作品タイトル不明
第百三十八話 残る火種
府内の火は、ひとまず消えた。
だが、九州はまだ静まっていない。
南には、肝付がある。
肥前には、龍造寺隆信がいる。
そして府内の内にも、戦の焼け跡は残っていた。
家を失った者。
逃げる途中で怪我をした者。
親を探す子。
焼け残った荷を抱えて泣く商人。
勝った。
だが、無傷ではない。
惟種は、そのことをよく分かっていた。
◇
掃討の最中、宗運が一人の若武者を連れてきた。
新吉郎である。
いや、正確には、もう新吉郎とだけ呼ぶべきではなかった。
此度の府内防衛に合わせ、元服を済ませていたからである。
本来ならば、惟種を烏帽子親として、落ち着いた場で元服させるはずだった。
だが、戦は待たなかった。
伊東が迫り、義武が隼人を幽閉し、秋月が呼応した。
府内が割れるかもしれぬ時に、子供のままでは前に出せない。
宗運は、やむなく式を前倒しした。
新吉郎は、宗運のもとで働いた。
敵将を華々しく討ち取ったわけではない。
大太刀を振るって名を上げたわけでもない。
だが、町の火付けを見つけて鐘を鳴らした。
避難する女房衆と子らを寺へ逃がした。
伊東方が使おうとした脇道を見つけ、宗運へ知らせた。
阿蘇の鉄砲衆へ火薬を運び、負傷者を下げ、伝令を途切れさせなかった。
そして一度、敵の小勢に道を塞がれた時、逃げる民を背にして踏みとどまった。
軽い傷も負っていた。
惟種は、その報告を聞き、しばらく新吉郎を見た。
「わしを烏帽子親にする話ではなかったか」
新吉郎は、顔を伏せた。
「申し訳ございませぬ」
答えたのは宗運だった。
「若君」
「何だ」
「府内も、元服の式を待ってはくれませなんだ」
惟種は、宗運を見た。
言いたいことはあった。
だが、言えなかった。
宗運の判断は正しい。
戦場へ子供を出すなら、子供のままにはしておけない。
名と責を与えねば、本人も周囲も扱いに迷う。
惟種は、新吉郎へ目を戻した。
「功は聞いた」
「はっ」
「敵を何人斬ったかではない。火を広げず、民を逃がし、道を守った。それは阿蘇の戦功だ」
新吉郎の肩が、わずかに震えた。
「ありがたき御言葉」
「式には間に合わなかった」
惟種は言った。
「だが、遅れた烏帽子親として、そなたの元服を認める」
新吉郎は、深く頭を下げた。
「この身、阿蘇のために」
「違う」
惟種は即座に言った。
新吉郎が顔を上げる。
「阿蘇だけではない。民を守るために働け」
新吉郎は、もう一度深く頭を下げた。
「はっ」
宗運は、その様子を静かに見ていた。
惟種は横目で宗運を見る。
「この件も説教か」
「若君が京で帰ってこられなかった件に比べれば、軽うございます」
「ならばよい」
「なくなるとは申しておりませぬ」
惟種は黙った。
◇
南では、肝付が島津へ攻め込んでいた。
だが、肝付の戦も長くは続かなかった。
肝付の狙いは悪くなかった。
阿蘇惟種は京。
九州各地で火が上がる。
島津は阿蘇と縁を結ぼうとしている。
ならば、その縁が固まる前に島津を叩く。
理屈だけなら、分からなくもない。
だが、肝付は読み違えた。
島津は弱くなかった。
新納忠元は、阿蘇で見たものを持ち帰っていた。
島津貴久も、阿蘇と敵対せぬ道を選んだ以上、南を軽くしてはいなかった。
そして何より、肝付家中が揺れた。
阿蘇が朝廷と幕府の御旗を帯びて戻った。
島津は阿蘇の盟である。
加世姫は、いずれ阿蘇へ入る。
つまり、肝付が島津を攻めることは、阿蘇の盟を乱し、九州静謐を乱すことになる。
肝付の国衆たちは震えた。
このまま従えば、家ごと逆賊になる。
島津に負けるだけなら、まだ交渉の余地がある。
だが、朝廷と幕府の御沙汰を帯びた阿蘇に敵と見なされれば、家名が残らない。
最初に兵糧を止めたのは、肝付方の支城の一つであった。
次に、道案内が島津へ通じた。
さらに、肝付の家臣の一部が阿蘇へ文を送った。
主の命には従った。
されど、朝廷、公方様の御沙汰に背く心はない。
島津へ兵を引く。
首謀の者を差し出す用意あり。
その文を見た時、惟種は言った。
「肝付も、家中から崩れたか」
宗運が静かに答える。
「家を残す者は、主を捨てる時もございます」
「嫌な世だな」
「されど、主が家を焼こうとするなら、止める者もまた忠にございます」
惟種は否定しなかった。
肝付への裁きは、島津と相談のうえで行うことになった。
島津の被害を無視して、阿蘇だけで裁くわけにはいかない。
だが、主導して侵攻した者たちの処断は避けられない。
理由は明らかだった。
島津を攻めたこと自体ではない。
九州静謐の御沙汰を受けた阿蘇の盟を乱し、その隙に戦を広げようとしたことが罪である。
◇
伊東と肝付の処理は、南九州の形を変えた。
日向。
大隅。
その二つを、これまで通り曖昧にしておくことはできない。
伊東は府内へ兵を入れた。
肝付は島津へ兵を入れた。
どちらも、阿蘇が京にある隙を突き、九州静謐を乱した。
ならば、裁かねばならない。
惟種は、島津貴久へ文を送った。
日向、大隅の静謐については、約定の通り、島津に差配を任せる。
伊東、肝付の旧領は、阿蘇と島津の協議により改める。
降る者は残せ。
民を焼く者は斬れ。
乱妨を禁じ、蔵と道を押さえ、年貢は急に重くするな。
家を残す者は用いよ。
ただし、此度の首謀者は許すな。
公の文では、そう記した。
だが、惟種は別に、島津貴久へ私的な一文を添えた。
約定より少し早うございますが、先に引出物をお渡しする形となりました。
日向、大隅、どうかよく治められたし。
書いてから、惟種は少しだけ顔をしかめた。
「少し早すぎるか」
宗運が横から覗き込む。
「婚儀の話に触れますか」
「触れぬわけにもいくまい」
「加世姫様がお聞きになれば、喜ばれましょうな」
「余計なことを言うな」
「照れておいでで」
「違う」
宗運は、薄く笑った。
惟種は咳払いをした。
「南を安んじるには、島津を柱にするのが早い。阿蘇が直接日向と大隅を抱えれば、手が足りぬ。島津なら治められる」
「はい」
「それに、約束は約束だ」
「婚儀の引出物にございますな」
「……政治の話だ」
「左様にございますな」
宗運の声は、少しも信じていなかった。
惟種は文を畳んだ。
少し早い。
だが、いずれ行うつもりだったことだ。
伊東と肝付が自ら火をつけた以上、南九州の再編をためらう理由はない。
これで島津は、阿蘇の南の柱となる。
そして加世との婚儀は、ただの縁談ではなく、九州の形を決める結びとなる。
◇
最後に残ったのは、肥前の火であった。
龍造寺隆信。
若く、勢いがあり、野心もあった。
だが、その野心は、この時、あまりに早すぎた。
隆信は家宗を斬った。
家宗は重傷を負ったが、命はつながった。
その報せが広がると、龍造寺の者たちはむしろ隆信から離れた。
理由は明らかだった。
龍造寺の筋は、阿蘇の内に残っていた。
種茂は惟種の側にいる。
鍋島信房も健在である。
家兼の遺言もある。
今、兵を挙げる理はない。
それでも家宗を斬ったのなら、それは家を立てるためではない。
己の名を立てるためである。
鍋島信房は激怒した。
「家兼様の御遺言を何と心得る!」
その声は、肥前の国衆にまで届いたという。
「種茂が若君の側におる。龍造寺の筋は切れておらぬ。今、兵を挙げる理由などない。隆信は、龍造寺を立てるのではない。龍造寺を焼こうとしておる!」
その言葉で、多くの者が動かなかった。
動かなかったことが、隆信を追い詰めた。
隆信のもとに集まった兵は少ない。
しかも、朝廷と幕府の御沙汰が九州へ入ったと聞くと、さらに減った。
隆信は、小城に籠った。
籠城というには、備えが薄い。
援軍もない。
兵糧も足りない。
周囲の国衆は見ているだけだった。
鍋島信房が城を囲んだ。
阿蘇からの文も届いた。
兵を解け。
家宗への刃については裁く。
だが、兵を降ろせば龍造寺の名は残す。
隆信は、その文を破ったという。
◇
城に火が上がったのは、夜だった。
誰かが攻め込んだのではない。
内から火が出た。
隆信は、自ら城に火を放った。
最後まで従った者は、ほんのわずかだった。
多くの兵は、火が回る前に逃げた。
逃げた者たちは、鍋島の兵に捕らえられた。
隆信は、燃える城の中で死んだ。
若すぎた。
だが、若さだけでは済まぬ刃を振るった。
家宗を斬った。
家兼の遺言を破った。
龍造寺の筋が阿蘇の内に残っていることを知りながら、兵を挙げた。
その野心は、誰にも支えられぬまま、煙になった。
その報せを聞いた時、種茂は長く黙っていた。
惟種は、何も言わなかった。
慰めの言葉は、軽すぎる。
やがて種茂が、低く言った。
「若君」
「何だ」
「龍造寺を、残していただけますか」
「残す」
惟種は即答した。
「隆信は裁かれるべき者だった。だが、龍造寺そのものを焼く理由はない。家宗が生きている。鍋島信房殿もいる。お前もいる」
種茂は深く頭を下げた。
「ありがたく」
「礼を言うな」
惟種は言った。
「家を残すなら、これからが地獄だ」
「心得ております」
種茂の声は、もう震えていなかった。
◇
掃討は、思ったより早く進んだ。
大きな合戦は少なかった。
理由は明らかだった。
反乱勢力は、それぞれ別の欲で動いていた。
義武は大友の名を欲した。
秋月は利を見た。
伊東は隙を突いた。
有馬、大村の残党は旧領を夢見た。
肝付は島津を叩こうとした。
隆信は己の名を立てようとした。
だが、彼らを束ねる理はなかった。
そこへ、阿蘇が三つの旗を掲げて戻った。
朝廷の御沙汰。
公方の御教書。
阿蘇の統治。
これらを前にした時、反乱勢力は一つにまとまるどころか、それぞれの家の中から崩れていった。
家を残したい者は降った。
民を守りたい者は阿蘇へ通じた。
理を失った者は捕らえられた。
なお火を放とうとした者は斬られた。
惟種は、ひとつひとつ裁いた。
降る者は残す。
首謀者は斬る。
民を焼いた者は許さない。
幼主を幽閉した者は許さない。
朝廷と公方の御沙汰を受けてもなお兵を解かぬ者は、逆賊として処す。
線は明確だった。
甘くはない。
だが、無差別でもない。
それが阿蘇の裁きだった。
◇
府内館の庭に、首実検の場が設けられた。
義武の首。
伊東方の首謀者たち。
火付けをした者。
乱妨を行った者。
有馬、大村残党のうち、村を焼いた者。
肝付方の侵攻を主導した者の名。
龍造寺隆信の死を記した文。
すべてが並ぶわけではない。
遠く南や肥前のものは、文で届く。
だが、その文もまた裁きの一部である。
惟種は、それらを見ても笑わなかった。
勝った顔ではなかった。
ただ、疲れた顔だった。
宗運がそばに立つ。
「若君」
「何だ」
「火は、消えましたな」
「見える火はな」
「はい」
「だが、焼け跡が残る」
宗運は頷いた。
惟種は庭の外を見た。
府内の町は、完全には無傷ではない。
焼けた家もある。
死んだ者もいる。
逃げた者もいる。
怯えた子もいる。
戦には勝った。
だが、国は痩せた。
それが、惟種には重かった。
「宗運」
「は」
「戦後処理だ」
「承知しております」
「隼人を戻す。大友の名は残す。だが、府内の警固はさらに締める。秋月には誓紙と人質。伊東には処断と再編。日向は島津と詰める。肝付は島津の裁きも聞く。大隅も同じだ。龍造寺は家宗と信房殿を軸に立て直す。有馬、大村残党は散らすな。集めて処理する」
「はい」
「新吉郎の働きも、正式に記せ」
「もちろんにございます」
「それから、疱瘡の帳も進めろ」
宗運の眉が動いた。
「この状況で、まだそれを」
「この状況だからだ」
惟種は言った。
「戦で人が動けば、病も動く」
宗運は、深く息を吐いた。
「まことに、仕事を増やされる」
「増えたのはわしのせいだけではない」
「では、半分ほどにしておきましょう」
「何をだ」
「説教にございます」
惟種は少しだけ顔をしかめた。
宗運は、ようやく小さく笑った。
◇
その日、府内には三つの旗がまだ立っていた。
阿蘇の旗。
公方の御旗。
朝廷の白き御旗。
反乱は、ほとんど大きな合戦にならぬまま潰えた。
それは、阿蘇の武が強かったからだけではない。
阿蘇の統治が民を動かさなかった。
大友の名を残したことで、忠ある旧臣が義武へ流れなかった。
朝廷と幕府の名分が、諸家に逆賊となる恐怖を与えた。
降る道を示したことで、家を残したい者が首謀者を差し出した。
そして、民を乱す者だけを斬るという線が、阿蘇の裁きを明確にした。
だから、反乱は燃え広がらなかった。
火種は確かにあった。
だが、阿蘇が積み上げてきたものは、その火種に薪を与えなかったのである。
惟種は、三つの旗を見上げた。
ありがたい旗だった。
同時に、重い旗だった。
これを掲げた以上、阿蘇はもう、ただ勝てばよい家ではない。
九州を静め、民を安んじ、病を抑え、国を太らせねばならない。
さらに、南には島津がある。
加世がいる。
少し早すぎる引出物を、もう渡してしまった。
惟種は、静かに息を吐いた。
「終わりではないな」
宗運が隣で答えた。
「始まりにございます」
惟種は頷いた。
府内の風が、三つの旗を揺らしていた。