軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百三十九話 重すぎる土産

火が消えてから、半月ほどが過ぎた。

府内の煙は薄くなった。

焼けた家の跡には、仮小屋が立ち始めている。

港の桟橋も、折れたところから順に直され、荷を運ぶ声が少しずつ戻ってきた。

だが、国はまだ痩せている。

戦が終わったからといって、すぐに腹が満ちるわけではない。

焼けた米は戻らぬ。

死んだ者も戻らぬ。

逃げた民も、すぐには戻らぬ。

惟種は、それを知っていた。

だからこそ、ようやく肥後より惟豊が府内へ入った時、惟種はまず勝利を語らなかった。

広間には、府内の主だった者たちが集められていた。

惟豊。

惟種。

宗運。

鍋島種茂。

戸次鑑連。

吉弘鑑理、吉岡長増、臼杵鑑速。

そして少し離れて、元服を済ませた新吉郎も控えている。

惟豊は、しばらく庭に立つ三つの旗を見ていた。

阿蘇の旗。

公方の御旗。

朝廷の白き御旗。

それらが春の風に揺れている。

やがて、惟豊が言った。

「報せは受けておる」

「はっ」

「されど、そなたの口から聞く」

惟種は、深く頭を下げた。

「公方様を京へお送りしました。三好とは和が成りました。朝廷より九州静謐の御沙汰を賜りました。公方様より御教書と御旗を預かりました。疱瘡について、典薬寮の者どもと話をしました」

宗運の眉が、わずかに動く。

惟種は続けた。

「その後、府内にて大友義武の反乱。伊東の侵攻。秋月、有馬、大村残党の呼応。肥前では龍造寺隆信の孤立謀反。南では肝付の島津侵攻がございました」

「それで」

「秋月は降伏。義武は捕縛、処断。隼人は救出。大友の名は残します。伊東は内より崩れ、首謀者を処断。肝付については島津と協議。日向、大隅は約定の通り島津に差配させる形を整えます。龍造寺隆信は城に火を放ち死亡。家宗は重傷ながら存命。龍造寺は家宗、鍋島信房、種茂を軸に残します」

惟種は、そこで一度息を継いだ。

「新吉郎は、宗運のもとで元服し、府内防衛にて功を上げました。正式に記録いたします」

新吉郎が、深く頭を下げる。

惟豊は、そこで初めて新吉郎を見た。

「よう働いた」

短い言葉だった。

だが、新吉郎の肩が震えた。

「ありがたき御言葉にございます」

「敵を斬るだけが功ではない。民を逃がし、火を防ぎ、道を守ったと聞く」

「はっ」

「ならば、それは阿蘇の功だ」

新吉郎は、深く頭を下げた。

惟豊は、次に戸次たちを見た。

「戸次、吉弘、吉岡、臼杵」

「はっ」

「大友の名を残すため、よう踏みとどまった」

戸次鑑連は、静かに頭を下げた。

「大友の名を焼かずに済みましたのは、阿蘇の御裁きあればこそにございます」

「隼人を守れ」

「命に代えましても」

惟豊は頷いた。

それで広間の話は終わった。

褒めるべき者を褒める。

裁きを示す。

今後の筋を伝える。

それだけでよい。

説教は、このような場でするものではない。

惟豊は、そういう男だった。

その夜。

府内館の奥に、小さな明かりがともっていた。

広間ではない。

家臣もいない。

戸次も、種茂も、新吉郎もいない。

いるのは三人だけである。

惟豊。

惟種。

宗運。

外では夜番の声が遠く聞こえる。

焼け跡の匂いはまだわずかに残っていたが、奥の間は静かだった。

惟豊は、しばらく何も言わなかった。

惟種は正座したまま、畳を見ている。

宗運も控えているが、その顔は昼よりもずっと冷静だった。

やがて、惟豊が口を開いた。

「さて」

その一言だけで、惟種の背筋が伸びた。

「そなた、阿蘇の荷をいくつ増やした」

声は荒くない。

だが、重かった。

惟種は深く頭を下げた。

「申し訳ございませぬ」

「謝れば軽くなる荷ではない」

「承知しております」

「朝廷の御沙汰。公方の御旗。疱瘡の話。南九州の再編。島津との婚儀の筋。大友、龍造寺の残し方。どれも阿蘇の先を変える」

「はい」

「結果として利があったことは認める」

惟豊は言った。

「だが、そなたは阿蘇の若君であって、阿蘇そのものではない」

惟種は、何も言えなかった。

惟豊の言うことは正しい。

帝の御前で失礼はできなかった。

公方様を突き放すこともできなかった。

九州静謐の大義は必要だった。

疱瘡の話も、黙っていられなかった。

だが、それでも阿蘇家の進む道を大きく変えたのは事実である。

惟豊は、静かに続けた。

「朝廷を助けることと、朝廷に食われることは違う」

「はい」

「公方様へ忠を尽くすことと、幕府の便利な手足になることも違う」

「はい」

「阿蘇は、阿蘇の国を太らせねばならぬ」

惟種は、深く頭を下げた。

「肝に銘じます」

そこで宗運が、ようやく口を開いた。

「若君」

「何だ」

「京へお送りしただけのはずが、なぜ朝廷の御沙汰を持ち帰るのですか」

「断れなかった」

「なぜ公方様の御旗まで増えているのですか」

「断れなかった」

「なぜ疱瘡の話まで広げているのですか」

「……言わねばならぬと思った」

「なぜ日向、大隅の話まで、婚儀の引出物に絡めて進めているのですか」

「それは前からの約定だ」

「若君」

宗運の声が冷えた。

「仕事を増やしすぎにございます」

惟種は、顔を上げられなかった。

「好きで増やしたわけではない」

「若君はいつもそう申されます」

「本当だ」

「本当だから困るのでございます」

宗運は、ため息をついた。

「得た札は強うございます。朝廷の御沙汰、公方様の御教書、三つの旗。これにより、九州の諸家は阿蘇を無視できませぬ」

「ならば」

「だからこそ、厄介なのでございます」

惟種は黙った。

宗運は続ける。

「朝廷は、これから阿蘇を見ます。銭を持つ家として。病に手を伸ばす家として。疱瘡をどうにかできるかもしれぬ家として」

惟豊の目も細くなる。

「幕府も同じにございます」

宗運は、義藤の方角を見るように少し目を伏せた。

「公方様は、若君を一番の忠臣と見ましょう。人として悪い御方ではございませぬ。されど、幕府という仕組みは違います」

「……分かっている」

「各地の調停を頼まれるかもしれませぬ。銭を求められるかもしれませぬ。兵を求められるかもしれませぬ。船を求められるかもしれませぬ」

宗運は、きっぱりと言った。

「このままでは、阿蘇は九州を治める前に、京の雑事で痩せます」

惟種は、ようやく顔を上げた。

「だから、対策を立てる」

「当然にございます」

惟種は息を吐いた。

「公方様は嫌いではない。むしろ、苦労人だと思っている。帝への敬意も偽りではない。朝廷を支える必要も分かっている」

それは、本心だった。

「だが、こちらにはこちらの予定がある。府内を戻し、肥前を締め、筑後を太らせ、南を整え、病の手も打たねばならぬ」

一拍。

「各地の調停役として、あちこち呼ばれるのは御免だ。無限に銭が出ると思われても困る」

宗運が、じっと惟種を見た。

惟種は、少し言いにくそうに続けた。

「正直、しばらく構わないでほしい」

奥の間に、少しだけ妙な沈黙が落ちた。

惟豊が、低く言った。

「本音が出たな」

「申し訳ございませぬ」

「いや、それでよい」

惟豊は、少しだけ息を吐いた。

「本音を隠したままでは、手は打てぬ」

三人だけの評定は、そこから実務へ移った。

まず、京に取次を置く。

朝廷と幕府からの用は、直接惟種へ通さない。

阿蘇の京詰め役を立て、文を受け、返答を整え、必要なものだけ府内と肥後へ送る。

惟豊が言った。

「惟種本人を、軽々しく呼ばせぬ」

「はい」

「呼ばれても、まずは文で返す。どうしても必要なら使者を送る。そなたが動くのは最後だ」

「承知しました」

ようやく、京との間に堤を築ける。

惟種は、心底そう思った。

京は嫌いではない。

帝も、公方様も、粗末にはできない。

だが、京の声がそのまま阿蘇の政へ流れ込めば、阿蘇の水路はすぐに溢れる。

堤が要る。

それが京詰め役だった。

次に、朝廷への献金である。

宗運が続けた。

「献金も定めましょう」

「年ごとに額を決めるか」

「はい。朝廷へは定めた額を献じる。飢饉、疫病、御所修理など、特別な時は別に相談。ただし、その都度いくらでも出す形にはしませぬ」

惟種は頷いた。

「無限の財布にされては困る」

「まことに」

惟豊も頷いた。

「朝廷を粗末にはせぬ。だが、阿蘇の蔵を空にしてまで飾るものではない」

惟種は、その言葉に少しだけ安堵した。

敬意と限度。

その二つを並べられるのが、父の強さであった。

次に、幕府への対応である。

宗運は、すでに案を持っていた。

「幕府の調停は、原則として文と使者にて受けます。阿蘇が動くのは、九州に関わるもの、あるいは公方様の御身に関わるものに限る」

「各地を転々と調停して回る気はない」

惟種が言う。

「そのように文面を整えます」

「公方様を傷つけぬようにな」

「承知しております」

義藤は嫌いではない。

だが、義藤の困りごとをすべて阿蘇が背負うわけにはいかない。

幕府の重さは、底がない。

それに付き合えば、阿蘇の国が痩せる。

そして、疱瘡の話になった。

その時だけ、惟種の顔つきが変わった。

宗運も、惟豊も、それに気づいた。

「疱瘡については」

宗運が言いかける。

惟種は静かに言った。

「これは、わしがやる」

奥の空気が変わった。

惟豊が問う。

「そなたが、か」

「はい」

「医者に任せるのではないのか」

「医者は育てます。帳も取らせます。病人の隔離、衣や寝具の扱い、看病役の分け方も広げます」

惟種は、そこで一度言葉を切った。

「ですが、疱瘡を防ぐ術そのものは、今の世の医者だけでは届きませぬ」

宗運の目が細くなる。

「若君は、届く道をご存じなのですね」

惟種は、すぐには答えなかった。

だが、否定もしなかった。

「道は知っている」

惟豊も宗運も黙った。

「ただし、危うい道だ。間違えれば人を殺す。急げば、阿蘇の医が信を失う。だから、わしが見る」

惟種の声は、いつになく硬かった。

「疱瘡は、戦より人を殺す。武士も民も関係ない。子供から死ぬ。生きても顔に痕が残る。目を失う者もいる」

奥の間が静まり返る。

「牛馬の病を探す」

「牛と馬、両方でございますか」

宗運が聞き返した。

「そうだ。名に引きずられてはならぬ」

惟種は、静かに言った。

「牛に出る軽い疱の病だけを見ればよいとは限らぬ。馬の脚や鼻面に出るただれ、厩で馬を扱う者、そこから牛へ移ったように見える病。すべて帳に取る」

惟豊の目が細くなる。

「馬が先、ということもあり得るのか」

「あり得ます」

惟種は頷いた。

「牛に出たものだけを追えば、道を誤るかもしれませぬ。乳を搾る者、牛を扱う者、馬を扱う者、疱の出た牛馬、疱瘡にかかって軽く済んだ者。そこをつなげて見る」

「それが、疱瘡を防ぐ術に」

「なるかもしれませぬ」

惟種は、慎重に言った。

「まだ、なるとは申せませぬ。だから試す。だが、人で試す前に、知れるだけを知らねばならぬ。ここを誤れば、人を救うどころか殺す」

奥の間が静まり返った。

疱瘡を防ぐ。

その言葉だけなら、ありがたい夢である。

だが、その夢へ至る道は細い。

牛か、馬か。

人へ用いてよいものか。

軽い病で済むのか。

それとも、触れてはならぬ毒なのか。

何もかも、調べねばならない。

惟豊は、じっと惟種を見ていた。

「そなた以外には、できぬのか」

惟種は、静かに頷いた。

「今は、できませぬ」

その一言は重かった。

「ならば、やるしかないな」

惟豊は言った。

責める声ではない。

当主の声だった。

「ただし、勝手に人を使うな。民を試しにするな。やるなら、阿蘇の名で責を負え」

「はい」

宗運も言った。

「極秘に進めます」

「いや」

惟種は首を振った。

「すべてを隠す必要はない。病の帳、隔離、看病の仕組みは広げる。だが、牛馬の疱を人に用いる話は、分かる者だけに絞る。下手に広げれば、薬ではなく呪いと思われる」

「承知しました」

「まずは厩の多い地、馬市、牛を多く飼う地。乳を扱う者、馬を扱う者、牛馬の疱の記録。疱瘡にかかって軽く済んだ者の聞き取り。そこからだ」

宗運は、すでに頭の中で人の配置を組み始めていた。

「これもまた、仕事が増えましたな」

「分かっている」

「ですが」

宗運は、そこで少しだけ声を和らげた。

「これは、増やすべき仕事にございます」

惟種は、わずかに目を伏せた。

「完成させる」

短い言葉だった。

「何としてでも」

惟豊も、宗運も、それ以上は言わなかった。

話は、夜更けまで続いた。

京取次の人選。

朝廷への定額献金。

幕府への返答の形。

疱瘡帳の整備。

厩と牛馬に出る疱の探索。

日向、大隅を島津に差配させる際の文面。

大友隼人の扱い。

龍造寺の立て直し。

新吉郎の功の記録。

どれも軽くない。

だが、三人で筋を通せば、荷は荷として背負える。

惟種は、そのことを少しずつ実感していた。

一人で持ち帰った荷は、重すぎた。

だが、父が重さを測り、宗運が縄を掛け、自分が背負う位置を決めれば、運べない荷ではなくなる。

やがて、惟豊が言った。

「よい」

それで評定は一区切りとなった。

惟種は、深く頭を下げた。

「父上」

「何だ」

「此度は、勝手が過ぎました」

「そうだな」

惟豊は即答した。

惟種は顔を伏せた。

だが、次の言葉は少し違った。

「だが、そなたでなければ得られぬものもあった」

惟種は顔を上げた。

「その分、背負え」

「はっ」

「阿蘇は朝廷を粗末にはせぬ。公方様への忠も違えぬ。だが、京に食われる家にもならぬ」

惟豊は、はっきりと言った。

「九州を太らせる。まずはそこだ」

宗運が深く頭を下げた。

「承知しました」

惟種も、同じく頭を下げる。

「承知しました」

奥の間を出るころには、夜は深かった。

府内の町には、まだ灯が少ない。

だが、阿蘇の者たちはもう知っている。

灯は増やせる。

道も作れる。

蔵も戻せる。

人も戻せる。

病にも、いつか手が届くかもしれない。

惟種は、廊の先から庭を見た。

三つの旗は、夜風の中で静かに揺れていた。

重すぎる土産だった。

だが、捨てることはできない。

朝廷の御沙汰。

公方の御旗。

九州静謐の任。

疱瘡を防ぐ道。

南九州の再編。

婚儀へ続く約定。

すべてが阿蘇の肩に乗っている。

帰りたい。

その思いは、まだある。

だが、帰ったところで荷は消えない。

ならば、背負い方を決めるしかない。

宗運が横に並んだ。

「若君」

「何だ」

「説教は、まだ半分にございます」

惟種は、心底嫌そうな顔をした。

「まだあるのか」

「もちろんにございます。ですが、今宵はここまでにしておきましょう」

「ありがたい」

「明日より、仕事で返していただきます」

惟種は、夜の府内を見た。

「分かっている」

その声は、もう逃げる者の声ではなかった。

重い荷を、どう背負うか決めた者の声だった。