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作品タイトル不明

第百四十一話 婚儀の設計

天文十九年、八月を前にして。

阿蘇の館に、島津貴久と日新斎が入った。

戦ではない。

婚儀のためである。

だが、座に並ぶ者たちの顔に、祝いの緩みはなかった。

この日、決めるのは姫の祝言だけではない。

九州を、天下にどう見せるか。

阿蘇惟豊。

惟種。

甲斐宗運。

島津貴久。

日新斎。

その五人が、祝いの名を借りた戦支度を始めようとしていた。

惟豊が、最初に口を開いた。

「祝言は、阿蘇で行う」

貴久が静かに頭を下げる。

「承知しております」

「されど、ただの祝言では済まぬ」

その一言で、座の空気が締まった。

日新斎が、穏やかな声で言う。

「九州の形を、天下へ見せる儀にございましょうな」

惟豊は頷いた。

「その通りだ」

伊東は裁かれた。

肝付も裁かれた。

日向と大隅は、約定の通り島津に差配を任せる形となった。

阿蘇は北と中を押さえ、島津は南を支える。

加世を阿蘇へ正式に迎えることは、ただ姫を嫁がせる話ではない。

島津を、阿蘇の外側から内側へ入れる話である。

宗運が、板の上に広げられた九州の見取り図へ目を落とした。

「この祝言で見せるべきものは、三つにございます」

宗運は、地図を指した。

「一つ。阿蘇と島津が、確かに結んだこと」

次に、日向と大隅を指す。

「二つ。南の差配を島津に任せても、阿蘇の威は揺らがぬこと」

最後に、九州全体をなぞった。

「三つ。九州の富と兵と商いを、阿蘇が回せること」

惟種は頷いた。

「つまり、祝言で天下を殴る」

「言い方は最悪ですが、おおむねその通りにございます」

日新斎が、小さく笑った。

「婚儀とは、まこと戦より難しゅうございますな」

惟種が顔を上げる。

「戦より難しいですか」

「戦は、敵を見ればよい」

日新斎は言った。

「婚儀は、味方にも敵にも、まだ敵でない者にも、これから敵になるかもしれぬ者にも、見せねばならぬ」

惟種は黙って聞いた。

「この祝言で、天下の者は見ましょう。阿蘇と島津は本当に結んだのか。ただの縁談か。南は本当に島津へ任されたのか。阿蘇はそれを支えられるのか。島津は阿蘇に呑まれたのか、それとも並び立つのか」

貴久が静かに言った。

「そこを違えれば、島津の面目も立ちませぬ」

「無論です」

惟豊が答えた。

「阿蘇は島津を下男にするつもりはない。南の柱として扱う」

その言葉に、貴久は深く頭を下げた。

「ありがたく」

惟種も頷いた。

「加世には、以前から話しています。北と南で分けて支えると。ならば、島津の面目を潰す形にはしません」

「若君のお言葉、心強く」

貴久はそう言ったが、その目は惟種を測っていた。

数えで十一の童である。

だが、この童は朝廷の御沙汰を持ち帰り、公方の御旗を掲げ、反乱を鎮め、日向と大隅を島津へ差配させる筋まで作った。

そして今、婚儀をただの祝いではなく、九州の形を天下へ示す儀にしようとしている。

味方でよかった。

貴久は、心の底でそう思った。

宗運が、別の板を広げた。

そこには、人名と席順が細かく記されている。

「来賓についてです」

惟種が、少し嫌そうな顔をした。

「多いな」

「多うございます」

宗運の声は平らだった。

「朝廷より祝儀の使者。幕府より公方様。三好方の使者。博多の商人衆。堺筋の者。九州諸家。寺社。旧大友。龍造寺。島津。阿蘇家中」

惟種は、そこで顔を上げた。

「公方様は、本当に来られるのか」

「来られるでしょう」

宗運は即答した。

「むしろ、公方様が来られる意味は大きうございます」

「祝うためだけではない、ということか」

「はい」

宗運は頷いた。

「公方様は、阿蘇と島津の祝言を祝うためだけに来られるのではございませぬ。九州静謐の任を受けた阿蘇と、その南の柱となる島津。その結びを、幕府として認めるために来られるのです」

座が静まった。

日新斎が、ゆっくり頷く。

「なるほど。公方様は、祝客であると同時に、保証人にございますな」

「その通りです」

宗運は答えた。

「されど、そこが難しい」

惟豊が言う。

「公方様を粗末にはできぬ」

「はい」

「だが、公方様を場の主にしてはならぬ」

「その通りにございます」

宗運は板の一角を指した。

「公方様は最上の客として迎えます。されど、祝言の主ではございませぬ。これは幕府の儀ではなく、阿蘇と島津の儀にございます」

惟種は、少しだけ安堵した。

義藤は人として嫌いではない。

むしろ、公方として苦労を背負っている者だと見ている。

だが、義藤は来ると必ず何かを言う。

上洛せよ。

京へ来い。

幕府を助けよ。

九州から銭を出せ。

ついでに、世継ぎも早く。

悪気がないから、なお厄介だった。

惟豊は、そんな惟種の顔を見て、少しだけ息を吐いた。

「公方様の来臨は、阿蘇にとって重い」

「分かっております」

「嫌そうな顔をするな」

「しておりませぬ」

「しておる」

日新斎が、袖で口元を隠した。

貴久も、わずかに目を伏せた。

宗運は、何事もなかったように話を続ける。

「三好方も、来るでしょう。松永久秀殿か、それに近い者が」

「なぜだ」

「見たいからにございます」

宗運は淡々と言った。

「阿蘇と島津が結ぶ場。朝廷と幕府が揃う場。博多と堺の商人が集まる場。阿蘇がどれほどの財と兵と技を持つかを見られる場。三好が見逃すはずがございませぬ」

惟種は、少し考えた。

「ならば盛大に行う」

座が静まった。

惟種は続ける。

「隠しても、いずれ分かる。ならば、こちらが見せたいものを盛大に見せる」

日新斎の目が細くなる。

「何を見せられますかな」

「阿蘇は戦だけの家ではない、ということを」

惟種は言った。

「銭がある。米がある。船がある。商人を動かせる。職人を動かせる。民を食わせる。客を迎える。乱れず回す」

一拍。

「敵に回せば面倒だ。味方にすれば得だ。そう確信させる」

貴久は、その言葉を静かに聞いた。

婚儀である。

だが、やはり戦でもあった。

刀や槍ではなく、食と器と席順と灯と音で行う戦である。

「器はどうする」

惟豊が問うた。

惟種は、すぐに答えた。

「玻璃を出します」

貴久が顔を上げた。

「玻璃、でございますか」

「はい。阿蘇で作らせております。すべての席にとは参りませぬが、主だった客には出せます」

宗運が補足する。

「まだ本格的な大量生産とまでは申し上げられませぬ。ですが、透明に近い器を揃えられるほどにはなりました」

日新斎が、思わず身を乗り出した。

「阿蘇は、それほどの規模で……」

「出せるものは出します」

惟種は言った。

惟豊が頷く。

「漆器は」

「最上を」

「甘味は」

「砂糖を使います。神屋を通じて集めます」

その言葉に、貴久の眉が動いた。

砂糖は高い。

祝いの席で少し使うだけでも目を引く。

それを来賓へ惜しみなく出すなら、財の力を見せることになる。

宗運は深くため息をついた。

「若君は色々と注文なされるが、裏方を殺すおつもりで」

「殺すな。生かして働かせろ」

「なお悪うございます」

惟豊が、咳払いをした。

話を戻す。

「氷菓子も出すのか」

「出します」

貴久が、今度こそ驚いた顔をした。

「八月に、氷を」

「はい」

惟種は、当然のように頷いた。

「阿蘇の内に、冷やす仕掛けを用意しております。甘くした果汁や乳を冷やして出します」

日新斎の目が細くなった。

「その仕掛けを、我らに明かしてはいただけませぬか」

惟種は、少しだけ笑った。

「婚儀の席で、種明かしまで出すつもりはございませぬ」

座に、わずかな沈黙が落ちた。

日新斎は、それ以上は問わなかった。

問えば、島津が欲しがっていると見える。

問わねば、阿蘇の奥にあるものは見えぬ。

八月の氷。

それを出せる家。

しかも、その理を明かさぬ家。

宗運だけは、何も言わなかった。

冷やす仕掛け。

その正体を、この座で知る者は惟種と宗運だけである。

だからこそ、宗運は筆を止めず、顔色も変えなかった。

ここで少しでも動けば、島津と日新斎に余計な匂いを嗅がせる。

日新斎は、低く息を吐いた。

「これは、婚儀ではなく阿蘇の神秘を見せる場にございますな」

惟種は首を振った。

「神秘ではありません。手間と知恵です」

「その手間と知恵を隠しておけることが、神秘に見えるのです」

日新斎の声には、少しだけ畏れが混じっていた。

氷。

玻璃。

甘味。

漆器。

鳥料理。

灯。

整った給仕。

それら一つ一つは、奇跡ではないかもしれない。

だが、それを数多く揃え、来賓へ出し、乱さず回す。

そして中には、どう作ったのか分からぬものもある。

そこが、たまらなく恐ろしい。

「鳥料理は必ず出す」

惟種は言った。

宗運が、やや諦めた顔で頷いた。

「加世姫様のためにございますな」

「そうだ」

貴久が、少し笑った。

「加世が申しておりました。阿蘇の鳥はうまいと」

「祝言で出さぬわけにはいきません」

「ありがたいことです」

貴久の声は、今までより柔らかかった。

島津のため。

阿蘇のため。

九州のため。

重い言葉ばかりが並ぶ座で、その一言だけが、祝言らしい温度を持っていた。

惟豊も、少しだけ表情を緩めた。

「ならば、鳥は惜しむな」

「はい」

宗運が筆を走らせながら言う。

「養鶏場より選び、焼き物、煮物、揚げ物、汁物に分けます。香辛料は限られますが、南蛮筋のものを少し使えば、来客は驚くでしょう」

惟種は当然のように言った。

「珍しいだけでは駄目だ。うまくなければ意味がない」

日新斎が、今度は声を出して笑った。

「若君は、そこを本気で申される」

「食は大事です」

「まことに」

日新斎は頷いた。

「飯のうまい家には、人が寄ります」

惟種は、少しだけ笑った。

「その通りです」

次は、警備であった。

ここで、場の空気が一気に変わる。

宗運が、別の板を出した。

そこには、阿蘇の館周辺、宿所、道、厩、炊事場、井戸、蔵、客人の控え所まで細かく描かれていた。

「間者は必ず入ります」

宗運は断言した。

「三好、大内、博多、堺、九州諸家。味方も敵も、皆見に来ます。正式な使者だけではございませぬ。商人、僧、料理人、荷運び、馬丁、芸能の者、雑仕女。どこからでも入ります」

貴久が頷く。

「島津も警固を出します」

「ありがたく。ですが、阿蘇の場に島津兵が多すぎれば、外からは阿蘇が島津に乗られたように見えます」

「なるほど」

「島津兵には、加世姫様周辺と島津使節の守りをお願いしたい。外周と客人の動線は阿蘇が見ます」

日新斎が感心したように言った。

「見せ方まで警固に入るか」

「当然にございます」

宗運は答えた。

「これは婚儀であり、政治であり、間者の市でもあります」

惟種がぼそりと言った。

「嫌な市だな」

「若君が大きくしすぎた市にございます」

「わしだけのせいではない」

「半分ほどは」

「またそれか」

惟豊が、少しだけ口元を動かした。

宗運は続ける。

「毒見も増やします。水も井戸ごとに見張りを置く。料理人は三日前から囲います。火薬庫には近づけませぬ。花火の準備は別に隔離します」

貴久が顔を上げた。

「花火」

日新斎も反応した。

「火を、空へ上げると聞きましたが」

惟種は頷いた。

「夜空に火を上げます」

「大筒を使われるのですか」

「大筒そのものではありません。火薬筒を使います。夜空に火を上げ、散らす。色も少しつけます」

惟種は、そこで一度言葉を切った。

「ただし、民や国人衆はおびえるかもしれませぬ。ゆえに事前に告げます。これは阿蘇の祝いの火である。安心して見よ、と」

貴久は黙った。

日新斎は、じっと惟種を見た。

「戦の火を、祝いの火に変えると」

「そう見えれば、成功です」

惟種は言った。

「阿蘇の火は、焼くだけではない。祝うこともできる。そう見せたい」

日新斎は、深く息を吐いた。

「若君」

「何でしょう」

「まこと、恐ろしいことを考えられる」

「火を上げるだけです」

「火を上げるだけで、人の心は動きます」

日新斎の言葉は静かだった。

「戦場で大筒を見た者は震えましょう。婚儀で空の火を見た者は、同じ火に魅せられましょう」

惟種は、少し黙った。

日新斎は続ける。

「恐れと憧れは、どちらも人を縛ります」

その言葉に、宗運がわずかに目を伏せた。

惟種は、ゆっくり頷いた。

「ならば、うまく使います」

席順の話に入ると、宗運の顔はさらに険しくなった。

朝廷の使者。

公方。

三好。

島津。

阿蘇。

旧大友。

龍造寺。

博多商人。

堺商人。

寺社。

誰を上に置くか。

誰をどこへ近づけるか。

誰と誰を離すか。

誰に何を見せるか。

ただの並びではない。

人の面子と腹が、そこに乗る。

「公方様をどこへ」

貴久が問うた。

宗運は、ためらわず答える。

「最上の客として扱います。ただし、祝言の主ではございませぬ」

惟種は少し安心した。

「公方様を主にすれば、婚儀が幕府の儀になります」

「それは避けねばならぬ」

惟豊が言った。

「これは阿蘇と島津の祝言だ。公方様を粗末にはせぬが、主にしてはならぬ」

「朝廷の使者も同じにございます」

宗運が続ける。

「格は重い。ですが、場を支配させてはなりませぬ」

「三好は」

日新斎が問う。

「見える位置に置きます」

宗運は言った。

「阿蘇と島津の結び、料理、器、兵の動き、来賓の反応。見たいものを、ある程度見せる」

「見せすぎは」

「致しませぬ」

「博多、堺の商人は」

「彼らは匂いを嗅ぎに来ます。儲けの匂いです。玻璃、甘味、氷、鶏、漆器、灯、花火。どれも商いにつながります」

惟種が言う。

「見せろ。ただし、値は阿蘇が決める」

宗運は頷いた。

「そのように」

話が一巡したころ、誰もが少し疲れていた。

婚儀の話をしていたはずなのに、実際には九州と天下の配置を決めている。

惟豊が、最後に言った。

「よいか」

全員が顔を上げた。

「この祝言は、加世姫を迎える儀だ。それを忘れるな」

座が静まる。

「政のためにやる。阿蘇と島津を結ぶためにやる。天下へ見せるためにやる。それはよい」

惟豊の声は低い。

「だが、加世姫が飾りになってはならぬ」

貴久は、深く頭を下げた。

「ありがたきお言葉」

惟種も、静かに頷いた。

「分かっております」

「ならばよい」

惟豊は、少しだけ息を吐いた。

「天下一の式にするなら、そうせよ。だが、姫の笑う顔を忘れるな」

惟種は、その言葉を胸に刻んだ。

加世が望んだ鳥料理。

加世が喜んだ色蝋筆。

加世が少し緊張しながらも、阿蘇へ入ると言った顔。

天下に見せる儀である。

だが、加世にとっては、自分の祝言でもある。

惟種は、深く頭を下げた。

「必ず」

座が解けた後、宗運はしばらく板と帳面を見ていた。

惟種が声をかける。

「宗運」

「はい」

「死にそうな顔をしているぞ」

「死にそうなのです」

「死ぬな」

「では、仕事を減らしてください」

「それは難しい」

「ならば、せめて裏方を増やしてください」

「増やせ」

「増やすための手配も、わたくしの仕事にございます」

惟種は、少しだけ気まずそうに目を逸らした。

宗運は深くため息をついた。

「若君」

「何だ」

「天下一の式とは、裏方を殺す儀でもございますか」

「殺すな。生かせ」

「生かして働かせる方が、なお酷うございます」

惟種は少し笑った。

だが、宗運の目は笑っていなかった。

「間者対策、毒見、席次、宿、食材、氷室、玻璃の運搬、花火の火薬、朝廷、幕府、三好、博多、堺、島津、九州諸家。どれか一つでも違えれば、祝言は傷になります」

「分かっている」

「本当に?」

「分かっている」

惟種は真面目な顔で言った。

「だから、頼む」

宗運は、少しだけ黙った。

それから、仕方なさそうに頭を下げた。

「承りました」

「悪いな」

「いえ」

宗運は板を閉じた。

「これも、天下への道にございますので」

惟種は、ほんの少しだけ笑った。

「鳥料理もか」

「鳥料理もにございます」

阿蘇の夜は、静かに更けていく。

だが、その静けさの裏で。

天下一の婚儀を支えるための、地獄の支度が始まっていた。