作品タイトル不明
第百三十四話 火は待たぬ
帰る。
そう決めていた。
朝廷より九州静謐の御沙汰を賜った。
ありがたい。
それは本当にありがたい。
九州を鎮めるには、名分が要る。
阿蘇が勝手に兵を動かすのではない。
朝廷の名において、九州を静める。
その札は重い。
あまりにも重い。
だからこそ、惟種は一刻も早く九州へ戻りたかった。
府内。
豊後。
筑後。
肥前。
南の伊東、肝付。
大友義武。
田原。
秋月。
有馬、大村の残党。
火種は、いくらでも転がっている。
御沙汰をいただいた以上、もはや火種をわざと泳がせる手は使いにくい。
宗運と練っていた筋は、組み直さねばならぬ。
綸旨を掲げる。
降る道を示す。
それでも民を乱す者だけを討つ。
急がねばならない。
惟種は、そう思っていた。
だが、京は帰してくれなかった。
◇
「もう数日、留まってくれぬか」
義藤は、悪びれずに言った。
惟種は、畳へ手をついたまま、心の中で深く息を吐いた。
またか。
もちろん、顔には出さない。
「公方様」
「分かっておる。阿蘇には阿蘇の政があるのであろう」
「はい」
「だが、三好との和は成ったばかりだ。まだ京の者どもも腹を探っておる。そなたがいてくれれば、軽々しく波風を立てる者も減る」
義藤の言うことは正しい。
正しいから困る。
三好は講和した。
だが、講和したからといって、京が一日で安らぐわけではない。
幕臣にも、公家にも、三好方にも、それぞれ腹がある。
そこに阿蘇勢五百が公方警固としているだけで、確かに場は締まる。
惟種は、丁寧に頭を下げた。
「数日であれば」
義藤は少し笑った。
「助かる」
数日。
その時、惟種は本当に数日で済むと思っていた。
◇
済まなかった。
朝廷から、次の使いが来た。
九州静謐の御沙汰について、文言を整える必要があるという。
阿蘇惟豊の名をどう入れるか。
九州探題の名をどう扱うか。
公方の意向と朝廷の御沙汰を、どう矛盾なく並べるか。
惟種は、断れなかった。
次に、献金への礼の品と文が整えられるという。
これも、阿蘇家として受けねばならない。
さらに、疱瘡の件で典薬寮の者が話を聞きたいという。
これも、断れなかった。
惟種が帝の御前で、病を帳に残し、医を育てると申したからである。
言った以上、知らぬ顔はできない。
典薬寮の医官。
薬師。
僧医。
陰陽寮に近い者。
次々と惟種のもとへ来た。
「阿蘇では、疱瘡の者をどう離すのか」
「病の出た村を、どのように帳へ残すのか」
「生き延びた者は、また疱瘡にかかりにくいと見ておるのか」
「牛の病と人の疱瘡に、何か関わりがあると申されたとか」
惟種は、慎重に答えた。
言えること。
まだ言えないこと。
言っても理解されないこと。
今言えば危ういこと。
それらを分ける。
疱瘡を根から断つ術には、まだ届かない。
だが、道はある。
あるはずだ。
病人を離す。
看る者を限る。
衣や寝具を焼くか、煮るか、日へ当てる。
湯と灰と石鹸で手を洗う。
病の出た日、広がった家、死んだ者、生き延びた者を記す。
疱瘡を越えた者を看病役に回す。
牛に出る軽い疱の病を探す。
そこまで話すと、医官たちは顔を見合わせた。
「牛、にございますか」
「はい」
「牛の病を、人に用いると」
「まだ用いるとは申しておりませぬ」
惟種は即座に言った。
「まず探すのです。確かめるのです。急げば人が死にます。誤れば、医が信を失います」
医官たちは黙った。
惟種は、そこだけは強く言った。
「病に勝とうとして、民を試しに使ってはなりませぬ」
その言葉に、年嵩の僧医が深く頭を下げた。
「阿蘇殿は、怖いことを考えなさる」
「はい」
惟種は否定しなかった。
「怖いから、帳が要るのです」
◇
そうしているうちに、数日は十日になった。
十日は二十日になった。
京では、阿蘇の名がさらに広がった。
公方を守った九州探題。
三好と無用な戦を広げず、和へ運んだ若君。
朝廷へ二万疋を献じた阿蘇。
帝の御前で私欲を求めず、九州静謐を任された童。
疱瘡にまで手を伸ばす、医と帳の武士。
噂は、惟種が望まぬ方へ育っていく。
義藤は感心した。
公家たちは感嘆した。
医官たちは恐れ混じりに惟種を見た。
三好方は警戒を深めた。
惟種だけが、日ごとに顔を渋くした。
「まだ帰れぬのか」
種茂が、帳面を抱えて控えながら言った。
「若君、声が漏れております」
「漏らした」
「漏らしてよいものではございませぬ」
「知っている」
惟種は、京の空を見た。
春は深まっている。
風は悪くない。
船も整っている。
親英は、いつでも出せるように支度を進めている。
それなのに、帰れない。
戸次鑑連は、静かに言った。
「京とは、こういうところにございます」
「面倒だな」
「はい」
戸次は、あっさり頷いた。
惟種は思わず戸次を見た。
「否定せぬのか」
「某も、早く府内へ戻りとうございます」
その声に、わずかな苦さがあった。
大友隼人。
府内。
旧大友の者たち。
火種。
戸次にとっても、京は落ち着かぬ場所だった。
◇
一月が過ぎようとしていた。
ようやく、朝廷の文も整った。
義藤も、渋々ながら阿蘇の帰国を認めた。
疱瘡についての覚書もまとめ、京に残る医官と、阿蘇へ向かわせる薬師の候補も決まった。
惟種は、ようやく胸を撫で下ろした。
帰れる。
今度こそ、帰れる。
そう思った日の夕刻である。
最初の急使が来た。
海を渡り、陸を駆け、馬を替え、泥にまみれた使者だった。
惟種は、その姿を見た瞬間、嫌な予感を覚えた。
使者は膝をつき、声を振り絞った。
「豊後にて、兵乱!」
座の空気が凍った。
戸次鑑連の顔が動く。
惟種は低く問うた。
「誰だ」
「大友義武様、兵を挙げられました!」
戸次の目が、鋭く細まった。
使者は続ける。
「筑前秋月、これに呼応。有馬、大村の残党も動いております。さらに伊東勢、南より府内方面へ侵攻との報せ!」
種茂が息を呑んだ。
親英の顔から表情が消える。
惟種は、静かに言った。
「隼人は」
使者の顔が、歪んだ。
「府内にて、幽閉されたとのこと」
その一言で、戸次鑑連が膝の上で拳を握った。
骨が鳴るほどの力だった。
惟種は目を伏せた。
大友義武。
やはり動いたか。
秋月も。
有馬、大村の残りも。
伊東まで。
しかも隼人を幽閉した。
大友の名を残すために生かした幼主を、義武が押さえた。
大友再興の旗ではない。
大友の名を奪うための旗だ。
惟種は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、かえって恐ろしかった。
◇
色々と報告がなされる。
やがて、惟種は戸次を見た。
「戸次」
「はっ」
「そなたは、わしを斬るか」
座の空気が、さらに冷えた。
種茂が顔を上げる。
親英も息を止めた。
戸次鑑連は、すぐには答えなかった。
問いの意味は、分かっている。
大友義武が兵を挙げた。
大友の名を掲げた。
隼人を幽閉し、秋月、有馬、大村の残りを集めた。
伊東も府内へ迫っている。
ならば、大友の臣たる戸次鑑連は、阿蘇惟種を斬るのか。
答えなど、決まっている。
だが、惟種はあえて聞いた。
戸次は、深く頭を下げた。
「斬りませぬ」
声は低かった。
「斬る理由がございませぬ」
惟種は黙って聞いた。
「義武様に、理はございませぬ」
戸次の声が、わずかに震えた。
怒りである。
「隼人様を幽閉して、何が大友再興にございましょう。大友の名を掲げながら、大友の主を縛るなど、それは忠義ではございませぬ」
戸次は、さらに深く頭を下げた。
「吉弘も、吉岡も、臼杵も、動いてはおりませぬ。むしろ止めに回っております。やめよ、それに理と義はない、と説いております」
「そうか」
「はい」
「ならば、大友の重臣はまだ死んでおらぬな」
戸次の肩が、わずかに震えた。
その言葉は、重かった。
惟種は続けた。
「だが、義武は別だ」
「……はい」
「隼人を幽閉し、大友の名で兵を集め、民を乱すなら、それは大友の忠ではない。大友の名を食う賊だ」
戸次は、額を畳につけた。
「承知しております」
そして、声を絞るように言った。
「されど、若君」
「何だ」
「何卒」
戸次鑑連は、武人である。
輿に乗るほどの傷を負っても、顔を伏せぬ男である。
戦場であれば、死ぬまで引かぬ男である。
その戸次が、今、畳へ額を押しつけていた。
「何卒、大友を残し下され」
座の誰もが、息を呑んだ。
「隼人様に罪はございませぬ。吉弘も、吉岡も、臼杵も、なお大友を残すために動いております。反いた者は討たれても仕方ございませぬ。されど、大友の名だけは……何卒」
戸次の声は、震えていた。
屈辱ではない。
痛みだった。
大友を守りたい。
だが、義武には理がない。
阿蘇に従うしかない。
それでも、大友の名だけは残したい。
その全てが、短い懇願に込められていた。
惟種は、静かに戸次を見た。
そして言った。
「隼人に罪はない」
戸次の肩が止まった。
「大友の名を消すつもりもない。吉弘、吉岡、臼杵が止めに回っているなら、その忠も認める」
「若君……」
「だが、義武は許さぬ」
惟種の声は冷えていた。
「隼人を取り戻す。府内を戻す。民を乱す者は討つ。大友の名を守るためにも、義武は潰す」
戸次は深く頭を下げた。
「ありがたく……ありがたく存じます」
惟種は息を吐いた。
「礼を言うな。これから地獄を見るぞ」
「望むところにございます」
戸次鑑連の声は、もう震えていなかった。
◇
第二の急使は、夜に入ってから来た。
今度は肥前からであった。
種茂が、その文を見た瞬間、顔色を変えた。
「若君」
惟種は受け取った。
読み進める。
龍造寺隆信、兵を挙ぐ。
龍造寺家宗、隆信に斬られ重傷。
しかし、従う者は少なし。
鍋島信房、これを逆心として諸勢へ檄を飛ばし、隆信を抑えんとす。
惟種は、文から目を離した。
種茂が、畳に手をついていた。
「申し訳……ございませぬ」
「なぜ、お前が謝る」
「龍造寺の……」
種茂は、驚いていた。
だが、どこかで恐れてもいた。
隆信の目にあった熱を、種茂は知っている。
功を求め、名を求め、己の器を測りたがる若い熱である。
それでも、ここまで早く火になるとは思っていなかった。
「種茂」
惟種の声は、強かった。
種茂は顔を上げた。
「お前はここにいる」
「はい」
「家兼殿の遺言も、筋も、鍋島信房殿も、龍造寺を阿蘇の内に残すために動いている」
「はい」
「ならば、隆信の暴発は、お前の罪ではない」
種茂は、唇を噛んだ。
惟種は文を畳に置く。
「隆信は、何を見誤った」
誰も答えない。
「種茂がわしの側にいる。鍋島信房殿も健在。龍造寺の筋は、阿蘇の内に残っている。今、反乱する必要などどこにもない」
惟種の目が冷える。
「それでも家宗を斬ったなら、ただの野心だ」
種茂は深く頭を下げた。
「信房様は、必ず怒っておられます」
「だろうな」
惟種は短く言った。
「家兼殿の遺言に背き、家宗を斬り、従う者も少ない。隆信は、自分で自分の足場を焼いた」
戸次が低く言った。
「若さ、でございましょうか」
「若さで済めばよい」
惟種は返した。
「済まぬから、血が流れる」
◇
第三の急使は、夜明け前に来た。
南からである。
使者は、島津の印のある文を差し出した。
惟種は封を切った。
肝付、島津領へ侵攻。
その文字を見た瞬間、惟種の表情が変わった。
親英が気づいた。
戸次も気づいた。
種茂も、息を止めた。
島津。
盟である。
加世の家である。
南を安んじるための柱である。
肝付がそこへ兵を入れた。
旧大友が府内で燃える。
伊東が府内へ向かう。
龍造寺隆信が孤立して暴発する。
肝付が島津を攻める。
九州の火種は、待ってくれなかった。
いや、違う。
待っていたのだ。
阿蘇惟種が京にいる間を。
阿蘇勢五百が遠く離れている間を。
何かしらの朝廷の御沙汰が、まだ九州へ行き渡りきらぬ間を。
今しかない。
そう読んだ者たちが、一斉に火を放った。
◇
惟種は三つの文を並べた。
大友義武。
龍造寺隆信。
肝付。
そして、府内へ迫る伊東。
どれも別の火に見える。
だが、根は同じだった。
阿蘇が大きくなりすぎた。
阿蘇が朝廷と幕府に近づきすぎた。
阿蘇が九州静謐の大義を得た。
それが九州へ届けば、彼らはもうただの敵では済まなくなる。
朝廷の静謐を乱す者となる。
だから、その前に動いた。
九州の静謐を賜った事までは分からない。
だが惟種なら何かしらやるといった危機感があったのだろう。
北では、義武と秋月。
中では、肥前の龍造寺隆信。
南では、肝付と伊東。
九州の北、中、南。
火は、同時に上がった。
惟種は、静かに立ち上がった。
「親英」
「はっ」
「船を出せるか」
「すぐに」
「種茂」
「はっ」
「水、兵糧、火薬、矢玉、医薬を数え直せ。公方警固として残す兵と、連れて帰る兵を分ける」
「承知!」
「戸次」
「はっ」
「戻るぞ。府内へ」
戸次鑑連の目に、火が宿った。
「はっ」
惟種は、最後に義藤の方を見た。
義藤は、すでに報せを聞いていた。
公方は、静かに頷いた。
「行け、惟種」
「はっ」
「九州を静めよ」
惟種は深く頭を下げた。
「必ず」
その声は短かった。
だが、座の誰もが、その短さの中に怒りを聞いた。
惟種は踵を返した。
京で得た大義は、まだ紙の上にある。
だが九州では、すでに血が流れ始めていた。
「急ぎ戻るぞ」
その一言で、阿蘇の者たちは動き出した。
火は、もう待っていなかった。