作品タイトル不明
第百四十話 約定より早く
日向と大隅を、島津に任せる。
その裁きは、伊東と肝付を処するだけの話ではなかった。
阿蘇と島津の関係を、一段進めるものである。
伊東は府内へ兵を入れた。
肝付は島津へ兵を入れた。
どちらも、阿蘇が京にある隙を突き、九州静謐を乱した。
ならば裁く。
そして、裁いた後を誰に治めさせるかも決めねばならない。
惟種は、島津貴久へ公の文を送った。
日向、大隅の静謐については、約定の通り島津に差配を任せる。
伊東、肝付の旧領は、阿蘇と島津の協議により改める。
降る者は残せ。
民を焼く者は斬れ。
乱妨を禁じ、蔵と道を押さえ、年貢は急に重くするな。
家を残す者は用いよ。
ただし、此度の首謀者は許すな。
それは、公の文である。
だが、もう一つ、避けて通れぬ話があった。
加世である。
◇
府内館の奥で、惟豊と宗運が向かい合っていた。
惟種は、その前に座している。
広間ではない。
人払いをした小さな座である。
惟豊が言った。
「島津を外に置いたままにはできぬ」
「はい」
惟種は頷いた。
「日向、大隅を任せる以上、島津は阿蘇の南の柱になります」
「柱にするなら、縁も固めねばならぬ」
「承知しております」
それが何を意味するか、惟種にも分かっていた。
婚儀である。
加世姫は、すでに阿蘇にいる。
天文十五年に阿蘇へ来て以来、加世は阿蘇の内で暮らし、阿蘇の町を見て、惟種の作った色蝋筆を喜び、年末の鳥料理を気に入り、少しずつこの家の空気に馴染んできた。
だが、まだ正式な祝言は挙げていない。
以前、惟種は加世に言った。
四年後に迎える、と。
その時は、それだけの時間が必要だと思っていた。
九州を整え、北と南を分け、阿蘇と島津が互いに支え合う形を作るには、四年は要ると思っていた。
だが、世は待たなかった。
義藤を京へ送り、朝廷から九州静謐の御沙汰を賜り、旧大友の火を消し、伊東と肝付を裁くことになった。
日向、大隅は、予定より早く島津へ任せる形になった。
いわば、婚儀の引出物を先に渡したようなものである。
宗運が静かに言った。
「島津を阿蘇の内へ入れるならば、婚儀を早めるのが筋にございます」
「分かっている」
「日向、大隅を任せながら、加世姫様との祝言だけ先に延ばせば、島津はまだ外に見えます」
「分かっている」
惟種は、少しだけ息を吐いた。
「だが、四年後と言った」
惟豊は、黙って息子を見ている。
「加世にも、島津にも、そう申した。こちらの都合で早めるなら、まず加世に聞く」
宗運の目がわずかに細くなった。
「政の話にございますぞ」
「だからこそだ」
惟種は返した。
「国の約定も、人との約束も、軽くしてはならぬ。加世が嫌なら待つ」
惟豊が、そこで小さく頷いた。
「ならば聞いてこい」
惟種は顔を上げた。
「よろしいのですか」
「聞かねば始まらぬのであろう」
「はい」
「ならば行け」
惟豊は淡々と言った。
「ただし、逃げ道を作るために聞くな。早める必要があることも、きちんと伝えよ」
「承知しました」
◇
加世は、阿蘇の奥の一角にいた。
庭に面した部屋で、色蝋筆を並べている。
淡い赤。
黄。
青。
緑。
黒。
以前、惟種が贈ったものだ。
加世は、それを大切にしていた。
惟種が部屋に入ると、加世は顔を上げた。
「惟種様」
「加世」
惟種は、いつになく少し硬い顔をしていた。
加世はすぐに気づいた。
「難しいお話ですか」
「そうだ」
「鳥のお話ではなく?」
「鳥の話も、少し関わるかもしれぬ」
加世は首を傾げた。
惟種は、向かいに座った。
しばらく、言葉を選んだ。
戦ならすぐに命じられる。
政の文なら、いくらでも書ける。
だが、こういう話は難しい。
「加世」
「はい」
「以前、四年後に迎えると申した」
「覚えております」
加世は、すぐに答えた。
「あと、三年ほど待つのだと思っておりました」
「そうだ」
惟種は頷いた。
「わしも、そのつもりだった」
「違うのですか」
「世の方が、早く動いた」
惟種は、ゆっくり話した。
公方様を京へ送ったこと。
朝廷より九州静謐の御沙汰を賜ったこと。
旧大友の反乱が起きたこと。
伊東が府内へ攻め、肝付が島津へ攻めたこと。
その結果、日向と大隅を約定の通り島津へ任せる形になったこと。
加世は、すべてを理解したわけではない。
だが、惟種が自分に分かるように言葉を選んでいることは分かった。
惟種は続けた。
「もともと、加世とは話したな。北と南で九州を支えると」
「はい」
「阿蘇が北を見て、島津が南を支える。そうすれば九州は乱れにくくなる」
「はい」
「それが、思ったより早く形になった」
「日向と大隅が、島津に?」
「そうだ」
加世は、少しだけ目を丸くした。
「では、父上たちは忙しくなりますね」
「なる」
「惟種様も、忙しくなりますね」
「すでに忙しい」
惟種は、少しだけ苦い顔をした。
加世は、ふふ、と小さく笑った。
だが、すぐに真面目な顔に戻る。
「それで、婚儀を早めるのですか」
惟種は、静かに頷いた。
「そういう話が出ている」
「父上からですか」
「こちらからもだ。島津を阿蘇の内へ入れる必要がある。加世が阿蘇へ正式に入れば、島津はただの盟ではなく、阿蘇の外戚になる」
「外戚」
「難しい言い方だが、要は身内になるということだ」
「身内」
加世は、その言葉を繰り返した。
惟種は、まっすぐ加世を見た。
「だが、これは政だけで決めることではない」
「はい」
「四年後と申したのは、わしの言葉だ。約束を変えることになる。だから、加世に聞く」
加世は、黙って惟種を見ていた。
「加世が待ちたいなら、わしは待つ」
「……はい」
「早くてもよいと言うなら、阿蘇は全て整えて迎える」
惟種は、少しだけ言葉を詰まらせた。
「ただし、祝言を早めるだけだ。加世はまだ若い。阿蘇へ正式に入っても、無理をさせるつもりはない。夫婦としてのことは、年を待つ」
加世は、その意味をすべて分かったわけではない。
だが、惟種が自分を急かしているのではないことは分かった。
政のために使おうとしているのではないことも、分かった。
ちゃんと聞いてくれている。
それが嬉しかった。
加世は、色蝋筆をそっと箱へ戻した。
「惟種様」
「何だ」
「私は、もう阿蘇におります」
「うむ」
「阿蘇のご飯も食べています。阿蘇の屋敷で暮らしています。色蝋筆もいただきました」
「うむ」
「鳥料理も、また食べたいです」
「それは用意する」
惟種は即答した。
加世は、少し笑った。
それから、真面目な顔で言った。
「四年後と申されたことは、覚えております。でも、惟種様が忘れたのではなく、きちんと聞いてくださるなら、私は構いませぬ」
惟種は、黙って聞いた。
「阿蘇と島津のためになるなら、早めてもよいです」
「本当にか」
「はい」
「嫌なら、嫌と言ってよい」
「嫌ではありませぬ」
加世は、少しだけ頬を赤くした。
「惟種様が迎えてくださるなら、怖くはございませぬ」
惟種は、一瞬だけ言葉を失った。
その一言は、思ったより重かった。
嬉しいだけではない。
守らねばならないものが、また増えた。
惟種は、深く頭を下げた。
「分かった」
「惟種様?」
「加世を迎える」
声は静かだった。
「約定より早くなる。だが、軽くは扱わぬ。阿蘇に入る以上、必ず守る」
加世は、少しだけ驚いたように目を開いた。
それから、嬉しそうに頷いた。
「はい」
少し間を置いて、加世は言った。
「祝言では、鳥料理を出してくださいませ」
惟種は、真面目に頷いた。
「必ず出す」
◇
惟種が奥の間へ戻ると、惟豊と宗運が待っていた。
宗運は顔を見ただけで察したらしい。
「承諾なさいましたか」
「した」
惟豊は、短く問う。
「加世姫は何と」
「阿蘇と島津のためになるなら、早めてもよいと。わしが迎えるなら、怖くないとも言った」
宗運が、わずかに目を細めた。
惟豊は、静かに頷いた。
「ならば進める」
「はい」
「ただし、先ほどそなたが申した通りだ」
惟豊の声は重い。
「祝言は行う。加世姫を正式に阿蘇へ迎える。島津は阿蘇の外戚となる。南の差配も進める」
「はい」
「だが、無理はさせぬ。夫婦としての暮らしは、年を待て」
「もちろんにございます」
惟種は即答した。
そこに迷いはなかった。
宗運も頷く。
「それがよろしゅうございます」
惟豊は続ける。
「島津にはすぐ文を出す。貴久殿へ、祝言を早めること、日向と大隅の差配を正式に進めること、加世姫を阿蘇へ迎える支度を整えることを伝えよ」
「承知しました」
「公方様と朝廷にも報告が要る」
惟種は、顔をしかめた。
「また京か」
宗運がすぐに言った。
「京取次を置くと決めたばかりにございます」
「ああ、そうだった」
「若君が行く必要はございませぬ」
「それはよい」
惟豊が少しだけ息を吐いた。
「まったく、そなたは京を嫌がりすぎる」
「嫌いではありませぬ。ただ、戻ると仕事が増えます」
「ここにいても増えておる」
「それもそうでした」
宗運が、淡々と言った。
「婚儀、南九州再編、府内復旧、疱瘡、京取次、龍造寺再建、大友再編。若君、また見事に増えましたな」
「今回はわしだけのせいではない」
「半分ほどは若君のせいにございます」
「半分もか」
「少なく見積もっております」
惟種は黙った。
◇
婚儀の準備は、すぐに始まった。
といっても、ただ華やかに飾ればよいものではない。
島津への礼。
日向、大隅の差配文。
伊東、肝付旧領の再編。
加世姫の正式な迎え入れ。
屋敷。
女房衆。
衣。
食。
贈り物。
公方と朝廷への報告。
九州諸家への触れ。
すべてが政であった。
惟種は、帳面の山を見て顔をしかめた。
「婚儀とは、これほど面倒なのか」
宗運が当然のように答える。
「家と家を結ぶ儀にございます。面倒でないはずがございませぬ」
「加世に鳥料理を出せば済むのではないのか」
「済みませぬ」
「そうか」
「ですが、鳥料理は必ず出しましょう」
「当然だ」
惟種は、そこだけは力強く頷いた。
「加世が望んでいる」
「では、養鶏の方も急がねばなりませぬな」
「もう急がせている」
「また仕事が増えました」
「これは必要な仕事だ」
「近ごろ、若君はそればかりでございます」
宗運の声には、呆れが混じっていた。
だが、以前ほど重くはない。
阿蘇と島津の婚儀は、九州の形を固める。
南が島津で締まり、北と中は阿蘇が見る。
府内、大友、龍造寺、筑後、肥前、日向、大隅。
それらを結び直すためには、加世を正式に阿蘇へ迎えることが必要だった。
◇
その夜、惟種は一人で庭に出た。
府内の風は、まだ少し焦げた匂いを含んでいる。
だが、以前よりも静かだった。
火は消えた。
だが、国はこれから戻さねばならない。
朝廷の御沙汰。
公方の御旗。
疱瘡の道。
南九州再編。
島津との婚儀。
荷は増えた。
だが、逃げるつもりはない。
惟種は、加世の言葉を思い出した。
惟種様が迎えてくださるなら、怖くはございませぬ。
その一言は、重かった。
嬉しいだけではない。
守らねばならないものが、また一つ増えた。
惟種は、小さく息を吐いた。
「四年後と言ったのにな」
自分で呟く。
だが、約束を破るのではない。
早まった理由を伝え、加世に聞き、加世が応じた。
ならば、今度は迎える側の責だ。
背後から声がした。
「若君」
宗運だった。
「何だ」
「加世姫様を迎える屋敷の件ですが」
「もうか」
「もうでございます」
惟種は空を見上げた。
「本当に、仕事が尽きぬな」
「天下を取ると申されたのは若君にございます」
「それを今言うか」
「今だから申し上げます」
宗運は、淡々と言った。
「天下への道は、戦だけではございませぬ。婚儀も、病も、帳面も、鳥料理も、すべて道にございます」
惟種は、少しだけ笑った。
「鳥料理まで天下の道か」
「加世姫様にとっては、そうかもしれませぬ」
「ならば、手を抜けぬな」
「はい」
府内の夜風が、静かに吹いた。
九州の火は消えた。
だが、今度は縁を結ぶための支度が始まる。
約定より早く。
阿蘇は、島津の姫を正式に迎えることになった。