軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百四十話 約定より早く

日向と大隅を、島津に任せる。

その裁きは、伊東と肝付を処するだけの話ではなかった。

阿蘇と島津の関係を、一段進めるものである。

伊東は府内へ兵を入れた。

肝付は島津へ兵を入れた。

どちらも、阿蘇が京にある隙を突き、九州静謐を乱した。

ならば裁く。

そして、裁いた後を誰に治めさせるかも決めねばならない。

惟種は、島津貴久へ公の文を送った。

日向、大隅の静謐については、約定の通り島津に差配を任せる。

伊東、肝付の旧領は、阿蘇と島津の協議により改める。

降る者は残せ。

民を焼く者は斬れ。

乱妨を禁じ、蔵と道を押さえ、年貢は急に重くするな。

家を残す者は用いよ。

ただし、此度の首謀者は許すな。

それは、公の文である。

だが、もう一つ、避けて通れぬ話があった。

加世である。

府内館の奥で、惟豊と宗運が向かい合っていた。

惟種は、その前に座している。

広間ではない。

人払いをした小さな座である。

惟豊が言った。

「島津を外に置いたままにはできぬ」

「はい」

惟種は頷いた。

「日向、大隅を任せる以上、島津は阿蘇の南の柱になります」

「柱にするなら、縁も固めねばならぬ」

「承知しております」

それが何を意味するか、惟種にも分かっていた。

婚儀である。

加世姫は、すでに阿蘇にいる。

天文十五年に阿蘇へ来て以来、加世は阿蘇の内で暮らし、阿蘇の町を見て、惟種の作った色蝋筆を喜び、年末の鳥料理を気に入り、少しずつこの家の空気に馴染んできた。

だが、まだ正式な祝言は挙げていない。

以前、惟種は加世に言った。

四年後に迎える、と。

その時は、それだけの時間が必要だと思っていた。

九州を整え、北と南を分け、阿蘇と島津が互いに支え合う形を作るには、四年は要ると思っていた。

だが、世は待たなかった。

義藤を京へ送り、朝廷から九州静謐の御沙汰を賜り、旧大友の火を消し、伊東と肝付を裁くことになった。

日向、大隅は、予定より早く島津へ任せる形になった。

いわば、婚儀の引出物を先に渡したようなものである。

宗運が静かに言った。

「島津を阿蘇の内へ入れるならば、婚儀を早めるのが筋にございます」

「分かっている」

「日向、大隅を任せながら、加世姫様との祝言だけ先に延ばせば、島津はまだ外に見えます」

「分かっている」

惟種は、少しだけ息を吐いた。

「だが、四年後と言った」

惟豊は、黙って息子を見ている。

「加世にも、島津にも、そう申した。こちらの都合で早めるなら、まず加世に聞く」

宗運の目がわずかに細くなった。

「政の話にございますぞ」

「だからこそだ」

惟種は返した。

「国の約定も、人との約束も、軽くしてはならぬ。加世が嫌なら待つ」

惟豊が、そこで小さく頷いた。

「ならば聞いてこい」

惟種は顔を上げた。

「よろしいのですか」

「聞かねば始まらぬのであろう」

「はい」

「ならば行け」

惟豊は淡々と言った。

「ただし、逃げ道を作るために聞くな。早める必要があることも、きちんと伝えよ」

「承知しました」

加世は、阿蘇の奥の一角にいた。

庭に面した部屋で、色蝋筆を並べている。

淡い赤。

黄。

青。

緑。

黒。

以前、惟種が贈ったものだ。

加世は、それを大切にしていた。

惟種が部屋に入ると、加世は顔を上げた。

「惟種様」

「加世」

惟種は、いつになく少し硬い顔をしていた。

加世はすぐに気づいた。

「難しいお話ですか」

「そうだ」

「鳥のお話ではなく?」

「鳥の話も、少し関わるかもしれぬ」

加世は首を傾げた。

惟種は、向かいに座った。

しばらく、言葉を選んだ。

戦ならすぐに命じられる。

政の文なら、いくらでも書ける。

だが、こういう話は難しい。

「加世」

「はい」

「以前、四年後に迎えると申した」

「覚えております」

加世は、すぐに答えた。

「あと、三年ほど待つのだと思っておりました」

「そうだ」

惟種は頷いた。

「わしも、そのつもりだった」

「違うのですか」

「世の方が、早く動いた」

惟種は、ゆっくり話した。

公方様を京へ送ったこと。

朝廷より九州静謐の御沙汰を賜ったこと。

旧大友の反乱が起きたこと。

伊東が府内へ攻め、肝付が島津へ攻めたこと。

その結果、日向と大隅を約定の通り島津へ任せる形になったこと。

加世は、すべてを理解したわけではない。

だが、惟種が自分に分かるように言葉を選んでいることは分かった。

惟種は続けた。

「もともと、加世とは話したな。北と南で九州を支えると」

「はい」

「阿蘇が北を見て、島津が南を支える。そうすれば九州は乱れにくくなる」

「はい」

「それが、思ったより早く形になった」

「日向と大隅が、島津に?」

「そうだ」

加世は、少しだけ目を丸くした。

「では、父上たちは忙しくなりますね」

「なる」

「惟種様も、忙しくなりますね」

「すでに忙しい」

惟種は、少しだけ苦い顔をした。

加世は、ふふ、と小さく笑った。

だが、すぐに真面目な顔に戻る。

「それで、婚儀を早めるのですか」

惟種は、静かに頷いた。

「そういう話が出ている」

「父上からですか」

「こちらからもだ。島津を阿蘇の内へ入れる必要がある。加世が阿蘇へ正式に入れば、島津はただの盟ではなく、阿蘇の外戚になる」

「外戚」

「難しい言い方だが、要は身内になるということだ」

「身内」

加世は、その言葉を繰り返した。

惟種は、まっすぐ加世を見た。

「だが、これは政だけで決めることではない」

「はい」

「四年後と申したのは、わしの言葉だ。約束を変えることになる。だから、加世に聞く」

加世は、黙って惟種を見ていた。

「加世が待ちたいなら、わしは待つ」

「……はい」

「早くてもよいと言うなら、阿蘇は全て整えて迎える」

惟種は、少しだけ言葉を詰まらせた。

「ただし、祝言を早めるだけだ。加世はまだ若い。阿蘇へ正式に入っても、無理をさせるつもりはない。夫婦としてのことは、年を待つ」

加世は、その意味をすべて分かったわけではない。

だが、惟種が自分を急かしているのではないことは分かった。

政のために使おうとしているのではないことも、分かった。

ちゃんと聞いてくれている。

それが嬉しかった。

加世は、色蝋筆をそっと箱へ戻した。

「惟種様」

「何だ」

「私は、もう阿蘇におります」

「うむ」

「阿蘇のご飯も食べています。阿蘇の屋敷で暮らしています。色蝋筆もいただきました」

「うむ」

「鳥料理も、また食べたいです」

「それは用意する」

惟種は即答した。

加世は、少し笑った。

それから、真面目な顔で言った。

「四年後と申されたことは、覚えております。でも、惟種様が忘れたのではなく、きちんと聞いてくださるなら、私は構いませぬ」

惟種は、黙って聞いた。

「阿蘇と島津のためになるなら、早めてもよいです」

「本当にか」

「はい」

「嫌なら、嫌と言ってよい」

「嫌ではありませぬ」

加世は、少しだけ頬を赤くした。

「惟種様が迎えてくださるなら、怖くはございませぬ」

惟種は、一瞬だけ言葉を失った。

その一言は、思ったより重かった。

嬉しいだけではない。

守らねばならないものが、また増えた。

惟種は、深く頭を下げた。

「分かった」

「惟種様?」

「加世を迎える」

声は静かだった。

「約定より早くなる。だが、軽くは扱わぬ。阿蘇に入る以上、必ず守る」

加世は、少しだけ驚いたように目を開いた。

それから、嬉しそうに頷いた。

「はい」

少し間を置いて、加世は言った。

「祝言では、鳥料理を出してくださいませ」

惟種は、真面目に頷いた。

「必ず出す」

惟種が奥の間へ戻ると、惟豊と宗運が待っていた。

宗運は顔を見ただけで察したらしい。

「承諾なさいましたか」

「した」

惟豊は、短く問う。

「加世姫は何と」

「阿蘇と島津のためになるなら、早めてもよいと。わしが迎えるなら、怖くないとも言った」

宗運が、わずかに目を細めた。

惟豊は、静かに頷いた。

「ならば進める」

「はい」

「ただし、先ほどそなたが申した通りだ」

惟豊の声は重い。

「祝言は行う。加世姫を正式に阿蘇へ迎える。島津は阿蘇の外戚となる。南の差配も進める」

「はい」

「だが、無理はさせぬ。夫婦としての暮らしは、年を待て」

「もちろんにございます」

惟種は即答した。

そこに迷いはなかった。

宗運も頷く。

「それがよろしゅうございます」

惟豊は続ける。

「島津にはすぐ文を出す。貴久殿へ、祝言を早めること、日向と大隅の差配を正式に進めること、加世姫を阿蘇へ迎える支度を整えることを伝えよ」

「承知しました」

「公方様と朝廷にも報告が要る」

惟種は、顔をしかめた。

「また京か」

宗運がすぐに言った。

「京取次を置くと決めたばかりにございます」

「ああ、そうだった」

「若君が行く必要はございませぬ」

「それはよい」

惟豊が少しだけ息を吐いた。

「まったく、そなたは京を嫌がりすぎる」

「嫌いではありませぬ。ただ、戻ると仕事が増えます」

「ここにいても増えておる」

「それもそうでした」

宗運が、淡々と言った。

「婚儀、南九州再編、府内復旧、疱瘡、京取次、龍造寺再建、大友再編。若君、また見事に増えましたな」

「今回はわしだけのせいではない」

「半分ほどは若君のせいにございます」

「半分もか」

「少なく見積もっております」

惟種は黙った。

婚儀の準備は、すぐに始まった。

といっても、ただ華やかに飾ればよいものではない。

島津への礼。

日向、大隅の差配文。

伊東、肝付旧領の再編。

加世姫の正式な迎え入れ。

屋敷。

女房衆。

衣。

食。

贈り物。

公方と朝廷への報告。

九州諸家への触れ。

すべてが政であった。

惟種は、帳面の山を見て顔をしかめた。

「婚儀とは、これほど面倒なのか」

宗運が当然のように答える。

「家と家を結ぶ儀にございます。面倒でないはずがございませぬ」

「加世に鳥料理を出せば済むのではないのか」

「済みませぬ」

「そうか」

「ですが、鳥料理は必ず出しましょう」

「当然だ」

惟種は、そこだけは力強く頷いた。

「加世が望んでいる」

「では、養鶏の方も急がねばなりませぬな」

「もう急がせている」

「また仕事が増えました」

「これは必要な仕事だ」

「近ごろ、若君はそればかりでございます」

宗運の声には、呆れが混じっていた。

だが、以前ほど重くはない。

阿蘇と島津の婚儀は、九州の形を固める。

南が島津で締まり、北と中は阿蘇が見る。

府内、大友、龍造寺、筑後、肥前、日向、大隅。

それらを結び直すためには、加世を正式に阿蘇へ迎えることが必要だった。

その夜、惟種は一人で庭に出た。

府内の風は、まだ少し焦げた匂いを含んでいる。

だが、以前よりも静かだった。

火は消えた。

だが、国はこれから戻さねばならない。

朝廷の御沙汰。

公方の御旗。

疱瘡の道。

南九州再編。

島津との婚儀。

荷は増えた。

だが、逃げるつもりはない。

惟種は、加世の言葉を思い出した。

惟種様が迎えてくださるなら、怖くはございませぬ。

その一言は、重かった。

嬉しいだけではない。

守らねばならないものが、また一つ増えた。

惟種は、小さく息を吐いた。

「四年後と言ったのにな」

自分で呟く。

だが、約束を破るのではない。

早まった理由を伝え、加世に聞き、加世が応じた。

ならば、今度は迎える側の責だ。

背後から声がした。

「若君」

宗運だった。

「何だ」

「加世姫様を迎える屋敷の件ですが」

「もうか」

「もうでございます」

惟種は空を見上げた。

「本当に、仕事が尽きぬな」

「天下を取ると申されたのは若君にございます」

「それを今言うか」

「今だから申し上げます」

宗運は、淡々と言った。

「天下への道は、戦だけではございませぬ。婚儀も、病も、帳面も、鳥料理も、すべて道にございます」

惟種は、少しだけ笑った。

「鳥料理まで天下の道か」

「加世姫様にとっては、そうかもしれませぬ」

「ならば、手を抜けぬな」

「はい」

府内の夜風が、静かに吹いた。

九州の火は消えた。

だが、今度は縁を結ぶための支度が始まる。

約定より早く。

阿蘇は、島津の姫を正式に迎えることになった。