軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

橋の下の子「なんか」が

その後の事を、私はあまりよく覚えていない。

神祇省の大広間は、ずっとざわめいていた。

審議の場を設けるとか、御札の名義を改めて調べるので少々お待ちをとか、龍臣様の神座復帰の儀が途中なのでお戻りを、そんな神祇省の方達の焦った声がいくつも飛び交っていた。

上位祭祀官を連れた、帝の側近と思われる方が龍臣様の前に進み出る。

誰もが畏れを隠せない顔をしていて、それでも国の務めを果たすために必死で背筋を伸ばして言葉を紡いでいた。

「鳴神命、神坐に戻られた祝儀式の途中でございます」

「まだ神域へお戻りになられては困ります、龍臣様が探していたという娘については大神宮より改めて連絡差し上げますから」

「御神託についても、確認せねばならぬ事が」

そんな声が重なっていく。

龍臣様は、すぐにでも私を連れて行くような気でいたのかもしれない。

けれど、大神の弟君が神座へ戻られた事を祝う宴というのは、私一人の事とは比べものにならないほど大きな出来事なのだろう。

しかし神祇省の方々に囲まれた龍臣様は、不機嫌そうに眉を寄せた。

それだけで周囲の方々が少しだけ身を引く。けれど龍臣様は、すぐに私を見た。

「千咲」

「は、はい」

私は両手を胸の前で握った。

さっきまで龍臣様の手に包まれていた手だ。その温もりが、まだ指先に残っている気がした。

「迎えに行く。支度をしておけ」

低い声だった。

命令のようにも聞こえるのに、なぜか私には、置いていかないと約束してくれているように聞こえた。

「……はい」

私はなんとか返事をした。

口から出た声は、とても小さかった。ちゃんと届いたかどうかも分からない。

けれど龍臣様は、わずかに頷いてくれた。

「待っていろ」

その言葉を最後に、龍臣様は神祇省の方々へ視線を戻した。私は、そのまま家族に促されるようにして、大広間を出た覚えはなんとなく残っている。

帰りの車の中で、誰が何を言ったのか、私が何を言われたのかほとんど覚えていない。

母がすすり泣くような声を出していた気がする。

父が低い声で、御影家の名誉がどうだとか、審議がどうだとか言っていた気がする。澪はずっと黙っていた。要も、いつものような軽口を言わなかった。

私は、膝の上で固く握りしめた自分の手を見ていた。

墨の跡が、まだ少しだけ爪の際に残っている。みっともないと思って隠そうとした手。

でも龍臣様は、その手を見ていた。その手で書いた御札を、私が込めただと気付いてくれた。それが嬉しかったのか、怖かったのか、分からない。ただ、胸の奥がずっと落ち着かなくて。

気付いたら、私は自分の部屋に立っていた。

見慣れたいつもの部屋だ。

書き終わって乾かしていた御札、文机の横にはまだ畳んでいない洗濯物の籠。

朝、出て行った時のまま。

けれど、もう何もかもが少し違って見える。私は風呂敷を取り出すと床に広げて、必要なものを手に取って行った。

持って行くものは多くない。

祖母の筆に、硯箱。それから、二、三組の着替え。

たったそれだけだ。

二十年この家にいたのに、神域へ持って行きたいものはこれだけなのだと思うと、胸の奥が少し空っぽになった。

荷物を眺めていると、襖の向こうから声がした。

「千咲」

振り向くと、母が部屋の入口に立っていた。

顔色は悪く、目の端は赤い。けれどその声は、泣いている人のものというより、私を責めるような色が滲んでいた。

「あなた、本当に行くつもりなの?」

「……はい」

「はい、ではないでしょう」

母が一歩、部屋に入ってくる。気にする余裕もないようで、襖の敷居も畳の縁も踏んでいる。

「どうして澪に恥をかかせたの」

母の声は、少し震えていた。

「あの子がどれだけ今日を楽しみにしていたか、あなたにも分かるでしょう? 澪は水神様の加護を持つ娘として、鳴神様の前に立つために準備してきたのよ。あなたも手伝ったのだから知っているはずよ」

知っている。

澪の振袖の色も、髪飾りの石も、帯締めも、供物も、式次第も、全部私が選ぶ手伝いをした。

澪のために何度も説明した。礼をする位置も、扇の持ち方も、祝詞に応じる時の姿勢も。

だからこそ、分かる。今日の澪は、自分が選ばれると思っていたのだ。

いや、澪だけではない。母も父も、要も、晴親さんも、神祇省の人も……誰もがそう思っていた。

けれどその場で、龍臣様が私の手を取った。

私のせいで。

そう思いかけて、私は風呂敷の上の硯箱を見た。あの大広間での龍臣様の声が、耳の奥に残っている。

この札に込められた祈りは、千咲のものだ。

その事まで私のせいにしていいのだろうか。そう考えた瞬間、すぐに自分が怖くなった。母にそんな事を思うなんて、なんて親不孝なんだろう。

「申し訳ありません」

結局、私は謝った。

母はほっとしたような、余計に苛立ったような顔をした。

「謝るくらいなら、今からでも断りなさい」

父の声がした。その横には要もいる。父は、神祇省の大広間からずっと固い顔をしていた。今もその眉間には深い皺が寄っている。

「長女なら、家に迷惑をかける事をするな」

「お父様……」

「御影家はこれから審議を受ける事になる。お前が龍神様の神域へ行くなど、ますます妙な噂が立つじゃないか。澪の気持ちを考えなさい」

やはり、その話になるのだと思った。

「お前は家の長女だ。母と妹を支え、家を支える立場だろう。なのに、御影家の評判を落とすような真似をするなんて」

評判を落とす真似。私はそこまで不名誉な事を言っているのだろうか。

たしかに龍臣様の神域へ行くと答えたのは私だ。嫌なら断っていいと言われて、それでも行くと答えた。

だって、少しだけ、家族から離れたいと思ったから。

けれど家族にとっては、勝手な事なのだろう。

「それに、俺の課題どうするの?」

要が不満げに言った。

「明後日までのやつ、俺が書き写す時間も必要なんだよ。それに試験前なのに困るよ。姉さんの要点まとめも、まだもらってないんだから」

その言葉に、私は要を見た。要は、本当に困っている顔をしていた。

私が自分勝手な事を言って家を出ようとしている、そう思って本当に困っているようだった。

「ごめんね、要。途中までなら机の上に──」

「千咲」

父の声が少し強くなった。

「お前はまだ、自分の立場が分かっていないのか」

私は口を閉じた。それなら十分知っている。私はこの家を支えるために、華やかな事らできない長女として雑用をこなして、加護を授かっている澪や巫女として活躍する母を支えるためにいるのだと。

「だいたい。まさか本当に、龍神様の神域に招かれると思っているの?」

母が震える声で口にしたその言葉に、私は喉の奥がグッと締まったような気がした。

……それは、思っていた。家に帰ってきた時から余計に。あの方は本当に私なんかを迎えにきてくれるのだろうか。やっぱり、何かの間違いじゃないかって。

「あの場では神様も気が高ぶっていらしたのかもしれないけれど、迎えに来るわけが──」

その時。

玄関の方から、低く澄んだ音が響いた。鈴の音にも似ていた。

けれど、鈴よりももっと深く、家の柱の奥まで震わせるような音。

「誰かあるか。千咲を迎えに来た」

続いて、声が響いた。決して大声ではないのに、この家の奥にある私の部屋まで届く。

すぐに何が起きたのか理解して、部屋の中の空気が止まった。

母も父も、口を開いたまま固まっている。私も、風呂敷の上の硯箱を見たまま息を止めていた。

迎えに来るわけがない。

母は、そう言おうとしていた。でも龍臣様は、ちゃんと来てくださった。本当に、迎えに来てくださったのだ。

胸の奥に、さっきまでなかった温かさが広がる。ほっとしたのだと気付くまで、少し時間がかかった。私の中には余程大きな不安があったらしい。

あの場で言われた言葉だけで、神様が本当に来てくださるはずがない。

家族に言われる通り、何かの気の迷いだったのかもしれない。やっぱり澪の方へ行かれるのかもしれない。そう思っていたらしい。

父は玄関の方を振り返った。

「鳴神命が……!」

母も慌てて襟元を整える。

「お迎えしなければ。要、あなたも来なさい」

「は、はい」

父と母と要は、急いで部屋を出ていった。廊下の向こうからばたばたと足音が遠ざかる。

私は一人、部屋に残された。風呂敷の上には祖母の筆と硯箱は入れた。後は着替えを用意しなくては。

龍臣様は来てくださった。なら、私は支度をしなければならない。

私は震える息を吐いて、硯箱を風呂敷の中央へ置いて、他にもう少し身の回りの品を見繕った。

荷造りはすぐに終わるはずだった。

けれど、手も頭も思うように動かなかった。龍臣様が玄関にいらっしゃると思うと、それだけで胸が落ち着かない。

待たせてはいけない、急がなければならないのに。

そう思うのに、考えはまとまらない。

「お姉様」

襖の向こうから澪の声がして、私は手を止めた。

返事をする前に襖が開く。

そこに立っていた澪は、神祇省から戻ってきた時のままの美しい振袖を着ていた。

水色の袖には、まだ銀糸と金糸がきらきらと光っている。けれど顔色は悪く、目は赤い。その目は泣きそうなのに、どこか怒って見えた。

「どんな手を使ったの」

「え?」

「龍神様に。どんな手を使ったの」

その言葉に、私は呆然とした。

「そんな、私は何も」

「水神様の加護をもらっているのは私よ」

澪は震える声で言った。

「十五年前から、私は特別な子だったの。神祇省の方々も、皆そう言ってくださったわ。晴親さんだって、私を神に愛された娘だって言ってくれた。なのに、どうして」

澪の視線が、風呂敷の上の硯箱へ落ちる。

「どうしてお姉様なんかが、龍神様の神域に連れて行ってもらえるの?」

連れて行ってもらえる。その言葉が少しだけ引っかかった。

私にはまだ、それが素晴らしい事なのか、恐ろしい事なのか分からない。

龍臣様が私を守ると言ってくださった事は嬉しい。でも、神域へ行くのは怖い。家族から離れるのも怖い。

けれど澪にとっては、羨ましい事なのだ。

「私にも、まだよく分からないの」

私は正直に言った。

「龍臣様は、十五年前の約束だとおっしゃっていたけれど……私も、全部を分かっているわけではなくて……」

「お姉様が呼ばれるなんて、何かの間違いよ」

澪は私の言葉を遮るように言った。

「間違いに気付いて、きっとすぐ追い返されるわ。龍神様だって、落ち着いたら分かるはずだもの。水神様の加護を持っているのは、神域に招くべきは私だって」

そうだね。きっと間違えたんだね。私なんかが選ばれるはずないもんね。

そんな言葉が、喉元まで上がってきた、その瞬間だった。

向こうの方から、凄まじい音が響いた。

どん、と家全体が震える。続いて、がしゃんと何かが割れる音。

襖が風に煽られたようにばたばたと揺れ、廊下の灯りが一瞬青白く明滅した。

「キャア! 何⁈」

澪が悲鳴を上げて、私は反射的に立ち上がっていた。

騒ぎの元は……玄関程遠くはない、応接室だろうか。

「龍臣様……?」

嫌な予感がした。

父と母、それと要は家にいらした龍臣様を迎えに行ったはずだ。どうしてこんな大きな物音がするような事態が起きているのか。私は荷造りの途中だった事も忘れて、廊下へ飛び出した。