軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百三十二話 帰りたがる若君

淡路の煙は、まだ海の上に残っていた。

焼いたのは、民家ではない。

田でもない。

漁師の小舟でもない。

船溜まり。

番所。

船具蔵。

軍用の兵糧蔵。

桟橋。

三好方の水軍が、しばらく海へ出られぬようにするためのものだけであった。

それでも、煙は煙である。

黒い筋が風に流され、春の空へ薄く広がっていく。

それを見る者の胸へ、十分すぎるほど重く落ちた。

松永久秀は、小船の上からその煙を見ていた。

顔には出さない。

だが、胸の内ではすでに幾つもの算盤が走っている。

淡路方は負けた。

ただ負けたのではない。

こちらの矢は届く前に止められ、近づけば撃たれ、逃げれば船溜まりを焼かれた。

しかも、焼かれた場所が悪い。

民家ではない。

村ではない。

水軍の足だけを折られている。

怒りに任せて暴れたのなら、まだ扱いやすい。

略奪に走ったなら、三好はそれを口実にできる。

公方様の御座船を守るという名目で出てきた者が、淡路の民を焼いた。

そう叫べば、畿内での言葉はこちらにも残る。

だが、阿蘇はそうしなかった。

矢を射た船を沈めた。

道を塞いだ船を焼いた。

軍の蔵を潰した。

そして、民には手を出していない。

久秀は、ゆっくりと息を吐いた。

ただ強いだけではない。

怒る場所を選ぶ。

焼く場所を選ぶ。

殺さぬ場所も選ぶ。

これは厄介だ。

乱暴者なら、乱暴者として裁ける。

田舎者なら、田舎者として笑える。

だが、力を持ち、礼を知り、名分を握り、なお退き際を測る者は、容易に扱えぬ。

小船は、阿蘇の船団へ近づいた。

阿蘇の大船は、沖に浮かんでいる。

高い。

日ノ本の船とは違う。

まるで海の上に小さな城が動いているようであった。

その甲板に、童が立っていた。

阿蘇惟種。

九州探題、阿蘇家の若君。

そして今、淡路の水軍拠点を一息に焼いた者である。

十の童とは思えぬ。

いや、童だからこそ不気味なのかもしれない。

久秀は小船の上で深く頭を下げた。

「三好修理大夫が家臣、松永久秀にございます」

海風が吹く。

惟種は、すぐには答えなかった。

甲板の上には、阿蘇の兵が並んでいる。

槍を立てず、鉄砲を向けず、しかしいつでも動ける位置にいる。

その規律の静けさが、淡路の煙よりも久秀の目についた。

やがて、惟種が言った。

「阿蘇惟種だ」

短い。

名乗りに余計な飾りはなかった。

久秀は、さらに頭を下げる。

「此度、淡路の者どもが公方様の御座船を騒がせましたこと、まずは深くお詫び申し上げます」

惟種の目が細くなった。

「騒がせた、か」

久秀は顔を上げぬ。

「は」

「矢を向けたのだ」

声は荒くない。

だが、冷たい。

「公方様の御座船の前で、阿蘇の船へ矢を射た。次にずれていれば、御座船へ届いたやもしれぬ」

「まことに、申し開きもございませぬ」

「ならば、騒がせたでは足りぬ」

久秀は、そこでようやく顔を上げた。

惟種の横には、戸次鑑連がいる。

傷の身でありながら、目は鋭い。

さらに甲斐親英が海を見ている。

鍋島種茂は、帳面を抱えて控えていた。

どの顔も、軽くない。

久秀は静かに言った。

「公方様へ弓引く心は、三好修理大夫にはございませぬ」

「淡路の者にはあったか」

「恐れながら、取り違えにございます」

阿蘇の兵の何人かが、わずかに動いた。

久秀は続けた。

「阿蘇勢五百が兵を揃え、海路を東へ進む。淡路の者どもは、それを上洛の軍勢と見誤りました」

「見誤れば、公方様の御座船を止めてもよいのか」

「よくはございませぬ」

久秀は即座に答えた。

「ゆえに、こうして参りました」

「何をしに来た」

「お詫びと、お迎えにございます」

惟種の眉が、わずかに動いた。

久秀は、畳の上にいるように、船の中で深く手をつく。

「公方様の御帰洛につき、三好方のお迎えが遅れましたこと、まことに申し訳ございませぬ」

甲板の空気が変わった。

親英が、少し目を細める。

種茂は帳面を握る手に力を入れた。

戸次鑑連だけは、静かに久秀を見ていた。

惟種は、しばらく黙っていた。

やはり、こう来たか。

淡路の戦を、三好の敵対ではなく、現場の取り違えにする。

公方様を止めたのではなく、迎えが遅れたことにする。

阿蘇と三好の戦ではなく、手違いの始末に落とす。

よくできた逃げ道だった。

だが、逃げ道を残したままにするかは、こちら次第である。

「松永殿」

「は」

「阿蘇は、三好を討ちに来たのではない」

「承知しております」

「公方様をお送りするために来た」

「はい」

「ならば、道を塞ぐな」

久秀は深く頭を下げる。

「三好修理大夫に、その心はございませぬ」

「これより先、公方様の御帰洛を妨げぬな」

「妨げませぬ」

「阿蘇勢五百は、上洛の兵ではない。公方様の警固兵だ」

「そのように扱わせていただきます」

「淡路の残った船に、こちらを追わせるな」

「ただちに止めまする」

「それと」

惟種の声が、少し低くなった。

「次に公方様の御座船へ矢が向いたなら、今度は淡路だけでは済まぬ」

海風が止まったように感じた。

久秀は、阿蘇の大船を見た。

火器を据えられる高い舷側。

整った兵。

煙を上げる淡路の船溜まり。

脅しではない。

この童は、本当にやる。

だが、久秀は笑みにも似た薄い表情を作った。

「三好修理大夫へ、確と申し伝えます」

「伝えるだけでは足りぬ」

「では」

「公方様の御前で言え」

久秀の目が、わずかに動いた。

惟種は続けた。

「阿蘇と三好の間で済む話ではない。矢を向けられたのは、公方様の御座船だ」

「……ごもっともにございます」

「ならば、御前で詫びよ。三好は公方様の御帰洛を妨げぬ。阿蘇勢五百を公方警固と認める。淡路の一件は三好方の取り違えであり、以後、同じことはせぬ。そう申せ」

久秀は一瞬だけ、惟種を見た。

十の童。

だが、逃げ道の幅をよく知っている。

完全に潰せば、三好は意地で立つ。

だが、道を残せば、久秀はその道を使うしかない。

そしてその道は、阿蘇が敷いた道である。

久秀は深く頭を下げた。

「承りました」

義藤は、久秀の詫びを受けた。

船内ではなく、あえて甲板近くに座を設けた。

遠くには、まだ淡路の煙が見える。

久秀は見事なほど丁寧に頭を下げた。

「此度の不調法、三好修理大夫に代わり、深くお詫び申し上げます」

義藤は、じっと久秀を見ていた。

京で見慣れた種類の男である。

礼を尽くす。

言葉を選ぶ。

膝を折る。

だが、腹までは見せない。

それでも今日の久秀は、少なくとも形の上では折れている。

それは、阿蘇の煙があったからだ。

「修理大夫に、余の帰洛を妨げる心はないと申すか」

「はっ」

「ならば、京へ戻る」

義藤の声は、静かだった。

「余は、争いを長引かせるために戻るのではない」

久秀の顔が、わずかに上がる。

「公方様」

「講和をする」

その一言に、座の空気が動いた。

惟種は、義藤を見た。

義藤は続ける。

「余は京へ戻り、三好修理大夫と和を結ぶ。父上の御病も重い。これ以上、京を荒らしてはならぬ」

久秀は、深く頭を下げた。

「修理大夫も、その御心を喜びましょう」

惟種は何も言わなかった。

それでよい。

阿蘇は三好を討ちに来たのではない。

義藤を送り届けに来た。

義藤が京へ戻り、三好と講和するなら、それで役目は終わる。

終わるはずだった。

その時、義藤が惟種を見た。

「惟種」

「はっ」

「京まで、ついてきてはくれぬか」

惟種は、思わず顔を上げた。

義藤の目は、真っ直ぐだった。

「公方様」

「分かっている。阿蘇には阿蘇の政がある。府内も、肥前も、筑後も、豊後も、そなたが見ねばならぬものは多い」

義藤は少しだけ声を落とした。

「だが、京はまだ危うい」

それは、義藤自身がいちばんよく知っていることだった。

京に戻れば、三好がいる。

幕臣がいる。

公家がいる。

近江方の者もいる。

誰もが将軍の名を必要とし、誰もが将軍の身を安全にするとは限らない。

淡路沖で矢が飛んだ。

その事実が、義藤の胸から離れなかった。

「そなたがいれば、少なくとも軽くは扱われぬ」

惟種は、内心で深くため息をついた。

帰りたい。

心からそう思った。

府内はまだ落ち着いていない。

義武も、田原も、秋月も火種だ。

肥前も、大村も、有馬の残りもある。

筑後も太らせている途中だ。

宗運を置いてきたとはいえ、長く空けてよいはずがない。

だが、公方様にこう言われては断れない。

しかも、淡路で矢が飛んだばかりである。

ここで退けば、義藤の身が危ういことを知りながら背を向けたことになる。

惟種は、ゆっくりと頭を下げた。

「……京までにございます」

義藤の顔が、少し明るくなった。

「うむ」

「講和が成り、公方様の御身が落ち着かれましたなら、阿蘇は帰ります」

「分かっておる」

義藤は頷いた。

「それでよい」

惟種は、もう一度頭を下げた。

「では、京までお供仕ります」

親英が、少しだけ天を仰いだ。

種茂は帳面の余白に、九州へ帰る日が遠のいたことを小さく記した。

戸次鑑連は、ただ静かに頷いた。

「公方様を守る役を受けた以上、最後までお守りするのが筋にございましょう」

惟種は横目で鑑連を見た。

その通りだ。

その通りだから、困るのだ。

京は、阿蘇を見た。

公方様の帰洛。

三好との講和。

その後ろに控える九州探題、阿蘇惟種。

阿蘇勢五百は、洛中へ乱れ込まなかった。

主だった兵は洛外と要所に置かれ、御所近くへ入ったのは選ばれた者だけである。

それでも、十分だった。

兵は騒がない。

商家を荒らさない。

女房衆へ目を向けない。

寺社へ無礼を働かない。

槍も鉄砲も整えられ、歩く音まで揃っている。

京の者は、それだけで阿蘇を見直した。

田舎の大名ではない。

荒くれた武士の群れでもない。

規律を持つ軍であった。

さらに、淡路の話が先に京へ入っていた。

公方様の御座船へ矢が向いた。

阿蘇が怒った。

淡路の水軍拠点が焼かれた。

だが、民家は焼かれなかった。

漁師の船も奪われなかった。

その話は、尾ひれをつけて広がった。

曰く、阿蘇の船は城のごとく高い。

曰く、鉄砲の雨を海へ降らせる。

曰く、三好の水軍が近づけぬまま燃えた。

曰く、鬼童は怒っても民を斬らぬ。

曰く、公方様の名を守るため、九州より来た忠臣である。

惟種は、その噂を聞いて顔をしかめた。

「尾ひれがつきすぎだ」

種茂が言った。

「半分は事実にございます」

「残り半分が面倒なのだ」

戸次鑑連は低く笑った。

「名とは、そういうものにございます」

「いらぬ」

「いらぬと申しても、つくものはつきます」

惟種は、本気で嫌そうな顔をした。

講和は、予想より早く形になった。

三好長慶は、久秀の報告を聞いていた。

淡路の敗報。

阿蘇船団の火力。

公方様の御座船を背にした名分。

そして、阿蘇が畿内に居座るつもりは薄いということ。

長慶は、しばらく黙っていた。

「阿蘇は、何を欲しておる」

久秀は答えた。

「おそらく、早く九州へ帰りたがっております」

長慶の目が細くなる。

「欲がないと?」

「いいえ」

久秀は静かに首を振った。

「欲の向きが、京ではないのでございましょう」

「九州か」

「九州。それに海。国の中身。民。銭。船。兵站。そうしたものにございます」

長慶は、小さく息を吐いた。

「厄介だな」

「はい」

「京を欲する者なら、京で縛れる。官位を欲する者なら、官位で縛れる。所領を欲する者なら、所領で縛れる」

長慶は、淡々と言った。

「だが、京を欲しておらぬ者は縛りにくい」

「その通りにございます」

「ならば、今は争う利なし」

長慶の判断は早かった。

「公方様とは和を結ぶ。淡路の件は、現場の取り違えとする。阿蘇勢五百は公方警固。三好は公方様の帰洛を妨げぬ」

「はっ」

「ただし、見よ」

久秀は頭を下げた。

「阿蘇がどれだけのものか。惟種が何を見ておるのか。見落とすな」

「承知しております」

長慶は、遠く京の方を見た。

「十の童に、京が測られるか」

その声には、不快だけではない。

かすかな興味も混じっていた。

義藤と三好の講和は成った。

その場にいた者たちは、ただ偶然早まったとは思わなかった。

淡路の煙。

阿蘇勢五百。

公方警固。

三好の詫び。

そして、惟種の存在。

それらが重なり、京の空気を押したのだ。

義藤は、講和の後、惟種へ言った。

「そなたのおかげだ」

惟種は頭を下げる。

「恐れながら、阿蘇は公方様をお送りしただけにございます」

「その“だけ”が、今の京では重い」

義藤の声は柔らかかった。

「望むものはないか」

惟種は、顔を上げた。

「望むもの、にございますか」

「官位でも、所領でも、幕府の役でもよい。そなたは余を守り、京へ送り届け、和を成す助けをした」

周囲の幕臣たちも、それを当然のように聞いていた。

褒美を求める。

それが普通である。

武家が京へ来る。

公方を助ける。

兵を出す。

ならば、何かを得て帰る。

それが世の習いだ。

惟種は、少し考えた。

そして、静かに答えた。

「すでに過分の御沙汰を賜りました」

義藤は少し目を細めた。

「それでも、何かあろう」

「では」

惟種は深く頭を下げた。

「阿蘇へ帰るお許しを」

座が静まった。

義藤も、少し目を見開いた。

「帰る許し、か」

「はい」

「遠慮しておるのではないか」

「いえ」

惟種は淡々と言った。

「阿蘇は、公方様を無事に京へお送りする役を受けました。その役は果たしました。ならば、それで十分にございます」

幕臣の一人が、思わず口を開きかけた。

だが、声は出なかった。

惟種は続ける。

「阿蘇には、戻って見ねばならぬ国がございます。府内も、肥前も、筑後も、豊後も、まだ静まりきってはおりませぬ」

「そなたは、京に残る気はないのか」

「ございませぬ」

あまりに早い返事だった。

義藤は、しばらく惟種を見ていた。

その顔に、嘘はない。

本当に帰りたいのだ。

京に残れば、名は上がる。

公方の近くにいれば、権は増す。

三好と向き合えば、畿内の者たちも阿蘇を無視できなくなる。

それを、この童は捨てると言う。

捨てるというより、最初から欲していない。

義藤の胸に、不思議な熱が広がった。

京に来る者は、皆、何かを求める。

公方の名。

朝廷の官。

幕府の役。

所領。

口入れ。

敵を討つ名分。

だが、阿蘇惟種は違った。

あれほどの力を持ちながら、京に望むものがない。

褒美すら求めず、役目が終わったから帰ると言う。

それは、義藤には忠に見えた。

公家たちには、私欲なき武家に見えた。

幕臣たちには、恐ろしく扱いづらい大名に見えた。

そして松永久秀には、何より不気味に見えた。

欲がないのではない。

京で満たせる欲を持っていないだけだ。

久秀はそう思った。

公家たちの間でも、阿蘇の名は広がった。

「九州探題の若君は、褒美を求めなんだそうな」

「公方様を守り、三好と和を成す助けをして、何も求めぬと」

「しかも先年、朝廷へ二万疋を献じた阿蘇であろう」

「田舎武士などと侮るものではない」

「いや、恐ろしい。力も銭もあり、しかも京に執着せぬ」

「それを忠義と言わずして、何と言う」

噂は、日に日に形を変えた。

阿蘇は強い。

阿蘇は富む。

阿蘇は礼を知る。

阿蘇は公方を守る。

阿蘇は朝廷を軽んじない。

阿蘇は求めない。

最後の一つが、最も強く響いた。

求めない者は、美しく見える。

同時に、恐ろしくも見える。

惟種本人は、そのどちらでもなかった。

ただ、帰りたかった。

「では、公方様。阿蘇はこれにて」

惟種は、義藤の前で深く頭を下げた。

京での役目は終わった。

三好との講和は成った。

義藤の身辺も、ひとまずは落ち着いた。

阿蘇勢五百のうち、警固として残すべき者と、引き上げる者の分けも済んだ。

親英は船の支度を整えている。

種茂は帰路の水と兵糧を数えている。

戸次鑑連も、京での役は果たしたと見ていた。

ようやく帰れる。

惟種は、心底そう思っていた。

義藤は、名残惜しそうに言った。

「もう少しおってもよいのだぞ」

「阿蘇の国が待っております」

「そなたは、いつもそれだな」

「国を痩せさせるわけには参りませぬ」

義藤は、少し笑った。

「分かった。だが、そなたの忠、余は忘れぬ」

「過分にございます」

「阿蘇へ戻っても、余を忘れるな」

「もちろんにございます」

惟種は頭を下げた。

これで終わり。

そう思った。

その時だった。

廊の向こうが、にわかに慌ただしくなった。

足音が近づく。

幕臣が顔色を変えて入ってくる。

その後ろに、衣冠を整えた使者がいた。

御所の者ではない。

公家である。

座の空気が、また変わった。

使者は義藤へ一礼し、それから惟種へ目を向けた。

「阿蘇惟種殿に、朝廷より仰せにございます」

惟種は、動きを止めた。

嫌な予感がした。

使者は、静かに告げた。

「先年の二万疋の御献上、ならびに此度の公方様御帰洛の働きにつき、主上より御礼の御言葉を賜るべしとのこと。明日、参内なされませ」

惟種は、しばらく何も言えなかった。

親英が目を伏せる。

種茂が帳面を閉じる。

戸次鑑連が、小さく息を吐く。

義藤だけが、少しだけ楽しそうに笑った。

惟種は、心の中で深く深く呟いた。

――帰れぬではないか。

春の京に、また一つ、阿蘇を引き止める声が降ってきた。