作品タイトル不明
3
誰も、すぐには動かなかった。
広間は龍臣様の神威に沈められたように静まり返っていた。
神鏡の前の火が、青白い光を膨らませて小さく揺れている。供物の清水は、何かに共鳴したように器の中で細かな波紋を立てていた。
母も、父も、澪も、要も、晴親さんも。さっきまで私を笑おうとしていた人たちは、みんな息を呑んだまま動けずにいる。
私の手を包む龍臣様の手は、ひたすら優しかった。だから余計にどうしていいか分からない。
怒られているのは私ではない。でも、家族が龍神様に怒りを向けられている。
それは自分のせいのような気がして、胸の奥がざわざわして、私はまた何かを言いそうになった。
すみません。母は悪気があったわけではないんです。その通り、冗談で大騒ぎする私が悪いだけで。
そう言えば、この場は収まるかもしれない。母が悪者みたいに見えずに済むかもしれない。
けれど、龍臣様の手が私の手を包んでいて……そう思うと、自分を下げる言葉を口にする事が出来なかった。
「鳴神命」
沈黙を破ったのは、神祇省の上位祭祀官だった。
さすがに高位の役人であるせいか、顔色は悪かったけれど、他の者たちよりも早く我に返ったようだ。額には汗が浮いている。それでも声を震わせまいとしているのが分かる。
「恐れながら、我々はたしかに、御影澪殿を探し出すようにと鳴神命よりご用命を受けたものと認識しております」
その言葉に、周囲の役人たちが小さく頷いた。
「そうです。鳴神命の示した御札には確かに御影澪殿と記名されておりました」
「神祇省の記録にも、この御札の名義は水神の加護を受けた御影澪殿だと記録されています」
誰も、龍臣様に真正面から逆らっているわけではない。
ただ、神様の命令を取り違えたなどと言われれば、神祇省の役人たちは立場がないのだろう。
それは分かる。分かるけれど、私の胸はまたぎゅっと縮んだ。
私がいるから、みんなが困っている。
私が間違ってこの場に選ばれたから、神祇省の方々まで困らせている。そう思いかけた時、龍臣様が静かに言った。
「いいや。それは違う」
声は大きくなかった。けれど、その一言で役人たちの口が止まった。
龍臣様は、私を片腕で支えたまま、もう一方の手を袖の内へ入れた。白銀の衣の袖が、風が撫でた水面のようにふわりと揺れる。
そこから取り出されたのは、一枚の御札だった。
少し古びているけれど、よく見覚えのある字。朱墨で置いた水の印。黒墨で書いた守りの言葉。余白の取り方。終わりの線の止め方。
見た瞬間、喉がつまった。……私が書いた御札だった。
でも、分かる。その御札の裏に記されている名前は、私のものではない事が。私は自分の名前で、こんなに格の高い御札を書いた事はなかったから。
澪の御札。いいえ、澪の名前で出された、私の御札。
胸の奥に、嫌な冷たさが広がった。
それが今、この広間の真ん中で龍神様の手に握られている。
「俺は、この札の作り手を探せと命じた」
龍臣様は言った。
「その御影澪という娘を探せとは言っておらぬ」
役人たちの間に、ざわめきが走る。
「ですが、その御札の名義は……」
「記録では、たしかに御影澪殿の札として納められております」
「起符者も同じく御影澪殿の名前が残されているはずです」
起符者とは、御札に祈りを込め、効力を起こした者だ。
実際に筆を執った者……本来なら、それが私であるはずだった。
けれど、記録の上では澪になっている。
私がそうした。いいえ、そうするように言われて、その通りにしてきた。
「ならば、記録が誤っているのだろう」
龍臣様は、御札を祭祀官たちへ見せるように掲げた。
「この札を作ったのは、千咲だ。間違いない」
龍臣様が、私の名前を言った。御影家の長女としてでも、澪の姉としてでも、橋の下で拾われた子としてでもなく、この札を作った者として。
私は、自分の名前をそんなふうに呼ばれた事があっただろうか。
「な、何かの間違いです」
晴親さんが声を上げた。いつもの私を見下す時の声より、少し苦しそうだった。
「その女が、澪の札に何かしたのでしょう。あるいは、澪が書いた札に手を加えたのかもしれない」
晴親さんの言葉を聞いて、やっぱりそう見えるのだと思った。私が札を書いたと言っても、誰が信じるのだろう。
「千咲が、そんな御札を作れるわけがない」
父も言った。その声は、晴親さんよりも重く、そして当然のようだった。
「千咲は、家で簡単な護符を書いている程度の娘です。優れた札は、妻や澪が納めてきたものです。鳴神様、何かの間違いではないでしょうか」
何かの間違い。父の口からその言葉が出た時、胸の奥が少しだけまたズキリと痛んだ。
父は私の事なんて知らないのに、私が書けるわけがないとそんなにすぐ言えるのか。
私が机の前に座っているのを見た事はあるはずなのに。夜遅くまで灯りがついているのを、きっと一度くらいは見た事があるはずなのに。
それでも父にとって私は、簡単な護符を少し書けるだけの娘なのだ。
「お父様……」
小さく声が漏れた。父は私を見なかった。
聞こえなかったのかもしれない。あるいは、見る必要を感じていなかったのかもしれない。
「そうですわ」
澪も、震える声で言った。
「きっと何かの間違いです。私とお姉様は姉妹ですもの。気配が似ているだけではありませんか?」
澪は泣きそうな顔をしている。でもその目の奥には、怯えと怒りが混じっていた。
「それに、お姉様は私の手伝いをしてくれる事もありました。だから、少し似たのかもしれません。私の札を見て、お姉様が真似をしたのかも……」
そう言われて、一瞬、頭が真っ白になった。
澪は本当にそう思っているのだろうか。それとも、そう言わなければ自分が困るから言っているのだろうか。
分からなかった。
昔から、澪のこういうところが分からない。甘えているだけなのか、分かっていてやっているのか。
私を便利に使っているだけなのか、本当に姉妹だから助け合っていると思っているのか。
でも今、澪は私の書いた札を、自分のものだと言っている。その事だけは分かった。
「見間違える訳がない」
龍臣様の声が落ちる。その低く、冷たい声に澪はびくりと肩を震わせた。
「札には、作り手の霊紋が残る」
霊紋。耳馴染みのないその言葉に、神祇省の役人たちが顔を見合わせた。
「霊紋とは、筆跡ではない。文字の形でも、墨の濃淡でもない。札へ祈りを込めた者の、魂の痕だ」
龍臣様は御札へ視線を落としている。その表情が、ほんの少しだけ柔らかく見えた。
「人の目には、見えぬ事も多いだろう。だが、神にははっきりと分かる事だ」
御札が、龍臣様の指先で淡く光った。
それは青白い光ではなかった。もっと柔らかい。朝の水面に差す光のような、澄んだ光。
「この札に残る霊紋は、十五年前、橋の下で俺の傷に手をかざした娘の気配と同じだ」
私の呼吸が止まった。
龍臣様は、それを覚えていたのだ。十五年前の私の気配を、書いた御札を見て分かるほどに。
「幼い手だった。小さく、震えていた。だがその祈りは、俺を憐れむためではなかった。痛む者の痛みが、どうか少しでも軽くなるようにと、ただ願った手だ」
龍臣様の瞳が私を見た。
「この札にも、同じ祈りがある」
胸の奥が熱くなった。御札に込めた祈りだけは、本物だった。
記名する名前が自分のものでなくても。
この御札を持つ人が、どうか守られますように……そう願ってきた。それを、この方は見てくれたのだ。
「その澪という娘が書いた札なら、水蛇の気配が残るだろう」
龍臣様は続けた。
「そこの娘には、小さな水蛇の加護がついているからな。だが、この札に込められた祈りは違う。御影澪のものではない」
澪の顔色が、さらに白くなった。
「この札に込められた祈りは、千咲のものだ」
はっきりとした言葉だった。私の名前が、広間にぽつりと落ちて広がる。
その瞬間、母の肩が小さく跳ねたのを見た。母は目を見開き、口元を押さえている。
けれど、その目は私ではなく、龍臣様の手にある御札を見ていた。
澪も同じだった。青ざめた顔で御札を見つめ、唇を震わせている。
二人が動揺している理由を、私は知っている。
母も澪も、私に御札を書かせていた。そして、それを自分たちの名前で出していた。
お互いがどこまで知っているかは分からない。
でも少なくとも、この札が私のものだと神様に言われてしまう事は、二人にとって都合が悪いだろう。
「霊紋……しかし、我々には……」
神祇省の役人の一人が小さく言った。別の役人が頷くと、同じく困ったように返す。
「神には見えるとしても、人間の鑑定ではすぐには……」
「その札の名義登録は間違いなく御影澪殿となっておりますし」
「長年、水神の加護を持つとして丁寧に遇していた娘だぞ、それが間違いなど……」
「鳴神命のお言葉を疑うわけではないが、公的な記録を覆すとなると……」
その声は小さかった。けれど、私には聞こえた。
神祇省の方々は、神の言葉を否定したいわけではない。それは分かる。
けれど人間の社会には様々な法や理がある。長年澪を水神の加護を持つ娘として扱ってきた神祇省の立場もある。
今ここで、全部間違いでしたとは言えないのだろう。
「人間とは、情けないものだな」
龍臣様が低く言った。役人たちの背筋が一斉に伸びる。
「これしきの事を、すぐに見抜けぬとは」
その言葉に、誰も言い返せなかった。私だけが、思わず龍臣様を見上げた。
これしき。
龍臣様にとっては、これしきの事なのだ。
本当に御札を書いたのは誰なのか、私の霊紋とやらがどう残っているか、それは当然分かる事なのだ。
でも、私にとっては、今まで誰にも分かってもらえなかった事だった。
「よい」
龍臣様は御札をしまった。
「ならば、見定める場を作ってやる。人の法で納得したいと言うのなら、人の法で調べればよい」
上位祭祀官が深く頭を下げた。
「鳴神命のご配慮、恐れ入ります。正式な審議の場を設け、御札の名義、起符者、加護の記録を改めて確認いたします」
審議。
その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。
審議という事は、また話をしなければいけない。家族の事を。御札の事を。母と澪の名前で書いてきた事を。
私は何を言えばいいのだろう。
母に言われたから書きました。澪に頼まれたから書きました。でも、私はそれをずっと受け入れていました。
そう言えば、母はどうなるのだろう。澪は泣くだろうか。父は怒るだろうか。
また御影家の名誉を傷つけると言われるのだろうか。
考えるだけで息が苦しくなった。龍臣様は、そんな私を見ている。
そして、私の手を離さないまま、静かに言った。
「千咲」
「は、はい」
「お前を、このままこの家族の元へ戻す事はできぬ」
その言葉に、広間がまたざわめいた。
「鳴神様、それは……」
母が声を上げかけたが、龍臣様は見なかった。
「この家に戻れば、お前はまた自分を傷付ける言葉で、家族の機嫌を取るために笑うだろう」
その言葉は、怒鳴られるよりずっと痛かった。だって、違うと言えなかった。
きっと、私は戻ればまた無理をして笑ってしまう。
今こんなに混乱していても、家に帰れば、母に「千咲のせいで大変だったわ」と言われて、澪に泣かれて、父に叱られて、要に面倒そうな顔をされて。
私はたぶん、また笑う。
私が何か御札を書くのを失敗するか、悪い事をしたのかもしれません。迷惑をかけてごめんなさい。
そう言ってしまう気がした。
「だから、俺の神域へ来い」
龍臣様は言った。
「しばらくでよい。審議の場が整うまで、俺の社で過ごせ。お前に害が及ばぬよう、俺が守る」
神域……つまり龍神様の社だ。人間が簡単に踏み入る事のない場所。
私が、そこへ?
「そんな」
私は思わず声を漏らしていた。
「私が、龍臣様の神域になんて」
「嫌なら断るといい」
その言葉に、私は目を見開いた。
龍臣様は、私を見ていた。強い神威をまとい、誰も逆らえないような力を持っているのに、その声だけは静かだった。
「俺は、お前を無理やり連れて行くつもりはない」
「でも……」
「お前の意思を聞く」
その言葉が、胸に落ちた。……私の意思。
そんなものを、聞かれた事がどれくらいあっただろう。
澪の名前で御札を書くかどうか。
父に言われた家の用事をやるかどうか。
要の課題をやるかどうか。
家事を引き受けるかどうか。
笑うかどうか。
いつも、選んでいたようで、選べていなかった。私はいつも頷いていた。
でも今、龍臣様は私に聞いている。嫌なら断っていい、と。
「千咲」
父の声がした。硬く、低い声だった。
「お前には畏れ多すぎる。断りなさい」
父は怒っていた。
それは、私を案じる怒りではない。家の体面が崩れそうになっている事への怒りだと感じた。
「ろくな力のないお前が、いきなり龍神様の神域へ連れて行かれるなど、ご迷惑をおかけするだろう。第一、審議などという大事になっているのだ。家に戻り、澪の御札に何をしたかきちんと説明をしなさい」
「ろくな力のないお前が」と父が言った瞬間、龍臣様の指が私の手を包む力を少しだけ強くなった気がした。けれど、龍臣様は何も言わなかった。
私がどう答えるのかを、待っているようだった。
何の説明をするのだろう。何をどう説明する事を望まれているのだろう。
きっと、私がどう振る舞うべきかを教えられるのだ。
龍神様の前で何か勘違いをさせたなら、早く訂正しろと。
「千咲」
母も私を見た。その顔は青ざめていたけれど、声はいつものように柔らかかった。
「戻りましょう。家族なのですから、ちゃんと話し合えば分かるわ。あなたも急にこんな事になって、混乱しているでしょう?」
その言葉を聞くと、胸がまた痛くなる。
家族だから、と。その言葉でどれだけの事を飲み込んできただろう。
「お姉様」
澪が震える声で私を呼ぶ。澪の可愛い顔は、泣きそうになっていた。
「行かないで。お姉様が行ったら、私……」
澪はその先を言わなかった。でも何度も言われていた事だから、何となく分かってしまった。
私が行ったら、澪の御札は誰が書くのか、それを心配しているんだろうなって。そう思ってしまった自分が嫌だった。
澪は本当に心細いだけかもしれない。姉が突然龍神様の神域へ行くと言われて、不安になっているだけかもしれない。
なのに私は、澪の言葉の裏にまた自分が使われる未来を見てしまう。私は悪い姉だ。
……けれど。
御札を作るという、私にとって長く続けてきた大切な仕事を、父は知りもせず「千咲がそんな御札を作れるわけがない」と言った。
晴親さんは、澪の札に私が細工したのだろうと言った。澪は、姉妹だから似ているだけだと、私が込めた祈りを自分のものにしようとした。
母は、その札を私に書かせていたのに、何も言わなかった。
私がずっと大切にしてきたもの。祖母が褒めてくれたもの。
疲れても、眠くても、名前が残らなくても、込める祈りだけは嘘にしないように書いてきたもの。
それを、みんなは簡単に否定する。
この胸の痛みは、橋の下で拾われた子だと笑われた時と少し似ていた。
けれど違うのは、胸の痛みの中にかすかな怒りのようなものがある事。
私が書いたのに。
でも、納得して書いていたのに今更私が怒るなんて。
こうしてその気持ちを、すぐに悪い事だと押し込めようとしている自分にも気付いた。
私は龍臣様の手を見た。
私は、どうしたいのだろう。
でも家に戻る事を考えると、息が苦しくなった。でも龍臣様の神域へ行くなんて、とても畏れ多い。
どちらも怖い。
でも、家に戻れば、私はまた痛みを我慢しながら笑う。また、私は私を笑いものにして全てを終わらせなければいけなくなる。
それは嫌だと、初めて思った。
ほんの少しだけ。本当に、ほんの少しだけ。
……家族から離れたい、そう思った。
その気持ちは、きっと褒められたものではない。まるで小さな子供が分かってもらえずいじけてるみたいで。でも、それが今の私の本音だった。
私は龍臣様を見上げた。
恐ろしくて、尊くて、けれどあの橋の下のおじいさんと同じ目をした方。
「……ご迷惑でなければ」
声が震えた。広間の視線が、また私に集まる。
母の、父の、澪の目が私に突き刺さる。私はその全部を見て、また謝りそうになった。
ごめんなさい、勝手な事を言って。
でも、謝らなかった。……龍臣様の手があったから。
「しばらく、お世話にならせていただいていいでしょうか」
そう言った瞬間、胸の奥で何かが小さく動いた。ずっと固く閉じていたものが、少しだけ開いた音のように思えた。
龍臣様の表情が、ほんのわずかに和らぐ。
「ああ、任せろ。お前は俺が守る」
低い声が、静かに私を包む。
その言葉を聞いて、私は初めて少しだけ息を吐けた。