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作品タイトル不明

第百四十二話 三好の目

三好長慶は、報告の文を置いた。

「早すぎる」

低い声だった。

京の空気は、まだ落ち着ききっていない。

公方は戻った。

三好との和も成った。

表向きには、乱は避けられた。

だが、和とは静けさではない。

刀を鞘に納めただけで、手はまだ柄にかかっている。

誰もがそう知っていた。

その隙を突くはずだった九州の兵乱が、すでに潰えている。

大友義武は討たれた。

伊東は崩れた。

肝付は島津に押され、日向と大隅は島津の差配へ移る。

龍造寺隆信は孤立し、城に火を放って死んだ。

秋月は、真っ先に降った。

長慶は、しばらく目を伏せていた。

「九州の乱は、阿蘇が京にある間を狙ったはずだ」

松永久秀は、頭を下げたまま答える。

「その通りにございます」

「だが、燃え広がらなんだ」

「阿蘇の政が、思うたより深く食い込んでおりました」

長慶は、わずかに目を開けた。

「政か」

「はい。兵だけではございませぬ」

久秀は、淡々と続けた。

「府内では、民が義武に動きませなんだ。旧大友の重臣も動かず、むしろ止めに回りました。伊東は府内を落とせず、秋月は旗色を見てすぐに降りました」

「なぜだ」

「理がなかったからにございます」

久秀の言葉に、長慶は黙った。

「大友義武は、大友の名を掲げました。されど隼人を幽閉した。これで大友再興の理を失いました。阿蘇は隼人を残し、大友の名も残すと示した。ならば旧臣は義武へ流れませぬ」

「阿蘇は、勝ってなお残したか」

「はい」

「残したものを、敵が利用しようとした」

「されど、利用しきれませなんだ」

久秀は顔を上げない。

「阿蘇の若君は、残すものと斬るものを分けております。大友は残す。隼人は残す。忠ある旧臣も残す。だが、名を食う者は斬る」

長慶は、静かに息を吐いた。

「童の裁きではないな」

「童でございます」

久秀はそう言ってから、少しだけ間を置いた。

「されど、童だけではございませぬ」

長慶は、ゆっくりと顔を上げた。

「申せ」

「阿蘇惟種一人を見ては、見誤ります」

久秀は言った。

「阿蘇には惟豊がいる。甲斐宗運がいる。水軍を見られる親英がいる。旧大友の戸次、吉弘、吉岡、臼杵を使える。鍋島の種茂も若君の側にいる。さらに島津を南の柱として取り込もうとしております」

「婚儀か」

「はい」

「島津の姫を迎えると聞く」

「日向、大隅の差配と結び、島津を外から内へ入れるつもりにございます」

長慶の目が細くなった。

「なるほど」

ただの縁談ではない。

北と中を阿蘇が押さえ、南を島津に任せる。

その間を、婚儀で結ぶ。

九州の形を、家と家の縁で固めるわけだ。

「その祝言に、朝廷も幕府も来ると」

「来ます」

「三好も招かれておる」

「はい」

「招いて、見せるつもりだな」

久秀は、わずかに頭を下げた。

「おそらく」

長慶は笑わなかった。

婚儀。

祝い。

縁。

だが、その実は見せつけである。

阿蘇は言うのだ。

朝廷がある。

公方がある。

博多の商人がある。

島津がある。

旧大友も、龍造寺も、従う者は残す。

そして、逆らう者は斬る。

九州は阿蘇の手で静まりつつある、と。

「阿蘇は、何を欲しておる」

長慶が問うた。

久秀は少し考えた。

「京ではございませぬ」

「それは分かっておる」

「官位でも、所領でも、幕府の役でもございませぬ」

「では、何だ」

「国の中身にございます」

長慶は、久秀を見た。

久秀は続ける。

「米。港。船。火器。商人。職人。帳面。医。道。灯。民」

「民か」

「はい」

「武家が民を欲するか」

「阿蘇は、民を米と銭を生むものとしてだけ見ておりませぬ」

久秀は、少し言葉を選んだ。

「民が逃げれば、国が痩せる。国が痩せれば、兵も船も火器も動かぬ。そう見ております」

長慶は黙った。

「だから、乱妨を抑える。港を直す。蔵を数える。商人を戻す。道に灯を置く。病を帳に取る。戦の後に、人が戻る形を先に作る」

「それを九州でやっておると」

「少なくとも府内では、その片鱗を見せました」

「それで民が動かなんだか」

「はい」

長慶は、深く息を吐いた。

戦で勝つ家はある。

銭を持つ家もある。

朝廷や幕府に近づく家もある。

だが、勝った後の地をすぐに立て直し、民を逃がさぬ家は厄介だ。

奪われた国は、また奪い返せる。

しかし、暮らしを握られた国は、戻りにくい。

「公方様は、阿蘇を頼るな」

「頼られましょう」

「朝廷も」

「銭と疱瘡の件で、頼るでしょう」

「疱瘡」

「阿蘇の若君は、病を帳に取り、医を育てると申したそうにございます」

「病までか」

「はい」

長慶は、そこで初めてわずかに笑った。

だが、楽しげではない。

「手を伸ばしすぎではないか」

「普通ならば」

「阿蘇なら違うと?」

「分かりませぬ」

久秀は正直に答えた。

「だから、見ねばなりませぬ」

長慶は、しばらく沈黙した。

京を抑える。

畿内を抑える。

公方を抱える。

朝廷を軽んじず、しかし操られることも避ける。

三好が積み上げてきたものは、簡単ではない。

だが、そこへ九州から奇妙な家が現れた。

阿蘇。

山の家であったはずだ。

それが海を持ち、府内を持ち、博多に手を伸ばし、島津を内へ入れようとしている。

さらに公方を守り、朝廷から御沙汰を受けた。

このまま放置すれば、義藤は何かあるごとに阿蘇を頼る。

畿内の政に、九州の武力と財が影を落とす。

それは、三好にとって邪魔だった。

だが、今すぐ敵に回すには危険すぎる。

「久秀」

「はっ」

「祝言へ行け」

「承知しております」

「祝いの顔で行け」

「はい」

「だが、見るものはすべて見よ」

長慶の声が低くなる。

「兵の数だけを見るな。蔵、船、商人、料理、器、帳面。女房衆の動きも、雑人の動きも、兵の目も見よ」

「はっ」

「阿蘇惟種だけを見るな」

久秀が、わずかに顔を上げる。

「阿蘇という仕組みを見よ」

長慶は続けた。

「惟種を討てば済む家か。宗運を折れば止まる家か。惟豊が死ねば割れる家か。島津を疑わせれば崩れる家か。博多を揺らせば痩せる家か。朝廷や幕府に銭を求めさせれば疲れる家か」

久秀は、静かに頭を下げた。

「すべて、見てまいります」

「火薬の流れも見よ」

「はい」

「硝石、鉛、鉄、船材、紙、薬。阿蘇が何を集め、何で太っているかを探れ」

「承知」

「場合によっては、消せるかも見よ」

部屋の空気が冷えた。

長慶は、すぐに言葉を足した。

「今は手を出すな」

「分かっております」

「祝言の場で刃を抜けば、三好が天下の敵になる」

「そのような愚は致しませぬ」

「ならばよい」

長慶は、久秀を見た。

「消すとは、童の首を取ることだけではない」

「はい」

久秀の目に、薄い光が宿った。

「仕組みを折れるか、ということにございますな」

「そうだ」

長慶は頷いた。

「阿蘇が畿内に出てこぬならよい。だが、公方様が呼ぶ。朝廷が呼ぶ。困れば誰もが呼ぶ。そうなれば、阿蘇は来る」

「そして、来れば場を変える」

「淡路で分かった」

長慶の声には苦みがあった。

淡路水軍は、阿蘇を止められなかった。

むしろ、公方御座船に矢を向けた形となり、三好は詫びる側へ回った。

あの時点で、講和は早まった。

阿蘇がいなければ、違う形になっていたかもしれない。

長慶は、それを認めている。

だからこそ、恐ろしい。

久秀は、静かに言った。

「阿蘇を敵に回されますか」

「まだ決めぬ」

長慶の返答は早かった。

「敵に回れば、最大の敵となる。味方に引けるなら、それに越したことはない」

「されど、阿蘇は京に欲を見せませぬ」

「そこが厄介だ」

長慶は言った。

「欲が見える者は扱える。官位が欲しい者には官位を、銭が欲しい者には銭を、京の口入れが欲しい者には口を与えればよい」

「阿蘇は」

「九州を太らせようとしておる」

「はい」

「それを邪魔すれば敵になる。邪魔せねば大きくなる」

久秀は黙った。

「だから見よ」

長慶の声は、静かだった。

「どこまで大きくなる家か。どこで詰まる家か。どこを押せば揺れる家か」

「はっ」

「惟種という童が本当に中心なのか。それとも、童を旗にして阿蘇という家が動いているのか。それを見極めよ」

「承知しました」

話が終わった後も、久秀はしばらく座を動かなかった。

長慶も、文の上に視線を落としている。

その文には、阿蘇と島津の婚儀について記されていた。

来賓。

席次。

朝廷。

幕府。

博多。

島津。

九州諸家。

そして、三好への招き。

久秀は、静かに言った。

「祝言とは、便利なものにございますな」

「何がだ」

「皆、祝いの顔で敵を測れます」

長慶は、少しだけ口元を動かした。

「その通りだ」

「阿蘇も、こちらを測るでしょう」

「測らせておけ」

「よろしいので」

「こちらも見せるものを選べばよい」

久秀は、そこで薄く笑った。

「阿蘇の若君と同じことを申されますな」

長慶は、久秀を見た。

「似ておるか」

「少しだけ」

「それは不快だな」

「恐れながら」

久秀は頭を下げた。

「似ている相手ほど、厄介にございます」

長慶は否定しなかった。

久秀は退出した。

廊へ出ると、京の風が少し湿っていた。

阿蘇の祝言。

天下一の式になると噂されている。

玻璃の器。

氷菓子。

甘味。

料理。

花火。

朝廷と幕府の来臨。

博多商人の列。

島津の面目。

噂だけなら、どれも大げさに聞こえる。

だが、阿蘇ならやるかもしれない。

淡路で見た大船。

府内を鎮めた政。

隼人を残し、義武だけを斬った裁き。

朝廷と幕府の旗を掲げた帰還。

あの童なら、祝言すら戦に変える。

久秀は、心の中で呟いた。

見てやろう。

阿蘇惟種。

お前が何を見せ、何を隠すのか。

そして、どこを折ればよいのか。

同じころ。

畿内とは別の場所でも、阿蘇の祝言の噂は流れていた。

博多から堺へ。

堺から京へ。

京から諸国へ。

商人の口、僧の袖、旅芸人の歌、荷駄の噂。

九州に、奇妙な家がある。

硝煙を海に吐く大船を持つ家。

公方を守った家。

朝廷から御沙汰を受けた家。

氷を夏に出し、空へ火を咲かせる家。

島津の姫を迎え、九州を二つの柱で支えようとする家。

その噂は、尾張にも届いた。

うつけと呼ばれた若き当主の耳にも。

そして尾張にて、ひとつの動きがあった。