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作品タイトル不明

第百三十五話 三つの旗

急ぎ戻る。

惟種がそう告げた時、阿蘇の者たちは一斉に動き始めた。

船。

水。

兵糧。

火薬。

矢玉。

医薬。

替え帆。

水先。

公方警固として残す兵。

連れて帰る兵。

京に来た時は、公方様をお送りするための旅だった。

だが、帰りは違う。

九州では、すでに火が上がっている。

豊後。

肥前。

南。

大友義武。

龍造寺隆信。

肝付。

伊東。

秋月。

有馬、大村の残党。

どれも、阿蘇が京にいる間を狙った火だった。

阿蘇惟種が京にいる間を。

阿蘇勢五百が九州から離れている間を。

朝廷の御沙汰が、まだ九州へ届かぬ間を。

今しかない。

そう読んだ者たちが、一斉に火を放った。

だが、京もただ惟種を帰すだけでは済まさなかった。

義藤は、急ぎ座を設けた。

広くはない。

だが、重い座であった。

公方の側近。

幕臣。

朝廷より遣わされた公家。

三好方からは松永久秀。

そして、阿蘇惟種。

義藤は、いつもの柔らかさを消していた。

「惟種」

「はっ」

「これは、阿蘇だけの戦ではない」

惟種は顔を上げた。

義藤の目は、真っ直ぐだった。

「そなたは、朝廷より九州静謐の御沙汰を賜った。余もまた、九州諸家に阿蘇の下知へ従うよう命じる」

座が静まる。

「公方様」

「大友義武は、隼人を幽閉したと聞く」

「はい」

「ならば、それは大友を守る兵ではない。大友の名を奪う兵だ」

戸次鑑連が、深く頭を下げた。

義藤は続ける。

「伊東が府内へ向かうことも、秋月が呼応することも、有馬大村の残党が兵を集めることも、龍造寺隆信が筋を破ることも、肝付が島津へ攻めることも、すべて九州を乱す火である」

その声には、将軍としての重みがあった。

「余は、これを許さぬ」

幕臣が文箱を進めた。

中には、すでに整えられた御教書があった。

九州諸家は、阿蘇の下知に従うべし。

九州静謐を妨げ、民を乱す者は、公方の御意に背くものなり。

その文言を見た瞬間、惟種は背中にさらに重いものが乗るのを感じた。

ありがたい。

ありがたいが、重い。

朝廷の御沙汰。

公方の御教書。

これで、阿蘇が九州へ戻る意味は変わる。

阿蘇が反乱を鎮めに行くのではない。

朝廷と幕府の名を帯びて、九州静謐を乱す者を討ちに行くのだ。

惟種は、深く頭を下げた。

「ありがたき御沙汰にございます」

義藤は静かに頷いた。

「そなたに余の旗も預ける」

その言葉に、座の空気が動いた。

「公方様の御旗を、でございますか」

「そうだ」

義藤は言った。

「阿蘇の旗のみで帰れば、これは阿蘇と反阿蘇の争いに見える。だが、そうではない」

一拍。

「これは、国を乱す者を鎮める戦だ」

惟種は、何も言えなかった。

その言葉は、ありがたかった。

だが同時に、逃げ道を消す言葉でもあった。

これでもう、阿蘇はただの一大名として動けない。

国そのものの名を背負って、九州へ帰ることになる。

朝廷からも、さらに使いがあった。

禁裏より賜った、白き御旗。

そして、綸旨を納めた唐櫃。

それらは、軽く扱えるものではない。

使者は、惟種の前に進み出て、静かに告げた。

「九州静謐の御沙汰、これを妨げる者は、御代を乱す者と心得よとの仰せにございます」

惟種は、額を畳につけた。

「謹んで、承りまする」

白き御旗は、まだ巻かれたままだった。

だが、その存在だけで座が変わる。

阿蘇の兵でも、公方の兵でもない。

禁裏より賜った、主上の御沙汰を示す旗である。

それを掲げて九州へ戻る。

その意味は、京の者たちにはすぐに分かった。

九州で兵を挙げた者たちは、まだ知らない。

大友義武も。

秋月も。

伊東も。

有馬、大村の残党も。

肝付も。

龍造寺隆信も。

惟種が京でただ足止めされていたと思っている。

公方を送り届け、講和を見届け、朝廷から礼を受けた程度だと思っている。

知らぬのだ。

惟種が、朝廷と幕府、二つの名を背負って戻ることを。

京の空気は、また変わった。

昨日まで阿蘇を眺めていた者たちが、今日は阿蘇へ近づいてきた。

最初に来たのは、松永久秀であった。

「阿蘇殿」

久秀は、いつものように隙のない礼をした。

「三好修理大夫より、申し上げます」

「何でしょう」

「九州静謐の大任、まことに重き儀にございます。三好より、船、兵、兵糧、いずれも御入用あらば差し出す用意がございます」

惟種は、久秀を見た。

丁寧な申し出だった。

だが、言葉の下には別のものがある。

恩を売る。

阿蘇の九州静謐に三好が手を貸したという形を作る。

後でそれを札にする。

久秀が悪いのではない。

この時代の政とは、そういうものだ。

惟種は、深く頭を下げた。

「三好修理大夫殿の御厚意、ありがたく存じます」

「では」

「されど、兵は不要にございます」

久秀の目が、わずかに細くなる。

「不要、と」

「はい」

惟種は静かに言った。

「九州静謐は、阿蘇に任された儀。他家の兵を九州へ入れ、民をさらに怯えさせるわけには参りませぬ」

「なるほど」

「また、三好殿には畿内を鎮める大事がございましょう。公方様との和も、まだ成ったばかり。ここで兵を遠く九州へ送れば、京がまた揺れます」

久秀は、少しだけ笑った。

「阿蘇殿は、三好の心配までなさるか」

「京が乱れれば、公方様が困られます」

「まこと、忠義にございますな」

「そう見えるなら、幸いです」

久秀は、その一言の奥を読もうとした。

だが、惟種の顔からは何も読み取れない。

実際のところ、惟種は単純に借りを作りたくなかった。

それに、聞いている情勢だけなら、阿蘇と島津で十分に対処できる。

旧大友の反乱は、義武が隼人を幽閉した時点で理を失っている。

吉弘、吉岡、臼杵ら重臣は動いていない。

むしろ説得に回っている。

龍造寺隆信は孤立謀反。

鍋島信房が怒って抑えにかかっている。

肝付は島津を攻めたが、島津は弱くない。

伊東が府内へ向かうのは厄介だが、府内には阿蘇の仕組みと残した兵がある。

勝てる。

問題は、どれだけ早く火を消せるかだ。

「ただし」

惟種は言った。

「船路の安全と、堺での物資の手当については、お力添えを願うかもしれませぬ」

久秀は、すぐに頭を下げた。

「承りましょう」

兵の借りは作らない。

だが、物と道の便宜は受ける。

線の引き方がはっきりしている。

久秀は内心で思った。

やはり厄介だ。

次に来たのは、畿内の国人衆の使者であった。

「兵を百、差し出しましょう」

「船を三艘、用意いたします」

「弓衆ならば」

「水夫なら」

「米ならば」

申し出は次々に来た。

昨日まで阿蘇を遠巻きに見ていた者たちが、急に阿蘇へ近づいてくる。

朝廷の御旗。

公方の御旗。

九州静謐の任。

それらを見た瞬間、彼らは気づいたのだ。

阿蘇は、これからさらに大きくなる。

ならば、今のうちに縁を結びたい。

小さくてもいい。

名だけでもいい。

阿蘇の九州静謐に助力したという形が欲しい。

惟種は、すべて丁寧に礼を言い、兵は断った。

「九州の民を鎮めるための兵にございます。他国の兵を多く入れれば、かえって民が怯えます」

「阿蘇の兵で足りますか」

「足らせます」

短い答えだった。

使者は、それ以上言えなかった。

惟種は、必要なものだけを受けた。

水先。

航路の情報。

寄港地での水と薪。

堺での薬と紙。

火薬の材料。

医官への紹介。

疱瘡の記録を写した文。

兵は受けない。

だが、道具と情報は受ける。

それが阿蘇のやり方だった。

出立の朝、京の空は薄く曇っていた。

義藤は、惟種を見送った。

「惟種」

「はっ」

「そなたは、いつも帰りたがるな」

惟種は、一瞬だけ返答に困った。

「阿蘇の国が、待っておりますので」

「そうであったな」

義藤は、少し笑った。

だが、その目は真剣だった。

「余の旗を預ける。だが、無理はするな」

「恐れながら、無理をせねば間に合わぬこともございます」

「それでも、生きて戻れ」

惟種は、深く頭を下げた。

「必ず」

義藤は、そばに控える者へ頷いた。

公方の御旗が進められる。

惟種は、両手で受けた。

軽いはずがない。

旗そのものは布である。

だが、そこに乗る名は重い。

続いて、朝廷よりの使者が、禁裏よりの白き御旗と綸旨の唐櫃を渡した。

惟種は、もう一度深く頭を下げた。

「九州の民を安んぜよ」

使者は、主上の言葉を伝えた。

「はっ」

「みだりに戦を広げるな」

「心得ております」

「されど、御代を乱す火は、捨て置くな」

帝の御前で聞いた言葉であった。

惟種は、静かに答えた。

「必ず、静めまする」

船団は、京を離れた。

阿蘇の旗。

公方の旗。

禁裏より賜った白き御旗。

三つの旗は、まだすべてを広げてはいない。

風に晒す場所は選ばねばならない。

だが、阿蘇の者たちは知っている。

この旗は、ただの飾りではない。

戦の形を変えるものだ。

親英は船の上で、帆の張りを見ていた。

「若君」

「何だ」

「帰りは、来た時より重い海になりますな」

「荷が増えたからな」

「旗の重さにございますか」

「それもある」

惟種は海を見た。

種茂が帳面を抱えている。

戸次鑑連は、黙って府内の方を見ている。

阿蘇兵たちは、京へ来た時よりさらに静かだった。

誰もが分かっている。

戻れば、戦だ。

だが、それはただの戦ではない。

大友義武を討つ。

隼人を取り戻す。

伊東を退ける。

秋月を押さえる。

有馬大村の残党を潰す。

龍造寺隆信を抑える。

肝付の動きに応じ、島津を助ける。

多い。

あまりに多い。

だが、惟種は不思議と恐れてはいなかった。

怒りはある。

焦りもある。

だが、負けるとは思っていない。

反乱勢力は、各々の都合で動いた。

だが、理はない。

隼人を幽閉した義武に、大友の忠はない。

孤立して家宗を斬った隆信に、龍造寺の筋はない。

島津へ攻めた肝付に、盟を乱さぬ義はない。

府内へ向かう伊東にも、民を安んじる理はない。

こちらには、朝廷の御沙汰がある。

公方の御教書がある。

そして、民を守るという阿蘇の理がある。

それでも戦は簡単ではない。

だが、戦う理由は、もう揺らがない。

府内へ近づくにつれ、海の匂いが変わった。

焦げた匂いは、まだ届かない。

だが、どこか空気が重い。

親英の小船が先に出て、港の様子を探った。

しばらくして、戻ってくる。

「府内港、まだ完全には落ちておりませぬ」

親英が報告した。

「義武方の手は伸びておりますが、港の一部は阿蘇方が保っております。吉岡殿の者、吉弘殿の者も、民を逃がしつつ踏み止まっているとのこと」

戸次が目を閉じた。

「生きておったか」

「はい」

親英は続けた。

「伊東勢は、南より迫っております。義武方と合流を図る気配あり」

「隼人は」

「幽閉は確か。ただし、殺されてはおりませぬ」

惟種は短く頷いた。

「ならば間に合う」

種茂が帳面を閉じた。

「上陸後の兵糧、三日は手持ちで回せます。港の蔵が使えれば、さらに伸びます」

「よい」

惟種は立ち上がった。

「旗を出す」

その一言に、船上の空気が変わった。

親英が目を上げる。

「三つともにございますか」

「そうだ」

惟種は言った。

「阿蘇の旗だけでは足りぬ。府内の者に見せる。義武方にも、伊東にも、秋月にも、有馬大村の残りにも、見せねばならぬ」

一拍。

「これは阿蘇と反阿蘇の戦ではない」

戸次鑑連が低く言った。

「九州静謐を乱す者を討つ戦にございますな」

「そうだ」

惟種は頷いた。

「大友を守るためにも、義武を討つ」

戸次は深く頭を下げた。

「はっ」

府内の港では、人々が海を見ていた。

阿蘇の船が戻ってくる。

その報せは、すぐに広がった。

町人。

職人。

逃げ遅れた女房衆。

旧大友の者。

阿蘇の番兵。

義武方に脅されて揺れる者たち。

誰もが海を見た。

最初に見えたのは、阿蘇の旗であった。

見慣れ始めた旗である。

府内に立ち、大友の旗の横に掲げられた旗。

その旗を見て、阿蘇方の者たちは息をついた。

帰ってきた。

若君が、帰ってきた。

だが、次に見えた旗で、港の空気が変わった。

公方の御旗。

それを見た旧大友の者たちは、顔色を変えた。

阿蘇は、ただ戻ったのではない。

公方の名を帯びて戻った。

さらに、三つ目の旗が開いた。

白い旗だった。

禁裏より賜った、主上の御沙汰を示す御旗である。

それが春の海風を受けて、ゆっくりと広がった。

港が静まり返った。

誰かが、膝をついた。

また一人、頭を下げた。

阿蘇の船団は、三つの旗を掲げて府内へ入ってくる。

阿蘇の旗。

公方の旗。

朝廷の白き御旗。

その下に、阿蘇惟種が立っていた。

十の童である。

だが、その背に乗るものは、もはや一国の若君の重さではなかった。

府内の者たちは、その日、はっきりと見た。

反阿蘇の兵乱は、その瞬間から名を変えた。

逆賊討伐。

三つの旗の下、阿蘇惟種は府内へ帰ってきた。