作品タイトル不明
第百三十一話 淡路の煙
村上には払った。
払った以上、村上の水先は確かに仕事をした。
潮を読み、浅瀬を避け、島影の危うい筋を外し、阿蘇の船団を東へ通した。
だが、惟種は忘れていない。
海にも主がいる。
海にも法がある。
ならば、阿蘇もまた、その法を知らねばならない。
そしていつか、阿蘇の法も海へ通さねばならない。
親英は船首近くに立ち、潮を見ていた。
「若君」
「何だ」
「ここまでは村上の海にございました」
「そうだな」
「されど、これより先、淡路へ近づきます」
親英の声が低くなる。
「三好の目があるでしょう」
惟種は頷いた。
「分かっている」
公方様を送る船団。
阿蘇の新式大船。
常備兵五百。
九州探題となった阿蘇の旗。
三好がこれを見逃すはずがない。
だが、惟種は三好を討ちに来たのではない。
あくまで、公方様を送り届けるために来たのだ。
それでも、向こうが手を出すならば話は別である。
◇
淡路沖へ差しかかった時、海の様子が変わった。
島影から、複数の船が出てきた。
先ほどの村上とは違う。
船の動きに、警固料を求めるような落ち着きはなかった。
こちらを測り、押し、進路を塞ぐように広がっていく。
親英が目を細めた。
「安宅の船か」
戸次鑑連が、静かに甲板へ出た。
「三好方ですな」
種茂は帳面を抱えたまま、海を見た。
「また、読みづらい場でございますな……」
惟種は、船影を見た。
淡路水軍。
三好の手足の一つである。
やがて、小船が近づき、使者が声を張った。
「その船団、止まられよ!」
親英が応じる。
「こちらは公方様の御座船である。阿蘇が警固し、近江へお送りする途上だ。進路を開け」
「阿蘇兵五百を乗せておると聞く。上洛の兵ではあるまいな」
惟種が前へ出た。
「これは公方様の御身を守る警固兵だ。三好を討つ兵ではない」
「ならば、三好修理大夫殿へ先に話を通すべきであろう」
「公方様が御帰還なさるのに、なぜ三好へ許しを請う」
相手の船がざわついた。
その言葉は、あまりに正論だった。
だが、畿内では正論だけで道は通らない。
力を持つ者が道を塞げば、名ある者でも止められる。
それが今の京であり、畿内だった。
使者は声を荒げた。
「この海は三好方が押さえておる。無断で兵を運ぶなら、見過ごせぬ!」
惟種の目が冷える。
「公方様の御座船を、三好方の名で止めるか」
「兵を運ぶ船を止めるまで!」
その時だった。
淡路方の小船が、御座船の前へ回り込もうとした。
さらに別の船が、阿蘇の中型船へ近づき、鉤縄を投げる。
親英が叫んだ。
「縄を切れ!」
阿蘇兵が鉤縄を斬る。
次の瞬間、淡路方の船から矢が飛んだ。
一本、二本。
阿蘇の船側へ突き立つ。
甲板の空気が、一瞬で変わった。
惟種は、低く言った。
「今の矢は、どこへ向けた」
誰も答えない。
「公方様の御座船の前で、阿蘇の船へ矢を射たな」
親英が歯を食いしばる。
「若君」
「親英」
「はっ」
「反撃せよ」
惟種の声は静かだった。
「ただし、公方様の御座船を離すな。民船があれば避けろ。沈めるのは、矢を射た船と、道を塞ぐ船だけだ」
「承知!」
◇
阿蘇の新式大船が、淡路沖で牙を見せた。
高い舷側から、鉄砲衆が並ぶ。
合図の旗が振られた。
太鼓が一つ鳴る。
斉射。
乾いた音が海へ広がった。
淡路方の先頭の小船で、兵が倒れる。
続く斉射で、鉤縄を構えていた船が舵を失い、横を向いた。
阿蘇の大船は、瀬戸内の狭い島影では重すぎる。
村上の海では、その重さが隙にもなった。
だが、ここは淡路沖である。
島影はあるが、海は開けている。
風を受ける余地がある。
逃げるにせよ、押すにせよ、大船が力を使える幅がある。
この海なら、最悪逃げ切れる。
包まれる前に風を拾い、火力で近づく船を払えば、御座船を逃がす道は作れる。
そして、逃げるだけでなく戦うなら、なおさらだった。
波を受けても崩れない。
高い船腹が小船の接近を拒む。
火器を高所から撃ち下ろせる。
船足も、風を得れば速い。
親英は、その動きを見て目を見開いた。
「この海なら……」
言葉が漏れる。
「この海なら、勝てる」
淡路方の船は、包もうとした。
だが、阿蘇の中型船と小船がそれを遮り、大船の火力が次々に相手の足を止める。
戸次鑑連は、甲板で槍兵を抑えていた。
「焦るな。乗り込ませるな。こちらから飛び移る必要はない」
阿蘇兵は動じなかった。
船上で足元が揺れても、隊列を崩さない。
鉄砲を撃ち、弓を放ち、近づいた船には槍を揃える。
種茂は、顔色を悪くしながらも帳面を離さなかった。
「火薬、次の箱を」
「はっ」
「水桶を近くに。火の粉を出すな。御座船側へ煙を流すな」
海では、帳面の通りには進まない。
だからこそ、数えねばならない。
火薬。
水。
矢。
負傷者。
煙の向き。
御座船との距離。
宗運の代理として来た以上、海が読めぬでは済まされない。
◇
義藤は、船内で戦の音を聞いていた。
鉄砲の音。
兵の声。
板を叩く波。
遠くで上がる悲鳴。
近臣が青ざめる。
「公方様、奥へ」
義藤は頷いたが、目は鋭かった。
阿蘇は上洛を断った。
幕府を府内へ置くことも断った。
だが、御座船へ矢が向けられた瞬間、迷わず戦った。
京では、将軍の名を使う者は多い。
だが、その名を守るために怒る者は少ない。
義藤は、静かに目を閉じた。
◇
戦は長く続かなかった。
淡路方は、阿蘇の大船の火力と統制を見誤っていた。
公方を乗せた船団なら、強く出れば止まると思ったのだろう。
あるいは、阿蘇兵五百を脅し、三好へ通す筋を作るつもりだったのかもしれない。
だが、矢を射た。
それで終わった。
阿蘇は、売られた喧嘩を買った。
淡路方の船数隻が燃え、数隻が拿捕された。
残りは島影へ逃げ戻った。
親英が惟種のもとへ来た。
「若君。追いますか」
「追う」
惟種は即答した。
「ただし、民家には火をかけるな。田畑を踏むな。漁師の船に手を出すな」
「では」
「焼くのは、水軍の船溜まり、番所、兵糧蔵、船具蔵、桟橋だ」
惟種の声は冷たい。
「公方様へ矢を向けた代を払わせる」
戸次鑑連が頷いた。
「筋は通っております」
惟種は、淡路の方を見た。
「村上の時は払った」
親英も種茂も、その言葉の意味を察した。
「だが、今回は向こうが矢を射た」
惟種は続けた。
「ならば、遠慮はいらぬ」
◇
阿蘇の船団は、淡路方の前線船溜まりへ向かった。
大船は沖に残り、火器で港口を抑える。
中型船と小船が近づき、阿蘇兵が桟橋へ降りた。
動きは早かった。
船溜まりにあった軍船の帆を切り、舵を壊し、使える船は曳き出す。
船具蔵の縄、帆、櫂、矢束を押さえる。
兵糧蔵のうち、軍用のものだけを焼く。
番所の柵を倒し、桟橋の要を壊す。
民家には火をかけない。
泣き叫ぶ民には触れない。
逃げる漁師の小舟も追わない。
惟種は何度も命じた。
「民を焼くな。民を斬るな。阿蘇は盗みに来たのではない」
阿蘇兵は従った。
それがかえって、淡路の者たちには恐ろしかった。
乱暴者が来たのではない。
怒った者が、怒るべき場所だけを焼いている。
ただの略奪よりも冷たかった。
船溜まりから黒い煙が上がった。
この前線拠点から、しばらく船は出せない。
桟橋は壊され、船具蔵も焼けた。
淡路方の足は、少なくとも当面止まる。
親英は、その煙を見ながら言った。
「足を止めましたな」
「止めたのは水軍の足だけだ」
惟種は言った。
「民の腹までは殺していない」
種茂は、その言葉を帳面に記すように心に刻んだ。
これが阿蘇のやり方なのだ。
怒っても、焼く場所を選ぶ。
討つが、奪わない。
壊すが、民を飢えさせるところまでは踏み込まない。
陸でも海でも、それは変えない。
◇
淡路の煙は、三好の目にも入った。
淡路方の船が敗れた。
公方御座船へ矢を向けた。
阿蘇の新式船に蹴散らされた。
前線船溜まりを使えなくされた。
その報せは、急ぎ三好方へ走った。
阿蘇は上洛軍ではない。
だが、海路で淡路を叩ける。
しかも公方を背にしている。
これ以上手を出せば、三好が公方へ無礼を働いたことになる。
さらに、九州探題となった阿蘇に喧嘩を売ることになる。
淡路の船溜まりからは、まだ煙が上がっていた。
阿蘇の船団は、再び公方御座船を中心に隊列を整える。
惟種は甲板に立ち、黒い煙を見ていた。
村上には払った。
淡路には払わせた。
海には海の法がある。
ならば、阿蘇の法もまた、この海に刻まねばならない。
その時、見張りの兵が声を上げた。
「若君!」
「何だ」
「三好より使者!」
甲板の空気が変わる。
兵が続けた。
「三好修理大夫が家臣、松永久秀と名乗っております!」
惟種は、ゆっくりと振り返った。