軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

龍神様が、私の手に触れている。それだけの事なのに、体のどこにも力が入らなかった。

どうして。この場から下がらないと。いえ先にひれ伏しなければ。

何か粗相をしたのなら、謝らなければ。

そう思うのに、私の体は動かない。胸の奥だけがどくどくとうるさく鳴っている。

目の前にいる方は、大神の弟君。この国の水と雷を司るとても高貴な龍神様。

国の上位の陰陽師や巫女でさえ頭を垂れる、神そのもの。なのに、その方は、部屋の隅に立っていた私の手を取っている。

古い藍鼠色のお召しを着て、荷物を抱えて、指先には墨の跡が残っていて。

今日という日が終われば、また家に戻って御札を書いて帳面を付けて、洗濯物の前に座るはずだった私を。

「見つけた」

龍神様は、もう一度そう言った。私の手に触れる指先が、ほんの少しだけ震えているような気がする。

神様も、寒気を感じたりするのだろうか。

そんなおかしな事を考えた瞬間、膝の力が抜けそうになった。抱えていた荷物がずり落ちかける。

けれど、落ちなかった。龍神様が、私の手を引き寄せたからだ。

強引ではなかった。けれど逆らえないほど自然な動きで、私の体はその方の胸元へ近付いた。

白銀の衣が視界いっぱいに広がる。

水の清らかさと雷の熱を同時に帯びたような香りが微かにした。そうして気付いたら、龍神様の腕が私を抱きしめていたのだ。

……私を。

「馬鹿な、神嫁は御影澪ではないのか?」

広間のどこかで、広間のどこかで、誰かが小さく声を漏らした。その声で、ようやく自分がとんでもない事をされているのだと自覚が湧く。

私は慌てて顔を上げた。

怖いほど整った御顔が、私を見下ろしていた。

夜の底に稲妻を閉じ込めたような瞳。遠い昔、橋の下で見た、怖くて、でも泣いていた目に似ている。

「わ、私が神様のお嫁様だなんて……本当に……?」

震える声で思わず口にしてから、違う、と思った。

さっき聞こえてきた言葉に釣られてしまった。こんな恥ずかしい事、本当なら考えるのもおかしい。私が神様のお嫁様だなんて、そんな事があるはずない。

聞き間違いなら、今すぐそう言ってほしかった。

人違いなら、今すぐ謝って、澪の方へ行ってほしかった。

そうすれば、きっとまたいつものように笑える。

あはは、びっくりしました。やっぱり私なわけないですよね。

そう言えば、きっとみんなも……家族も笑う。

張りつめていた空気は元に戻る。私も、いつもの私に戻って、ひとしきり笑われてそれでお終い。そう思っていた。

けれど、龍神様は私を離さなかった。

荒々しい神威をまとっているのに、背に添えられた手は、不思議なほど優しかった。

まるで、壊れ物を抱くように。まるで、長い間探していたものを、ようやく見つけたように。

龍神様は、私を見下ろして微笑んだ。

「ああ。あの時の約束通り、お前を迎えにきたよ」

あの時。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、遠い昔の川の音がよみがえった。

橋の下の湿った土。夕暮れの光が映り込んだ水面。金平糖を包んだ紙の音。

怖い目をしていたのに、私の胸が痛いと言った事を笑わなかった、ぼろぼろのおじいさん。

けれど、それは十五年も前の事だ。

あのおじいさんが龍神様だなんてそんな事、あるはずがない。

静まり返っていた広間は、ようやく時間の流れを取り戻したかと思うと、次の瞬間には大きくざわめいていた。

「どういう事だ」

「龍神様が、澪様ではなく……?」

「御影家の長女? 澪殿に姉などいたのか」

「なぜ、あの娘が」

しかしそれらの声はすぐに押し殺された。神の前で騒ぐなんて、礼節に反するからだ。

それでも、視線は隠せない。

高位の陰陽師も、巫女も、神祇省の役人も、帝や側近達も、みんな私を見ていた。

先ほどまで澪に向けられていた期待と祝福の視線が、今は混乱と疑念を含んで私へ向けられている。

父も母も目を見開いていたまま固まっている。

澪は、今見ているものが信じられないとでも言うような表情を浮かべていた。さっきまで、あの美しい水色の袖を広げ、一歩前へ出ていた妹。

自分が選ばれるのだと信じていた澪が。その澪が、憎々し気に私を見ている。

どうしてお姉様が。

声に出さなくても、そう言っているのが分かった。

「お、お待ちくださいませ」

最初に声を上げたのは母だった。

母は慌てて膝をつき、龍神様へ頭を下げる。

けれどその声は、神に対する畏れよりも、目の前に現れた重大な誤りを正そうとする焦りの方が強く滲んでいた。

「鳴神様、そちらではございません。龍神様がお探しなのは、こちらの澪でございます」

母は立ち上がると、澪の肩をそっと押した。

澪は青ざめた顔で一歩前に出る……けれど、龍神様は見なかった。

母はさらに言葉を重ねる。

「この子は、水神様の加護を受けた娘です。十五年前、国の水の乱れが鎮まった年に生まれた子でございます。龍神様がお求めでしたのは、間違いなくこちらの澪ですわ」

そうだ。そうに違いない。

私もそう思った。この場で誰よりも、私がそう思っている。

「千咲」

父の声が低く響いて、私はびくりと肩を震わせた。

父は、信じられないものを見るように私を見ていた。

驚き。困惑。それから、怒り。

「お前、何をした」

「……え?」

「龍神様の気を引くために、何か細工をしたのか」

耳を疑った。

細工。

私が……神様に?

「お父様、私は……」

「なんという罰当たりな事を」

父は顔を青くしている。けれどそれは私を心配している顔ではなかった。

御影家の名誉が傷つく事を恐れている顔だった。

「お前ごときが、澪の立場を奪おうなどと考えたのか。神前でそのような事をすれば、御影家そのものが咎めを受けるのだぞ」

「ち、違います」

声が小さくなった。

違う。私は何もしていない。

けれど、父の言葉を聞いた瞬間、自分でも少し不安になった。

私は、知らないうちに何かしてしまったのだろうか。

私の書いた御札に不備があったのだろうか。

奉納した供物の準備で何か間違えたのだろうか。

澪が選ばれるはずだったのに、私のせいで。

胸が詰まって、私は龍神様を見上げた。

「あの……人違いでは、ないでしょうか」

そう言うと、龍神様の瞳がかすかに細められた。怒らせたかもしれない。

そう思って身を縮めたが、その手は変わらず私の手を包んでいた。

力は強くない。けれど、決して離さないという意思が込められていた。

「人違いではない」

龍神様は静かに言った。その声だけで、広間のざわめきが消える。

水の底へ沈められたように辺りが静まった。

「俺が探していたのは、そこの娘ではない」

顎でぞんざいに示された澪の顔から、さっと血の気が引いた。

「俺が探していたのは、十五年前、橋の下で俺に金平糖を分けた娘だ」

金平糖。その言葉に、私は息を呑んだ。

目の前の龍神様の姿が、ほんの一瞬、記憶の中のぼろぼろのおじいさんと重なった。

私が差し出した小さな包み。震える手が桃色やだいだい色のそれをつまんで、ゆっくり口へ運んだ事。

「大神に罰を受け、神の世から追放されていた俺は、全てを恨んでいた」

龍神様は、私だけでなく、その場にいる全員へ聞かせるように言った。

「遠い昔に力を奪われ、老人の姿に落とされ、傷は癒えぬまま。人も神も憎み、誰も近付けぬつもりでいた。人々が渇きにあえぎ、水で田畑が流れるのも何とも思っていなかった」

広間の空気がさらに重くなった。大神の弟君が神の世から追放されていたという話は有名だ。その人の営みから遠い発言に、荒ぶる龍神の一端を見た気がした。

その言葉の一つ一つが、重い。

「そこへある日、小さな娘が来た」

龍神様の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

「俺が悪い者かもしれぬと告げても、その娘は逃げなかった」

逃げようとは思った。実際、おじいさんは怖かった。でも、傷が痛そうだったから。

「金平糖を分けてくれた。腹が減っているように見えたからと」

私は恐ろしくなって体が震えた。龍神様の指が、その震えを包むように少しだけ力を込める。

「傷を見て、痛いのかと聞いた。痛くないと嘘をついた俺を見て、小さな手を俺の傷の上にかざしてまじないをかけてくれたのだ」

龍神様は、私を見た。

その瞳は、怖いのに、どこか泣きそうにも見えた。

「痛いの、痛いの、飛んでいけ、と」

息が止まった。

それは、誰にも話していない。

家に連れ戻された後、橋の下で何があったかを聞かれても、私はうまく説明できなかった。

知らないおじいさんに金平糖をあげたと話しただけで、私はこっぴどく叱られたのだ。その上怪我をしている事を心配して、「痛いの痛いの飛んでいけ」をしたなんて言えば、また怒られると思って言えなかった。

なのに、この方は知っている。あの時の事を。

「まさか……本当に」

龍神様は少しだけ微笑んだ。

「お前は、親はいないと言った俺に言ったな。自分も拾われた子だと言われたと」

そう言われて、思い出したように胸が痛くなった。

「本当のお父様とお母様を……自分を可愛がってくれる人を探していると」

そうだ、たしかに記憶の中の私は、泣き腫らした顔でそう言っていた。

拾われた子なんだって。だから、本当のお父さんとお母さんを探してるの。

ちさきをかわいがってくれる人。ちさきの事、いらないって言わない人。

子供の言葉だった。

けれど、その痛みは今も少しも消えていない。

「俺は約束したな」

龍神様の声が、低く、確かなものになる。

「なら、俺がお前の家族になってやる、と」

龍神様は片手の小指を私に見せた。

その言葉を聞くより先に、記憶がよみがえる。

ああ、そうだ私はあの日指切りげんまんをして約束したんだ。

「あ……」

思わず声が漏れた。私は、龍神様を見上げる。

ああ、あの時の怖い目だ。怖いけれど、私を笑わなかった目。胸が痛いと言った私を、冗談で泣いた悪い子だと責めなかった目。

同じだ。

この方は、あのおじいさんだ。

私が十五年間、時々夢に見ていた、橋の下の人。

「……あの時の、おじいさん?」

口にしてから、あまりにも失礼な呼び方だと気付いて顔が熱くなった。

相手は大神の弟君だ。この国の水を司る龍神だ。

そんな方に、おじいさんなんて。

けれど龍神様は、わずかに目を細めただけだった。

「今は、鳴神龍臣という」

少しだけ、懐かしむような声だった。

鳴神、龍臣様。

その名を胸の中で繰り返すと、橋の下のおじいさんが、急に目の前の神様の姿と重なる。

「だが、あの日のお前に拾われた者である事は変わらぬ」

拾われた。その言葉に、胸が震えた。

私は拾われた子だと笑われてきた。でも、この方は今、自分が私に拾われたのだと言って、優しく微笑んでくださった。

美しい人の笑顔はとんでもなく眩しい。私が至近距離で眩しさを感じているその時だった。

「ま、まあ。千咲ったら」

母の声がした。その声は、少し震えているように聞こえる。

けれどすぐに、いつもの柔らかく取り繕った響きへ戻っていた。

「鳴神様、申し訳ございません。この子は昔からそうなのです。自分は橋の下で拾われた子だと言われたなんて、人の同情を買おうとするところがあって」

……え。

それを聞いて、私はじぃんと耳が痛くなるくらいに一気に体温が下がった。

母は笑っている。

困った子でしょう、と言うように。

「幼い頃から、ちょっとした冗談を真に受けては大騒ぎして。私どもも困っておりましたの。だから龍神様がそのように同情する必要は……」

違う。そう言いたかった。でも、声が出なかった。

広間の視線がまた私へ向く。

母の言葉を信じる人は多いだろう。だって母は、上品で優しい優秀な巫女として知られている。私は、古い着物で隅に立っていた、名も知られていない長女だ。

でもこのままでは、龍神様に母が悪者みたいにされてしまう。

そう思った瞬間、体が勝手に動いた。

「そ、そうなんです」

声が出た。明るくしなければ、と無理に高い声が。

大丈夫だと示さなければ。

「家族の中で私だけ出来が悪くて、一人だけ血が繋がってないに違いない、なんて思って……あはは、子供の頃から、ちょっと大げさで」

笑う。そうだ、笑えば終わる。

橋の下で拾った子。出来が悪い子。家族に似ていない子。

自分で言えば、誰かに言われるより少しだけ痛くない。

いつものように、私が私を笑えば。

「千咲」

龍神様の声が、私の言葉を断った。

低い声だった。少し、怒っているようにも聞こえた。

その怒りを感じ取って、私は反射的に肩を震わせる。

しまった。

神様の前で変な事を言ったから、怒らせてしまったのだろうか。

けれど、龍臣様は私を責めていなかった。その目は、私ではなく母を見ていた。

いいえ、母だけではない。

私の言葉に笑いかけていた要や、口元を隠していた澪。

同意するように頷いていた父、そして広間でこの騒ぎを眺めていたすべての人々を。

龍臣様の神威が、静かに気圧すように広がった。

空気が重くなる。大地に雷が落ちる寸前のように、広間全体が張りつめていた。

几帳の薄絹が風もないのに大きくはためき、神鏡の前の火が大きく膨らんで揺れている。

「千咲を傷付けるその言葉で、二度とこいつを笑うな」

龍臣様は言った。声は決して大きくなかった。

それなのに、広間の隅々まで届いた。床の板の下にまで染み込むような、抗いようのない声。

次の瞬間、広間にいた人々の顔色が変わった。何人かが、尻もちをついた物音がする。帝の側近たちも、神威に押されるように膝を折って姿勢を低くしていて……誰も声を出せなかった。

私だけが、立っていた。

いいえ、正確には龍神様に抱えられて、かろうじて倒れずに済んでいた。

龍神様の怒りは、確かに恐ろしかった。広間を震わせ、几帳を揺らし、人々を膝から崩すほどのものだった。

けれど、その怒りは私へ向いていなかったから。

私の手を包む手は優しくて、背中に添えられた腕は私を閉じ込めるためではなく、倒れないように支えるためのものだった。

畏れ多いはずなのに、胸の奥が少しだけ温かい。

だって、誰も今まで止めてくれなかった。

「千咲、お前もだ。自分を傷付ける言葉で笑うな」

母が、要が、澪が笑っても。

私が自分で自分を笑っても。

誰も、それは笑う事ではないと言ってくれなかった。龍臣様だけが笑わなかった。

私が自分を傷つけるために選んだ言葉を、冗談として受け取らなかった。

その言葉を聞いた母は青ざめた顔で震えていた。

「わ、私は、そのようなつもりでは……」

「つもりなど聞いていない」

龍臣様の声がさらに低くなった。

「俺が言ったのは、二度と笑うな、という事だ」

母は言葉を失った。父も、澪も、誰も何も言えなかった。広間は、龍臣様の神威に飲み込まれたまま、静まり返っている。

その静けさの中で、私の心臓の音だけがやけに大きく聞こえて、私は何か言わなければと焦燥感にかられた。

すみません。お母様は悪気があったわけではなくて。

私が大げさに受け取っただけで。私は慣れていますから。

いつもの言葉が、喉元まで上がってくる。

けれど、龍臣様の手が私の手をほんの少しだけ強く包んで……私は、初めてその言葉を飲み込んだ。