作品タイトル不明
第百四十一話 婚儀の設計
天文十九年、八月を前にして。
阿蘇の館に、島津貴久と日新斎が入った。
戦ではない。
婚儀のためである。
だが、座に並ぶ者たちの顔に、祝いの緩みはなかった。
この日、決めるのは姫の祝言だけではない。
九州を、天下にどう見せるか。
阿蘇惟豊。
惟種。
甲斐宗運。
島津貴久。
日新斎。
その五人が、祝いの名を借りた戦支度を始めようとしていた。
◇
惟豊が、最初に口を開いた。
「祝言は、阿蘇で行う」
貴久が静かに頭を下げる。
「承知しております」
「されど、ただの祝言では済まぬ」
その一言で、座の空気が締まった。
日新斎が、穏やかな声で言う。
「九州の形を、天下へ見せる儀にございましょうな」
惟豊は頷いた。
「その通りだ」
伊東は裁かれた。
肝付も裁かれた。
日向と大隅は、約定の通り島津に差配を任せる形となった。
阿蘇は北と中を押さえ、島津は南を支える。
加世を阿蘇へ正式に迎えることは、ただ姫を嫁がせる話ではない。
島津を、阿蘇の外側から内側へ入れる話である。
宗運が、板の上に広げられた九州の見取り図へ目を落とした。
「この祝言で見せるべきものは、三つにございます」
宗運は、地図を指した。
「一つ。阿蘇と島津が、確かに結んだこと」
次に、日向と大隅を指す。
「二つ。南の差配を島津に任せても、阿蘇の威は揺らがぬこと」
最後に、九州全体をなぞった。
「三つ。九州の富と兵と商いを、阿蘇が回せること」
惟種は頷いた。
「つまり、祝言で天下を殴る」
「言い方は最悪ですが、おおむねその通りにございます」
日新斎が、小さく笑った。
「婚儀とは、まこと戦より難しゅうございますな」
惟種が顔を上げる。
「戦より難しいですか」
「戦は、敵を見ればよい」
日新斎は言った。
「婚儀は、味方にも敵にも、まだ敵でない者にも、これから敵になるかもしれぬ者にも、見せねばならぬ」
惟種は黙って聞いた。
「この祝言で、天下の者は見ましょう。阿蘇と島津は本当に結んだのか。ただの縁談か。南は本当に島津へ任されたのか。阿蘇はそれを支えられるのか。島津は阿蘇に呑まれたのか、それとも並び立つのか」
貴久が静かに言った。
「そこを違えれば、島津の面目も立ちませぬ」
「無論です」
惟豊が答えた。
「阿蘇は島津を下男にするつもりはない。南の柱として扱う」
その言葉に、貴久は深く頭を下げた。
「ありがたく」
惟種も頷いた。
「加世には、以前から話しています。北と南で分けて支えると。ならば、島津の面目を潰す形にはしません」
「若君のお言葉、心強く」
貴久はそう言ったが、その目は惟種を測っていた。
数えで十一の童である。
だが、この童は朝廷の御沙汰を持ち帰り、公方の御旗を掲げ、反乱を鎮め、日向と大隅を島津へ差配させる筋まで作った。
そして今、婚儀をただの祝いではなく、九州の形を天下へ示す儀にしようとしている。
味方でよかった。
貴久は、心の底でそう思った。
◇
宗運が、別の板を広げた。
そこには、人名と席順が細かく記されている。
「来賓についてです」
惟種が、少し嫌そうな顔をした。
「多いな」
「多うございます」
宗運の声は平らだった。
「朝廷より祝儀の使者。幕府より公方様。三好方の使者。博多の商人衆。堺筋の者。九州諸家。寺社。旧大友。龍造寺。島津。阿蘇家中」
惟種は、そこで顔を上げた。
「公方様は、本当に来られるのか」
「来られるでしょう」
宗運は即答した。
「むしろ、公方様が来られる意味は大きうございます」
「祝うためだけではない、ということか」
「はい」
宗運は頷いた。
「公方様は、阿蘇と島津の祝言を祝うためだけに来られるのではございませぬ。九州静謐の任を受けた阿蘇と、その南の柱となる島津。その結びを、幕府として認めるために来られるのです」
座が静まった。
日新斎が、ゆっくり頷く。
「なるほど。公方様は、祝客であると同時に、保証人にございますな」
「その通りです」
宗運は答えた。
「されど、そこが難しい」
惟豊が言う。
「公方様を粗末にはできぬ」
「はい」
「だが、公方様を場の主にしてはならぬ」
「その通りにございます」
宗運は板の一角を指した。
「公方様は最上の客として迎えます。されど、祝言の主ではございませぬ。これは幕府の儀ではなく、阿蘇と島津の儀にございます」
惟種は、少しだけ安堵した。
義藤は人として嫌いではない。
むしろ、公方として苦労を背負っている者だと見ている。
だが、義藤は来ると必ず何かを言う。
上洛せよ。
京へ来い。
幕府を助けよ。
九州から銭を出せ。
ついでに、世継ぎも早く。
悪気がないから、なお厄介だった。
惟豊は、そんな惟種の顔を見て、少しだけ息を吐いた。
「公方様の来臨は、阿蘇にとって重い」
「分かっております」
「嫌そうな顔をするな」
「しておりませぬ」
「しておる」
日新斎が、袖で口元を隠した。
貴久も、わずかに目を伏せた。
宗運は、何事もなかったように話を続ける。
「三好方も、来るでしょう。松永久秀殿か、それに近い者が」
「なぜだ」
「見たいからにございます」
宗運は淡々と言った。
「阿蘇と島津が結ぶ場。朝廷と幕府が揃う場。博多と堺の商人が集まる場。阿蘇がどれほどの財と兵と技を持つかを見られる場。三好が見逃すはずがございませぬ」
惟種は、少し考えた。
「ならば盛大に行う」
座が静まった。
惟種は続ける。
「隠しても、いずれ分かる。ならば、こちらが見せたいものを盛大に見せる」
日新斎の目が細くなる。
「何を見せられますかな」
「阿蘇は戦だけの家ではない、ということを」
惟種は言った。
「銭がある。米がある。船がある。商人を動かせる。職人を動かせる。民を食わせる。客を迎える。乱れず回す」
一拍。
「敵に回せば面倒だ。味方にすれば得だ。そう確信させる」
貴久は、その言葉を静かに聞いた。
婚儀である。
だが、やはり戦でもあった。
刀や槍ではなく、食と器と席順と灯と音で行う戦である。
◇
「器はどうする」
惟豊が問うた。
惟種は、すぐに答えた。
「玻璃を出します」
貴久が顔を上げた。
「玻璃、でございますか」
「はい。阿蘇で作らせております。すべての席にとは参りませぬが、主だった客には出せます」
宗運が補足する。
「まだ本格的な大量生産とまでは申し上げられませぬ。ですが、透明に近い器を揃えられるほどにはなりました」
日新斎が、思わず身を乗り出した。
「阿蘇は、それほどの規模で……」
「出せるものは出します」
惟種は言った。
惟豊が頷く。
「漆器は」
「最上を」
「甘味は」
「砂糖を使います。神屋を通じて集めます」
その言葉に、貴久の眉が動いた。
砂糖は高い。
祝いの席で少し使うだけでも目を引く。
それを来賓へ惜しみなく出すなら、財の力を見せることになる。
宗運は深くため息をついた。
「若君は色々と注文なされるが、裏方を殺すおつもりで」
「殺すな。生かして働かせろ」
「なお悪うございます」
惟豊が、咳払いをした。
話を戻す。
「氷菓子も出すのか」
「出します」
貴久が、今度こそ驚いた顔をした。
「八月に、氷を」
「はい」
惟種は、当然のように頷いた。
「阿蘇の内に、冷やす仕掛けを用意しております。甘くした果汁や乳を冷やして出します」
日新斎の目が細くなった。
「その仕掛けを、我らに明かしてはいただけませぬか」
惟種は、少しだけ笑った。
「婚儀の席で、種明かしまで出すつもりはございませぬ」
座に、わずかな沈黙が落ちた。
日新斎は、それ以上は問わなかった。
問えば、島津が欲しがっていると見える。
問わねば、阿蘇の奥にあるものは見えぬ。
八月の氷。
それを出せる家。
しかも、その理を明かさぬ家。
宗運だけは、何も言わなかった。
冷やす仕掛け。
その正体を、この座で知る者は惟種と宗運だけである。
だからこそ、宗運は筆を止めず、顔色も変えなかった。
ここで少しでも動けば、島津と日新斎に余計な匂いを嗅がせる。
日新斎は、低く息を吐いた。
「これは、婚儀ではなく阿蘇の神秘を見せる場にございますな」
惟種は首を振った。
「神秘ではありません。手間と知恵です」
「その手間と知恵を隠しておけることが、神秘に見えるのです」
日新斎の声には、少しだけ畏れが混じっていた。
氷。
玻璃。
甘味。
漆器。
鳥料理。
灯。
整った給仕。
それら一つ一つは、奇跡ではないかもしれない。
だが、それを数多く揃え、来賓へ出し、乱さず回す。
そして中には、どう作ったのか分からぬものもある。
そこが、たまらなく恐ろしい。
◇
「鳥料理は必ず出す」
惟種は言った。
宗運が、やや諦めた顔で頷いた。
「加世姫様のためにございますな」
「そうだ」
貴久が、少し笑った。
「加世が申しておりました。阿蘇の鳥はうまいと」
「祝言で出さぬわけにはいきません」
「ありがたいことです」
貴久の声は、今までより柔らかかった。
島津のため。
阿蘇のため。
九州のため。
重い言葉ばかりが並ぶ座で、その一言だけが、祝言らしい温度を持っていた。
惟豊も、少しだけ表情を緩めた。
「ならば、鳥は惜しむな」
「はい」
宗運が筆を走らせながら言う。
「養鶏場より選び、焼き物、煮物、揚げ物、汁物に分けます。香辛料は限られますが、南蛮筋のものを少し使えば、来客は驚くでしょう」
惟種は当然のように言った。
「珍しいだけでは駄目だ。うまくなければ意味がない」
日新斎が、今度は声を出して笑った。
「若君は、そこを本気で申される」
「食は大事です」
「まことに」
日新斎は頷いた。
「飯のうまい家には、人が寄ります」
惟種は、少しだけ笑った。
「その通りです」
◇
次は、警備であった。
ここで、場の空気が一気に変わる。
宗運が、別の板を出した。
そこには、阿蘇の館周辺、宿所、道、厩、炊事場、井戸、蔵、客人の控え所まで細かく描かれていた。
「間者は必ず入ります」
宗運は断言した。
「三好、大内、博多、堺、九州諸家。味方も敵も、皆見に来ます。正式な使者だけではございませぬ。商人、僧、料理人、荷運び、馬丁、芸能の者、雑仕女。どこからでも入ります」
貴久が頷く。
「島津も警固を出します」
「ありがたく。ですが、阿蘇の場に島津兵が多すぎれば、外からは阿蘇が島津に乗られたように見えます」
「なるほど」
「島津兵には、加世姫様周辺と島津使節の守りをお願いしたい。外周と客人の動線は阿蘇が見ます」
日新斎が感心したように言った。
「見せ方まで警固に入るか」
「当然にございます」
宗運は答えた。
「これは婚儀であり、政治であり、間者の市でもあります」
惟種がぼそりと言った。
「嫌な市だな」
「若君が大きくしすぎた市にございます」
「わしだけのせいではない」
「半分ほどは」
「またそれか」
惟豊が、少しだけ口元を動かした。
宗運は続ける。
「毒見も増やします。水も井戸ごとに見張りを置く。料理人は三日前から囲います。火薬庫には近づけませぬ。花火の準備は別に隔離します」
貴久が顔を上げた。
「花火」
日新斎も反応した。
「火を、空へ上げると聞きましたが」
惟種は頷いた。
「夜空に火を上げます」
「大筒を使われるのですか」
「大筒そのものではありません。火薬筒を使います。夜空に火を上げ、散らす。色も少しつけます」
惟種は、そこで一度言葉を切った。
「ただし、民や国人衆はおびえるかもしれませぬ。ゆえに事前に告げます。これは阿蘇の祝いの火である。安心して見よ、と」
貴久は黙った。
日新斎は、じっと惟種を見た。
「戦の火を、祝いの火に変えると」
「そう見えれば、成功です」
惟種は言った。
「阿蘇の火は、焼くだけではない。祝うこともできる。そう見せたい」
日新斎は、深く息を吐いた。
「若君」
「何でしょう」
「まこと、恐ろしいことを考えられる」
「火を上げるだけです」
「火を上げるだけで、人の心は動きます」
日新斎の言葉は静かだった。
「戦場で大筒を見た者は震えましょう。婚儀で空の火を見た者は、同じ火に魅せられましょう」
惟種は、少し黙った。
日新斎は続ける。
「恐れと憧れは、どちらも人を縛ります」
その言葉に、宗運がわずかに目を伏せた。
惟種は、ゆっくり頷いた。
「ならば、うまく使います」
◇
席順の話に入ると、宗運の顔はさらに険しくなった。
朝廷の使者。
公方。
三好。
島津。
阿蘇。
旧大友。
龍造寺。
博多商人。
堺商人。
寺社。
誰を上に置くか。
誰をどこへ近づけるか。
誰と誰を離すか。
誰に何を見せるか。
ただの並びではない。
人の面子と腹が、そこに乗る。
「公方様をどこへ」
貴久が問うた。
宗運は、ためらわず答える。
「最上の客として扱います。ただし、祝言の主ではございませぬ」
惟種は少し安心した。
「公方様を主にすれば、婚儀が幕府の儀になります」
「それは避けねばならぬ」
惟豊が言った。
「これは阿蘇と島津の祝言だ。公方様を粗末にはせぬが、主にしてはならぬ」
「朝廷の使者も同じにございます」
宗運が続ける。
「格は重い。ですが、場を支配させてはなりませぬ」
「三好は」
日新斎が問う。
「見える位置に置きます」
宗運は言った。
「阿蘇と島津の結び、料理、器、兵の動き、来賓の反応。見たいものを、ある程度見せる」
「見せすぎは」
「致しませぬ」
「博多、堺の商人は」
「彼らは匂いを嗅ぎに来ます。儲けの匂いです。玻璃、甘味、氷、鶏、漆器、灯、花火。どれも商いにつながります」
惟種が言う。
「見せろ。ただし、値は阿蘇が決める」
宗運は頷いた。
「そのように」
◇
話が一巡したころ、誰もが少し疲れていた。
婚儀の話をしていたはずなのに、実際には九州と天下の配置を決めている。
惟豊が、最後に言った。
「よいか」
全員が顔を上げた。
「この祝言は、加世姫を迎える儀だ。それを忘れるな」
座が静まる。
「政のためにやる。阿蘇と島津を結ぶためにやる。天下へ見せるためにやる。それはよい」
惟豊の声は低い。
「だが、加世姫が飾りになってはならぬ」
貴久は、深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉」
惟種も、静かに頷いた。
「分かっております」
「ならばよい」
惟豊は、少しだけ息を吐いた。
「天下一の式にするなら、そうせよ。だが、姫の笑う顔を忘れるな」
惟種は、その言葉を胸に刻んだ。
加世が望んだ鳥料理。
加世が喜んだ色蝋筆。
加世が少し緊張しながらも、阿蘇へ入ると言った顔。
天下に見せる儀である。
だが、加世にとっては、自分の祝言でもある。
惟種は、深く頭を下げた。
「必ず」
◇
座が解けた後、宗運はしばらく板と帳面を見ていた。
惟種が声をかける。
「宗運」
「はい」
「死にそうな顔をしているぞ」
「死にそうなのです」
「死ぬな」
「では、仕事を減らしてください」
「それは難しい」
「ならば、せめて裏方を増やしてください」
「増やせ」
「増やすための手配も、わたくしの仕事にございます」
惟種は、少しだけ気まずそうに目を逸らした。
宗運は深くため息をついた。
「若君」
「何だ」
「天下一の式とは、裏方を殺す儀でもございますか」
「殺すな。生かせ」
「生かして働かせる方が、なお酷うございます」
惟種は少し笑った。
だが、宗運の目は笑っていなかった。
「間者対策、毒見、席次、宿、食材、氷室、玻璃の運搬、花火の火薬、朝廷、幕府、三好、博多、堺、島津、九州諸家。どれか一つでも違えれば、祝言は傷になります」
「分かっている」
「本当に?」
「分かっている」
惟種は真面目な顔で言った。
「だから、頼む」
宗運は、少しだけ黙った。
それから、仕方なさそうに頭を下げた。
「承りました」
「悪いな」
「いえ」
宗運は板を閉じた。
「これも、天下への道にございますので」
惟種は、ほんの少しだけ笑った。
「鳥料理もか」
「鳥料理もにございます」
阿蘇の夜は、静かに更けていく。
だが、その静けさの裏で。
天下一の婚儀を支えるための、地獄の支度が始まっていた。