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作品タイトル不明

第百四十五話 尾張の火

廊の向こうから、足音が近づいてきた。

急ぎすぎてはいない。

だが、遠慮もない。

客として控える足でも、家臣として畏まる足でもない。

見たいものへ、まっすぐ近づいてくる足音だった。

惟種は、静かに振り返った。

現れたのは、若者であった。

織田三郎信長。

まだ若い。うつけと呼ばれている頃か。

だが、目が違った。

祝言に招かれた者の目ではない。

珍しいものを見て浮かれるだけの目でもない。

火を見つけた者の目である。

その後ろに、平手政秀が控えていた。

政秀は、入るなり深く頭を下げる。

「夜分、また祝言の後にもかかわらず、若君にお目通りを賜り、恐悦至極にございます」

礼は正しい。

声も整っている。

ただし、顔色は悪かった。

惟種は、少しだけ同情した。

おそらくこの男は、今日一日でかなり胃を痛めている。

そして、今からさらに痛める。

「遠路、よう来られた」

惟種が言うと、信長はじっと惟種を見た。

無遠慮な視線だった。

宗運の目が、わずかに細くなる。

だが、信長は気にしない。

惟種も止めなかった。

信長は見ていた。

阿蘇惟種。

ぱっと見れば、凡庸である。

声が大きいわけではない。

身振りが派手なわけでもない。

武威で人を押さえつけるような男でもない。

祝言の主役でありながら、妙に静かだ。

しかし。

凡庸であるはずがない。

凡庸な者が、朝廷と幕府と三好を同じ場に座らせられるはずがない。

凡庸な者が、島津を内へ入れ、博多と堺に匂いを嗅がせ、なお値を握らせぬなどできるはずがない。

凡庸な者が、夏に氷菓子を出し、夜に火を咲かせ、それを祝言として乱さず回せるはずがない。

信長は、にやりと笑った。

「お前、面白いな」

平手政秀の肩が、わずかに揺れた。

宗運の気配が変わった。

膝の上の指が、半呼吸で柄へ届く位置にある。

惟種は、宗運を見ずに片手だけを上げた。

それで、刃の気配は鞘の内に戻った。

消えたのではない。

ただ、止まっただけである。

信長は、その一瞬も見逃さなかった。

「よい家臣を持っておる」

「今ので、さらに変わり者だと分かった」

惟種は静かに言った。

「普通は、そこで笑わぬ」

「斬られぬと見た」

「なぜ」

「お前が止める」

「試したのか」

「少しな」

「次はない」

「覚えておく」

平手政秀は、深く頭を下げた。

「若君の無礼、平にご容赦を」

「許すとは言っていない」

惟種は言った。

「ただ、まだ斬らせぬだけだ」

その言葉に、信長はまた笑った。

「わしを面白いと評したが、貴殿ほどではあるまい」

平手政秀が、今度こそ顔を伏せた。

「それで、何を見にきた」

信長の目が光った。

「祝言ではないな」

宗運が、信長を見る。

「では、何に見えた」

「市だ」

信長は即答した。

「朝廷、幕府、三好、博多、堺、島津、九州諸家。皆を一つ所に集め、飯を食わせ、器を見せ、火を見せ、氷を出した。あれは祝言の形をした市だ」

一拍。

「売っていたのは、品ではない。阿蘇という家そのものだ」

平手政秀は、黙った。

宗運も、すぐには口を開かなかった。

惟種は、静かに息を吐いた。

「よく見ている」

「見えるものは見える」

「見えぬものは」

「見に来た」

信長は、まっすぐに言った。

その声には、遊びがなかった。

部屋には、惟種、宗運、信長、平手政秀の四人だけがいた。

外には、宗運が手の者しか置いていない。

声は漏れぬ。

少なくとも、普通の耳には届かない。

それを信長はわかっていた。

「十年」

信長が言った。

「何がだ」

「十年もあれば、天下は取れますな」

空気が止まった。

平手政秀の顔から血の気が引く。

「若!」

宗運の手が、静かに動いた。

刀にかけたわけではない。

惟種だけが、表情を変えなかった。

「軽く言う言葉ではない」

「軽く言っておらぬ」

信長は返した。

「今日、見た。阿蘇には銭がある。兵がある。船がある。火器がある。商人が寄る。朝廷への筋もある。幕府への筋もある。九州の諸家も、もう阿蘇を見て動いておる」

信長は一歩前へ出た。

「ならば、畿内へ出ればよい。公方を掲げ、朝廷を支え、三好を呑む。逆らう者は潰す。降る者は残す。阿蘇が九州でやったことを、天下でやればよい」

「若、それ以上は」

「じい」

信長は、平手を見ずに言った。

「わしは、ただ氷菓子を食いに来たのではない」

平手は言葉を失った。

信長の声は若い。

だが、軽くない。

国を変えるには、言ってはならぬことも言わねばならぬ。

触れてはならぬものにも触れねばならぬ。

その覚悟を持って、この場に来ている。

惟種は、それを感じ取った。

「無理だ」

惟種は言った。

「なぜ」

「民がついてこない」

「民」

「そうだ」

「兵ではなく」

「兵も民から出る。米も民が作る。道も民が歩く。船も民が漕ぐ。国は民がいなければ動かぬ」

「従わせればよい」

「力でか」

「力で。銭で。飯で。恐れで。利で」

信長は言った。

「人は動く」

「動くが、ついてはこない」

「同じだ」

「違う」

惟種の声は静かだった。

「動かされる民は、隙あらば逃げる。焼かれた国は痩せる。痩せた国からは米も兵も出ない。無理に広げれば、国は内から腐る」

「腐る前に、一つにすればよい」

「一つにした後で腐れば、もっと悪い」

二人の言葉は噛み合っている。

噛み合っているからこそ、合わない。

「日の本は遅い」

信長が言った。

「唐がある。南蛮がある。海の外には、火器も船も銭もある。商人は海を越える。鉄砲はもう来ている。いずれ、もっと大きな船も来る」

惟種は、目を細めた。

信長は未来を知らない。

だが、匂いを嗅いでいる。

海の外から来るものを見て、この国がばらばらのままでは危ういと感じている。

「諸家が小競り合いを続け、寺社が銭を抱え、幕府が弱り、朝廷が困り、商人が勝手に流れる。このままでは、外のものに食われる」

信長の目が、火のように光った。

「ならば、一つにせねばならぬ」

「急ぎすぎだ」

「遅すぎるよりよい」

「急ぎすぎれば、人が死ぬ」

「遅すぎても死ぬ」

信長は即座に返した。

「違うか」

惟種は、すぐには答えなかった。

違わない。

それを、惟種は知っている。

未来を知っているからこそ、信長の焦りがただの暴論ではないと分かる。

だが。

「それでも、だ」

惟種は言った。

「義と理がない」

信長の顔に、ほんの少し苛立ちが浮かんだ。

「義と理」

「阿蘇は、幕府を支えると言って動いた。朝廷の御沙汰を受け、九州を静めると言って兵を出した。その阿蘇が、今度は幕府を踏み潰して天下を取ると言えば、何になる」

「天下を取る家になる」

「違う」

惟種の声が低くなる。

「嘘つきの家になる」

信長は黙った。

「一度積んだ理を、自分で壊せば、人は二度と信じぬ。降る者を残すと言って残した。従う者には道を開くと言って開いた。ならば、その言葉は守らねばならぬ」

「甘い」

「そうだ」

惟種は認めた。

「甘くてよい」

信長の目が、わずかに動く。

「国は甘さでは成り立たぬ」

「甘さだけではな」

惟種は言った。

「だから、甘さを覆すほどの仕組みを作る」

平手政秀が、思わず顔を上げた。

信長だけが、すぐに意味を掴んだ。

「米か」

「米もだ」

「蔵」

「蔵もだ」

「道、港、船、商人、帳面、医、火器」

「すべてだ」

惟種は頷いた。

「無駄な血を流さずに済むなら、流さぬ。そのために、先に国を太らせる。先に道を通す。先に帳を作る。先に病を数える。先に民を逃がさぬ形を作る」

「それでは遅い」

「遅くても、壊れにくい」

「壊れても、早く進むべき時がある」

「その時は来る」

惟種は、静かに言った。

「だが、今ではない」

信長は、沈黙の奥を覗くように惟種を見た。

「分かった」

「何がだ」

「お前が、なぜ動かぬのかだ」

宗運の気配が変わった。

平手政秀も顔を上げる。

信長は、惟種を見据えたまま言った。

「————お前は、己の手で古い器を割りたくないのだな」

その一言で、部屋の熱が変わった。

平手政秀が息を呑む。

「若君、何を馬鹿なことを」

声は低かった。

だが、明らかな怒りがあった。

「古い器とは、何を指しておられる。まさか、公方様を。幕府を。そう申されるのか」

信長は答えない。

ただ、惟種を見ていた。

宗運もまた、惟種を見る。

惟種は、否定しなかった。

肯定もしなかった。

答えれば、その瞬間に言葉が形を持つ。

形を持てば、それは謀となる。

だから、答えなかった。

その沈黙で、宗運の胸の内にいくつものことがつながった。

朝廷への筋。

幕府への義。

公方への礼。

九州を静めるという理。

そして、それでも畿内を見続けていた惟種の目。

若君は、見えておられた。

古い器が、いずれ国を支えきれぬことを。

それでも、自ら割ることはできぬと知っておられた。

宗運は、ゆっくりと息を吐いた。

驚きは消えない。

だが、疑いにはならなかった。

これまで見てきた。

惟種が、民を捨てぬことを。

理を積み、義を捨てず、なお勝つ道を探すことを。

ならば、この沈黙も逃げではない。

重さであった。

「答えぬか」

信長が言った。

惟種は静かに返す。

「答えられる問いではない」

信長の口元が、わずかに上がった。

「ならば、答えたも同じだ」

「若」

平手政秀の声が震えた。

「それ以上はなりませぬ。この場の言葉が漏れれば、若だけでは済みませぬ。織田家も、阿蘇家も、公方様も、皆を巻き込みますぞ」

「漏れぬ」

信長は言った。

「なぜ言い切れる」

「ここで漏らす者は、皆、同じ火に焼かれるからだ」

「若!」

平手が叫ぶ。

宗運の手が、わずかに動く。

惟種は、それを目で止めた。

「信長」

惟種の声は低かった。

「その言葉は、二度と軽く口にするな」

「軽くはない」

「重いから言うな」

平手政秀が、深く頭を下げた。

「若、お聞きなされ。惟種殿の仰せの通りにございます」

信長は笑った。

「じいまで阿蘇に味方するか」

「違います」

政秀は、顔を上げた。

「若を生かすために申しております」

信長は、しばらく政秀を見た。

そして、再び惟種を見る。

「よい。今は言わぬ」

「今は、か」

「いずれ言わせる」

惟種は答えなかった。

襖の外で、気配が動いた。

宗運がすぐに目を向ける。

「殿」

静かな声がした。

「入るぞ」

阿蘇惟豊である。

平手政秀は、すぐに頭を下げた。

信長も、一応礼をした。

一応であった。

惟豊は部屋に入り、まず惟種を見た。

次に信長を見た。

最後に宗運を見た。

「祝言の夜に、ずいぶん物騒な話をしておるな」

「父上」

「惟種」

「はい」

「なぜ、この若者に会った」

問いは静かだった。

「尾張の使者は、型通りに遇すればよい。遠国の一勢力の若殿だ。今日、この夜に呼ぶほどの相手ではない」

信長は黙っている。

惟種は、正直に答えた。

「今、会っておくべき相手だと思いました」

「理由は」

「大きくなるからです」

「尾張織田がか」

「いえ」

惟種は信長を見た。

「織田三郎信長が、です」

惟豊は、信長を見た。

「ほう」

信長は、その視線を受けても怯まない。

阿蘇惟豊もまた、ただの老人ではない。

惟種という異物を抱え、阿蘇をここまで大きくした男である。

その目には、静かな重さがあった。

信長は、それを見て少し笑った。

「分かった」

「何がだ」

惟豊が問う。

「なぜ阿蘇惟種が、まだ天下を取りに行かぬのか」

空気が、ぴたりと止まった。

平手政秀が、ほとんど悲鳴のように言った。

「若!」

宗運の視線が、初めて明確に鋭くなる。

惟種の表情が消えた。

惟豊だけが、静かに信長を見ていた。

「申してみよ」

「殿!」

平手が止めようとした。

だが、信長は止まらない。

止まるつもりがない。

ここへ来る前から、覚悟していた。

国を変える者に、遠慮は要らない。

遠慮しているうちに、国は腐る。

信長は、惟豊を見た。

「そなたがいるからだ」