作品タイトル不明
エピローグ 橋の下
私が鳴神龍臣命の社で暮らすようになってから、季節がひとつ巡った。
神域の朝は、人の世の朝よりも少し静かだ。
窓の外では、湖が白い光を含んで揺れている。真っ白い空には極彩色の雲が浮かんでいて、遠くの滝は、今日も細い銀の糸のように山肌を流れ落ちていた。軒に吊るされた鈴が、風もないのに澄んだ音を立てている。
私は文机の前に座り、祖母の筆を手に取ると、白い札紙の上に穂先をそっと置いた。
もう、誰かの筆跡に似せる必要はない。母の字に寄せなくていい。澪の名前を書かなくていい。私が書いた事を隠さなくていい。
神名を記し、詞を置き、守りの印を結び、最後に名を書く。
御影千咲。
墨が乾く前に、札紙が淡く澄んだ光を帯びた。私はその光を見るたび、今でも少しだけ胸が熱くなる。
私の名前だ。
母の名前でも、澪の名前でも、御影家の名でもない。私が祈り、私が書き、私の名で納める御札。
神祇省には、私は正式に札師として登録された。それも、鳴神龍臣命の社に仕える専属の札師として。
そして、龍臣様の伴侶として。
その言葉は、今でも口にすると少し照れくさい。
あの湖のほとりで龍臣様が私を妻に望んでいると告げてくれた時、私はすぐには答えられなかった。
けれど、国の水鎮めの儀を終え、大神様に認められ、龍臣様にもう一度求婚された時、私は逃げなかった。「私も、あなたを愛しています」と、そう答えた自分の声を時々思い出す。
「千咲様、今日の御札も綺麗です」
文机の横で、紺色の衣を着た水李がにこにこと笑った。
「……ありがとうございます」
私は、素直にそう答えた。
大した事ではありません。たまたまです。私の書いた御札なんて。
そう言いかける癖は、まだ完全になくなったわけではない。けれど、龍臣様に大事にされるようになって、私は少しずつ自分を大事に扱う事を覚えていっている。
「主様がお戻りになる前に、お茶を用意いたしますね」
「はい。お願いします」
水李は嬉しそうに頭を下げると、ぱたぱたと部屋を出て行った。
龍臣様の社は、今日も忙しい。
大鎮水札の儀の後、国の水脈はようやく落ち着きを取り戻した。龍臣様は水と雷を司る龍神として、各地の水脈を見回る事が多くなった。私はそのための御札を書き、祭祀記録を整え、神祇省から届く書状に目を通す。古い記録の整理も続けている。
もう、私の仕事は誰かの名前に塗り潰される事はない。
神祇省から届く書状にも、きちんと私の名前が書かれている。私は、私として誰かの役に立てている。
*
御影家の事は、人の世から時々報告が届いていた。
母は、巫女としての資格を停止された。
御札の名義詐称。そして、届け出のない裏の経路で御札を配り、謝礼を私的に受け取ってかなりの額の不正蓄財をしていた事。
それらが正式に認められたためだ。
御影家は、御札の売上も、信用も大きく失った。
そもそも、もう以前のように御札を作れない。母も澪も、私が書いていた量と質の御札を、同じように作る事は出来なかったのだ。
父はそれでようやく、私が実際していた仕事がどれくらいのものだったのかを知ったようだった。
澪は、水蛇神の加護を完全に失った事が知れ渡った。
晴親さんとの婚約も白紙になった。そもそも鷹宮家もまた、澪の加護を笠に着て人の世の水脈や土地に圧をかけていた事を追及され、処分を受けたという。
かつて「国を救った加護持ちの姫巫女」として扱われていた澪は、今は普通の巫女見習いとして、最初から学び直しているらしい。
けれど審議の場の様子では、あまり御札も満足には書けないようだった。
儀式の度に毎回私が作法を教えていた。今は水神の加護もない。
それでも、もし澪が本当に学び直すなら……今度こそ、誰かの祈りを奪わないで本人だけの力で巫女になってほしいと思う。
そう思える自分が、少しだけ不思議だった。憎みきれないからではない。
もう戻るつもりはない。澪のために私を消すつもりもない。母や父のために、私の名を差し出すつもりもない。
それでも、澪がこれから自分の手で何かを学ぶなら、その先できちんとした巫女になって幸せになって欲しい。
そう思うだけだ。
要も、自分で課題や論文を書くようになったと聞いた。けれど、以前提出した、私が下書きをした論文に目を止められて決まりかけていた就職先の話は流れたようだった。
父と母からは、今でも時々文が届く。
家族なのだから戻ってきなさい。御影家にはお前の力が必要なのだから、過去の事は水に流しましょう。澪も反省しています。家族を助けるのが長女の務めでしょう。
そんな言葉が、丁寧な文字で並んでいる。
最初の頃は、文を見るだけで胸が痛んだ。いや、今でも少しだけ痛む。
けれど、もう戻らなければとは思わない。
文を畳むと、側で見ていた龍臣様はいつも同じように言う。
「燃やすか」
「いえ、保管だけしておきます」
「ならばそうしろ」
龍臣様は、何も言わない。けれど、私が戻らないと決めた事を、静かに尊重してくれる。
それだけで、私は前を向けた。
*
その日、私は人の世へ買い物に出ていた。
龍臣様の社で使う道具や、眷属達に頼まれた調味料、それから新しい本。
奉納されるものでは足りず、人の世にしかない物もあるので時々こうして降りる。
もちろん、ひとりではなく、隣には龍臣様がいる。
「この程度の買い物なら、眷属達と行けますよ」
そう言った事もある。神域から出られないものも多いが、水李など、人の世界に降りられる神格を持った眷属もいる。
けれど龍臣様は、「俺が行きたい」とだけ言った。
だから今日も、龍臣様は私の隣を歩いている。
人の世の町では、龍臣様は少し目立つ。角は隠しているし、衣も人の世に馴染むものへ変えているけれど、それでも纏う空気が違う。神威を隠しきれていないのだと思う。
でも私は、隣を歩く事にもう前ほど緊張しなくなった。
畏れはある。今でも、神様だと思うとほんの少し身が引き締まる気がする。
けれど、それだけではない。龍臣様は、私の夫なのだ。そう意識すると、まだ顔が熱くなってしまうけど……。
買い物を終えた帰り道、私はふと足を止めた。
川の音が聞こえた。懐かしい音だった。
「千咲?」
龍臣様が私を見る。
「少し、寄ってもいいですか」
龍臣様は、すぐに分かったようだった。
「ああ」
私達はそのまま川沿いを流れに逆らって登り、あの橋へ向かった。
橋は、今もそこにある。子供の時から何度か補修されて、欄干の色も少し変わっている。けれど、川の流れも、橋の影も、湿った土の匂いも、遠い記憶の中と同じだった。
私は橋の下へ降りた。
昔のように、泣きながらではない。
草履の先で土を踏み、川面の光を見る。水は穏やかに流れている。十五年前、ここで私は龍臣様に会った。
かつて、この場所は私を笑う言葉の場所だった。
橋の下で拾ってきた子。一人だけ家族に似ていない子。澪や要と違って出来が悪い子。
そう言われるたび、私はここを思い出して胸を痛めていた。
でも、今は違う。ここはもう、私を馬鹿にする言葉が示す場所ではない。
龍臣様が隣に立つ。私は川を見ながら、少し笑った。
「ここは、私が龍臣様と出会った場所ですね」
誰かを笑わせるための言葉でもない。自分を下げるための冗談でもない。
ただ、少し誇らしくて、少し照れくさい言葉だった。
龍臣様は、私を見た。その目は、あの日と同じ色をしている。けれど今はひどく優しい。
「ああ」
龍臣様は静かに答えた。
「俺が、お前に拾われて、救ってもらった場所だ」
胸の奥が温かくなる。
五歳の私が泣きながら見つけた、ぼろぼろで、怪我をしていた人。金平糖を分け、痛いの痛いの飛んでいけをした相手。
その人が、今は私の隣にいる。
家族になると言ってくれた人。私が泣いても怒らない人。私の名前を取り戻してくれた人。そして、私が愛している人。
私は本当に幸せだと思った。
だから、笑った。今度は、自分を傷付けるためではなく……心から。
龍臣様が、そっと手を差し出して、私はその手を取った。
十五年前、指切りをした手。審議の場で私を支えてくれた手。水鎮めの儀で、私の祈りと共に国の水を導いた手。
その手を、今は自分から握る。
「帰るか」
「はい」
帰る。その言葉が、もう怖くない。
安心して帰れる場所がある。私が私のまま戻れる場所。泣いても、笑っても、何も役に立てない日があっても、ここにいていいと思える場所。
龍臣様の隣。
神域へ続く水の道が、足元に静かに開いた。
青く澄んだ水が、薄い絹のように宙を流れている。夜の色をした雲の奥で、稲妻が音もなく光っていた。水と雷の間に白い道が生まれる。
界渡りをするたびに龍臣様に抱き上げられるのはまだ慣れない。
でも、橋の下で拾った子だと言われて傷付いて泣いていた私の姿はもう見えない。
ここは、私が龍神様を拾った場所。
龍臣様と出会った思い出の場所だ。