作品タイトル不明
第百三十九話 重すぎる土産
火が消えてから、半月ほどが過ぎた。
府内の煙は薄くなった。
焼けた家の跡には、仮小屋が立ち始めている。
港の桟橋も、折れたところから順に直され、荷を運ぶ声が少しずつ戻ってきた。
だが、国はまだ痩せている。
戦が終わったからといって、すぐに腹が満ちるわけではない。
焼けた米は戻らぬ。
死んだ者も戻らぬ。
逃げた民も、すぐには戻らぬ。
惟種は、それを知っていた。
だからこそ、ようやく肥後より惟豊が府内へ入った時、惟種はまず勝利を語らなかった。
◇
広間には、府内の主だった者たちが集められていた。
惟豊。
惟種。
宗運。
鍋島種茂。
戸次鑑連。
吉弘鑑理、吉岡長増、臼杵鑑速。
そして少し離れて、元服を済ませた新吉郎も控えている。
惟豊は、しばらく庭に立つ三つの旗を見ていた。
阿蘇の旗。
公方の御旗。
朝廷の白き御旗。
それらが春の風に揺れている。
やがて、惟豊が言った。
「報せは受けておる」
「はっ」
「されど、そなたの口から聞く」
惟種は、深く頭を下げた。
「公方様を京へお送りしました。三好とは和が成りました。朝廷より九州静謐の御沙汰を賜りました。公方様より御教書と御旗を預かりました。疱瘡について、典薬寮の者どもと話をしました」
宗運の眉が、わずかに動く。
惟種は続けた。
「その後、府内にて大友義武の反乱。伊東の侵攻。秋月、有馬、大村残党の呼応。肥前では龍造寺隆信の孤立謀反。南では肝付の島津侵攻がございました」
「それで」
「秋月は降伏。義武は捕縛、処断。隼人は救出。大友の名は残します。伊東は内より崩れ、首謀者を処断。肝付については島津と協議。日向、大隅は約定の通り島津に差配させる形を整えます。龍造寺隆信は城に火を放ち死亡。家宗は重傷ながら存命。龍造寺は家宗、鍋島信房、種茂を軸に残します」
惟種は、そこで一度息を継いだ。
「新吉郎は、宗運のもとで元服し、府内防衛にて功を上げました。正式に記録いたします」
新吉郎が、深く頭を下げる。
惟豊は、そこで初めて新吉郎を見た。
「よう働いた」
短い言葉だった。
だが、新吉郎の肩が震えた。
「ありがたき御言葉にございます」
「敵を斬るだけが功ではない。民を逃がし、火を防ぎ、道を守ったと聞く」
「はっ」
「ならば、それは阿蘇の功だ」
新吉郎は、深く頭を下げた。
惟豊は、次に戸次たちを見た。
「戸次、吉弘、吉岡、臼杵」
「はっ」
「大友の名を残すため、よう踏みとどまった」
戸次鑑連は、静かに頭を下げた。
「大友の名を焼かずに済みましたのは、阿蘇の御裁きあればこそにございます」
「隼人を守れ」
「命に代えましても」
惟豊は頷いた。
それで広間の話は終わった。
褒めるべき者を褒める。
裁きを示す。
今後の筋を伝える。
それだけでよい。
説教は、このような場でするものではない。
惟豊は、そういう男だった。
◇
その夜。
府内館の奥に、小さな明かりがともっていた。
広間ではない。
家臣もいない。
戸次も、種茂も、新吉郎もいない。
いるのは三人だけである。
惟豊。
惟種。
宗運。
外では夜番の声が遠く聞こえる。
焼け跡の匂いはまだわずかに残っていたが、奥の間は静かだった。
惟豊は、しばらく何も言わなかった。
惟種は正座したまま、畳を見ている。
宗運も控えているが、その顔は昼よりもずっと冷静だった。
やがて、惟豊が口を開いた。
「さて」
その一言だけで、惟種の背筋が伸びた。
「そなた、阿蘇の荷をいくつ増やした」
声は荒くない。
だが、重かった。
惟種は深く頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
「謝れば軽くなる荷ではない」
「承知しております」
「朝廷の御沙汰。公方の御旗。疱瘡の話。南九州の再編。島津との婚儀の筋。大友、龍造寺の残し方。どれも阿蘇の先を変える」
「はい」
「結果として利があったことは認める」
惟豊は言った。
「だが、そなたは阿蘇の若君であって、阿蘇そのものではない」
惟種は、何も言えなかった。
惟豊の言うことは正しい。
帝の御前で失礼はできなかった。
公方様を突き放すこともできなかった。
九州静謐の大義は必要だった。
疱瘡の話も、黙っていられなかった。
だが、それでも阿蘇家の進む道を大きく変えたのは事実である。
惟豊は、静かに続けた。
「朝廷を助けることと、朝廷に食われることは違う」
「はい」
「公方様へ忠を尽くすことと、幕府の便利な手足になることも違う」
「はい」
「阿蘇は、阿蘇の国を太らせねばならぬ」
惟種は、深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
◇
そこで宗運が、ようやく口を開いた。
「若君」
「何だ」
「京へお送りしただけのはずが、なぜ朝廷の御沙汰を持ち帰るのですか」
「断れなかった」
「なぜ公方様の御旗まで増えているのですか」
「断れなかった」
「なぜ疱瘡の話まで広げているのですか」
「……言わねばならぬと思った」
「なぜ日向、大隅の話まで、婚儀の引出物に絡めて進めているのですか」
「それは前からの約定だ」
「若君」
宗運の声が冷えた。
「仕事を増やしすぎにございます」
惟種は、顔を上げられなかった。
「好きで増やしたわけではない」
「若君はいつもそう申されます」
「本当だ」
「本当だから困るのでございます」
宗運は、ため息をついた。
「得た札は強うございます。朝廷の御沙汰、公方様の御教書、三つの旗。これにより、九州の諸家は阿蘇を無視できませぬ」
「ならば」
「だからこそ、厄介なのでございます」
惟種は黙った。
宗運は続ける。
「朝廷は、これから阿蘇を見ます。銭を持つ家として。病に手を伸ばす家として。疱瘡をどうにかできるかもしれぬ家として」
惟豊の目も細くなる。
「幕府も同じにございます」
宗運は、義藤の方角を見るように少し目を伏せた。
「公方様は、若君を一番の忠臣と見ましょう。人として悪い御方ではございませぬ。されど、幕府という仕組みは違います」
「……分かっている」
「各地の調停を頼まれるかもしれませぬ。銭を求められるかもしれませぬ。兵を求められるかもしれませぬ。船を求められるかもしれませぬ」
宗運は、きっぱりと言った。
「このままでは、阿蘇は九州を治める前に、京の雑事で痩せます」
惟種は、ようやく顔を上げた。
「だから、対策を立てる」
「当然にございます」
惟種は息を吐いた。
「公方様は嫌いではない。むしろ、苦労人だと思っている。帝への敬意も偽りではない。朝廷を支える必要も分かっている」
それは、本心だった。
「だが、こちらにはこちらの予定がある。府内を戻し、肥前を締め、筑後を太らせ、南を整え、病の手も打たねばならぬ」
一拍。
「各地の調停役として、あちこち呼ばれるのは御免だ。無限に銭が出ると思われても困る」
宗運が、じっと惟種を見た。
惟種は、少し言いにくそうに続けた。
「正直、しばらく構わないでほしい」
奥の間に、少しだけ妙な沈黙が落ちた。
惟豊が、低く言った。
「本音が出たな」
「申し訳ございませぬ」
「いや、それでよい」
惟豊は、少しだけ息を吐いた。
「本音を隠したままでは、手は打てぬ」
◇
三人だけの評定は、そこから実務へ移った。
まず、京に取次を置く。
朝廷と幕府からの用は、直接惟種へ通さない。
阿蘇の京詰め役を立て、文を受け、返答を整え、必要なものだけ府内と肥後へ送る。
惟豊が言った。
「惟種本人を、軽々しく呼ばせぬ」
「はい」
「呼ばれても、まずは文で返す。どうしても必要なら使者を送る。そなたが動くのは最後だ」
「承知しました」
ようやく、京との間に堤を築ける。
惟種は、心底そう思った。
京は嫌いではない。
帝も、公方様も、粗末にはできない。
だが、京の声がそのまま阿蘇の政へ流れ込めば、阿蘇の水路はすぐに溢れる。
堤が要る。
それが京詰め役だった。
次に、朝廷への献金である。
宗運が続けた。
「献金も定めましょう」
「年ごとに額を決めるか」
「はい。朝廷へは定めた額を献じる。飢饉、疫病、御所修理など、特別な時は別に相談。ただし、その都度いくらでも出す形にはしませぬ」
惟種は頷いた。
「無限の財布にされては困る」
「まことに」
惟豊も頷いた。
「朝廷を粗末にはせぬ。だが、阿蘇の蔵を空にしてまで飾るものではない」
惟種は、その言葉に少しだけ安堵した。
敬意と限度。
その二つを並べられるのが、父の強さであった。
次に、幕府への対応である。
宗運は、すでに案を持っていた。
「幕府の調停は、原則として文と使者にて受けます。阿蘇が動くのは、九州に関わるもの、あるいは公方様の御身に関わるものに限る」
「各地を転々と調停して回る気はない」
惟種が言う。
「そのように文面を整えます」
「公方様を傷つけぬようにな」
「承知しております」
義藤は嫌いではない。
だが、義藤の困りごとをすべて阿蘇が背負うわけにはいかない。
幕府の重さは、底がない。
それに付き合えば、阿蘇の国が痩せる。
◇
そして、疱瘡の話になった。
その時だけ、惟種の顔つきが変わった。
宗運も、惟豊も、それに気づいた。
「疱瘡については」
宗運が言いかける。
惟種は静かに言った。
「これは、わしがやる」
奥の空気が変わった。
惟豊が問う。
「そなたが、か」
「はい」
「医者に任せるのではないのか」
「医者は育てます。帳も取らせます。病人の隔離、衣や寝具の扱い、看病役の分け方も広げます」
惟種は、そこで一度言葉を切った。
「ですが、疱瘡を防ぐ術そのものは、今の世の医者だけでは届きませぬ」
宗運の目が細くなる。
「若君は、届く道をご存じなのですね」
惟種は、すぐには答えなかった。
だが、否定もしなかった。
「道は知っている」
惟豊も宗運も黙った。
「ただし、危うい道だ。間違えれば人を殺す。急げば、阿蘇の医が信を失う。だから、わしが見る」
惟種の声は、いつになく硬かった。
「疱瘡は、戦より人を殺す。武士も民も関係ない。子供から死ぬ。生きても顔に痕が残る。目を失う者もいる」
奥の間が静まり返る。
「牛馬の病を探す」
「牛と馬、両方でございますか」
宗運が聞き返した。
「そうだ。名に引きずられてはならぬ」
惟種は、静かに言った。
「牛に出る軽い疱の病だけを見ればよいとは限らぬ。馬の脚や鼻面に出るただれ、厩で馬を扱う者、そこから牛へ移ったように見える病。すべて帳に取る」
惟豊の目が細くなる。
「馬が先、ということもあり得るのか」
「あり得ます」
惟種は頷いた。
「牛に出たものだけを追えば、道を誤るかもしれませぬ。乳を搾る者、牛を扱う者、馬を扱う者、疱の出た牛馬、疱瘡にかかって軽く済んだ者。そこをつなげて見る」
「それが、疱瘡を防ぐ術に」
「なるかもしれませぬ」
惟種は、慎重に言った。
「まだ、なるとは申せませぬ。だから試す。だが、人で試す前に、知れるだけを知らねばならぬ。ここを誤れば、人を救うどころか殺す」
奥の間が静まり返った。
疱瘡を防ぐ。
その言葉だけなら、ありがたい夢である。
だが、その夢へ至る道は細い。
牛か、馬か。
人へ用いてよいものか。
軽い病で済むのか。
それとも、触れてはならぬ毒なのか。
何もかも、調べねばならない。
惟豊は、じっと惟種を見ていた。
「そなた以外には、できぬのか」
惟種は、静かに頷いた。
「今は、できませぬ」
その一言は重かった。
「ならば、やるしかないな」
惟豊は言った。
責める声ではない。
当主の声だった。
「ただし、勝手に人を使うな。民を試しにするな。やるなら、阿蘇の名で責を負え」
「はい」
宗運も言った。
「極秘に進めます」
「いや」
惟種は首を振った。
「すべてを隠す必要はない。病の帳、隔離、看病の仕組みは広げる。だが、牛馬の疱を人に用いる話は、分かる者だけに絞る。下手に広げれば、薬ではなく呪いと思われる」
「承知しました」
「まずは厩の多い地、馬市、牛を多く飼う地。乳を扱う者、馬を扱う者、牛馬の疱の記録。疱瘡にかかって軽く済んだ者の聞き取り。そこからだ」
宗運は、すでに頭の中で人の配置を組み始めていた。
「これもまた、仕事が増えましたな」
「分かっている」
「ですが」
宗運は、そこで少しだけ声を和らげた。
「これは、増やすべき仕事にございます」
惟種は、わずかに目を伏せた。
「完成させる」
短い言葉だった。
「何としてでも」
惟豊も、宗運も、それ以上は言わなかった。
◇
話は、夜更けまで続いた。
京取次の人選。
朝廷への定額献金。
幕府への返答の形。
疱瘡帳の整備。
厩と牛馬に出る疱の探索。
日向、大隅を島津に差配させる際の文面。
大友隼人の扱い。
龍造寺の立て直し。
新吉郎の功の記録。
どれも軽くない。
だが、三人で筋を通せば、荷は荷として背負える。
惟種は、そのことを少しずつ実感していた。
一人で持ち帰った荷は、重すぎた。
だが、父が重さを測り、宗運が縄を掛け、自分が背負う位置を決めれば、運べない荷ではなくなる。
やがて、惟豊が言った。
「よい」
それで評定は一区切りとなった。
惟種は、深く頭を下げた。
「父上」
「何だ」
「此度は、勝手が過ぎました」
「そうだな」
惟豊は即答した。
惟種は顔を伏せた。
だが、次の言葉は少し違った。
「だが、そなたでなければ得られぬものもあった」
惟種は顔を上げた。
「その分、背負え」
「はっ」
「阿蘇は朝廷を粗末にはせぬ。公方様への忠も違えぬ。だが、京に食われる家にもならぬ」
惟豊は、はっきりと言った。
「九州を太らせる。まずはそこだ」
宗運が深く頭を下げた。
「承知しました」
惟種も、同じく頭を下げる。
「承知しました」
◇
奥の間を出るころには、夜は深かった。
府内の町には、まだ灯が少ない。
だが、阿蘇の者たちはもう知っている。
灯は増やせる。
道も作れる。
蔵も戻せる。
人も戻せる。
病にも、いつか手が届くかもしれない。
惟種は、廊の先から庭を見た。
三つの旗は、夜風の中で静かに揺れていた。
重すぎる土産だった。
だが、捨てることはできない。
朝廷の御沙汰。
公方の御旗。
九州静謐の任。
疱瘡を防ぐ道。
南九州の再編。
婚儀へ続く約定。
すべてが阿蘇の肩に乗っている。
帰りたい。
その思いは、まだある。
だが、帰ったところで荷は消えない。
ならば、背負い方を決めるしかない。
宗運が横に並んだ。
「若君」
「何だ」
「説教は、まだ半分にございます」
惟種は、心底嫌そうな顔をした。
「まだあるのか」
「もちろんにございます。ですが、今宵はここまでにしておきましょう」
「ありがたい」
「明日より、仕事で返していただきます」
惟種は、夜の府内を見た。
「分かっている」
その声は、もう逃げる者の声ではなかった。
重い荷を、どう背負うか決めた者の声だった。