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作品タイトル不明

第百四十四話 天下一の祝言

天文十九年(一五五〇年)八月。

祝言の日の朝。

阿蘇の館は、まだ夜の気配を残していた。

だが、すでに人は動いている。

水を運ぶ者。

火を入れる者。

鳥を捌く者。

器を磨く者。

灯を整える者。

客の宿所へ走る者。

警固の配置を確かめる者。

そして、誰がどこに座るかを最後まで確認する者。

その中心に、甲斐宗運がいた。

顔色は、あまりよくない。

眠っていないのだろう。

惟種は、支度を整えた姿で宗運の前へ出た。

「宗運」

「はい」

「今日は頼む」

宗運は、ゆっくり顔を上げた。

「若君」

「何だ」

「今日だけではございませぬ。昨日も、一昨日も、その前も、ずっと頼まれております」

「そうだったな」

「はい」

宗運は、帳面を閉じた。

「されど、今日が山にございます」

「うむ」

「朝廷の使者。公方様。三好方。博多、堺の商人。島津。九州諸家。寺社。旧大友、龍造寺。さらに尾張の使者まで来ております」

「尾張か」

惟種の目が、わずかに動いた。

宗運はそれに気づいたが、今は触れなかった。

「毒見、席順、宿所、警固、火薬、花火、料理、氷、玻璃、漆器、女房衆の動き、間者対策。ひとつでも違えれば、祝言に傷がつきます」

「分かっている」

「本当に?」

「分かっている」

惟種は、いつになく素直に言った。

「滞れば、阿蘇と島津の面目に傷がつく。加世にも恥をかかせる。来賓に不満を持たせるな。だが、阿蘇の内を見せすぎるな」

「承知しております」

宗運は、少しだけ目を細めた。

「今日は、阿蘇が天下へ見られる日です」

「そうだ」

「そして、阿蘇が天下を見る日でもございます」

惟種は頷いた。

この祝言は、ただ加世を迎える儀ではない。

阿蘇と島津が結ぶこと。

九州の南北が形を持つこと。

朝廷と幕府がそれを認めること。

博多と堺の商人が阿蘇の富を見ること。

三好が阿蘇を測ること。

九州諸家が、もはや阿蘇に逆らう時代ではないと悟ること。

そのすべてが、この一日に乗っている。

「宗運」

「はい」

「死ぬなよ」

「できる限り」

「できる限りでは困る」

「ならば、祝言を小さくなさればよかったのです」

「それはできぬ」

「存じております」

宗運は、深く息を吐いた。

「では、死なぬよう努めます」

「頼む」

朝日が昇るころ、客たちは次々に入った。

まずは朝廷の使者。

衣冠を整えた公家たちは、阿蘇の館の門をくぐった瞬間、少しだけ足を緩めた。

掃き清められた道。

左右に控える兵。

しかし威圧しすぎない距離。

香の匂い。

花。

そして、白木と漆の調和。

田舎の武家の館ではない。

京の雅とも違う。

武家の力と、商人の富と、職人の手と、神官の清さが混じったような場であった。

続いて、幕府方。

足利義藤は、機嫌よく現れた。

「惟種!」

まだ式も始まらぬうちから、声が大きい。

惟種は、深く頭を下げた。

「公方様。本日はようこそお越しくださいました」

「うむ。めでたいな」

「ありがたきことにございます」

「祝言を早めたと聞いた。よいことだ」

惟種は、嫌な予感がした。

義藤は、笑顔で続けた。

「家が結べば、次は家を栄えさせねばならぬな」

「公方様」

「何だ」

「まだ祝言前にございます」

「では祝言後に申す」

「できればお控えください」

「なぜだ。めでたい話ではないか」

惟種は、深く頭を下げたまま黙った。

宗運が、横で胃を押さえるような顔をしていた。

三好方からは、松永久秀が来ていた。

祝いの顔である。

礼も丁寧。

言葉も柔らかい。

どこから見ても、三好よりの祝儀使者であった。

だが、目は違った。

久秀は、歩きながら見ていた。

門の兵。

槍の立て方。

火縄を持つ者の位置。

水桶の数。

女房衆の動線。

料理を運ぶ者の足並み。

皿を下げる速さ。

客の宿所から本殿までの道。

商人の顔。

博多の者と堺の者が、どのあたりに置かれているか。

そして、玻璃の器。

光を受けて、透明に近い器がきらめいていた。

久秀は、表情を変えなかった。

だが、胸の内では舌を巻いていた。

ただ豪華なのではない。

豪華さが、乱れずに運ばれている。

そこが恐ろしい。

博多商人たちは、目を光らせていた。

漆器。

玻璃。

砂糖。

氷。

鶏。

紙。

香。

酒。

灯。

ひとつひとつが商いの種である。

だが、彼らもすぐに気づいた。

阿蘇は見せている。

しかし、値を握らせてはいない。

欲しくなるものを見せる。

だが、流れは阿蘇が押さえている。

商人に儲けを嗅がせながら、その首に細い縄をかけている。

博多の古い商人が、小さく呟いた。

「これは、ただ金を使う家ではないな」

隣の商人が頷く。

「金を使って、こちらの目を買っておる」

そして島津。

貴久は、加世の支度が整っていると聞き、静かに息を吐いた。

日新斎は、館の様子を見ていた。

「貴久」

「はい」

「敵に回らずに済んだこと、よう噛みしめよ」

貴久は、苦笑した。

「言われずとも」

「いや、言うておく」

日新斎の声は低かった。

「これは恐ろしい家だ。兵が強いだけではない。銭があるだけでもない。人を使い、物を回し、見せるべきものを見せる」

貴久は頷いた。

「味方でよかった」

「違う」

日新斎は、少しだけ目を細めた。

「内に入れたのが、よかったのだ」

貴久は、その言葉を受け止めた。

今日、加世が阿蘇へ正式に入る。

島津は、ただの盟ではなくなる。

阿蘇の外戚となり、南の柱となる。

それは大きな誇りであり、同時に重い責でもあった。

式は、滞りなく始まった。

加世は、静かに入ってきた。

年若い。

だが、その姿はよく整えられていた。

島津の姫としての品。

阿蘇へ入る者としての慎み。

そして、少しだけ隠しきれない緊張。

惟種は、それを見て小さく息を整えた。

今日は天下に見せる日である。

だが、まずは加世のための日である。

惟豊の言葉を思い出す。

――天下一の式にするなら、そうせよ。だが、姫の笑う顔を忘れるな。

惟種は、ゆっくりと頭を下げた。

加世も、静かに頭を下げる。

阿蘇と島津の祝言は、そうして始まった。

儀は乱れなかった。

祝詞。

杯。

礼。

家と家の言葉。

島津からの挨拶。

阿蘇からの返礼。

公方の祝辞。

朝廷の使者の言葉。

すべてが、定めた通りに進んだ。

義藤が途中で少し余計なことを言いかけたが、宗運が見事な流れで別の者へ言葉を移し、事なきを得た。

惟種は、それを横目で見て思った。

宗運がいなければ、阿蘇は今日だけで三度は燃えていたかもしれぬ。

宴に入ると、来賓たちはさらに驚いた。

まず、器である。

玻璃の器には、冷やした果汁が注がれた。

透明な器に薄く色づいた液が光を受け、まるで宝石のように見えた。

漆器には、丁寧に盛られた料理。

山の幸。

海の幸。

府内の魚。

博多を通じて入った珍しい品。

阿蘇で育てた野菜。

そして、鶏料理。

焼き物。

煮物。

汁物。

衣をつけて揚げたもの。

香りをつけたもの。

加世は、鶏料理を見た瞬間、ほんの少しだけ目を輝かせた。

惟種は、それを見逃さなかった。

「足りるか」

小さく聞く。

加世は、少しだけ笑った。

「十分にございます」

「まだ出る」

「そんなに」

「今日は、出す」

加世は、袖で口元を隠した。

「嬉しゅうございます」

その顔を見て、惟種は少しだけ安心した。

甘味が出た時、公家たちは感嘆した。

砂糖を惜しまず使った菓子。

果物を煮詰めたもの。

米粉を使った柔らかな菓子。

薄く甘い蜜をかけたもの。

さらに、氷菓子が出た。

夏の八月である。

その中で、冷たい菓子が出た。

公家の一人が、思わず声を漏らした。

「これは……」

冷たい。

甘い。

しかも、ただ氷を出したのではない。

果汁と乳を合わせ、口に含めばすっと溶けるように作られている。

阿蘇の者は、それを淡々と運んでいる。

来賓たちには、分からなかった。

冬から氷を守ったのか。

山の奥に氷室でもあるのか。

あるいは、阿蘇だけが知る別の仕掛けがあるのか。

ただ一つ確かなのは、夏の八月、この場に冷たい菓子が出ているということだった。

それを乱さず運び、溶かさず出し、客に食わせる。

その仕組みこそが、恐ろしい。

松永久秀は、器の中の氷菓子を見つめた。

どう作った。

どう冷やした。

どう運んだ。

問いは浮かぶ。

だが、答えは見えない。

見えているのは、冷たい菓子だけ。

隠されているのは、それを可能にした仕組み。

久秀は、心の中で呟いた。

阿蘇は、見せるものと隠すものを分ける家だ。

戦でも同じなら、厄介どころではない。

義藤は、楽しそうだった。

実に楽しそうだった。

「惟種!」

「はい」

「この氷の菓子、京でも出せ」

「難しゅうございます」

「なぜだ」

「冷やす仕掛けと、運び手と、器と、作り手が要ります」

「ならば作れ」

「公方様」

「何だ」

「阿蘇は九州にございます」

「ならば上洛して作れ」

惟種は、静かに杯を置いた。

宗運が、すぐに間へ入った。

「公方様。まずは本日の祝言をお楽しみくださいませ」

「もちろん楽しんでおる」

義藤は笑った。

「だからこそ、また味わいたいのだ」

悪気はない。

本当に悪気はない。

だからこそ厄介である。

惟種は、心の中で呟いた。

だから京へは行きたくない。

夜。

いよいよ、阿蘇の火が上がった。

客たちは庭へ案内された。

水桶が置かれ、火消しの者が控える。

火薬筒は、離れた場所で慎重に扱われている。

宗運の目は、今までで一番険しかった。

ここで失敗すれば、祝言が火事になる。

惟種は小さく言った。

「落ち着け」

「若君こそ」

「わしは落ち着いている」

「火薬のそばでその顔は、あまり信用できませぬ」

やがて、合図が出た。

低い音。

火が空へ走る。

来賓の目が、一斉に上を向いた。

夜空に、火が開いた。

大輪ではない。

後の世の花火のような華やかさではない。

だが、確かに火の花だった。

赤い火。

白い火。

散る火。

尾を引く火。

次に、祝砲が鳴った。

音が山へ返り、庭の空気を震わせる。

さらに、火が上がる。

今度は少し高く、星のように散った。

公家たちは息を呑み、武家たちは言葉を失い、商人たちは目を見開いた。

島津の者たちは、黙って夜空を見ていた。

貴久は、小さく呟いた。

「戦の火を、祝いの火にしたか」

日新斎が答える。

「恐れと憧れを、同じ火で作っておりますな」

松永久秀は、何も言わなかった。

ただ、空に消える火を見ていた。

この火は、城を焼ける。

兵を崩せる。

船を沈められる。

だが、今は祝っている。

それが、何より恐ろしい。

祝言は、滞りなく終わった。

それ自体が、奇跡に近かった。

これほどの来賓。

これほどの料理。

これほどの器。

これほどの警固。

これほどの火薬。

それらが一日で乱れずに回った。

宗運は、最後の客が宿所へ戻ったと聞いた時、ようやく座り込んだ。

「宗運」

惟種が声をかける。

「生きているか」

「かろうじて」

「よくやった」

「若君」

「何だ」

「次に天下一の式をなさる時は、三年前から準備させてください」

「次があるのか」

「若君なら、作りかねませぬ」

惟種は否定できなかった。

加世は、少し疲れた顔をしていた。

だが、表情は明るかった。

惟種は、短く声をかけた。

「今日はよく務めてくれた」

「惟種様こそ」

「いや、加世の方が大変だった」

「鳥料理が美味しゅうございました」

「そこか」

「大事にございます」

加世は、柔らかく笑った。

惟種も少しだけ笑った。

「これから、阿蘇の者として扱われる」

「はい」

「だが、無理はさせぬ」

「分かっております」

「困ったことがあれば言え」

「では」

「何だ」

「また、あの氷の甘いものを食べとうございます」

惟種は真面目に頷いた。

「用意する」

加世は、嬉しそうに笑った。

その笑顔を見て、惟種はようやく祝言が終わった気がした。

だが、まだ終わりではなかった。

宗運が、疲れた顔のまま戻ってきた。

「若君」

「何だ」

「尾張織田の使者への礼も、型通り済ませております」

惟種は、そこで顔を上げた。

「織田三郎信長か」

「はい」

「呼べ」

宗運は、一瞬だけ沈黙した。

「……今、でございますか」

「今だ」

「祝言の直後に」

「そうだ」

「尾張の織田は、まだ尾張一国すら完全には束ねておりませぬ。遠国の一勢力の若殿に、若君がわざわざこの日に会う意味が、わたくしには分かりませぬ」

「大きくなるぞ」

宗運の目が細くなった。

「尾張織田が、ですか」

「いや」

惟種は静かに言った。

「織田三郎信長が、だ」

宗運は、なお納得できない顔をしていた。

「根拠は」

「勘だ」

「またそれでございますか」

「今、会っておくべきだ」

惟種の声は低い。

尾張の現状は、不安定だ。

信秀が健在の今だからこそ、信長は動ける。

この先、尾張は荒れる。

家中も、弟も、今川も、斎藤も、信長の周囲は火だらけになる。

次にいつ会えるか分からない。

そして今、その男が阿蘇の祝言に来ている。

会わぬ理由はなかった。

宗運は、しばらく惟種を見ていた。

「加世姫様には」

「挨拶は済ませた」

「祝言の日に、別の男へ興味を向けるのはどうかと思いますが」

「変な言い方をするな」

「事実にございます」

「違う」

惟種は、少しだけ顔をしかめた。

「これは政だ」

「若君は、便利な時だけ政と申されます」

「本当に政だ」

宗運は深くため息をついた。

「承知しました」

「呼べ」

「はい」

宗運は立ち上がった。

その背は疲れきっているが、動きはまだ乱れていない。

惟種は、庭の夜気を吸った。

祝言は終わった。

阿蘇と島津は結ばれた。

朝廷も幕府も三好も博多も、阿蘇の力を見た。

だが、今日会うべき者がもう一人いる。

尾張。

織田。

三郎信長。

今はまだ、小さな火である。

だが、その火がどこまで燃え広がるかを、惟種は知っている。

やがて、廊の向こうから足音が近づいてきた。

急ぎすぎてはいない。

だが、遠慮もない。

客として控える足でも、家臣として畏まる足でもない。

見たいものへ、まっすぐ近づいてくる足音だった。

惟種は、静かに振り返った。