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作品タイトル不明

第百四十三話 尾張のうつけ

尾張にも、その噂は届いていた。

九州に、妙な家がある。

山の神官の家と思われていた阿蘇が、五年ほどで九州を平らげた。

しかも、ただ兵を出して焼き払ったのではない。

降る者は残し、港を押さえ、商人を集め、船を作り、鉄砲と大筒を揃え、朝廷と公方様の御沙汰まで得たという。

公方様を京へ送り届けた。

三好と和を成すきっかけを作った。

府内の乱を鎮めた。

大友の名を残した。

島津を南の柱に据え、今度はその姫を正式に迎える。

さらに、その祝言には朝廷、幕府、博多、三好、諸家まで集まるらしい。

大名の使者。

僧。

商人。

間者。

祝いの顔をした目が、九州へ向かう。

その祝言は、とにかく凄まじいものになると噂されていた。

尾張の若殿、織田三郎信長は、その話を聞いた瞬間、目を輝かせた。

「行く」

そばにいた平手政秀は、深く息を吸った。

嫌な予感はしていた。

若が「行く」と言う時は、たいていもう半分行っている。

止めるなら、今しかない。

今を逃せば、明日の朝には馬に乗っているかもしれぬ。

「若」

「行くぞ」

「なりませぬ」

「なぜだ」

「なぜも何も、阿蘇の祝言は物見遊山ではございませぬ」

政秀の声は固かった。

「朝廷、幕府、三好、博多、島津まで集まる場にございます。尾張の若殿がふらりと出向き、粗相でもあれば、織田の恥になりまする」

信長は、腕を組んだ。

「粗相などせぬ」

「若は、粗相を粗相と思われぬところがございます」

「ひどいことを言う」

「事実にございます」

信長は、むっとした顔をした。

「では、使者として行けばよい」

「招かれておりませぬ」

「祝いを持っていけばよい」

「そういう話ではございませぬ」

「では、どういう話だ」

政秀は、額に手を当てた。

「若。阿蘇は九州の大勢力にございます。そこへ尾張から使者を出すなら、殿のお許しが要ります。勝手に行けるものではございませぬ」

「ならば父上に聞く」

「聞けば止められます」

「分からぬぞ」

「分かります」

「なぜだ」

「普通は止めます」

信長は、にやりと笑った。

「父上は、普通か?」

政秀は、そこで言葉に詰まった。

織田信秀は、報告を聞くとしばらく黙っていた。

その沈黙だけで、部屋の空気が重くなる。

尾張の虎。

そう呼ばれる男は、怒鳴らずとも人を黙らせた。

目を向けられただけで、腹の内を噛み裂かれるような圧がある。

政秀は、頭を下げたまま動かなかった。

だが、信長だけは違った。

その目を、正面から受けている。

「父上、阿蘇へ行きたい」

政秀は、すぐに頭を下げた。

「殿。若には、よく言って聞かせますゆえ」

信秀は、政秀を見ずに言った。

「三郎」

「はい」

「何を見に行く」

「全部」

即答だった。

政秀が顔をしかめる。

「若」

信長は構わず続けた。

「船、火器、兵、商人、飯、器、花火。朝廷と公方様が阿蘇をどう見るか。三好がどんな顔で来るか。島津がどれほど阿蘇の内に入ったか」

そこで、信長はにやりと笑った。

「それと、阿蘇が何を見せずに隠すか」

政秀は、思わず黙った。

物見遊山に行きたい童の言葉ではなかった。

信秀の目が、わずかに細くなる。

「祝言を見たいだけではないのか」

「祝言も見たい」

「正直だな」

「珍しいものが出ると聞いた。夏に氷だぞ。空に火の花だぞ。見ずに済ませる方がおかしい」

政秀が、低く言った。

「おかしくはございませぬ」

「おかしい」

「若」

信長は、政秀を見た。

「阿蘇は祝言で九州を見せるつもりだ。ならば、見ねば損だ」

信秀の口元が、わずかに動いた。

「祝言で九州を見せる、か」

「そうだ」

信長は膝を乗り出した。

「朝廷、幕府、三好、博多、堺、島津、九州諸家。皆が一つ所に集まる。そこで阿蘇は飯を食わせ、器を見せ、火を見せ、氷を出す」

一拍。

「あれは祝言の形をした市だ」

「市、でございますか」

政秀が思わず聞き返した。

信長は笑った。

「売るのは品だけではない。阿蘇という家そのものを売る」

部屋が静まった。

信秀は、息子を見た。

三郎はうつけと言われる。

実際、常識から外れている。

だが、時折、誰も見ていないものを見ている。

見たいと思うものを見に行く目がある。

面白いものを面白いと感じる鼻がある。

それは、時に家臣の常識より役に立つ。

「政秀」

「はっ」

「三郎の言うことにも、一理ある」

「殿」

政秀は顔を上げた。

信秀は、手元の文を見た。

阿蘇の噂を書き留めたものである。

「阿蘇は、ただの九州大名ではない」

その声は、先ほどより低かった。

「五年だ」

信長も、少し真面目な顔になった。

「五年で九州を変えた。しかも、ただ焼いたのではない。降る者を残し、商人を使い、港を押さえ、朝廷と公方様の札まで得た」

信秀は文を畳む。

「これは、荒武者の家ではない。国を作る家だ」

政秀は黙った。

「尾張から見れば、阿蘇は遠い。すぐに領地を争う相手ではない」

信秀は、指で文を叩いた。

「だが、遠いから無関係ではない。遠いからこそ、今なら細い糸を掛けられる。太くなってからでは遅い」

「阿蘇と、でございますか」

「そうだ」

信秀は頷いた。

「火薬、鉄砲、船、商人、博多、堺、朝廷、幕府。阿蘇に通じるものは多い。今のうちに尾張織田の名を置いておけば、後で利になる」

信長の目が、さらに光った。

「ならば」

「行かせる」

「殿!」

政秀が声を上げた。

次の瞬間、信秀の目が政秀を射た。

声は荒くない。

だが、それだけで政秀は口を閉じた。

「政秀」

「……はっ」

「三郎を遊ばせるのではない」

信秀は言った。

「尾張の目を、阿蘇へ入れる」

部屋が静まった。

「他家は皆、家老を出す。僧を出す。商人を出す。間者を紛れ込ませる。己の目を出して、阿蘇を測るだろう」

信秀は信長を見た。

「だが、普通の目では、阿蘇の異常は見えぬかもしれぬ」

政秀の顔が強張る。

「殿、それは」

「三郎なら、見てはならぬものまで見る」

信長は、嬉しそうに笑った。

「ならば、尾張の目はわしでよい」

「調子に乗るな、うつけ」

信秀の声が落ちた。

その一言で、信長の背筋が伸びる。

部屋の空気が、再び重くなった。

「ただし、遊びではない。尾張織田の使者として行け」

「はっ!」

「祝いを届ける。無礼はするな。阿蘇を測れ。見たものは一つ残らず覚えて帰れ」

信秀の声が重くなる。

「兵を見ろ。飯を見ろ。商人を見ろ。火器を見ろ。若君を見ろ」

「全部見る」

「見て終わりではない」

信秀は言った。

「何が尾張で使えるかを考えろ」

信長は、その言葉を聞いて少しだけ表情を変えた。

「尾張で」

「そうだ」

信秀の目が鋭くなる。

「阿蘇が五年で九州を変えたなら、そこには理由がある。兵の強さだけではないはずだ。蔵か。港か。商人か。火器か。人の使い方か。何でもよい」

一拍。

「盗めるものは盗んでこい」

政秀が慌てて口を挟んだ。

「盗むとは、言葉が悪うございます」

信秀は平然と言った。

「では学べ」

「それならば」

信長は笑った。

「同じではないか」

「違います」

政秀は即座に返した。

信秀は続けた。

「ただし、長居は許さん」

信長が顔を上げる。

「今川を睨まねばならぬ。尾張は空けられぬ。見たら戻れ。余計な火種を持ち帰るな」

「火種は向こうにあります」

「持ち帰るなと言った」

「はい」

政秀は、心の中で深く息を吐いた。

もう、止まらない。

ならば、せめて転ばぬように縄を張るしかない。

信長は、膝を乗り出した。

「父上、話が分かる!」

「分かっておるのではない。使い道があると思うただけだ」

「同じです!」

「違うわ、うつけ」

信秀はそう言ったが、声には少しだけ笑いがあった。

信長は、嬉しそうに頭を下げた。

「父上、大好きですぞ!」

政秀が目を剥いた。

「若!」

信秀も一瞬だけ固まった。

それから、深く息を吐く。

「気色の悪いことを申すな」

「本心です」

「余計に気色悪い」

信長は笑った。

政秀は、頭を抱えた。

「殿、本当に行かせるのでございますか」

「行かせる」

「若が阿蘇で何か仕出かせば」

「そのために、お前もつける」

政秀は固まった。

「……わたくしも、でございますか」

「当然だ」

信秀は、涼しい顔で言った。

「三郎だけで出せるわけがなかろう」

信長が不満そうに言う。

「じいがついてくるのか」

「ついていきます」

政秀の声は、重かった。

「若を一人で阿蘇へ出すなど、尾張の恥を海へ流すようなものにございます」

「ひどいな」

「事実にございます」

「またそれか」

信秀は、二人のやり取りを見ながら、少しだけ目を細めた。

阿蘇。

五年で九州を変えた異常な家。

その祝言に、三郎の目を放り込む。

吉と出るか、凶と出るか。

信秀は、少なくとも試す価値はあると見た。

その日のうちに、阿蘇へ向けた文が整えられた。

尾張織田より、阿蘇家ならびに島津家の婚儀を寿ぐ。

祝儀として、尾張の品を届けたい。

使者として、織田三郎信長を遣わす。

文面は、政秀が何度も直した。

若の名を前に出しすぎれば、物見遊山に見える。

尾張織田を前に出しすぎれば、阿蘇に媚びたように見える。

祝いが軽ければ恥となり、重すぎれば下心が透ける。

筆を置くたび、政秀の胃が重くなった。

「若殿の名を前に出しすぎてはなりませぬ」

「なぜだ」

「尾張織田が祝うのであって、若殿が遊びに行くのではございませぬ」

「遊びではない」

「そう見えぬようにするのが大事でございます」

信長は、つまらなそうに文を覗き込んだ。

「堅い」

「文とは堅いものでございます」

「もっと面白く書けばよい」

「書きませぬ」

「阿蘇の若君は面白いものを好みそうだぞ」

「それでも書きませぬ」

「氷を出す家だぞ」

「氷を出す家だからこそ、こちらは礼を外してはならぬのです」

政秀は、筆を置いた。

信秀が確認し、頷く。

「よい」

文は封じられた。

信長は、それを見て満足そうに笑った。

「阿蘇か」

その声には、隠しきれない期待があった。

「九州のうつけと、尾張のうつけが会うわけだ」

政秀が、即座に言った。

「阿蘇の若君をうつけ呼ばわりしてはなりませぬ」

「まだ言っておらぬ」

「今言いました」

「聞き間違いだ」

「聞き間違えませぬ」

信秀は、また小さく笑った。

夜。

信秀は一人、文の写しを見ていた。

阿蘇と縁を結ぶ。

それはまだ、細い糸である。

尾張は遠い。

阿蘇も遠い。

今すぐ大きな利があるわけではない。

だが、天下は動いている。

畿内では三好が力を持ち、公方は阿蘇を頼り始めている。

朝廷も阿蘇を見ている。

博多と堺の商人も阿蘇へ向かう。

島津は阿蘇の内へ入る。

海の者たちも見る。

そして、その場に三好の目が入る。

ならば、尾張織田の名も置く。

たとえ小さくとも、それは意味を持つ。

信秀は、静かに呟いた。

「三郎。何を見てくるか」

期待半分。

不安半分。

だが、止める気はもうなかった。

普通の使者では、礼は守れる。

だが、異常なものを異常と見抜けるとは限らない。

三郎ならば、見えるかもしれぬ。

阿蘇という家の芯が。

そして、それを尾張でどう使うかが。

数日後。

尾張より、阿蘇へ向けて文と祝儀の品が送られた。

その使者の名は、織田三郎信長。

平手政秀が胃を痛めながら、その後ろにつく。

他家が目を出す中で、尾張はうつけを出した。

こうして、阿蘇の祝言へ向かう客の中に、尾張のうつけが一人、加わることとなった。