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作品タイトル不明

第百三十三話 御簾の奥

参内。

その二文字は、惟種の胸に、淡路の鉄砲より重く響いた。

京へ来た。

公方様をお送りした。

三好との和も成った。

阿蘇は役目を果たした。

あとは帰るだけ。

そのはずであった。

だが、帰ろうとしたところで朝廷より呼び出しを受けた。

先年の献金。

二万疋。

さらに此度、公方様を京へ送り届けた働き。

それについて、主上より御礼の御言葉を賜るという。

断れるはずがなかった。

惟種は、朝から着付けに追われていた。

武家として失礼のない装束。

所作。

座る位置。

顔を上げる時。

下げる時。

返答の言葉。

声の高さ。

目線。

ひとつ間違えれば、阿蘇家の恥になる。

父、惟豊はいない。

宗運もいない。

ここにいる阿蘇の顔は、自分である。

十の童であろうと、九州探題の名を帯びた阿蘇家の若君として出ねばならない。

惟種は、深く息を吸った。

帰りたい。

心の底から、そう思う。

だが、それはそれである。

帝は別だ。

朝廷という仕組みには、惟種も思うところがある。

公家の腹芸も、官位の重みも、名分を札にするやり方も、よく分かっているつもりだった。

だが、帝そのものは違う。

惟種にとって、主上は政治の相手ではない。

この国の中心に座す、祈りの御方であった。

飢えが広がり、病が流れ、戦で民が痩せる。

その中で、御所の奥に座しながらも、この国の安寧を祈り続ける御方である。

そこに向かう以上、礼を欠くことなどあってはならない。

帰りたい。

だが、失礼はできない。

その二つを抱えたまま、惟種は禁裏へ向かった。

京の空気は、阿蘇とも府内とも違った。

古い。

ただ古いだけではない。

人の足音も、衣の擦れる音も、香の匂いも、板の色も、どこか長い時間の中で薄く磨かれている。

府内の港のような活気はない。

阿蘇の職人町のような熱もない。

だが、静かに積もったものがあった。

この場所は、力で踏み込むところではない。

惟種は、そう思った。

案内する公家たちは、惟種をちらちらと見ていた。

九州探題。

公方様を守り、三好との和を早めた若君。

淡路の水軍を焼いた童。

先年、朝廷へ二万疋を献じた阿蘇の子。

その噂は、すでに広がっている。

公家たちの目には、好奇と警戒が混じっていた。

それに、期待もある。

阿蘇は銭を持つ。

兵を持つ。

船を持つ。

しかも京に居座らない。

褒美も求めない。

ならば、つなぎ止めたい。

それが彼らの腹であることくらい、惟種にも分かった。

分かったうえで、表には出さない。

ここで顔に出せば負けである。

惟種は、ただ静かに進んだ。

御簾の前に座した時、惟種は額を畳に近づけた。

場の空気が変わった。

公方様の前とも違う。

三好との対面とも違う。

戦場の緊張とも違う。

もっと静かで、もっと重い。

御簾の奥は、見えない。

だが、そこにおわす。

それだけで、惟種の背筋は自然と伸びた。

やがて、奥より声があった。

「阿蘇惟種」

「はっ」

惟種は、深く頭を下げた。

「此度の働き、大儀である」

柔らかな声だった。

大きくはない。

だが、その一言だけで座が締まった。

惟種は、額が畳につくほど深く頭を下げた。

「ありがたき御言葉にございます。父、惟豊にも必ず申し伝えまする」

まずは言えた。

声は震えていない。

言葉も間違えていない。

惟種は内心で、ほんの少しだけ息をついた。

このまま無事に終わってくれ。

そう思った。

御簾の奥より、再び声が落ちる。

「先年の献上、朝廷の助けとなった」

「恐れ多きことにございます」

「さらに此度、公方を守り、京へ送り届けた。三好との和も成り、京はひとまず大きな乱を避けた」

「阿蘇は、公方様をお送りする役を果たしたまでにございます」

「それを果たす者が、今の世には少ない」

座が静まった。

惟種は返す言葉を選んだ。

ここで余計なことを言ってはならない。

謙遜しすぎても、功を軽く見せすぎてもいけない。

だが誇って見せれば、それも違う。

「御身の御代が安らかであらせられることこそ、武士の本懐にございます」

言ってから、惟種は内心で頷いた。

これは本心である。

京の権力は面倒だ。

朝廷の仕組みも面倒だ。

だが、この国の民が戦で痩せず、帝の御代が安らかであることを願う心は本物だった。

御簾の奥が、少し静まった。

「そなたは、若い」

「はい」

「されど、言葉は軽くない」

「過分にございます」

頼む。

褒めるだけで終わってほしい。

惟種は、表情を変えぬまま、心の奥でそう祈った。

帝の声が、静かに続いた。

「何か、望むものはあるか」

来た。

惟種は心の中で身構えた。

座の端で、公家たちの気配が動く。

当然である。

この問いを待っていた者は多い。

官位。

役。

勅許。

所領の安堵。

家格の上昇。

朝廷への取次。

京での権益。

武家が朝廷の御前に呼ばれ、功を認められたなら、ここで何かを望むのが普通だった。

だが、惟種には欲しいものがなかった。

正確には、ここで欲しがるべきものがなかった。

欲はある。

早く帰りたいという欲が。

府内が気になる。

豊後が気になる。

義武も田原も秋月も気になる。

肥前も有馬大村の残りも、伊東肝付も気になる。

帰りたい。

だが、それを言えるはずがない。

惟種は深く頭を下げた。

「ございませぬ」

座が、わずかに揺れた。

御簾の奥から、静かな問いが返る。

「ない、と申すか」

「はい」

「遠慮ではないか」

「遠慮ではございませぬ」

惟種は、さらに言葉を重ねた。

「主上の御前にて、私欲を申すことなどできませぬ。某は武士にございます。武士は民を安んじ、国を静め、御代を乱さぬために働くものと心得ております」

座の空気が変わった。

公家たちの何人かが、息を呑む。

惟種は続けた。

「某が今望みまするは、九州の地を静め、民を飢えさせず、道を通し、戦で痩せた国を戻すことにございます」

そこまで言って、惟種は頭を下げたまま心の中で呟いた。

だから帰らせてください。

声には出さない。

出してはならない。

「そなたは無欲であるな」

帝の声には、わずかな感心が混じっていた。

惟種はすぐに答えた。

「御身の御前に、欲などございませぬ」

欲ならある。

帰りたい。

今すぐにでも。

だが、口から出る言葉は違う。

「また、民のために働くことこそ、武士の役目にございます。某は父より豊後の安定を任されておりますれば、まずはその任を果たさねばなりませぬ」

これは嘘ではない。

嘘ではないからこそ、周囲にはなお響いた。

阿蘇惟種は、官位を求めない。

所領を求めない。

京に残ることも求めない。

ただ九州を静め、民を安んじたいと言う。

その言葉は、朝廷の者たちにとって、あまりに都合がよく、あまりに美しかった。

御簾の奥より、また声があった。

「九州は、それほど荒れておるのか」

惟種は、少しだけ間を置いた。

ここは誤魔化してはならない。

九州は荒れている。

阿蘇は大きくなった。

だが、大きくなったからこそ火種も増えた。

旧大友。

秋月。

田原。

義武。

肥前の残り。

有馬、大村の残党。

伊東、肝付。

さらに海。

まだ、どこで火が上がるか分からない。

「申し訳ございませぬ」

惟種は深く頭を下げた。

「阿蘇の力不足にて、九州はいまだ静まりきってはおりませぬ」

座が静まる。

「平定したばかりの地には、なお火種が転がっております。降る者は残し、民を乱さぬ者は用いるつもりにございます。されど、名を使い、兵を集め、村を焼き、民を苦しめる者があれば、放ってはおけませぬ」

帝は、黙って聞いていた。

「阿蘇は、むやみに戦を広げるつもりはございませぬ」

惟種は言った。

「されど、民を焼く乱は、必ず止めねばなりませぬ」

それは、惟種の本心だった。

朝廷へ飾るための言葉ではない。

戦を避ける。

降る道を置く。

だが、それでも民を巻き込む者は潰す。

阿蘇の理である。

御簾の奥で、かすかに衣擦れの音がした。

「戦ばかりではない」

静かな声だった。

「京では、疱瘡が人を苦しめておる。飢えも、病も、民を痩せさせる」

その声には、かすかな痛みがあった。

惟種は、額を下げたまま息を呑んだ。

主上は、戦の勝ち負けだけを見ているのではない。

痩せる民を見ている。

飢え、病み、祈ることしかできぬ者たちを見ている。

かつて悪疫や飢えが広がった折、主上は経を写し、天下泰平と民の安寧を祈ったという。

ただ玉座に座すだけの御方ではない。

民の苦しみを、己の不徳とまで受け止める御方であった。

惟種は、深く頭を下げた。

「戦も、病も、人を痩せさせまする」

「阿蘇では、疱瘡はどうしておる」

来た。

惟種は、慎重に言葉を選んだ。

天然痘。

かつての世では、いずれ人の手で地上から消された病。

だが、今の阿蘇にはまだ届かない。

牛痘も、種痘も、仕組みは知っている。

知ってはいるが、今この世で形にするには、あまりに遠い。

ここで、できると申すのは嘘だ。

「阿蘇でも、疱瘡を恐れております」

惟種は答えた。

「病人を離し、看る者を定め、湯と清めを徹底させ、食を落とさぬよう努めております。医者を育て、薬を集め、病の出た村、広がり方、死んだ者、生き延びた者を帳に残しております」

「帳に」

「はい」

惟種は頭を下げたまま続けた。

「何も分からぬまま祈るだけでは、次も同じだけ死なせまする」

座の空気が変わった。

祈りを軽んじたわけではない。

むしろ、祈りだけでは救えぬ命を救おうとしている。

帝の声は、静かだった。

「疱瘡を、止められるのか」

惟種は、すぐには答えなかった。

できる。

かつての世なら、そう言えた。

だが今は違う。

牛痘を探し、確かめ、広げるには、医者も帳面も信頼も足りない。

人の体へ病の種を入れるなど、この時代では狂気にも聞こえる。

急げば、人を殺す。

誤れば、阿蘇の医が信じられなくなる。

惟種は、深く頭を下げた。

「分かりませぬ」

座が静まる。

「ですが、最善を尽くします」

惟種は続けた。

「今はまだ、疱瘡を根から断つ術には届いておりませぬ。されど、死なせぬためにできることはあります。広げぬためにできることもあります。病を帳に残し、医を育て、薬を探し、いつか防ぐ術へ届くよう努めます」

御簾の奥は、長く静かだった。

やがて、帝の声がした。

「そなたは、民をよく言う」

「民が痩せれば、国は痩せまする」

「国が痩せれば」

「御代も乱れまする」

惟種は、即座に答えた。

答えてから、少しだけまずかったかと思った。

だが、帝の声は穏やかだった。

「なるほど」

その一言に、座の緊張が少し緩んだ。

公家たちは、互いに視線を交わしていた。

阿蘇は使える。

そう考えた者は多い。

いや、使えるというには大きすぎる。

だが、つなぎ止めねばならない。

銭を持つ。

兵を持つ。

船を持つ。

しかも、むやみに京へ口を出さない。

公方を守り、三好と無用な大戦に入らず、和へ運んだ。

そのうえ、九州を静めたいと自ら言う。

病にまで帳をつけ、医を育てると言う。

ならば、朝廷が名を与えればよい。

名を与えれば、阿蘇は朝廷を粗末にできない。

阿蘇の武も財も、医も、朝廷の静謐に結びつく。

公家たちは、表情を動かさない。

だが、その腹は同じ方を向き始めていた。

惟種は、そこまで読んでいた。

読んでいたが、どうしようもなかった。

ここは御前である。

余計な駆け引きをすれば、それ自体が失礼になる。

ただ、誠実に答えるほかない。

そして、誠実に答えれば答えるほど、なぜか周囲の評価が上がっていく。

惟種は、額を下げたまま、内心でひどく嫌な予感を覚えていた。

帝の声が、再び落ちた。

「惟種」

「はっ」

「そなたの志、殊勝である」

「恐れ多きことにございます」

「武を持ちながら、みだりに戦を好まず。財を持ちながら、己のために求めず。公方を守り、朝廷を助け、なお民を安んじたいと申す」

座の空気が、さらに重くなる。

「病を前にしても、分からぬものは分からぬと申した。されど、尽くすと申した」

惟種は、頭を下げたまま動かない。

まずい。

何か来る。

「そのような武士は、今の世に多くない」

「過分にございます」

「ならば」

帝の声が、ゆっくりと告げた。

「九州静謐の儀、阿蘇に重く任せ置く」

惟種は、一瞬、理解できなかった。

九州。

静謐。

阿蘇に。

任せ置く。

言葉が頭の中で、ひとつずつ並ぶ。

「ありがた――」

そこまで言いかけて、惟種の声が止まった。

え。

今、何と仰せになった。

声には出していない。

出していないはずだ。

だが、胸の内では確かにそう叫んでいた。

惟種は、遅れて意味を飲み込む。

ありがたい。

それは、間違いなくありがたい。

九州には、火種が残っている。

これから諸家を押さえるには、大義名分が要る。

阿蘇が勝手に兵を動かすのではなく、朝廷より九州静謐の命を受けて動く。

これは強い。

あまりにも強い札である。

秋月にも、田原にも、義武にも、肥前の国衆にも、有馬大村の残りにも効く。

伊東や肝付にも圧となる。

降る道を示す時にも、従わぬ者を討つ時にも、これ以上ない名分になる。

だが。

惟種の胸中で、別の算盤が音を立てて崩れた。

府内で宗運と決めた火種の扱い。

火種を見えるところへ出す。

潜らせず、集める。

義をこちらに置いた上で、まとめて消す。

その策は、変えねばならない。

朝廷の名を背負った以上、阿蘇は乱を待って火を集める者ではなく、まず静める者として動かねばならない。

ありがたい。

だが、予定が狂った。

座の者たちには、感極まって言葉を詰まらせたように見えたかもしれない。

実際には違う。

惟種の心の中では、府内の地図と、肥前の地図と、筑後の帳面と、疱瘡の記録と、宗運の説教顔が一斉に浮かんでいた。

まずい。

帰ったら、絶対に説教される。

だが、受けぬわけにはいかない。

いや、受けるべきである。

これは阿蘇にとって、本当にありがたい大義なのだ。

惟種は、深く、深く頭を下げた。

「ありがたき御沙汰にございます」

声は、幼いながらも乱れなかった。

「阿蘇惟豊が子、惟種。謹んで承りまする」

御簾の奥で、帝は静かに頷いた。

「九州の民を安んぜよ」

「はっ」

「みだりに戦を広げるな」

「心得ております」

「されど、御代を乱す火は、捨て置くな」

惟種は、さらに額を下げた。

「必ずや、静めまする」

その言葉は、重かった。

口にした瞬間、惟種は自分の肩に何かが乗るのを感じた。

褒美ではない。

これは、任である。

阿蘇は、九州を静めよ。

朝廷の名において、それを命じられたのだ。

公家たちは、感嘆した。

幼い若君が、御前で乱れず、私欲を見せず、九州静謐の大任を受けた。

しかも、父の不在を言い訳にせず、阿蘇家の面目を保った。

ある者は、武士の鏡と見た。

ある者は、朝廷に尽くす忠義の家と見た。

ある者は、これほどの力を持ちながら、なお御前では己を低くする阿蘇に畏れを抱いた。

惟種は、それらの視線を受けながら、ただ礼を尽くした。

帝への敬意は、本物である。

御言葉を賜ったことへの感謝も、本物である。

九州静謐の大義名分がありがたいことも、本物である。

だが、本音もまた本物だった。

早く帰らせてほしい。

帰って、文を飛ばし、宗運と策を練り直し、府内を締め、肥前を見て、筑後の帳面を確認し、豊後の火種を抑えねばならない。

医者にも命じねばならない。

疱瘡の記録を集め、病の広がりを見て、今できる手を急がせねばならない。

仕事が増えた。

しかも、ただの仕事ではない。

朝廷の名を背負った仕事である。

嬉しい。

ありがたい。

重い。

面倒くさい。

そのすべてを、惟種は畳に額を近づけたまま飲み込んだ。

退出の時、案内の公家たちは先ほどよりも明らかに丁寧だった。

阿蘇惟種は、もはやただの九州の若君ではない。

朝廷より、九州静謐の沙汰を受けた者である。

その意味を、京の者たちはよく知っている。

名分とは、目に見えぬ刃である。

そして今、その刃が阿蘇の手に渡った。

惟種は、静かに歩いた。

廊を抜け、庭の光を見た時、ようやくほんの少しだけ息を吐く。

空は春の色をしている。

京は、今日も静かに見えた。

だが、その静けさの下で、また一つ大きなものが動いた。

阿蘇は朝廷につながった。

朝廷は阿蘇を九州静謐の名で縛った。

そして阿蘇は、その名をもって九州を裁く大義を得た。

ありがたいことだった。

間違いなく、ありがたい。

だが惟種は、心の中で一つだけ呟いた。

――帰る前に、荷が増えた。

その日、禁裏の奥より下った御言葉は、京の者たちには褒美に見えた。

だが阿蘇惟種にとっては、九州を静め、民を安んぜよという、あまりにも重い命であった。