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作品タイトル不明

第百二十八話 京より来る名

天文十九年(一五五〇年)四月。

春の阿蘇に、京の匂いをまとった文が届いた。

その文を受け取った惟豊は、しばらく何も言わなかった。

文は、ただの使者の先触れではない。

祝いでもない。

嘆願でもない。

足利義藤。

後に義輝と名を改める、室町将軍その人が、急ぎ府内へ入るという知らせであった。

京を追われ、三好に圧され、近江へ逃れている公方である。

その公方が、遠く九州の阿蘇を頼ろうとしている。

表向きには、一時の逗留とされていた。

供の数も、幕府の移座と呼ぶほど大きくはない。

だが、文の急ぎようはただ事ではなかった。

添えられた名も、軽くない。

京に近い者たちの筆が、いくつも重なっている。

一時の滞在で済むのか。

それとも、京を離れた公方の座が、この九州へ流れ込もうとしているのか。

惟豊は文を畳み、低く言った。

「宗運を呼べ。惟種もだ」

奥の一室に、三人だけが集まった。

惟豊。

惟種。

甲斐宗運。

部屋には、京の文が置かれている。

それだけで、いつもの戦報とは違う重さがあった。

宗運が文を読み終え、静かに息を吐いた。

「公方様、府内へお入りになる御意にございますな」

「うむ」

惟豊は頷いた。

「急ぎ、迎えの支度をせねばならぬ」

惟種は黙っていた。

将軍。

名は重い。

だが、今の幕府は軽い。

それが惟種の本音であった。

京で権威として立っているならよい。

御内書を出し、諸国の名を整え、畿内で三好とやり合ってくれるなら、いくらでも融通する。

銭も、文も、名目も、必要なら少しの兵も出せる。

だが、阿蘇の懐へ幕府そのものを抱え込むのは困る。

今の阿蘇には、府内がある。

肥前がある。

筑後がある。

旧大友家臣団がある。

西郷、松浦、大村、有馬の後始末もある。

南では島津との約があり、伊東と肝付の火種もある。

そこへ公方を抱え込めば、畿内の争いまで背負うことになる。

重すぎる。

惟種は、そう思った。

もちろん、口には出さない。

宗運が、惟種の顔を見て言った。

「若君」

「何だ」

「顔に出ております」

「出ておらぬ」

「少し出ております」

惟豊が短く言った。

「惟種。本人の前でその顔をするな」

「しておりませぬ」

「しておる」

惟種は、仕方なく姿勢を正した。

宗運が文を指した。

「公方様が阿蘇へ求めるものは、おそらく三つにございます」

「申せ」

惟豊が促す。

「一つ。三好長慶への牽制」

宗運は言った。

「公方様は京を追われております。畿内で兵を得るのは難しい。ならば、遠くとも大友を降し、肥前を収め、島津と結ぶ阿蘇の名を借りたい」

「阿蘇が後ろにいると見せるだけで、三好を黙らせるか」

「はい。あるいは、黙らぬまでも、京の者どもの腹を揺らせます」

惟豊は頷いた。

「二つ目は」

「上洛の催促にございましょう」

宗運の声が少し重くなる。

「阿蘇が大軍を率いて上洛し、公方様を京へ戻す。そういう話を持ち出される可能性がございます」

惟種は、すぐに言った。

「無理だ」

惟豊が見る。

惟種は続けた。

「今の阿蘇は動けませぬ。府内も肥前も、まだ根が浅い。ここで大軍を京へ向ければ、豊後が燃える。肥前も揺れる。秋月も義武も田原も、笑って火をつける」

「その通りだ」

宗運は頷いた。

「上洛は、今の阿蘇には重すぎます」

惟豊は、ゆっくりと腕を組んだ。

「三つ目は」

宗運は、少し間を置いた。

「幕府の移座にございます」

部屋が静まった。

「公方様が、京へ戻れぬと見た場合。あるいは、三好に京を握られ続けると見た場合、幕府の名を府内、または阿蘇の庇護下へ移すことを考えておられるやもしれませぬ」

惟豊の目が細くなった。

「九州へ幕府を持ってくる、ということか」

「はい」

「馬鹿な」

惟種は思わず言った。

宗運がちらりと見る。

惟種は構わず続けた。

「将軍は京にいてこそ将軍です。府内へ来て座られても、阿蘇の政所が公方様の御座所に呑まれるだけです」

「言葉は選べ」

惟豊が低く言った。

「三人だけなので」

「三人だけでもだ」

惟種は少し口を閉じた。

だが、言葉を変えて続ける。

「今の幕府は、国を治める仕組みではありませぬ。名を食わせる仕組みにございます」

宗運は、目を伏せた。

厳しい言い方だ。

だが、外れてはいない。

将軍家の名はまだ重い。

御内書一つで、諸国の顔色は変わる。

だが、兵も銭も土地も失い、三好に追われる今の幕府を阿蘇へ入れれば、阿蘇がその名を食わせ続けることになる。

名は重い。

だが、腹も減る。

そして、その腹を満たすのは阿蘇である。

惟豊は、しばらく黙っていた。

やがて、低く言う。

「将軍家の名は、粗末にはできぬ」

「はい」

宗運が頷く。

「公方様を軽く扱えば、阿蘇が無礼者となる。阿蘇がいくら力を持とうと、京の名を侮ったと見られれば、諸国の見る目が変わる」

「承知しております」

惟種も頭を下げた。

惟豊は続ける。

「だが、名を館へ入れれば、館の主が二人になる」

宗運が静かに言った。

「その通りにございます」

「それはならぬ」

惟豊の声は、はっきりしていた。

「阿蘇の主は阿蘇だ」

惟種は、その言葉に少しだけ安堵した。

父は、名に呑まれていない。

惟豊は将軍家を敬う。

だが、阿蘇の首を差し出す気はない。

「迎えは丁重にする」

惟豊は言った。

「府内に入られるなら、宿所も警護も万全にせよ。旧大友家臣団にも、無礼をさせるな。大友隼人にも、公方様への礼を尽くさせる」

「はっ」

宗運が頷いた。

「家臣総出で迎える。阿蘇が公方様を軽んじておらぬと、はっきり示す」

「はい」

「だが」

惟豊の声が低くなる。

「阿蘇の政は渡さぬ」

宗運は深く頭を下げた。

「承りました」

惟種は、文を見た。

「京で立たれる分には、支えます」

「どのように」

宗運が問う。

「銭。贈答品。漆器。薬。鉄砲少数。必要なら職人も」

「兵は」

「大軍は出さぬ」

惟種は即答した。

「少数の護衛、あるいは旗だけなら考える。だが、上洛軍は無理だ」

「それで公方様が納得されるか」

「納得させる」

惟種は言った。

「表向きの理由は簡単です。阿蘇は戦後であり、豊後、肥前、筑後を鎮めている最中。ここで大軍を上洛させれば、九州の静謐が崩れる。公方様の御ためにもならぬ」

宗運が目を細めた。

「九州の静謐、ですか」

「そうだ」

惟種は頷いた。

「逆に言えば、公方様からその名をもらう」

惟豊が惟種を見た。

「名をもらう?」

「はい」

惟種は、畳の上へ指を置いた。

「阿蘇を、西国、少なくとも九州の調整役として認めていただく。九州諸家の争いは、阿蘇が公方様の名を受けて裁く。そういう御内書、御教書をいただく」

宗運が、わずかに笑った。

「上洛の代わりに、名をいただく」

「そうだ」

「公方様は兵を求め、阿蘇は名を得る」

「兵は出せぬが、名は使える」

惟種は言った。

「阿蘇が勝手に裁くのではない。公方様の名を受け、九州静謐のために裁く。そうすれば、こちらの義がさらに立つ」

「売られた喧嘩を買う時にも」

「使える」

宗運は頷いた。

「悪くございませぬ」

惟豊も黙って聞いていたが、やがて言った。

「それは受けてもよい」

「父上」

「公方様の名は、まだ死んでおらぬ。その名で阿蘇の裁きが通りやすくなるなら、使えばよい」

惟種は頭を下げた。

「ただし」

惟豊は続ける。

「公方様を阿蘇の政へ入れるな」

「心得ております」

「幕府を府内へ移す話が出たなら」

宗運が答えた。

「丁重に退けます」

「どう言う」

宗運は少し考え、答えた。

「公方様は京にあってこそ、公方様にございます。九州へ移られれば、三好に京を捨てたと喧伝されましょう。ゆえに、阿蘇は京への御帰還を支えるため、九州を鎮め、銭と物資をもって支える、と」

惟豊は頷いた。

「よい」

惟種は内心で思った。

京で踏ん張ってくれ。

もちろん、口には出さない。

宗運がちらりと惟種を見る。

「若君」

「何だ」

「今、顔に出ました」

「出ておらぬ」

「少し出ました」

惟豊が言った。

「努力せよ」

「はい」

しばらくして、惟豊は府内の準備について話を移した。

「府内には誰がいる」

「戸次鑑連、吉岡長増、大友隼人、樋口、親英の者、阿蘇の常備兵二千。ほか、旧大友家臣団の一部にございます」

宗運が答える。

「公方様が府内へ入れば、旧大友の者たちはどう見る」

「複雑でございましょうな」

宗運は言った。

「かつて大友は京の名を受け、九州で大きく振る舞っていた家にございます。その府内へ、今度は京を追われた公方様が、阿蘇を頼って入る」

惟種は目を細めた。

「時代が変わったと見せつけることになる」

「はい」

「それは危うい」

「はい」

宗運は頷いた。

「義武や田原のような者は、これを利用しようとするやもしれませぬ。公方様の名を使い、大友の再興を口にする者も出る」

「だからこそ、公方様の宿所と近侍は阿蘇が押さえる」

惟種が言った。

「公方様に無礼はせぬ。だが、誰でも近づけるようにはしない」

「その通りにございます」

惟豊は言った。

「戸次鑑連には、隼人の守りと同時に、府内の礼を整えさせよ。吉岡長増には館中を鎮めさせる。宗運、そなたも府内へ行け」

「はっ」

「惟種もだ」

「承知しました」

惟種は頭を下げた。

「公方様を迎える場で、阿蘇の若君が出ぬわけにはいかぬ」

惟豊は続ける。

「だが、出すぎるな」

惟種は顔を上げた。

「出すぎる、とは」

「公方様の前で、幕府はいらぬなどという顔をするな」

「……心得ました」

宗運が静かに言った。

「顔だけでなく、口にも出されませぬよう」

「出さぬ」

「心にも」

「それは無理だ」

惟豊が額に手を当てた。

「惟種」

「口には出しませぬ」

「顔にも出すな」

「努力します」

「努力では足りぬ」

「では、気合で」

「そういうところだ」

宗運が袖で口元を隠した。

話は、さらに深くなった。

惟種は静かに言った。

「京の幕府は、いずれ畿内の力ある者に追われます」

惟豊の目が、少しだけ鋭くなる。

「そう見るか」

「はい」

「三好か」

「三好も、いずれ別の者も」

惟種は言葉を濁した。

信長。

その名をここで出しても、意味はない。

今はまだ尾張の一勢力に過ぎない。

宗運ならともかく、父にまで未来の名を語る必要はなかった。

「幕府は、今すぐ抱くには重すぎます。だが、いずれ地に落ちる。拾うなら、その後でよい」

宗運は静かに聞いていた。

惟豊もまた、しばらく黙った。

「冷たいな」

惟豊が言った。

「はい」

惟種は否定しなかった。

「ですが、今の阿蘇に必要なのは、幕府そのものではなく、幕府の名です」

「名だけを使うか」

「はい」

「公方様を道具にすることになる」

「公方様も、阿蘇を道具にしようとしております」

惟種の返しは早かった。

「ならば、互いに使えばよい。こちらは無礼をしない。銭も出す。京で立つための手も貸す。だが、阿蘇の腹に幕府を入れることはしない」

宗運は、少しだけ頷いた。

「若君の言い方は冷たうございますが、筋は通っております」

惟豊は、文を見つめた。

「互いに使う、か」

「はい」

「ならば、使われすぎるな」

「心得ております」

やがて、方針は定まった。

一つ。

足利義藤は、丁重に府内で迎える。

一つ。

上洛要請には、阿蘇の戦後統治を理由に即答を避ける。

一つ。

銭、物資、贈答品、鉄砲少数、薬などの支援は行う。

一つ。

幕府移座の話が出れば、京の権威を保つためとして丁重に断る。

一つ。

代わりに、阿蘇を九州静謐の柱、天下の調整役の一端として認める御内書を求める。

一つ。

府内で旧大友家臣が公方の名を勝手に使わぬよう、近侍と警護は阿蘇が握る。

宗運が、それらを一つずつ確認した。

「つまり」

宗運は言った。

「公方様は丁重に迎える。されど、阿蘇の政は渡さぬ」

「そうだ」

惟豊が頷く。

「上洛は濁し、銭と文で支える。幕府移座は退ける。九州静謐の名だけはいただく」

「それでよい」

惟種も頷いた。

「将軍は京にいてこそ将軍です。阿蘇へ来て座られても、互いに不幸になります」

惟豊が、じろりと見た。

「少しは言い方を覚えたな」

「努力しました」

宗運が続けた。

「顔にも出されませぬよう」

「努力する」

「努力では足りませぬ」

「……気合で抑える」

宗運はため息をついた。

「若君の気合ほど信用しにくいものもございませぬな」

惟種は不服そうにしたが、言い返さなかった。

その夜、府内へ向けて使者が走った。

戸次鑑連へ。

吉岡長増へ。

大友隼人の御座所へ。

親英へ。

樋口へ。

阿蘇の常備兵の指揮役へ。

府内に、公方が来る。

その報せは、静かに、しかし確実に人の腹を揺らしていった。

旧大友家臣たちは、京の名を思い出す。

阿蘇の者たちは、迎えるべき礼を整える。

商人たちは、何が動くかを測る。

そして、火種を持つ者たちは、その名をどう使えるかを考える。

惟種は、出立の支度を命じた後、一人で文を見直した。

足利義藤。

将軍家の名。

重い。

だが、今はまだ、実が軽い。

その名をどう扱うかで、阿蘇の立ち位置は変わる。

天下を取るなら、いつか京と向き合わねばならない。

それが、思ったより早く来ただけだ。

惟種は文を畳んだ。

「幕府はいらぬ」

小さく呟く。

「だが、名は使える」

その声は、部屋の中にだけ落ちた。

翌朝、阿蘇は府内へ向けて動き出す。

京より来る名を、迎えるために。

だが、その名を待っていたのは、阿蘇だけではなかった。