。疱瘡にかかって軽く済んだ者。すべて記録する」
日新斎が、感心したように息を吐いた。
「病まで帳に取るか」
「取る」
惟種は言った。
「見えぬ敵ほど、数えねばならぬ」
相良晴広が、静かに頷いた。
「それは、各地の寺にも関わりますな」
「そうだ」
惟種は答えた。
「寺を敵に回すつもりはない。病人を看る者、死者を送る者、民へ言葉を届ける者として、寺の力は必要だ」
宗運が続けた。
「ただし、病を隠す寺、流行を知りながら人を動かす寺は罰します」
「寺の領分は侵さず、しかし病では従わせる」
日新斎が呟いた。
「難しゅうございますな」
「難しい」
惟種はあっさり認めた。
「だから、三年は外へ動けぬ」
◇
幕府の話になると、惟種の顔が少し曇った。
「公方様は、たぶんうるさい」
宗運が、何とも言えぬ顔で懐から文を出した。
「すでに文が来ております」
「早いな」
「早うございます」
「何と」
「上洛を望む、と」
惟種は、深く息を吐いた。
「やはりな」
貴久が、少しだけ笑いをこらえた。
日新斎は遠慮なく笑った。
惟種は宗運を見る。
「京取次でいなせ」
「そのための京取次にございます」
「阿蘇が動くのは、九州に関わる件、公方様の御身に危難がある件、それと朝廷の大事に限る」
「そのように文面を整えます」
「公方様を傷つけぬように」
「承知しております」
惟種は、心の底から思った。
義藤は嫌いではない。
だが、本当にうるさい。
◇
次は、人の帳であった。
惟種は言った。
「人別帳を進める」
座が少しざわついた。
「村ごと、町ごとに家数を取り、人を記す。名寄帳、村帳、役帳を整える。逃げた者、来た者、死んだ者、生まれた者を数える」
相良晴広が問う。
「それは、年貢のためにございますか」
「それもある」
惟種は隠さなかった。
「だが、それだけではない。間者を減らすためでもある。流民を見つけるためでもある。病の広がりを見るためでもある。兵を無理なく出すためでもある」
名和の当主が、ゆっくり頷いた。
「海辺では、人がよく出入りいたします」
「だからこそだ」
宗運が続ける。
「港の宿、商人の泊まり、職人の移動。すべて一度に縛れば商いが死にます。ゆえに、流れは止めず、名を残す」
「流れを止めず、名を残す」
鍋島信房が呟く。
「間者対策でございますな」
「そうだ」
惟種は頷いた。
「祝言で阿蘇は見せた。見せたからには、盗みに来る者も増える」
宗運の声が少し冷えた。
「火薬場、玻璃の工房、船の作り場、疱瘡の記録、氷室、薬の倉。これらには立ち入りを制限します」
貴久が言った。
「南でも同じく進めます」
「頼む」
惟種は答えた。
「技は国を太らせる。だが、漏れれば国を焼く」
◇
学校の話になると、何人かが不思議そうな顔をした。
「寺子屋を広げる」
惟種は言った。
「だが、寺の領分を侵さぬ。寺の力を借りる。読み書き、数、帳面、衛生、農具の扱い、商いの基礎。まずは学べる者から学ばせる」
日新斎が問う。
「武士だけではなく?」
「商人や職人の子もだ」
座がまた少しざわついた。
惟種は構わず続けた。
「数を数えられる者が増えれば、帳面は正しくなる。字が読める者が増えれば、触れが届く。薬の使い方を読める者がいれば、人が助かる」
「寺は嫌がりませぬか」
相良が問う。
「嫌がるところもある」
惟種は答えた。
「だから、寺を潰して作るのではない。寺子屋の延長だ。寺に役を与え、銭も出す。寺が民を教えるなら、阿蘇はそれを支える」
宗運が補う。
「ただし、阿蘇の帳面に背く教え、病を隠す教え、民を乱す教えは許しませぬ」
「甘いようで、厳しい」
日新斎が笑う。
惟種は肩をすくめた。
「甘さを支える仕組みが要る」
その言葉に、宗運だけが少しだけ目を動かした。
昨夜、尾張の火に語った言葉である。
◇
内政の話は、さらに続いた。
道を直す。
橋をかける。
水路を掘る。
蔵を増やす。
港の荷改めを整える。
府内と博多を結ぶ商いを太くする。
南では島津が日向と大隅を整え、北では阿蘇が肥前と豊後を締める。
相良、名和、龍造寺は、それぞれの差配地を安定させる。
だが、それは各家が勝手に国を作ることではない。
阿蘇の法度の下で、阿蘇の帳面を使い、阿蘇の目付に見られながら、それぞれの地を預かるということである。
惟種は最後に言った。
「三年は、根を張る」
座の者たちは黙って聞いていた。
「五年で、九州を太らせる」
その言葉には、不思議な重みがあった。
戦で取った地を、ただ支配するのではない。
太らせる。
米を増やし、人を増やし、道を通し、病を減らし、商いを回す。
それは、すぐに手柄になる話ではない。
首も取れない。
武名も上がらない。
だが、それができれば、九州はもう簡単には崩れない。
日新斎が、ぽつりと言った。
「阿蘇は、戦の後が恐ろしい」
惟種は、日新斎を見た。
「戦の後に国が痩せれば、勝った意味がありません」
「まことに」
日新斎は深く頷いた。
◇
評定が終わりに近づいた時、宗運が一つの文を取り出した。
「最後に、周防、長門について」
座の空気が変わる。
大内。
祝言には来なかった家である。
惟種が言った。
「大内義隆殿か」
「はい」
宗運は文を広げた。
「山口の内に、不穏がございます」
「荒れているのか」
「いえ」
宗運は首を振った。
「まだ、荒れてはおりませぬ」
そこで言葉を切る。
「ですが、荒れる兆しがございます」
座が静まった。
陶隆房。
その名を、誰もすぐには口にしなかった。
阿蘇は陶とも筋がある。
大内義隆とも友誼がある。
軽々しく、どちらかを敵とは言えない。
宗運は慎重に続けた。
「文治を重んじる者、武を求める者。その間の溝が深うございます。今はまだ火ではない。ですが、乾いた薪が積まれております」
惟種は、地図の西を見た。
周防。
長門。
山口。
博多へつながる海。
九州の外だ。
だが、無関係ではない。
大内が乱れれば、博多が揺れる。
博多が揺れれば、阿蘇の商いも揺れる。
さらに朝廷、幕府、西国の勢力図も変わる。
貴久が静かに言った。
「大内が崩れれば、西の海が揺れますな」
「そうだ」
惟種は頷いた。
「ただし、今はまだ動かぬ」
「三年は内を固める、でございますな」
「そうだ」
惟種の声は重かった。
「だが、目は離すな。博多の商人、寺、海の者、山口へ出入りする者から、米、銭、武具、兵糧の動きを拾え」
宗運が深く頭を下げる。
「承知しました」
「大内にも、陶にも、礼は欠くな」
「はい」
「火がつく前から水をかければ、こちらが火付けに見える。だが、燃えた後で慌てれば、博多まで焼ける」
日新斎が、低く笑った。
「動かぬと言いながら、見てはいる」
「見ているだけだ」
惟種は言った。
「今はな」
◇
評定は終わった。
だが、誰も軽い顔ではなかった。
九州を取った。
祝言も済んだ。
島津も内に入った。
だが、それは終わりではない。
始まりである。
人を数える。
病を数える。
米を数える。
道を直す。
寺を使う。
学校を作る。
間者を防ぐ。
機密を守る。
京をいなす。
大内を見張る。
戦より地味で、戦より長い仕事が、これから始まる。
惟種は、評定の場を出る前に、もう一度地図を見た。
九州全土が、そこに描かれている。
広い。
そして、まだ荒い。
「五年」
惟種は小さく呟いた。
宗運が隣で言う。
「短うございますな」
「分かっている」
「ですが、若君ならそう申すと思っておりました」
「なら止めろ」
「止めても、聞かれませぬので」
惟種は何も言えなかった。