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作品タイトル不明

第百三十八話 残る火種

府内の火は、ひとまず消えた。

だが、九州はまだ静まっていない。

南には、肝付がある。

肥前には、龍造寺隆信がいる。

そして府内の内にも、戦の焼け跡は残っていた。

家を失った者。

逃げる途中で怪我をした者。

親を探す子。

焼け残った荷を抱えて泣く商人。

勝った。

だが、無傷ではない。

惟種は、そのことをよく分かっていた。

掃討の最中、宗運が一人の若武者を連れてきた。

新吉郎である。

いや、正確には、もう新吉郎とだけ呼ぶべきではなかった。

此度の府内防衛に合わせ、元服を済ませていたからである。

本来ならば、惟種を烏帽子親として、落ち着いた場で元服させるはずだった。

だが、戦は待たなかった。

伊東が迫り、義武が隼人を幽閉し、秋月が呼応した。

府内が割れるかもしれぬ時に、子供のままでは前に出せない。

宗運は、やむなく式を前倒しした。

新吉郎は、宗運のもとで働いた。

敵将を華々しく討ち取ったわけではない。

大太刀を振るって名を上げたわけでもない。

だが、町の火付けを見つけて鐘を鳴らした。

避難する女房衆と子らを寺へ逃がした。

伊東方が使おうとした脇道を見つけ、宗運へ知らせた。

阿蘇の鉄砲衆へ火薬を運び、負傷者を下げ、伝令を途切れさせなかった。

そして一度、敵の小勢に道を塞がれた時、逃げる民を背にして踏みとどまった。

軽い傷も負っていた。

惟種は、その報告を聞き、しばらく新吉郎を見た。

「わしを烏帽子親にする話ではなかったか」

新吉郎は、顔を伏せた。

「申し訳ございませぬ」

答えたのは宗運だった。

「若君」

「何だ」

「府内も、元服の式を待ってはくれませなんだ」

惟種は、宗運を見た。

言いたいことはあった。

だが、言えなかった。

宗運の判断は正しい。

戦場へ子供を出すなら、子供のままにはしておけない。

名と責を与えねば、本人も周囲も扱いに迷う。

惟種は、新吉郎へ目を戻した。

「功は聞いた」

「はっ」

「敵を何人斬ったかではない。火を広げず、民を逃がし、道を守った。それは阿蘇の戦功だ」

新吉郎の肩が、わずかに震えた。

「ありがたき御言葉」

「式には間に合わなかった」

惟種は言った。

「だが、遅れた烏帽子親として、そなたの元服を認める」

新吉郎は、深く頭を下げた。

「この身、阿蘇のために」

「違う」

惟種は即座に言った。

新吉郎が顔を上げる。

「阿蘇だけではない。民を守るために働け」

新吉郎は、もう一度深く頭を下げた。

「はっ」

宗運は、その様子を静かに見ていた。

惟種は横目で宗運を見る。

「この件も説教か」

「若君が京で帰ってこられなかった件に比べれば、軽うございます」

「ならばよい」

「なくなるとは申しておりませぬ」

惟種は黙った。

南では、肝付が島津へ攻め込んでいた。

だが、肝付の戦も長くは続かなかった。

肝付の狙いは悪くなかった。

阿蘇惟種は京。

九州各地で火が上がる。

島津は阿蘇と縁を結ぼうとしている。

ならば、その縁が固まる前に島津を叩く。

理屈だけなら、分からなくもない。

だが、肝付は読み違えた。

島津は弱くなかった。

新納忠元は、阿蘇で見たものを持ち帰っていた。

島津貴久も、阿蘇と敵対せぬ道を選んだ以上、南を軽くしてはいなかった。

そして何より、肝付家中が揺れた。

阿蘇が朝廷と幕府の御旗を帯びて戻った。

島津は阿蘇の盟である。

加世姫は、いずれ阿蘇へ入る。

つまり、肝付が島津を攻めることは、阿蘇の盟を乱し、九州静謐を乱すことになる。

肝付の国衆たちは震えた。

このまま従えば、家ごと逆賊になる。

島津に負けるだけなら、まだ交渉の余地がある。

だが、朝廷と幕府の御沙汰を帯びた阿蘇に敵と見なされれば、家名が残らない。

最初に兵糧を止めたのは、肝付方の支城の一つであった。

次に、道案内が島津へ通じた。

さらに、肝付の家臣の一部が阿蘇へ文を送った。

主の命には従った。

されど、朝廷、公方様の御沙汰に背く心はない。

島津へ兵を引く。

首謀の者を差し出す用意あり。

その文を見た時、惟種は言った。

「肝付も、家中から崩れたか」

宗運が静かに答える。

「家を残す者は、主を捨てる時もございます」

「嫌な世だな」

「されど、主が家を焼こうとするなら、止める者もまた忠にございます」

惟種は否定しなかった。

肝付への裁きは、島津と相談のうえで行うことになった。

島津の被害を無視して、阿蘇だけで裁くわけにはいかない。

だが、主導して侵攻した者たちの処断は避けられない。

理由は明らかだった。

島津を攻めたこと自体ではない。

九州静謐の御沙汰を受けた阿蘇の盟を乱し、その隙に戦を広げようとしたことが罪である。

伊東と肝付の処理は、南九州の形を変えた。

日向。

大隅。

その二つを、これまで通り曖昧にしておくことはできない。

伊東は府内へ兵を入れた。

肝付は島津へ兵を入れた。

どちらも、阿蘇が京にある隙を突き、九州静謐を乱した。

ならば、裁かねばならない。

惟種は、島津貴久へ文を送った。

日向、大隅の静謐については、約定の通り、島津に差配を任せる。

伊東、肝付の旧領は、阿蘇と島津の協議により改める。

降る者は残せ。

民を焼く者は斬れ。

乱妨を禁じ、蔵と道を押さえ、年貢は急に重くするな。

家を残す者は用いよ。

ただし、此度の首謀者は許すな。

公の文では、そう記した。

だが、惟種は別に、島津貴久へ私的な一文を添えた。

約定より少し早うございますが、先に引出物をお渡しする形となりました。

日向、大隅、どうかよく治められたし。

書いてから、惟種は少しだけ顔をしかめた。

「少し早すぎるか」

宗運が横から覗き込む。

「婚儀の話に触れますか」

「触れぬわけにもいくまい」

「加世姫様がお聞きになれば、喜ばれましょうな」

「余計なことを言うな」

「照れておいでで」

「違う」

宗運は、薄く笑った。

惟種は咳払いをした。

「南を安んじるには、島津を柱にするのが早い。阿蘇が直接日向と大隅を抱えれば、手が足りぬ。島津なら治められる」

「はい」

「それに、約束は約束だ」

「婚儀の引出物にございますな」

「……政治の話だ」

「左様にございますな」

宗運の声は、少しも信じていなかった。

惟種は文を畳んだ。

少し早い。

だが、いずれ行うつもりだったことだ。

伊東と肝付が自ら火をつけた以上、南九州の再編をためらう理由はない。

これで島津は、阿蘇の南の柱となる。

そして加世との婚儀は、ただの縁談ではなく、九州の形を決める結びとなる。

最後に残ったのは、肥前の火であった。

龍造寺隆信。

若く、勢いがあり、野心もあった。

だが、その野心は、この時、あまりに早すぎた。

隆信は家宗を斬った。

家宗は重傷を負ったが、命はつながった。

その報せが広がると、龍造寺の者たちはむしろ隆信から離れた。

理由は明らかだった。

龍造寺の筋は、阿蘇の内に残っていた。

種茂は惟種の側にいる。

鍋島信房も健在である。

家兼の遺言もある。

今、兵を挙げる理はない。

それでも家宗を斬ったのなら、それは家を立てるためではない。

己の名を立てるためである。

鍋島信房は激怒した。

「家兼様の御遺言を何と心得る!」

その声は、肥前の国衆にまで届いたという。

「種茂が若君の側におる。龍造寺の筋は切れておらぬ。今、兵を挙げる理由などない。隆信は、龍造寺を立てるのではない。龍造寺を焼こうとしておる!」

その言葉で、多くの者が動かなかった。

動かなかったことが、隆信を追い詰めた。

隆信のもとに集まった兵は少ない。

しかも、朝廷と幕府の御沙汰が九州へ入ったと聞くと、さらに減った。

隆信は、小城に籠った。

籠城というには、備えが薄い。

援軍もない。

兵糧も足りない。

周囲の国衆は見ているだけだった。

鍋島信房が城を囲んだ。

阿蘇からの文も届いた。

兵を解け。

家宗への刃については裁く。

だが、兵を降ろせば龍造寺の名は残す。

隆信は、その文を破ったという。

城に火が上がったのは、夜だった。

誰かが攻め込んだのではない。

内から火が出た。

隆信は、自ら城に火を放った。

最後まで従った者は、ほんのわずかだった。

多くの兵は、火が回る前に逃げた。

逃げた者たちは、鍋島の兵に捕らえられた。

隆信は、燃える城の中で死んだ。

若すぎた。

だが、若さだけでは済まぬ刃を振るった。

家宗を斬った。

家兼の遺言を破った。

龍造寺の筋が阿蘇の内に残っていることを知りながら、兵を挙げた。

その野心は、誰にも支えられぬまま、煙になった。

その報せを聞いた時、種茂は長く黙っていた。

惟種は、何も言わなかった。

慰めの言葉は、軽すぎる。

やがて種茂が、低く言った。

「若君」

「何だ」

「龍造寺を、残していただけますか」

「残す」

惟種は即答した。

「隆信は裁かれるべき者だった。だが、龍造寺そのものを焼く理由はない。家宗が生きている。鍋島信房殿もいる。お前もいる」

種茂は深く頭を下げた。

「ありがたく」

「礼を言うな」

惟種は言った。

「家を残すなら、これからが地獄だ」

「心得ております」

種茂の声は、もう震えていなかった。

掃討は、思ったより早く進んだ。

大きな合戦は少なかった。

理由は明らかだった。

反乱勢力は、それぞれ別の欲で動いていた。

義武は大友の名を欲した。

秋月は利を見た。

伊東は隙を突いた。

有馬、大村の残党は旧領を夢見た。

肝付は島津を叩こうとした。

隆信は己の名を立てようとした。

だが、彼らを束ねる理はなかった。

そこへ、阿蘇が三つの旗を掲げて戻った。

朝廷の御沙汰。

公方の御教書。

阿蘇の統治。

これらを前にした時、反乱勢力は一つにまとまるどころか、それぞれの家の中から崩れていった。

家を残したい者は降った。

民を守りたい者は阿蘇へ通じた。

理を失った者は捕らえられた。

なお火を放とうとした者は斬られた。

惟種は、ひとつひとつ裁いた。

降る者は残す。

首謀者は斬る。

民を焼いた者は許さない。

幼主を幽閉した者は許さない。

朝廷と公方の御沙汰を受けてもなお兵を解かぬ者は、逆賊として処す。

線は明確だった。

甘くはない。

だが、無差別でもない。

それが阿蘇の裁きだった。

府内館の庭に、首実検の場が設けられた。

義武の首。

伊東方の首謀者たち。

火付けをした者。

乱妨を行った者。

有馬、大村残党のうち、村を焼いた者。

肝付方の侵攻を主導した者の名。

龍造寺隆信の死を記した文。

すべてが並ぶわけではない。

遠く南や肥前のものは、文で届く。

だが、その文もまた裁きの一部である。

惟種は、それらを見ても笑わなかった。

勝った顔ではなかった。

ただ、疲れた顔だった。

宗運がそばに立つ。

「若君」

「何だ」

「火は、消えましたな」

「見える火はな」

「はい」

「だが、焼け跡が残る」

宗運は頷いた。

惟種は庭の外を見た。

府内の町は、完全には無傷ではない。

焼けた家もある。

死んだ者もいる。

逃げた者もいる。

怯えた子もいる。

戦には勝った。

だが、国は痩せた。

それが、惟種には重かった。

「宗運」

「は」

「戦後処理だ」

「承知しております」

「隼人を戻す。大友の名は残す。だが、府内の警固はさらに締める。秋月には誓紙と人質。伊東には処断と再編。日向は島津と詰める。肝付は島津の裁きも聞く。大隅も同じだ。龍造寺は家宗と信房殿を軸に立て直す。有馬、大村残党は散らすな。集めて処理する」

「はい」

「新吉郎の働きも、正式に記せ」

「もちろんにございます」

「それから、疱瘡の帳も進めろ」

宗運の眉が動いた。

「この状況で、まだそれを」

「この状況だからだ」

惟種は言った。

「戦で人が動けば、病も動く」

宗運は、深く息を吐いた。

「まことに、仕事を増やされる」

「増えたのはわしのせいだけではない」

「では、半分ほどにしておきましょう」

「何をだ」

「説教にございます」

惟種は少しだけ顔をしかめた。

宗運は、ようやく小さく笑った。

その日、府内には三つの旗がまだ立っていた。

阿蘇の旗。

公方の御旗。

朝廷の白き御旗。

反乱は、ほとんど大きな合戦にならぬまま潰えた。

それは、阿蘇の武が強かったからだけではない。

阿蘇の統治が民を動かさなかった。

大友の名を残したことで、忠ある旧臣が義武へ流れなかった。

朝廷と幕府の名分が、諸家に逆賊となる恐怖を与えた。

降る道を示したことで、家を残したい者が首謀者を差し出した。

そして、民を乱す者だけを斬るという線が、阿蘇の裁きを明確にした。

だから、反乱は燃え広がらなかった。

火種は確かにあった。

だが、阿蘇が積み上げてきたものは、その火種に薪を与えなかったのである。

惟種は、三つの旗を見上げた。

ありがたい旗だった。

同時に、重い旗だった。

これを掲げた以上、阿蘇はもう、ただ勝てばよい家ではない。

九州を静め、民を安んじ、病を抑え、国を太らせねばならない。

さらに、南には島津がある。

加世がいる。

少し早すぎる引出物を、もう渡してしまった。

惟種は、静かに息を吐いた。

「終わりではないな」

宗運が隣で答えた。

「始まりにございます」

惟種は頷いた。

府内の風が、三つの旗を揺らしていた。