作品タイトル不明
龍神様の御渡り
私は結局、ほとんど眠れなかった。
今朝までに用意しなければいけなかった御札と、母の名で納める祝いの護符が完全に乾いているのを確認し、式次第の写しに改めて目を通し、当日必要になる供物をまとめて目録と相違ないかを点検していたら、気付いた時には東の空が白み始めていたのだ。
本当は、少しだけでいいから横になりたかった。けれど、横になったら起きられない気がしたのでやめておいた。
ああ、そうだ。澪の髪を結う前に、湯を沸かしておかなければならない。
朝餉も、家族の分だけでなく、髪結いや着付けを手伝う女房衆の分まで用意しなければならない。父と要の装束も確認しておかなければ。
それから、私も着替えなければならない。
私も。そう思って、少しだけ変な気持ちになった。
今日は澪のための日だ。水神の加護を持つ澪が、大神の弟君である鳴神龍臣命にお目通りする日。
父は御影家の名誉だと言った。私はそのための準備をする事しか考えていなかった。
だから、私も着替えなければならないという事を、少し忘れかけていたのだ。
「お姉様、帯締めはやっぱり金色のものにしようかしら」
湯が沸いた事を知らせに行くと、澪の部屋では、すでに母と女房衆が反物や小物を広げていた。
澪は、新しく仕立てた淡い水色の振袖を肩にかけている。
裾には波の文様があり、光を受けると銀糸と金糸が水面のように揺れた。袖の先には白い霞の刺繍が入り、帯には雷雲を思わせる細い金の線が走っている。
見事な着物だ。それがとてもよく似合っていた。
澪は本当に綺麗だな。母に似た華やかな顔立ちに、水色の衣はよく映える。
髪には水晶と雷水晶を合わせた髪飾りが挿され、白い首筋の横で小さく揺れていた。まるで、絵巻の中の姫君みたいだった。
「用意しておいた銀の方が、全体が澄んで見えると思うよ」
私が言うと、澪は鏡の中で少し首を傾げた。直前になって目移りしているらしい。銀の帯締めはこの着物に合わせるために買ったのに。
「でも、金の方が龍神様にふさわしくない?」
「金は帯にも入っているから、帯締めまで金にすると少し強い印象に見えるかもしれない。銀なら水の色を邪魔しないし、雷水晶の髪飾りも引き立つと思う」
「そう。じゃあやっぱり銀にするわ」
澪はあっさり言った。良かった。帯締めの色が変わるなら帯揚げや半襟も変えなければならなくなるところだった。
「澪、とても綺麗よ」
「お母様」
澪は嬉しそうに微笑んだ。
私はその横で、もくもくと手を動かして澪の着付けを進めていく。昨夜ほとんど眠っていないせいで、頭の奥がぼんやりしていた。
それでも手は動く。こういう時、慣れというものは便利で、少し怖い。
澪の支度が整った頃には、母の支度もだいたい終わっていた。
父と要の衣も部屋の前に行李で用意してある。供物の包みも、札束も、返書も確認した。
残っているのは、私自身の支度だけだった。
私は自分の部屋に戻り、文机の前に畳んでおいた着物を広げた。
薄い藍鼠色のお召し。
今の流行から見れば古い柄だし、澪の振袖のような華やかさはない。けれど、細かな地紋が入っていて、光の加減で淡く桜の枝が浮かび上がる。
祖母が、若い頃に着ていたものだ。
亡くなる前に、私の寸法に合わせて縫い直してくれた。
最上級の礼装ではないけれど、準礼装としてなら恥ずかしくないようにと、祖母が丈と裄を丁寧に直してくれたものだった。
『これなら、急にかしこまった場へ出る事があっても困らないよ』
祖母はそう言って笑っていた。
その時の私は、かしこまった場へ出る事なんて自分にあるのだろうかと思っていた。
でも、嬉しかった。祖母が私のために、私が人前に出る日を考えてくれた事が。
帯は紺の織り帯。少しだけどきちんと銀糸も使われている。派手ではないけれど、汚れもほつれもない。髪飾りも付けないと失礼になるので、小さな石の付いた簪を刺した。
鏡を見ると、地味な着物を着た疲れた私が映っていた。
澪のように、そこにいるだけで人目を引く華やかさはない。母のように、上品に整えられた美しさもない。
でも、祖母がくれた着物だ。
私はそれだけを、胸の中で小さく繰り返す。部屋を出ると、廊下にいた母が私を見て、眉をひそめた。
「千咲、あなた、その着物で行くの?」
「はい。準礼装として着られるように、おばあ様が直してくださったものです」
「準礼装と言っても、お召しでしょう。鳴神様にお目通りする日に、少しみすぼらしいわね」
胸の奥が、小さく冷えた。みすぼらしい……そう見えるのだろうか。
「せめて振袖はないの?」
「……振袖は、持っていません」
「まあ。御影家の娘なのに、礼装の振袖もないなんて。あなた、どうしてそういう支度をちゃんとしておかなかったの」
そう言われて、私は少しだけ目を伏せた。持っていないわけでは、なかった。
祖母が生きていた頃、一枚だけ作ってもらった振袖があった。淡い桃色に、小さな白い花が散ったもの。
祖母が「千咲には明るい色も似合うよ」と言って選んでくれたものだった。
けれど、まだ振袖を着るような年齢ではなかった澪が泣いて欲しがった。
『私も振袖が欲しい! お姉様だけずるい!』
澪に甘い母は、当然それを注意する事なんてなかった。
千咲は家の中にいる事が多いのだからすぐに使わないし、また今度作ればいいわよね、と。
母が言った「また今度」は、来なかった。
「今度、あなたの分も作らないといけないわね」
母は面倒そうに言った。
前にもそう言われた。その前にも言われた気がする。でも、今度、という日はいつも澪の支度に消えていく。
以前、一度だけ自分から頼んだ事があった。神祇学校を卒業する前だったと思う。
同じ年の子たちが、卒業式は礼装の振袖で出席すると言っていたので、私にも一枚ちゃんとした礼装を作ってもらえないかと母に言った。
その時、母は少し困った顔をした。
『今月は澪の着物を二枚作る予定なの。卒業式なら、制服に指定されている小紋と袴があるでしょう』
そう言われると、何も言えなかった。
澪は水神の加護を持つ娘だから、いつ人前に出ても恥ずかしくないようにしなければならない。
理屈は分かる。でも、私の心はその時ポキっと小さく音を立てて折れた。
先月も、澪の着物は作っていた。その前も、母の着物と澪の小袖を仕立てていた。
だったら、そのうち一枚だけでも減らして、私の礼装を作ってくれたらよかったのに。……そう思った瞬間、自分が嫌になった。
加護を授かってる澪の大事な衣を減らせばいいなんて、私はなんて悪い姉なのだろう。
あの時の惨めさを思い出さないようにして、私は笑った。
「今日は澪が主役ですから。私はこれで十分です」
「そう。まあ、あなたは隅に控えているだけですものね」
母はそれ以上私の方を見なかった。見なくてよかった、見られたら、少しだけ泣きそうだったから。
*
神祇省の大広間は、普段見慣れている役所の建物とはまるで違っていた。
高い天井には、金と朱で彩られた梁が渡されている。
壁際には白木の祭壇が組まれ、中央には厳重に保管されている神鏡が据えられていた。神鏡の前には、清水、白米、酒、その他様々な供物、それから雷を鎮めるための銀の鈴が並んでいる。
朱塗りの膳には祝いの菓子が置かれ、季節の花を盛った大きな花瓶が両脇に立つ。
薄絹の几帳は、参列者の熱気に揺れて、光を受けるたびに水面のように淡く光っていた。
神祇省の役人たち。高位の陰陽師や巫女たち。各家の当主や、龍神様の帰還を祝うために招かれた人々。帝の姿はまだ見えないが、側近の色を身につけた方が前の方にいらっしゃるから多分あの辺りから出てくるのだろう。
広間には、私が普段なら近付く事もないような方々が集まっていた。
私はその隅で、喉が渇いたとか、汗をかいたとか、澪に何かがあった時用の様々な荷物を抱えて立っていた。
始まる前から、もう足が重い。
澪の大事な日なのだから、当然だ。そう思うのに、頭の奥が少し霞んでいる。昨夜ほとんど眠っていないせいだろう、立ったまま睡魔が襲ってきそうだ。
「千咲」
母が小声で私の名前を呼んだ。
「あなたはあまり前へ出ないように。澪の支度係なのですから、目立たなくていいわ」
「はい、承知しております」
既に壁際に寄って立っている私にお母様はそう声をかけた。
「そんな古い着物で悪目立ちしないように、控えめにね」
「はい」
古い着物。
そう言われて、私は袖を少し押さえた。祖母が直してくれた大切な着物だ。
そう言い返せたらよかった。けれど、言えば母はきっと「そんなつもりはないのに、わたくしを悪者にして、酷い子」と悲しむだろう。だから、言わなかった。
「おや、千咲さん」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、晴親さんが立っていた。
今日の晴親さんは、いつもより一段と高貴な装いに整えられていた。濃紺の羽織に、鷹宮家の紋が金糸で入っている。五つ紋の入った色紋付は来賓として相応しい装いだ。
分かっていたけどお召しでこの場に立っている人なんて使用人以外にいなくて、少し恥ずかしく感じる。
晴親さんは私を上から下まで見た。
そして、口元を歪める。
「その着物で来たのか?」
「はい」
「まあ、年増にはそのくらい地味な方がちょうどいいか。澪の横に立つわけでもないしな」
今日は何も言われないと思っていたわけではない。でも、やっぱり言われると少し悲しい。
「晴親さん、そんなふうに言わないで」
後ろで会話を聞いていた澪が現れて、困ったように言った。
「お姉様だって、今日は精一杯おめかししてくださったの」
その言い方は、優しいようでいて、どこか私を下に置いていた。
おめかししてくださった。精一杯。
それは本当だ。本当だから、何も言えない。
「そうか。なら、せいぜい粗相をしないようにしてくれ。龍神様の前で澪に恥をかかせるなよ」
「はい。気を付けます」
私は笑って答えた。
ここで悲しむ顔をすれば、澪の大事な日に水を差す事になる。母も父も困る。澪はきっと泣く。だから、笑わないといけない。
私が口角に意識して力を込めたその時、広間の奥で鈴の音が鳴った。
細く、澄んだ音だった。
けれどその一音で、ざわめいていた広間が静まり返る。
従者が襖を開けると、帝が大広間に姿を現した。神祇省の上位祭祀官が待つ祭壇の前へ進み出る。こんな近い距離でこの国の帝を見た事なんてなかったから、とても緊張してしまう。
その時参列者たちが一斉に頭を下げたので、一瞬忘れていた私も慌てて抱えていた荷物を落とさないようにしながら膝を折った。
帝が祭壇の前に膝を折り、神鏡に向かって鳴神龍臣命の名を古い言葉で呼びかける。
すると神鏡の前に灯されていた火が、ふいに大きく揺れた。
風はない。けれど、広間の中を何かが通った。
肌の上と体の中を、水の冷たさが通り抜ける。あまりの圧に胸の奥が震え、息をするのが少し難しくなった。
これが……水を司る最高位の神の神威。
そう思った瞬間、祭壇の前が光り輝いた。
白ではない。金でもない。水面に稲妻が落ちた時のような、青白い光だった。
光は神鏡からあふれ、祭壇を包み、やがて天井へ向かって伸びていく。
広間の薄絹が大きく揺れ、供物の水が器の中で震えていた。
誰かが、小さく悲鳴を上げた次の瞬間、光の中に巨大な影が現れた。
……龍だった。
長くしなやかな体、黒雲をまとったような高貴な鱗。角は銀に光り、鬣は風もないのに揺れている。その瞳には、夜の底に稲妻を閉じ込めたような光があった。
高い天井を埋め尽くすように現れたその姿はあまりにも大きく、あまりにも美しく、あまりにも恐ろしい。
絵巻で見た龍とは違う。物語で聞いた龍とも違う。
そこにいるだけで、空気そのものが重くなる。呼吸をする事さえ、許しを得なければならないような気がした。
「鳴神龍臣命……」
誰かが震える声で名を呼んだ。
帝が頭を下げた。それに倣って、神祇省の役人たちも、陰陽師も、巫女も、一斉に頭を垂れる。
龍がひとつ大きく身を震わせたかと思うと、帝の御前へ、雲のような大きな頭をぐっと沈めた。
その瞬間、広間全体がきしんだ気がした。白木の祭壇の火が一度だけ高く燃え上がり、祭壇の横に活けられた花がそよいで花びらが何枚か落ちる。
ぶつかる。けれどそう思った次の瞬間には、巨大な龍の姿は消えていて。
いつの間にか帝の前には、一人の背の高い男の人が立っていた。
祭壇から遠いこの位置からでも分かる、圧倒的な存在感。
濡れた黒髪のように艶やかな髪。その間から覗く、銀色の美しい角。
夜の底に稲妻を閉じ込めたような、鋭く澄んだ瞳。
白銀を溶かしたような衣は何の素材で出来ているのか分からない程美しい光沢をしていて、動くたびに鱗のような光を返す。
帯には深い藍の紐が結ばれ、袖口には雷文が淡く浮かんでいた。
美しい人だった。
でも、美しいという言葉だけでは足りない。
恐ろしい。尊い。近付いてはいけない。けれど目を離せない。
そういうものを、全部まとめて人の形にしたような方だった。
私は息をするのも忘れて見つめていた。それは、この場にいる他の人全ても同じで、広間の空気は張りつめていた。
母はうっとりとした顔で澪を見ている。
父は誇らしげに顔を紅潮させ、要は緊張と期待が混じった顔で龍神様を見つめていた。
澪は、ぽうっと頬を赤らめていて、晴親さんは龍神様の美しさに目を奪われながらも、澪のその様子にどこか面白くなさそうに眉を寄せていた。
無理もないと思った。
あんなに美しく、あんなに高位の神様が、自分を探しているのだと思えば、誰だってそうなるだろう。
龍神様に目を奪われていた広間の人々は、次にみんな澪を見た。
水神の加護を持つ娘。龍神様が探しているとされた御影澪。
今日、この場の中心にいるはずの少女。誰もが、龍神様が澪へ向かうのだと思っていた。
本人も、そう思ったのだろう。澪は緊張したように胸元へ手を当て、それからゆっくり一歩前へ出た。
水色の袖が、ふわりと広がる。その顔には、恥じらいと期待と、隠しきれない誇らしさがあった。
私は、部屋の隅で荷物を抱えたまま、少しうつむいていた。
この後は当然、澪が龍神様に選ばれると思っていた。
そうしたら御影家の名が上がって、母は喜んで、父は誇って。晴親さんは澪をさらに大事にする。
私は、澪が恥をかかないように無事支えられたのだ。
そう思っていた……けれど。
鳴神龍臣命は、澪を見なかった。
いいえ、一瞬も、澪に視線を留めなかった。
広間にいる全員が澪を見ていたのに、その方だけが、まるで最初から探す場所を知っているように、まっすぐに歩き出した。
一歩。
二歩。
白銀の衣の裾が床を滑り、歩くたびに神威が波のように広がる。
近くにいた役人たちは、思わず身を引いた。高位の陰陽師でさえ、顔を強張らせている。
澪の前を通り過ぎた時、小さく息を呑む音が聞こえた。
それは澪のものだったのか、驚きに目を見開いた母のものだったのか、それとも周囲の人の誰かのものだったのか。
いずれにせよ龍神様は、その誰にも目を向けなかった。
まっすぐに。ただ、まっすぐに。
部屋の隅で、古い藍鼠色の着物を着て、荷物を抱えて立っている私へ向かって歩いてきたのだ。
どうして。
困惑して、恐ろしくて、でも足が動かなかった。逃げる事も、膝をつく事もできない。
私は何か粗相をしたのだろうか。
奉納した供物に不手際があった?
それとも、隅に控えているはずの私が目障りだった?
胸がどくどくと鳴る。ひたすら固まったまま、目の前で起きている事を眺めている事しかできない私の前で、龍神様が足を止めた。
あまりにも近い。
恐る恐る顔を上げると、夜の底に稲妻を閉じ込めたような瞳が、私だけを見ていた。
怖い目だった。でも。
どこかで、見た事のある目だった。
龍神様は、私が抱えている荷物へ目を落とした。
それから、私の手を見た。墨の跡が、指先に薄く残って落ちない荒れた手を。
みっともない。そう思ってどうにか袖の中に隠そうとしたその時、龍神様の手が私の手に触れた。
大きな手だった。神様の手なのに、そこには確かな温もりがあった。
神様の手は私に優しく振れた。まるで、長い間探していたものを、ようやく確かめるように。
広間中が、息を止めたのが分かった。
ほんの少しだけ目を細めた龍神様の、その怖いほど美しい顔に、信じられないくらい穏やかな笑みが浮かぶ。
「見つけた」
低い声だった。
私の手に触れる龍神様の指先が、ほんの少しだけ震えている。
「……やっと、見つけた」
その言葉が広間に落ちた瞬間、母の息を呑む音が聞こえた。
澪は、どんな顔をしているかは分からない。
私は体を強張らせたまま、ただ龍神様を見上げていた。
どうして。なぜ。私は澪ではないのに。
そう思ったのに、胸の奥で十五年前の橋の下の風が、ほんの少しだけ吹いた気がした。