作品タイトル不明
第百三十二話 帰りたがる若君
淡路の煙は、まだ海の上に残っていた。
焼いたのは、民家ではない。
田でもない。
漁師の小舟でもない。
船溜まり。
番所。
船具蔵。
軍用の兵糧蔵。
桟橋。
三好方の水軍が、しばらく海へ出られぬようにするためのものだけであった。
それでも、煙は煙である。
黒い筋が風に流され、春の空へ薄く広がっていく。
それを見る者の胸へ、十分すぎるほど重く落ちた。
◇
松永久秀は、小船の上からその煙を見ていた。
顔には出さない。
だが、胸の内ではすでに幾つもの算盤が走っている。
淡路方は負けた。
ただ負けたのではない。
こちらの矢は届く前に止められ、近づけば撃たれ、逃げれば船溜まりを焼かれた。
しかも、焼かれた場所が悪い。
民家ではない。
村ではない。
水軍の足だけを折られている。
怒りに任せて暴れたのなら、まだ扱いやすい。
略奪に走ったなら、三好はそれを口実にできる。
公方様の御座船を守るという名目で出てきた者が、淡路の民を焼いた。
そう叫べば、畿内での言葉はこちらにも残る。
だが、阿蘇はそうしなかった。
矢を射た船を沈めた。
道を塞いだ船を焼いた。
軍の蔵を潰した。
そして、民には手を出していない。
久秀は、ゆっくりと息を吐いた。
ただ強いだけではない。
怒る場所を選ぶ。
焼く場所を選ぶ。
殺さぬ場所も選ぶ。
これは厄介だ。
乱暴者なら、乱暴者として裁ける。
田舎者なら、田舎者として笑える。
だが、力を持ち、礼を知り、名分を握り、なお退き際を測る者は、容易に扱えぬ。
小船は、阿蘇の船団へ近づいた。
阿蘇の大船は、沖に浮かんでいる。
高い。
日ノ本の船とは違う。
まるで海の上に小さな城が動いているようであった。
その甲板に、童が立っていた。
阿蘇惟種。
九州探題、阿蘇家の若君。
そして今、淡路の水軍拠点を一息に焼いた者である。
十の童とは思えぬ。
いや、童だからこそ不気味なのかもしれない。
久秀は小船の上で深く頭を下げた。
「三好修理大夫が家臣、松永久秀にございます」
海風が吹く。
惟種は、すぐには答えなかった。
甲板の上には、阿蘇の兵が並んでいる。
槍を立てず、鉄砲を向けず、しかしいつでも動ける位置にいる。
その規律の静けさが、淡路の煙よりも久秀の目についた。
やがて、惟種が言った。
「阿蘇惟種だ」
短い。
名乗りに余計な飾りはなかった。
久秀は、さらに頭を下げる。
「此度、淡路の者どもが公方様の御座船を騒がせましたこと、まずは深くお詫び申し上げます」
惟種の目が細くなった。
「騒がせた、か」
久秀は顔を上げぬ。
「は」
「矢を向けたのだ」
声は荒くない。
だが、冷たい。
「公方様の御座船の前で、阿蘇の船へ矢を射た。次にずれていれば、御座船へ届いたやもしれぬ」
「まことに、申し開きもございませぬ」
「ならば、騒がせたでは足りぬ」
久秀は、そこでようやく顔を上げた。
惟種の横には、戸次鑑連がいる。
傷の身でありながら、目は鋭い。
さらに甲斐親英が海を見ている。
鍋島種茂は、帳面を抱えて控えていた。
どの顔も、軽くない。
久秀は静かに言った。
「公方様へ弓引く心は、三好修理大夫にはございませぬ」
「淡路の者にはあったか」
「恐れながら、取り違えにございます」
阿蘇の兵の何人かが、わずかに動いた。
久秀は続けた。
「阿蘇勢五百が兵を揃え、海路を東へ進む。淡路の者どもは、それを上洛の軍勢と見誤りました」
「見誤れば、公方様の御座船を止めてもよいのか」
「よくはございませぬ」
久秀は即座に答えた。
「ゆえに、こうして参りました」
「何をしに来た」
「お詫びと、お迎えにございます」
惟種の眉が、わずかに動いた。
久秀は、畳の上にいるように、船の中で深く手をつく。
「公方様の御帰洛につき、三好方のお迎えが遅れましたこと、まことに申し訳ございませぬ」
甲板の空気が変わった。
親英が、少し目を細める。
種茂は帳面を握る手に力を入れた。
戸次鑑連だけは、静かに久秀を見ていた。
惟種は、しばらく黙っていた。
やはり、こう来たか。
淡路の戦を、三好の敵対ではなく、現場の取り違えにする。
公方様を止めたのではなく、迎えが遅れたことにする。
阿蘇と三好の戦ではなく、手違いの始末に落とす。
よくできた逃げ道だった。
だが、逃げ道を残したままにするかは、こちら次第である。
「松永殿」
「は」
「阿蘇は、三好を討ちに来たのではない」
「承知しております」
「公方様をお送りするために来た」
「はい」
「ならば、道を塞ぐな」
久秀は深く頭を下げる。
「三好修理大夫に、その心はございませぬ」
「これより先、公方様の御帰洛を妨げぬな」
「妨げませぬ」
「阿蘇勢五百は、上洛の兵ではない。公方様の警固兵だ」
「そのように扱わせていただきます」
「淡路の残った船に、こちらを追わせるな」
「ただちに止めまする」
「それと」
惟種の声が、少し低くなった。
「次に公方様の御座船へ矢が向いたなら、今度は淡路だけでは済まぬ」
海風が止まったように感じた。
久秀は、阿蘇の大船を見た。
火器を据えられる高い舷側。
整った兵。
煙を上げる淡路の船溜まり。
脅しではない。
この童は、本当にやる。
だが、久秀は笑みにも似た薄い表情を作った。
「三好修理大夫へ、確と申し伝えます」
「伝えるだけでは足りぬ」
「では」
「公方様の御前で言え」
久秀の目が、わずかに動いた。
惟種は続けた。
「阿蘇と三好の間で済む話ではない。矢を向けられたのは、公方様の御座船だ」
「……ごもっともにございます」
「ならば、御前で詫びよ。三好は公方様の御帰洛を妨げぬ。阿蘇勢五百を公方警固と認める。淡路の一件は三好方の取り違えであり、以後、同じことはせぬ。そう申せ」
久秀は一瞬だけ、惟種を見た。
十の童。
だが、逃げ道の幅をよく知っている。
完全に潰せば、三好は意地で立つ。
だが、道を残せば、久秀はその道を使うしかない。
そしてその道は、阿蘇が敷いた道である。
久秀は深く頭を下げた。
「承りました」
◇
義藤は、久秀の詫びを受けた。
船内ではなく、あえて甲板近くに座を設けた。
遠くには、まだ淡路の煙が見える。
久秀は見事なほど丁寧に頭を下げた。
「此度の不調法、三好修理大夫に代わり、深くお詫び申し上げます」
義藤は、じっと久秀を見ていた。
京で見慣れた種類の男である。
礼を尽くす。
言葉を選ぶ。
膝を折る。
だが、腹までは見せない。
それでも今日の久秀は、少なくとも形の上では折れている。
それは、阿蘇の煙があったからだ。
「修理大夫に、余の帰洛を妨げる心はないと申すか」
「はっ」
「ならば、京へ戻る」
義藤の声は、静かだった。
「余は、争いを長引かせるために戻るのではない」
久秀の顔が、わずかに上がる。
「公方様」
「講和をする」
その一言に、座の空気が動いた。
惟種は、義藤を見た。
義藤は続ける。
「余は京へ戻り、三好修理大夫と和を結ぶ。父上の御病も重い。これ以上、京を荒らしてはならぬ」
久秀は、深く頭を下げた。
「修理大夫も、その御心を喜びましょう」
惟種は何も言わなかった。
それでよい。
阿蘇は三好を討ちに来たのではない。
義藤を送り届けに来た。
義藤が京へ戻り、三好と講和するなら、それで役目は終わる。
終わるはずだった。
その時、義藤が惟種を見た。
「惟種」
「はっ」
「京まで、ついてきてはくれぬか」
惟種は、思わず顔を上げた。
義藤の目は、真っ直ぐだった。
「公方様」
「分かっている。阿蘇には阿蘇の政がある。府内も、肥前も、筑後も、豊後も、そなたが見ねばならぬものは多い」
義藤は少しだけ声を落とした。
「だが、京はまだ危うい」
それは、義藤自身がいちばんよく知っていることだった。
京に戻れば、三好がいる。
幕臣がいる。
公家がいる。
近江方の者もいる。
誰もが将軍の名を必要とし、誰もが将軍の身を安全にするとは限らない。
淡路沖で矢が飛んだ。
その事実が、義藤の胸から離れなかった。
「そなたがいれば、少なくとも軽くは扱われぬ」
惟種は、内心で深くため息をついた。
帰りたい。
心からそう思った。
府内はまだ落ち着いていない。
義武も、田原も、秋月も火種だ。
肥前も、大村も、有馬の残りもある。
筑後も太らせている途中だ。
宗運を置いてきたとはいえ、長く空けてよいはずがない。
だが、公方様にこう言われては断れない。
しかも、淡路で矢が飛んだばかりである。
ここで退けば、義藤の身が危ういことを知りながら背を向けたことになる。
惟種は、ゆっくりと頭を下げた。
「……京までにございます」
義藤の顔が、少し明るくなった。
「うむ」
「講和が成り、公方様の御身が落ち着かれましたなら、阿蘇は帰ります」
「分かっておる」
義藤は頷いた。
「それでよい」
惟種は、もう一度頭を下げた。
「では、京までお供仕ります」
親英が、少しだけ天を仰いだ。
種茂は帳面の余白に、九州へ帰る日が遠のいたことを小さく記した。
戸次鑑連は、ただ静かに頷いた。
「公方様を守る役を受けた以上、最後までお守りするのが筋にございましょう」
惟種は横目で鑑連を見た。
その通りだ。
その通りだから、困るのだ。
◇
京は、阿蘇を見た。
公方様の帰洛。
三好との講和。
その後ろに控える九州探題、阿蘇惟種。
阿蘇勢五百は、洛中へ乱れ込まなかった。
主だった兵は洛外と要所に置かれ、御所近くへ入ったのは選ばれた者だけである。
それでも、十分だった。
兵は騒がない。
商家を荒らさない。
女房衆へ目を向けない。
寺社へ無礼を働かない。
槍も鉄砲も整えられ、歩く音まで揃っている。
京の者は、それだけで阿蘇を見直した。
田舎の大名ではない。
荒くれた武士の群れでもない。
規律を持つ軍であった。
さらに、淡路の話が先に京へ入っていた。
公方様の御座船へ矢が向いた。
阿蘇が怒った。
淡路の水軍拠点が焼かれた。
だが、民家は焼かれなかった。
漁師の船も奪われなかった。
その話は、尾ひれをつけて広がった。
曰く、阿蘇の船は城のごとく高い。
曰く、鉄砲の雨を海へ降らせる。
曰く、三好の水軍が近づけぬまま燃えた。
曰く、鬼童は怒っても民を斬らぬ。
曰く、公方様の名を守るため、九州より来た忠臣である。
惟種は、その噂を聞いて顔をしかめた。
「尾ひれがつきすぎだ」
種茂が言った。
「半分は事実にございます」
「残り半分が面倒なのだ」
戸次鑑連は低く笑った。
「名とは、そういうものにございます」
「いらぬ」
「いらぬと申しても、つくものはつきます」
惟種は、本気で嫌そうな顔をした。
◇
講和は、予想より早く形になった。
三好長慶は、久秀の報告を聞いていた。
淡路の敗報。
阿蘇船団の火力。
公方様の御座船を背にした名分。
そして、阿蘇が畿内に居座るつもりは薄いということ。
長慶は、しばらく黙っていた。
「阿蘇は、何を欲しておる」
久秀は答えた。
「おそらく、早く九州へ帰りたがっております」
長慶の目が細くなる。
「欲がないと?」
「いいえ」
久秀は静かに首を振った。
「欲の向きが、京ではないのでございましょう」
「九州か」
「九州。それに海。国の中身。民。銭。船。兵站。そうしたものにございます」
長慶は、小さく息を吐いた。
「厄介だな」
「はい」
「京を欲する者なら、京で縛れる。官位を欲する者なら、官位で縛れる。所領を欲する者なら、所領で縛れる」
長慶は、淡々と言った。
「だが、京を欲しておらぬ者は縛りにくい」
「その通りにございます」
「ならば、今は争う利なし」
長慶の判断は早かった。
「公方様とは和を結ぶ。淡路の件は、現場の取り違えとする。阿蘇勢五百は公方警固。三好は公方様の帰洛を妨げぬ」
「はっ」
「ただし、見よ」
久秀は頭を下げた。
「阿蘇がどれだけのものか。惟種が何を見ておるのか。見落とすな」
「承知しております」
長慶は、遠く京の方を見た。
「十の童に、京が測られるか」
その声には、不快だけではない。
かすかな興味も混じっていた。
◇
義藤と三好の講和は成った。
その場にいた者たちは、ただ偶然早まったとは思わなかった。
淡路の煙。
阿蘇勢五百。
公方警固。
三好の詫び。
そして、惟種の存在。
それらが重なり、京の空気を押したのだ。
義藤は、講和の後、惟種へ言った。
「そなたのおかげだ」
惟種は頭を下げる。
「恐れながら、阿蘇は公方様をお送りしただけにございます」
「その“だけ”が、今の京では重い」
義藤の声は柔らかかった。
「望むものはないか」
惟種は、顔を上げた。
「望むもの、にございますか」
「官位でも、所領でも、幕府の役でもよい。そなたは余を守り、京へ送り届け、和を成す助けをした」
周囲の幕臣たちも、それを当然のように聞いていた。
褒美を求める。
それが普通である。
武家が京へ来る。
公方を助ける。
兵を出す。
ならば、何かを得て帰る。
それが世の習いだ。
惟種は、少し考えた。
そして、静かに答えた。
「すでに過分の御沙汰を賜りました」
義藤は少し目を細めた。
「それでも、何かあろう」
「では」
惟種は深く頭を下げた。
「阿蘇へ帰るお許しを」
座が静まった。
義藤も、少し目を見開いた。
「帰る許し、か」
「はい」
「遠慮しておるのではないか」
「いえ」
惟種は淡々と言った。
「阿蘇は、公方様を無事に京へお送りする役を受けました。その役は果たしました。ならば、それで十分にございます」
幕臣の一人が、思わず口を開きかけた。
だが、声は出なかった。
惟種は続ける。
「阿蘇には、戻って見ねばならぬ国がございます。府内も、肥前も、筑後も、豊後も、まだ静まりきってはおりませぬ」
「そなたは、京に残る気はないのか」
「ございませぬ」
あまりに早い返事だった。
義藤は、しばらく惟種を見ていた。
その顔に、嘘はない。
本当に帰りたいのだ。
京に残れば、名は上がる。
公方の近くにいれば、権は増す。
三好と向き合えば、畿内の者たちも阿蘇を無視できなくなる。
それを、この童は捨てると言う。
捨てるというより、最初から欲していない。
義藤の胸に、不思議な熱が広がった。
京に来る者は、皆、何かを求める。
公方の名。
朝廷の官。
幕府の役。
所領。
口入れ。
敵を討つ名分。
だが、阿蘇惟種は違った。
あれほどの力を持ちながら、京に望むものがない。
褒美すら求めず、役目が終わったから帰ると言う。
それは、義藤には忠に見えた。
公家たちには、私欲なき武家に見えた。
幕臣たちには、恐ろしく扱いづらい大名に見えた。
そして松永久秀には、何より不気味に見えた。
欲がないのではない。
京で満たせる欲を持っていないだけだ。
久秀はそう思った。
◇
公家たちの間でも、阿蘇の名は広がった。
「九州探題の若君は、褒美を求めなんだそうな」
「公方様を守り、三好と和を成す助けをして、何も求めぬと」
「しかも先年、朝廷へ二万疋を献じた阿蘇であろう」
「田舎武士などと侮るものではない」
「いや、恐ろしい。力も銭もあり、しかも京に執着せぬ」
「それを忠義と言わずして、何と言う」
噂は、日に日に形を変えた。
阿蘇は強い。
阿蘇は富む。
阿蘇は礼を知る。
阿蘇は公方を守る。
阿蘇は朝廷を軽んじない。
阿蘇は求めない。
最後の一つが、最も強く響いた。
求めない者は、美しく見える。
同時に、恐ろしくも見える。
惟種本人は、そのどちらでもなかった。
ただ、帰りたかった。
◇
「では、公方様。阿蘇はこれにて」
惟種は、義藤の前で深く頭を下げた。
京での役目は終わった。
三好との講和は成った。
義藤の身辺も、ひとまずは落ち着いた。
阿蘇勢五百のうち、警固として残すべき者と、引き上げる者の分けも済んだ。
親英は船の支度を整えている。
種茂は帰路の水と兵糧を数えている。
戸次鑑連も、京での役は果たしたと見ていた。
ようやく帰れる。
惟種は、心底そう思っていた。
義藤は、名残惜しそうに言った。
「もう少しおってもよいのだぞ」
「阿蘇の国が待っております」
「そなたは、いつもそれだな」
「国を痩せさせるわけには参りませぬ」
義藤は、少し笑った。
「分かった。だが、そなたの忠、余は忘れぬ」
「過分にございます」
「阿蘇へ戻っても、余を忘れるな」
「もちろんにございます」
惟種は頭を下げた。
これで終わり。
そう思った。
その時だった。
廊の向こうが、にわかに慌ただしくなった。
足音が近づく。
幕臣が顔色を変えて入ってくる。
その後ろに、衣冠を整えた使者がいた。
御所の者ではない。
公家である。
座の空気が、また変わった。
使者は義藤へ一礼し、それから惟種へ目を向けた。
「阿蘇惟種殿に、朝廷より仰せにございます」
惟種は、動きを止めた。
嫌な予感がした。
使者は、静かに告げた。
「先年の二万疋の御献上、ならびに此度の公方様御帰洛の働きにつき、主上より御礼の御言葉を賜るべしとのこと。明日、参内なされませ」
惟種は、しばらく何も言えなかった。
親英が目を伏せる。
種茂が帳面を閉じる。
戸次鑑連が、小さく息を吐く。
義藤だけが、少しだけ楽しそうに笑った。
惟種は、心の中で深く深く呟いた。
――帰れぬではないか。
春の京に、また一つ、阿蘇を引き止める声が降ってきた。