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作品タイトル不明

第百二十九話 京の名と阿蘇の灯

天文十九年(一五五〇年)四月。

府内は、春の光に包まれていた。

港には船が並び、槌の音が響いている。

焼けた桟橋の一部はすでに直され、新しい材が潮を吸って黒く濡れていた。

蔵の前には人足が行き交い、阿蘇の文官が帳面を抱えて荷を改める。

戦の跡は、まだ残っている。

だが、町は死んでいない。

むしろ、戦前よりも人の動きは整っていた。

夜には辻に灯がともる。

乱妨を禁じる札が立つ。

商人は荷を隠さず運ぶ。

阿蘇兵は槍を持って立つが、奪わない。

蔵を守り、道を守り、町を守る。

その府内へ、京より公方が入った。

足利義藤。

のちに義輝と名を改める、若き将軍である。

迎えは、阿蘇として最大限の礼を尽くした。

惟豊自らが府内へ入り、惟種、宗運も並ぶ。

戸次鑑連、吉岡長増、大友隼人も礼を整えた。

旧大友家臣たちは、複雑な顔を隠しきれなかった。

かつて大友が仰いだ京の名。

その京の名が、今は阿蘇を頼って府内へ来る。

それは、時代が変わったことを、誰よりも彼らに見せつけていた。

義藤のために用意された屋敷は、大きすぎるものではなかった。

だが、清潔で、明るく、暖かく、守りやすい。

門から奥までの道は整えられ、警護の兵は目立ちすぎぬよう置かれている。

贅を誇る屋敷ではない。

もてなすための屋敷である。

義藤は、案内されながら幾度も足を止めた。

白く整えられた壁。

煙の少ない暖房。

夜でも字が読める灯。

磨かれた漆器。

冷たく甘い葛の菓子。

山の氷室より運ばせた氷で冷やした果物。

香草と塩で焼いた鶏。

甘辛く煮た鹿肉。

見慣れぬものも多い。

だが、どれも奇をてらうためではない。

人を休ませ、腹を満たし、心をほどくために整えられている。

義藤は、椀を手に取り、漆の艶を眺めた。

「これは、見事だ」

惟豊が頭を下げる。

「阿蘇の職人どもが仕上げました」

「これほどのものを、九州で」

義藤は、府内の町の方へ目を向けた。

「戦後と聞いていたが、町は生きておる」

惟種は静かに言った。

「焼いたままでは、誰も食えませぬゆえ」

義藤は惟種を見た。

まだ若い。

いや、若すぎる。

だが、その言葉には、年に似合わぬ重みがあった。

会合は、屋敷の奥で行われた。

上座に足利義藤。

向かいに阿蘇惟豊。

その下に惟種。

横に甲斐宗運。

義藤の近臣も控えていたが、深い話に入ると、声の届く者は限られた。

義藤は、まず深く礼を述べた。

「此度のもてなし、まことに感じ入った。京でも、これほど整った場は容易には得られぬ」

惟豊は静かに頭を下げる。

「公方様を府内へお迎えする以上、阿蘇として礼を欠くわけには参りませぬ」

義藤はしばらく何も言わなかった。

その目は、室内の灯を見ているようで、もっと別のものを見ているようでもあった。

京。

近江。

三好。

細川。

朽ちかけた御所。

名はあるのに、兵がない将軍家。

そして今、目の前にある府内。

戦のあとでありながら、町を生かし、道を通し、蔵を動かし、灯をともす阿蘇。

義藤は、静かに息を吐いた。

「肥後守護、筑後守護を阿蘇へ与えたこと、間違いではなかった」

惟豊の目がわずかに動く。

義藤は続けた。

「いや、それだけでは足りぬ」

座の空気が、わずかに変わった。

「わしは府内を見た。港を見た。蔵を見た。兵を見た。民の顔も見た」

義藤の声は若い。

だが、将軍の名を背負う者の声だった。

「阿蘇は、ただ国を取る家ではない。取った国を静め、食わせ、道を通す家だ」

惟種は黙っていた。

義藤の視線が、惟豊へ戻る。

「阿蘇は、九州静謐の柱となる家だ」

一拍。

「これより、九州探題を名乗るがよい」

座が静まり返った。

宗運は表情を変えない。

惟種も顔には出さなかった。

だが、内心では思っていた。

名は欲しい。

幕府はいらないが、名は欲しい。

九州探題の名があれば、阿蘇の仕置きに幕府の権威を乗せられる。

売られた喧嘩を買う。

降る道を示す。

それでも乱す者を討つ。

その時に、阿蘇の勝手ではなく、九州静謐のためと言える。

これは大きい。

惟豊は、深く頭を下げた。

「ありがたき御沙汰にございます」

義藤は頷いた。

「阿蘇ほどの家が九州を鎮めるならば、わしも心強い」

だが、義藤がそれだけで来たわけではない。

少し間を置き、義藤は声を低くした。

「惟豊」

「はっ」

「わしは、三好を黙らせねばならぬ」

その名が出た瞬間、空気が変わった。

三好長慶。

京を握り、将軍を圧する者。

義藤は続けた。

「京を追われ、近江に身を寄せる日々は、長く続けられぬ。将軍が京に戻れぬままでは、天下の名が痩せる」

「ごもっともにございます」

惟豊は答えた。

義藤は、まっすぐに惟豊を見た。

「阿蘇には、上洛してほしい」

来た。

惟種は内心でそう思った。

想定通りである。

「阿蘇が兵を率い、京へ上れば、三好も軽々しく動けぬ。諸国も見る。わしは京へ戻れる」

惟豊は、すぐには答えなかった。

代わりに宗運が静かに言葉を添える。

「公方様の御心、重く受け止めます」

義藤は宗運を見た。

「だが、難しいと申すか」

「はい」

宗運は、はっきり言った。

「阿蘇は昨年より、大友、肥前、筑後、豊後の仕置きを続けております。府内は整いつつありますが、まだ完全には根づいておりませぬ。肥前にも残党がおり、旧大友領にも火種がございます」

義藤は黙って聞いていた。

「今、大軍を上洛させれば、九州が乱れます。それは、いずれ公方様を支える力を自ら削ることになりましょう」

義藤の目が鋭くなった。

「将軍の帰洛より、九州の仕置きが重いと申すか」

座の空気が、わずかに冷えた。

義藤は怒鳴ってはいない。

だが、その言葉には、将軍としての意地があった。

惟豊は、静かに頭を下げた。

「公方様の御帰洛は、天下にとって大事にございます」

「ならば」

「されど、その御帰洛を支える兵と銭は、どこより生まれましょうか」

義藤は黙った。

惟豊は続ける。

「九州が乱れれば、阿蘇の兵も銭も米も、乱の火消しに食われます。府内が燃えれば、京へ送る船も荷も失われます」

宗運が、静かに継いだ。

「今の阿蘇が九州を静めることは、公方様を見捨てることではございませぬ。公方様を長く支えるためにございます」

惟種も頭を下げた。

「助けられるなら、助けとうございます」

これは嘘ではなかった。

義藤本人は、悪い人物ではない。

むしろ人当たりはよく、若くして重すぎる名を背負い、三好や細川や近臣たちの間で綱渡りをしている。

自分なら絶対に嫌だ。

惟種はそう思っていた。

だから、助けたい気持ちがないわけではない。

だが、今は無理なのだ。

「されど、今は無理にございます」

惟種は頭を下げた。

「今の阿蘇が上洛すれば、九州は荒れます。九州が荒れれば、公方様のために働く力も失われます」

義藤は、苦い顔をした。

納得したくない。

だが、理は分かる。

そういう顔だった。

義藤は、さらに踏み込んだ。

「ならば、幕府を阿蘇に置くことはできぬか」

惟種は、心の中で深く息を吐いた。

来た。

これも想定通りである。

「京へ戻れぬなら、府内に御座を置く。阿蘇の下で幕府を保つ。それも一つの道ではないか」

義藤の声には、焦りがあった。

将軍でありながら、京を追われている。

名はあっても、座がない。

それがどれほど苦しいか、惟種にも分からないわけではなかった。

だが、それでも受けられない。

惟豊が、静かに答えた。

「公方様」

「うむ」

「公方様は、京にあってこそ公方様にございます」

義藤の目が細くなる。

惟豊は続けた。

「府内へ御座を移されれば、三好は必ず触れましょう。公方は京を捨てた、と」

義藤は唇を結んだ。

宗運が続ける。

「それは、かえって公方様の御名を損ないます。阿蘇は府内で公方様をお守りすることはできましょう。されど、京の名そのものを府内へ移すことは、天下のためになりませぬ」

惟種も言った。

「阿蘇は、京へ戻る公方様を支えるため、九州を鎮めます」

「九州を」

「はい」

「阿蘇が九州を鎮め、その上で銭、物資、薬、鉄砲、必要な支えを京へ送る。それが今、阿蘇にできる最も大きな忠にございます」

義藤はしばらく黙った。

惟種は、その沈黙の中で思った。

幕府はいらない。

だが、この人を粗末に扱いたくはない。

その二つは、同時に存在していた。

義藤は、やがて別の問いを投げた。

「阿蘇は、さらに九州を押し広げるつもりか」

その問いは、軽くなかった。

義藤からすれば当然である。

阿蘇は急に大きくなりすぎた。

大友を降し、肥前を収め、筑後を取り込み、島津とも結ぶ。

ならば、次にどこを攻めるのか。

そう見るのは自然だった。

惟豊は、静かに答えた。

「阿蘇は、むやみに兵を出す家ではございませぬ」

義藤の視線が、惟豊から惟種へ移る。

惟種は、父の後を受けた。

「ここまで阿蘇が大きくなったのは、こちらから火をつけたからではございませぬ」

「ほう」

「周りが攻めてきました」

惟種の声は静かだった。

「大友も、こちらを侮り兵を出しました。肥前でも、乱す者がおりました。降る道は開きました。名を残す道も置きました。家を残す道も示しました」

義藤は聞いている。

「それでもなお刀を取る者は、民を巻き込む者にございます」

惟種の目が、まっすぐになった。

「ならば、討ちます」

義藤の表情が変わった。

「阿蘇は、自ら火をつけませぬ。されど、火を投げ込まれたなら、その火元は消します」

惟種は言った。

「それが阿蘇の理であり、義にございます」

座は静まり返った。

義藤は、しばらく惟種を見ていた。

やがて、ゆっくりと頷く。

「それは、まこと武家の理である」

義藤の声には、感嘆があった。

「力を持つ者が皆、そなたらのように理を重んじれば、京もここまで乱れなんだであろう」

その言葉には、苦さも混じっていた。

京では、誰もが名を使う。

将軍の名も。

細川の名も。

三好の力も。

理より先に利が走り、義より先に兵が動く。

その中で義藤は生きてきた。

だからこそ、阿蘇の言葉は響いた。

「阿蘇は、九州を乱す家ではない」

義藤は言った。

「九州を静める家だ」

惟豊は頭を下げた。

「過分にございます」

「いや」

義藤は首を振った。

「ならばこそ、九州探題の名を与える意味がある」

その後、具体の話に移った。

阿蘇は上洛軍を出さない。

幕府の府内移座も受けない。

代わりに、義藤の京への帰還を支えるため、銭、薬、贈答品、漆器、少数の鉄砲、必要に応じた護衛を出す。

そして、九州静謐のため、阿蘇に九州探題の名を与える御内書を整える。

義藤は渋々だった。

本当は兵が欲しい。

三好を黙らせる力が欲しい。

自分の名が、京で再び重く響く力が欲しい。

だが、府内を見た。

阿蘇の整えた町を見た。

阿蘇がまだ戦後の国を太らせている最中だと分かった。

ここで阿蘇を無理に動かせば、その力そのものが損なわれる。

義藤にも、それは理解できた。

「気持ちは分かった」

義藤は、やがて言った。

「阿蘇が今、無理に上洛できぬことも分かった」

惟豊、惟種、宗運が頭を下げる。

「だが、わしは阿蘇を一番の忠臣と考えておる」

義藤の言葉は、若いが重かった。

「九州を鎮めよ。阿蘇が九州を鎮めるなら、それはわしを支えることになる」

惟豊が深く頭を下げた。

「阿蘇は、公方様の御名を軽んじませぬ」

惟種も頭を下げる。

「阿蘇は理と義を重んじます。公方様の御名を、九州静謐のために用いさせていただきます」

義藤は頷いた。

「頼むぞ」

会合が終わり、義藤が奥へ下がった後、惟種は廊から府内の町を見た。

夕暮れが近づいている。

港には灯が入り始めていた。

阿蘇の兵が辻に立ち、商人が荷を片づけ、職人が槌を置く。

そこへ、京の名が来た。

重い名だった。

使える名でもあった。

だが、抱え込めば沈む名でもある。

義藤本人は、嫌いではない。

人当たりもよい。

話も聞く。

苦労していることも分かる。

将軍という名の下で、あの若さで綱渡りをしている。

だが、幕府は厄介極まりない。

敬意は払う。

支援もする。

だが、深入りはしない。

それが阿蘇の道だった。

宗運が横に並んだ。

「若君」

「何だ」

「顔には出されませなんだな」

「当然だ」

「少しだけ出ておりました」

「出ていたか」

「公方様が幕府移座を口にされた時、ほんの少し」

惟種は口を結んだ。

「次は気をつける」

「次がないことを祈ります」

惟種は、府内の灯を見た。

京の名。

阿蘇の灯。

その二つは、今夜この府内で並んでいる。

どちらがこの先を照らすのか。

惟種には、もう分かっていた。

名は使う。

だが、国を動かすのは、灯を増やし、道を直し、民を食わせる力だ。

阿蘇は、その道を行く。

京の名を背に受けながらも、阿蘇の足で。

その夜、府内のあちこちで囁きが生まれた。

公方様が来た。

阿蘇は九州探題となる。

大友の府内に、京の名が戻った。

その言葉を、阿蘇の兵は警戒して聞いた。

商人は算盤を弾きながら聞いた。

旧大友家臣たちは、酒の椀を手に聞いた。

そして、火種を抱える者たちは、別の意味でその名を聞いた。

京の名は、阿蘇のためだけに使えるものではない。

大友の名を残した阿蘇。

府内に入った公方。

九州探題となる阿蘇。

そのすべてを、どう歪めれば火になるか。

闇の中で、それを考える者がいた。

府内の灯は、明るくなった。

だが、灯が強くなれば、影もまた濃くなる。