軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百三十七話 裁きの旗

府内へ入った三つの旗は、戦場の空気を変えた。

阿蘇の旗。

公方の御旗。

禁裏より賜った白き御旗。

その三つが港に立った時、府内で起きていた兵乱は、ただの反阿蘇ではなくなった。

阿蘇を嫌う者たちの戦ではない。

九州静謐を乱す者たちの戦になった。

惟種は、船を下りるとすぐに命じた。

「文を出せ」

種茂が筆と板を用意する。

親英は港を押さえ、戸次鑑連は旧大友の者たちを集める。

宗運は、疲れた顔で惟種の前に出た。

その顔を見た瞬間、惟種は少しだけ身構えた。

説教が来る。

そう思った。

だが、宗運はまだ何も言わなかった。

「若君」

「何だ」

「まずは火を消します」

「うむ」

「説教は、その後にございます」

「……やはりあるのか」

「当然です」

惟種は何も言えなかった。

宗運は静かに続けた。

「ですが、今はそれどころではございませぬ」

その通りだった。

府内は持ちこたえている。

だが、完全に静まったわけではない。

義武は隼人を幽閉した。

伊東は府内へ迫った。

秋月は北より圧をかけた。

有馬、大村の残党も集まっている。

火は多い。

だが、燃え広がってはいない。

ならば、消せる。

惟種は、府内館の庭に三つの旗を立てた。

阿蘇の旗。

公方の御旗。

朝廷の白き御旗。

その前に、降伏勧告の文が置かれる。

庭には、阿蘇の者だけではない。

吉弘鑑理。

吉岡長増。

臼杵鑑速。

旧大友の重臣たちもいた。

彼らは、三つの旗を見ていた。

ただの布ではない。

これから阿蘇が下す裁きの形を決める旗である。

惟種は言った。

「朝廷の御沙汰、公方様の御教書、そして阿蘇の名において告げる」

声は高くない。

だが、庭に集まった者たちの耳へまっすぐ届いた。

「兵を捨て、民を乱さず、首謀者を差し出す者は残す」

旧大友の者たちが息を呑む。

「所領も、名も、働き次第で改めて見る。阿蘇は、降る者をむやみに斬る家ではない」

そこで、惟種の声が冷えた。

「だが、隼人を幽閉した者。民へ火を放った者。降伏の道を知りながら兵を集めた者。朝廷と公方様の御沙汰に背き、なお九州を乱す者は斬る」

沈黙。

「これは阿蘇の私戦ではない」

惟種は、三つの旗を見上げた。

「九州静謐を乱す者への討伐である」

その文は、すぐに各所へ送られた。

義武方へ。

秋月へ。

伊東方へ。

有馬、大村の残党へ。

肥前の龍造寺筋へ。

南の島津と肝付の境へ。

ただの脅しではない。

降る道を示す文であり、同時に逃げ道を塞ぐ文でもあった。

最初に折れたのは、秋月であった。

秋月方の使者は、夜を待たず府内へ入った。

馬は泥にまみれ、使者の顔色は悪かった。

だが、その判断は早い。

「秋月は、兵を引きます」

使者は深く頭を下げた。

「此度は義武様よりの文に応じ、兵を出しました。されど、隼人様が幽閉されたこと、公方様の御教書ならびに朝廷の御旗が府内へ入ったことを知り、これ以上の加担に理なしと判断いたしました」

惟種は、使者を見た。

「早いな」

「早くなければ、家が残りませぬ」

使者は正直だった。

「秋月は、阿蘇と戦いたいわけではございませぬ。まして朝廷、公方様の御沙汰に背きたいわけでもございませぬ」

「ならば、なぜ動いた」

「阿蘇の若君が京にあり、府内が割れると思ったからにございます」

庭が静まった。

使者は、額を畳につけた。

「読み違えました」

惟種は、その一言を聞いた。

秋月の判断は利である。

義ではない。

だが、今この場で必要なのは、無駄な血を流させないことだった。

「兵を引け」

「はっ」

「義武方へ米も兵も出すな。逃げる者を匿うな。首謀者が秋月へ逃げ込めば、捕らえて差し出せ」

「承知いたしました」

「従うなら、秋月の名は残す」

使者は深く頭を下げた。

「ありがたき御裁定にございます」

こうして、北の火は大きくならぬまま萎んだ。

理由は明らかだった。

秋月は、阿蘇に勝てぬと見たからだけではない。

阿蘇と戦えば、朝廷と幕府の御沙汰に背くことになると悟ったからである。

家を残す者は、そこで退く。

義武方の崩れは、さらに早かった。

大友義武は、大友の名を掲げていた。

だが、隼人を幽閉した時点で、その名は軽くなっていた。

吉弘鑑理は、義武のもとへ最後の文を送った。

隼人様を解き放て。

兵を解け。

阿蘇の前に出て、裁きを受けよ。

今なら、大友の名は残る。

隼人様を害すれば、大友の名はそこで死ぬ。

吉岡長増も、同じく文を送った。

義武様。

それは大友再興ではございませぬ。

大友の名を私物にする謀反にございます。

隼人様に罪はなく、阿蘇はその名を残すと申しております。

ここで抗えば、大友を滅ぼすのは阿蘇ではなく、貴方様でございます。

臼杵鑑速は、兵を動かした。

ただし、義武を助けるためではない。

義武方へ流れかけた旧臣たちを止めるためである。

「大友の名で民を焼くな」

臼杵は、そう言った。

「それをすれば、もはや大友の臣ではない」

義武の陣は、日に日に薄くなった。

理由は明らかだった。

義武に従えば、大友を守るのではなく、隼人を幽閉した逆臣に従うことになる。

しかも、朝廷と幕府の旗を掲げた阿蘇が戻ってきた。

ここで義武に殉じれば、家ごと逆賊になる。

家を残したい者は、去った。

旧恩に揺れる者も、吉弘や吉岡の文で踏みとどまった。

所領欲しさの者だけが残った。

その数は、驚くほど少なかった。

大友義武が捕らえられたのは、戦場ではなかった。

逃げようとした途中である。

府内の外れ、古い寺の裏手で、義武は近習に囲まれていた。

だが、その近習のうち二人が、夜半に阿蘇へ通じた。

理由は簡単であった。

隼人を殺す命が出たからである。

義武は追い詰められていた。

阿蘇が戻った。

秋月が引いた。

吉弘たちは動かない。

伊東も府内を落とせない。

ならば、隼人を殺し、大友の名を自分だけのものにする。

そう考えた。

その瞬間、近習たちは義武を見限った。

隼人を害せば、大友は終わる。

それが分かったからである。

阿蘇兵が寺を囲んだ時、ほとんど戦いは起こらなかった。

義武は叫んだ。

「我こそ大友の血ぞ!」

だが、誰も続かなかった。

戸次鑑連が、輿に乗ったまま進み出た。

その目は、氷のように冷たかった。

「大友の血を申されるなら、なぜ隼人様を縛った」

義武は言葉を失った。

戸次は続けた。

「なぜ、民を戦へ巻き込んだ。なぜ、大友の名を使い、己の兵を集めた」

「鑑連、貴様……」

「某は大友の臣にございます」

戸次の声は揺れない。

「されど、貴方様の臣ではございませぬ」

義武はそこで崩れた。

縄を打たれる時も、まともな抵抗はなかった。

大友義武の反乱は、戦ではなく、名分の崩壊で終わった。

隼人は、ほどなく救い出された。

幼い顔は青ざめていた。

だが、大きな傷はない。

吉岡長増が、声を詰まらせて頭を下げた。

「隼人様……」

隼人は、何も分かっていないようで、それでも何かが恐ろしかったことだけは分かっていた。

惟種は、膝をついて目線を合わせた。

「怖かったか」

隼人は、小さく頷いた。

「そうか」

惟種は、声を柔らかくした。

「もうよい。お前に罪はない」

戸次が深く頭を下げた。

吉弘も、吉岡も、臼杵も、同じく頭を下げた。

惟種は立ち上がり、彼らを見た。

「大友の名は残す」

その一言で、重臣たちの肩がわずかに落ちた。

「だが、義武は斬る」

惟種の声は、静かだった。

「隼人を幽閉し、大友の名を私物にし、民を乱した。許す理由がない」

誰も異を唱えなかった。

むしろ、戸次が静かに言った。

「それが、理にございます」

義武の処断は、その日のうちに決まった。

大友は残す。

隼人は残す。

忠を保った重臣も残す。

だが、大友の名を食った者は斬る。

それが阿蘇の裁きだった。

伊東方の崩れは、義武捕縛の報せとともに始まった。

伊東勢は、府内を落とせなかった。

宗運が守り、阿蘇の常備兵が支え、大筒と鉄砲が前を削った。

秋月は引いた。

義武は捕らえられた。

有馬、大村の残党も、兵糧を失いつつあった。

さらに、阿蘇惟種が三つの旗を掲げて戻った。

この時点で、伊東勢に勝ち筋は消えていた。

それでも伊東の将は退けなかった。

退けば、伊東家中で責を問われる。

進めば、阿蘇に撃たれる。

残れば、逆賊である。

袋の中であった。

最初に裏切ったのは、伊東方に従っていた小国衆だった。

彼らは、阿蘇へ文を送った。

伊東に従って兵を出したのは、圧によりやむを得ず。

民を焼く意図はなく、朝廷と公方様の御沙汰に背く心もなし。

兵を引き、首謀の者を差し出す。

惟種は、その文を読んで言った。

「首謀者を差し出すなら残す」

宗運が頷いた。

「見せしめは」

「必要な者だけだ」

惟種は答えた。

「全て斬れば、次は誰も降れなくなる」

「承知しました」

そして伊東方の陣は、内側から裂けた。

国衆は逃げた。

兵糧係が蔵の鍵を持って阿蘇へ走った。

道案内が消えた。

夜番が門を開けた。

伊東の将は、夜明け前に捕らえられた。

自らの家臣によってである。

理由は単純だった。

これ以上従えば、一族郎党が逆賊になる。

それだけである。

伊東勢の兵は、武器を捨てさせられた。

民へ火を放った者。

乱妨を行った者。

降伏勧告の後も抵抗した者。

それらは選び出された。

首謀者は斬首。

従っただけの兵は、所領へ戻す前に誓紙を書かせた。

伊東の侵攻は、戦場で敗れたというより、家中から売られて終わった。

有馬、大村の残党は、さらに哀れだった。

主を失い、帰る城も乏しく、義武の旗と秋月の呼びかけに寄った者たちである。

彼らは、府内が燃えれば混乱に紛れて旧領へ戻れると思っていた。

阿蘇の兵が散れば、肥前も揺れると思っていた。

だが、府内は燃えなかった。

秋月は降った。

義武は捕らえられた。

龍造寺隆信も孤立しているという。

残党たちは、最後まで一つにまとまれなかった。

ある者は逃げた。

ある者は伊東方に紛れた。

ある者は山へ入った。

惟種は命じた。

「降る者は縛って連れてこい。火付け、乱妨、村を荒らした者は斬れ。逃げて山賊になる者は、見つけ次第討て」

甘い処置ではない。

だが、理由は明らかだった。

彼らはすでに一度、降伏の道を拒み、残党として民を乱す道を選んでいる。

ここで見逃せば、また別の村が焼ける。

惟種はそれを許さなかった。

府内の火は、消えた。

見える火は。

義武は捕らえられた。

隼人は救い出された。

秋月は退いた。

伊東勢は崩れた。

有馬、大村の残党も散り始めた。

だが、町には焼け跡が残っている。

家を失った者がいる。

逃げる途中で怪我をした者がいる。

戻らぬ者もいる。

戦には勝った。

だが、国は痩せた。

惟種は、府内館の庭に立つ三つの旗を見上げた。

ありがたい旗だった。

同時に、重い旗だった。

これを掲げた以上、阿蘇はただ敵を討てばよい家ではない。

降る者を残す。

民を焼く者を斬る。

家を残し、国を戻す。

それが裁きである。

宗運が、横に立った。

「若君」

「何だ」

「府内の火は、ひとまず消えました」

「南と肥前は」

「まだ燃えております」

惟種は頷いた。

裁きの旗は、府内だけで終わるものではない。

火は、まだ九州の南と肥前に残っている。

惟種は、静かに言った。

「続けるぞ」

宗運は深く頭を下げた。

「承知しております」