作品タイトル不明
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御札を書く。しているのはいつもと同じ事なのに、私の指先にはいつもの御札とは比べものにならない重さを感じていた。
大鎮水札。
この国全体の水脈を鎮め、荒れた水を導き、渇いた土地へ恵みとして巡らせるための札。
国で十年に一度書く機会が訪れるかどうかも分からないほど、力のある札だ。
少しでも線が乱れれば、祈りの道は歪んでしまう。込めた祈りが足りなければ、龍臣様の御力を正しく受けられない。線の強弱、余白、詞の順序、そのすべてが水の道へ繋がっていくのだから。
怖い。けれど、筆は止めなかった。
これは母のための札ではない。澪のためでも、御影家のためでもない。家族が機嫌よく過ごすためでも、誰かに怒られないためでもない。
私が書くと決めた札だ。
この札で、田畑が助かりますように。人々の家が流されませんように。井戸の水が濁りませんように。降るべき土地に雨が降り、荒れるべきではない川が鎮まりますように。
私は、その願いを一画ずつ形にしていく。
今回の札では使えない、祖母からもらった筆は懐剣代わりに布に包んで帯に刺していた。何年も使ってきた古い筆。母や澪の名で御札を書かされていた時も、私の祈りだけは嘘にならないようにと支えてくれた筆。
でも今、初めて、私は心からの自分の意思で力のある大きな札を書いている。
最後に自分の名前を記した。
御影千咲。その文字を書いた瞬間、祭祀場の奥で龍臣様の神威が深く震えた。
龍臣様は神鏡の前に立っていた。
水紋が浮き上がる白銀の衣が嵐の日の水面のように揺れ、黒髪の間の銀の角が淡く光っている。その足元から、水と雷の気配が広がっていた。
神祇省の祭祀場に張られた儀式用の結界の外では、各地の水脈と繋がる水盤が並んでいた。
水盤の中では、遠い土地の水の様子が映されている。
ある水盤では、田畑がひび割れている。別の水盤では、山沢が濁流になり山肌を削りかけている。また別の水盤では、井戸の水位が下がり、濁り水となっていた。
大雨と渇水。荒れて溢れる水と、必要な所に届かない水。
そのすべてを、龍臣様が見ている。
「水の道を開く」
龍臣様の声が響いた。
大きくはない。けれど、祭祀場の隅々まで届き、この地の下深くを流れる水脈にまで染み込むような声だった。
龍臣様が片手を上げ、うねりを上げていた水脈に沿って神威を流し込む。
水盤のひとつが、青白く光った。そこに映る荒れていた沢の水が、龍臣様の神威に触れて少しずつ流れを変える。
山の片側に集まりすぎていた水が、乾いた田へ向かってゆっくり導かれていく。
神祇省の上空に大きな雷が走った。
けれど、それは木々を焼く雷ではない。雲を割り、水の道を開くための雷だ。
龍臣様は荒ぶる水を抑え、別の遠く乾いた地へ恵みの雨として降らせようとしていた。
すごい……人の力では到底触れられないほど大きな水の流れを、龍臣様は両手で抱えるように導いている。
でも、すぐに龍臣様がかなりご無理をされている事が分かった。
大きすぎる。龍臣様のお力は、あまりにも強い。
荒ぶる神だった頃の名残なのだろう。お力が強すぎる故に、荒れている大水に更に大きな力を流し込んで無理矢理抑えつけるような形になってしまっている。
沢の水が、いったん落ち着いたかと思うと、次の瞬間には別の支流へ激しく流れ込もうとしている。乾いた土地へ降る雨も、ほんの少し量が増えれば豪雨になる。雷が雲を割るたび、遠くの山の水脈まで震えていた。
「鳴神命……!」
儀式に立ち会っていた帝が、思わず声を震わせて龍臣様の名を呼んだ。正しく、思わず神に縋っている姿だった。
神祇省の役人達も顔色を変えた。大神宮の神官達が祝詞を唱え、このために納められた他の鎮水札の力を強めて助力しようとしている。
龍臣様の眉がわずかに寄った。
抑えようとしている。龍臣様は、必死に力を抑えている。
けれど水は、龍臣様の力に応じすぎる。荒ぶる水が、龍神に触れられて、動きすぎてしまっている。
その時、私が書き上げたばかりの大鎮水札が一層強い光を放った。龍臣様の神威に反応しているのだ。
私は息を吸った。私にできる事。
龍臣様が水を導くなら、私はその水が荒れないための道を作る。
「これと同じ大きな札紙はありませんか」
「ご、ございます……予備として用意したものが、一応」
突然声を張り上げた私に、一番近くにいた神祇省の役人の方は目を白黒させた。でも、一番聞きたかったことは教えて頂けた。
「持ってきてください。大鎮水札とは別に、水守りの札を書きます。そうすれば水の気が……龍臣様の神威が鎮まりやすくなるはずです」
「は、はい!」
急いで運んでこられた札紙に、私は再び向かう。澪の名前で何度も書いてきた御札だ。今は、この国のために、そして龍臣様のために書くのだ。
荒れた水を押さえつけるのではない。水の行き場を止めるのでもない。
渇いた土地へ。水を求める田畑へ。枯れた井戸へ。流されずに済む川筋へ。水がこの国を守ってくれるように助けるのだ。
龍臣様が導く水よ、どうか、正しく巡ってください。
私は、全ての水難からこの国が守られるよう詞を書き加えた後、自分の名前を記した。
龍臣様の神威が、新しく書いた私の札へ流れ込む。強すぎる力が、札の詞を通る事で細い道へ分かれていく。この国を水難から守る力となって遠くへ流れていく。大鎮水札が国全体の水脈を受け止め、水守りの札が龍臣様の荒い御力を、ひとつひとつの土地へ届く穏やかな流れへ変えていった。
荒れた水は、恵みの雨へ。濁流になりかけた沢は、静かな流れへ。家を呑みかけていた川が、堤の手前で流れを弱める。
水盤の中の景色が、ひとつずつ変わっていった。
龍臣様の力だけでは荒すぎる。私の札だけでは届かない。
けれど、ふたつが重なると、水は正しく道を見つけてくれた。
大鎮水札と水守りの札からあふれ出ていた光は段々と強まっていく。
白い光ではなかった。水の青と、雷の銀と、朝日のような金が混じった光。
その光は祭祀場いっぱいに広がり、龍臣様の神威と重なって、外へ、さらに遠くの水脈へと走っていった。
並んでいた水盤が一斉に輝く。
目を瞑る程の強い光で塗りつぶされた後。瞼をおそるおそる開けると、祭祀場の中には静寂が戻っていた。
「……鎮まった」
神祇省の役人の一人が、呆然と呟いた。
「あれほど国中で乱れていた水気が落ち着きました」
「北の大川の水位も元に戻りました」
「陸州の大雨もやんだと報告が」
次々に報告が上がる。神祇省の役人達も、大神宮の神官達も、驚きと畏れの目で私を見ていた。
手が、震えている。体の力が抜けて、座っているのがやっとだった。
けれど、胸の奥にあった怖さは、少しだけ別のものに変わっていた。
私の名前で書いた札が、この国に訪れた水難を鎮めた。
誰かの代わりではなく。母の名でも、澪の名でも、御影家の名でもなく。
御影千咲として。私自身として、私は必要とされたのだ。
そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。
そこにいた人々の間に、安堵と小さな歓声が広がり始めたその時、祭祀場の神鏡が眩い光を放った。
誰もが息を呑む。
神鏡の奥から、太陽のような金色の光が溢れていく。その光は強いのに、目を焼くものではなかった。暖かく、清く、すべてを照らしながら静かに包み込む光。
帝を含めた祭祀場にいた者達が、一斉に頭を下げた。
龍臣様も、静かに姿勢を正す。
私も慌てて頭を下げる寸前に、神鏡の前に、ひと柱の神が現れたのが見えた。
天照大神。
この国の主神。人々が畏れと敬いを込めて、ただ大神と呼ぶ神。
白く輝く衣をまとい、金の光を背に宿したその御姿は、ただ美しいという言葉では足りなかった。そこにいるだけで、朝が生まれるようだった。
あまりの畏れ多さに身を固くしている私の頭に、大神の声が静かに響く。
「顔を上げなさい、御影千咲」
その声は、陽だまりのように穏やかで、けれど逆らえない重みがあって、私はおそるおそる顔を上げた。
大神は、私を見ていた。
「美しい札でした」
胸が、どくんと鳴った。
「形だけではない。そなたの札には、人を守ろうとする祈りが通っている」
大神の光が、大鎮水札を静かに照らす。
「その祈りが、荒ぶる水に見事に道を与えました」
私は、何も言えなかった。大神は、次に龍臣様を見て口を開かれた。
「龍臣」
「はい、姉上」
「そなたは、ようやく水を、壊すものではなく、守るものとして導けるようになりましたね」
龍臣様は、静かに頭を下げた。大神は、もう一度私を見る。
「千咲。かつて我が弟に、守る事を教えたのはそなたです」
「私が……」
「そなたの小さな祈りが、荒ぶる龍を神へ戻しました」
言葉が胸に深く入ってくる。
「今日のこの札も、そなたでなければ書けなかったでしょう。名を奪われても祈りを濁さず、傷付けられても人を守ろうとした心があればこそ、この水は鎮まりました」
私は、唇を震わせた。
私でなければ。
そんな言葉を、この国で最も貴き方から聞く日が来るなんて思わなかった。
誰かの代わりではない。誰かの名を借りた札でもない。私自身が必要だった。
「ありがとうございます」
声は震えた。でも、自分を下げる言葉は出なかった。
「私……私の札で、人を守れたのですね」
「ええ」
大神は静かに頷いた。
「そなたの祈りは、人を守る祈りです」
涙がこぼれそうになった。その時、龍臣様が私の隣に立つ。
祭祀場の人々も、神官達も、帝も、大神もいる。けれど龍臣様は、いつものように私だけを見ていた。
「千咲」
「はい」
「以前、湖のほとりで言ったな」
胸が跳ねた。龍臣様の声は、静かだった。
けれど、そこにある熱を私はもう知っている。
「俺は、家族になる約束を果たしたいと思っていた。お前が帰れる場所に、泣いてもいい場所に、何も返せなくてもいていい場所になりたいと」
私は、息を呑む。
「その約束は、果たしたつもりだ」
龍臣様は、ほんの少しだけ目を細めた。
「だが今は、お前を妻として望みたい」
祭祀場が静まり返った。
「龍臣様……」
「千咲。俺は、お前を妻として迎えたい」
以前と同じ言葉。けれど、今の私はあの時とは違っていた。
家族と向き合った。こんな大役を任されて力のある札を書いた。そして大神に……いいえ、私自身が自分の事を認められた。
まだ怖い。
神の妻になるという事がどれほど大きいのか、きっと私はまだ分かっていない。
でも、分かる事がある。
龍臣様のそばにいたい。
この人の帰る場所でありたい。この人に守られるだけではなく、この人の力を支えたい。この人が水を導く時、私が祈りの道を作りたい。
そして、ただ恩だけではなく……私は、この人を愛している。
私は、自分の想いから逃げなかった。
「私も」
声は震えていた。けれど、はっきり言えた。
「私も、あなたを愛しています」
龍臣様の瞳が、静かに揺れた。水と雷を宿したような瞳が、初めて少しだけ泣きそうに見えた。
大神が、私の言葉を聞いて穏やかに微笑む。
「めでたい事です」
その言葉と共に、神鏡の光が広がる。
「鳴神龍臣命と御影千咲。水と祈りをもって国を鎮めし二人の婚姻を、大神の名において認めましょう」
神祇省の役人達も、大神宮の神官達も、深く頭を下げる。龍臣様は、私の手を取った。
その手は、十五年前に指切りをした手。
橋の下で私を家族にすると言ってくれた手。
今、私を妻として望むと告げてくれた手。
私はその手を、自分から握り返した。
大鎮水札と水守りの札から溢れた光が、祭祀場にまだ淡く残っている。
水は鎮まり、雨は恵みとして巡り始めた。そして私は、初めて自らの意思で、私自身が望んで龍臣様の隣に立っていた。