軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

「アイリアの苦悶」

304話「アイリアの苦悶」

私は昨夜から、肉体を完全に支配されている。

原因はなんとなく理解している。あの魔法の杯だ。不活性状態だと聞いていたが、どうやら何かの弾みで起動したらしい。

今回の騒動の原因があの杯だとすれば、杯を握りしめていた元老は単に利用されていただけ、ということになるのだろうか。

私はしゃべることもできないので、今はただ考えながら機会をうかがうしかない。

敵はこちらの呼びかけには一切応じないけれども、私の記憶は読み取っているらしい。いつも通りに就寝し、いつも通りに床から起き出す。

それから私の好きな香水を迷わずに選び、いつも通り足首の内側に一滴だけつけた。

ちょうどそのとき侍女のマルマが入ってきた。香水の香りに気づいたのだろう、香水瓶を珍しげに見つめている。

彼女はまだ十代だから、自分の香水は持っていないだろう。

「アイリア様、その香水お好きですね」

「そうですね。好きなので、ついつい付けすぎそうになります」

「いつも一滴だけ、なんですよね?」

「はい。匂いに慣れて付けすぎないよう、いつも同じ量にしています」

「勉強になります、アイリア様!」

乗っ取られた私は、侍女との会話もそつなくこなしている。

なんとか彼女に異変を伝えたいと悪戦苦闘したけど、杯に許可されていない行動はできないようだ。

愛用の剣を自分の意志で腰に吊すことはできたが、抜くことはできなかった。

しかし落ち着いて考えてみれば、侍女が異変に気づいた場合、彼女が危険に曝されるかもしれない。

この杯は人間の記憶を読みとり、肉体を完全に支配できるのだから。

では誰に異変を伝えれば……そう考えると、相手は限られてくる。

幸い、これから朝食だ。

なんとかしてあの方に異変を伝えよう。

そんなことを考えている間にも、操られた私は侍女に気さくに話しかける。

「マルマ、あなたもそろそろ自分の香水が欲しいのではありませんか?」

とたんに侍女が照れくさそうな顔をする。

「い、いえっ、私なんかには似合いませんし、それにお給金が……あっ、なんでもありません!」

彼女の実家はあまり裕福ではないので、給金の多くは家族を養うために使われているのだろう。

私は彼女に香水を少し分けてあげたくなったが、体が動かない。

と思っていたら、操られた手が別の小瓶を取る。

「以前買った香水なのですが、香りが華やかすぎて私の柄ではありませんでした。マルマにはとても似合うと思いますので、良ければ使いませんか?」

「いえっ!? アイリア様でも華やかすぎるのでしたら、私なんか絶対絶対無理です!」

全力で固辞するマルマだが、その視線は小瓶に釘づけだ。

私は操られたまま、小瓶を差し出して微笑んでみせる。

「あなただから似合うと思うのですよ。売り払っても構いませんから、負担に感じることはありません。日頃のお礼です」

「あ、あり、ありがとうございます!」

マルマは耳まで真っ赤になっている。

侍女の仕事は苦労が多い。忍耐と機転、それに礼儀作法や言葉遣いも求められる。窓から人狼が飛び込んでくることもある。

疲れ果ててうっかり愚痴を漏らすこともあるだろうが、その中には太守の機密情報も含まれている。

慰労のためにも多少の役得は与えておかねばならない。

どうやらこの秘宝、貴人としての振る舞いも完全に模倣できるらしい。

これでは誰も私の異変に気付いてくれないだろう。

私はどうすればいいのか必死に考えながらも、操られたまま屋敷の食堂に向かう。

「おはよう、アイリア殿」

にこっと笑ってくれたのは、「魔王の副官」ことヴァイト殿だ。

朝からさわやかな笑顔だけど、寝癖が直っていない。でもそれが不思議と似合っていて、私は乗っ取られたまま心の中で身悶えする。

ヴァイト殿が着ているシャツも、どこで見つけてきたのだろうかと思うぐらいに個性的だ。

人狼のファッションというのはこういうものなのだろうかと思っていたが、他の人狼たちを見ると普通なので、これはどうやらヴァイト殿の個性らしい。

ただ彼は何を着ても似合うので、私は彼が次はどんな服を買ってくるのかと楽しみにしている。

乗っ取られた私はいつも通り、ヴァイト殿に朝の挨拶をする。

「おはようございます、ヴァイト殿。よく眠れましたか?」

「ああ、やはり自分の家だとよく眠れるな。……あ、いや、ここは貴殿の家だった。すまない」

「いえ、そう感じて頂けて光栄です。ここはヴァイト殿の自宅ですよ」

そう言って笑う私。

細かい受け答えや表情まで完璧に私だ。

この一瞬だけ、私は敵に感謝する。

しかしこれではやはり、ヴァイト殿でも私が操られていることに気づかないだろう。困った。

そして私はヴァイト殿と向き合って、普段通りに食事をする。

ヴァイト殿は今日も半熟目玉焼きの黄身をいつ潰すかで迷いながら、口を開く。

「今日は午前中、魔王軍の技官たちと打ち合わせをする予定だ。昼食までには終わらせるので、報告はそのときにでも」

これに対しても、私の口からはよどみなく言葉が出てくる。

「わかりました。私は午前中、商工会からの陳情書への返答を書きます。宝飾組合が犬人の細工師たちを取り合っているので、雇用の決まりを定めてほしいとのことです」

これは事実だ。完全に「アイリア」を模倣されている。

何とかしなくては。

私は秘宝の束縛を受けながらも、許される範囲で何かしようと必死にあがいた。しかし食事の作法を破ることすらできない。

それでも負けずに、なんとか異変を伝えようと努力する。

するとヴァイト殿が、にっこり笑った。

「今日も良い香りの香水をつけておいでだな」

「ええ、この香りが一番好きですから」

「俺もこの香りは好きだ。嗅ぐと安心する」

気づいてもらえないことに危機感を覚えるけれども、今の一言を聞けたので今日は良い日かもしれない。

ヴァイト殿は笑顔でうなずき、それから何かをメモして副官のカイト殿を呼んだ。

「カイト、これを打ち合わせ前に処理しておいてくれ」

「わかりました。えー……あ、はい。ただちに」

メモを受け取ったカイト殿が目を走らせ、小さくうなずく。

いつもの光景だった。

それからヴァイト殿は、操られている私と雑談しながら食事を続ける。今日はいつもよりゆっくりだ。

やっと食事が終わったところで、ヴァイト殿は口を拭いながらこう言った。

「ところで」

「なんですか、ヴァイト殿?」

操られた私が微笑む。

するとヴァイト殿は穏やかな表情で、こう問いかけてきた。

「貴殿は誰だ?」

その瞬間、操られている私の動きが止まった。

やや間を置いて、私の口から言葉が紡がれる。

「おっしゃる意味がわかりませんが……どうされたのですか?」

「それはこちらの台詞だ」

ヴァイト殿の表情が険しくなった。

ヴァイト殿はフォークを手にして、テーブルの上に頬杖をつく。

「貴殿はアイリア殿ではない。限りなくアイリア殿に近いが、中身は別人だ」

そう、そうなんです!

ヴァイト殿!

私は叫ぼうとしたが、口はやはり動かせなかった。

しかし今、私は自分でも驚くほどの安心感に包まれている。

もう何も心配いらない。

ヴァイト殿は私の皿を見る。

「アイリア殿は忍耐強く、出された食事はどんなに苦手なものでも全て平らげる。アイリア殿はとりわけ、茹でたニンジンがお嫌いでな。いつも苦労して召し上がるのだよ」

なるべく平静を装って食べているつもりですが、やはりごまかせませんか。あの匂いが苦手で……。

「だが今日は平然と食べた。ニンジンを食べているとき、『苦痛に耐えるときの匂い』がしなかった」

そんな匂いをさせていたのですか、私は。

急に顔が熱くなってくる。

ヴァイト殿はなぜかニヤリと笑うと、こう続けた。

「なんせアイリア殿は、エビのしっぽまで食べるからな。ワの国で一緒に食事をしたときに驚いたぞ」

あれはあなたがしっぽまで美味しそうに食べていたから、食べるのが作法だと思っただけです!

私は顔を覆いたくなったが、手が動かせない。

代わりに私の口からは、こんな言葉が出る。

「もう子供ではありません。さすがにもう慣れました」

「なるほどな。立派なことだ、アイリア殿」

騙されないでください、ヴァイト殿!

するとヴァイト殿は立ち上がると、私にゆっくり近づいてきた。

私の肉体が緊張し、いつでも動けるようにそっと身構える。

ヴァイト殿は私に顔を近づけてきた。

近い。

近すぎます。

なんなんですかいったい!?

「アイリア殿はいつも朝食前に香水をつけるが、それは朝食後すぐに人と会うからだ。香水は香りを落ち着かせる時間が必要だからな」

私がずっと前に教えたことを、ヴァイト殿は覚えていてくれたようだ。

「だが人と面会する予定がないときは、香水をつけずに朝食を摂る。人狼の俺の嗅覚に配慮して、なるべく匂いをまとわないようにしてくれているからだ」

気づいておられたのですか。

「今日のアイリア殿は昨日と違い、午前中は書類仕事だ。なのに昨日と同じように朝食前に香水をつけている。しかも俺がその話題を振っても、そのことに言及しなかった」

ヴァイト殿の顔が近づきすぎて、私は気絶しそうになる。

こんなに強い態度のヴァイト殿は、初めて会ったとき以来かもしれない。

あの頃とはヴァイト殿に対する感情が違うので、苦しくて死にそうだ。

「この感情の動き、やはりアイリア殿はそこにいるな? お前はアイリア殿の姿に化けているのではなく、本物のアイリア殿を操っている。許さんぞ」

ヴァイト殿は私の手首をすばやく掴む。ぐいっと引っ張られ、私の体はヴァイト殿の腕の中に収まってしまう。

あまりの事態に気絶しそうになっている私に、ヴァイト殿はにっこり笑った。

「だが心配するな、アイリア殿。どんなことをしてでも俺が貴殿を助ける」

次の瞬間、私の動きが一変した。

「ちいぃっ!」

信じられないほどの力で、私はヴァイト殿の手をふりほどく。ヴァイト殿は私を気遣ってか、素早く手を離した。

私は腰の剣を抜き、サシマエル流小剣術の太刀筋でヴァイト殿に斬りかかる。素早く手首を返しての二連撃だ。

もちろんこんな素人剣術がヴァイト殿に通用するはずはないが、敵が欲しかったのは魔法を使う猶予だったらしい。

ヴァイト殿が間合いを保ちながら、それを指摘する。

「館の侍女たちを何人か殺して死霊術を使う気だろうが、それは無駄だぞ。カイトに命じて全員退避させた。周辺住民も全部だ」

さっきのメモは、どうやらこの事態に備えたものだったらしい。

だとすると、さっきのおしゃべりも時間稼ぎだったのだとわかる。

ヴァイト殿は人狼へと変身し、鋭い牙をぎらつかせた。

「ドラウライトの秘宝よ、魔王の副官を侮ってくれるなよ? お前の浅はかな秘密など、最初から何もかもお見通しだ」

私は何も答えない。剣を構えてヴァイト殿を牽制しているが、戦う意志はなさそうだった。

ヴァイト殿もまた、私に手出ししてくる様子はない。本当に「何もかもお見通し」ならわざわざ相手に教えないほうが有利だから、実際にはわからないことがあるのだろうか? 私には判断がつかない。

人狼の姿をしているので表情は読めないが、ヴァイト殿が苛立っているのがわかった。

私の身を案じてくれているようだ。

申し訳なさに苦しくなる。

次の瞬間、私は視界が歪むほどの速さで床を蹴り、そのまま窓を破って外に飛び出していた。

「アイリア殿! おい貴様、アイリア殿を手荒に扱うな! 何かあったら文化遺産でも容赦しないからな! リュッコ、本体の追跡はまだなのか!」

こんなに焦ったヴァイト殿の声を、私は初めて聞いた。

即座に人狼の遠吠えが響き、あちこちから無数の遠吠えがそれに応える。人狼隊だ。どうやら街中に展開してくれているらしい。

人間の宿敵とされる人狼の遠吠えが、今はこんなにも頼もしく思える。

リューンハイト中に響きわたる人狼の遠吠えを聞きながら、私は無人の路地裏を駆け抜けていった。