軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

水鎮式

御影家を出た後、人の世では正式な監査が始まった。

神祇省の監査官達が御影家へ入り、過去に納められた御札の記録、名義、謝礼、供物台帳を洗い直したのだという。

その報せは、龍臣様の神域にも届いた。

最初に問題視されたのは、審議の場でも明らかになった長年にわたる御札の名義偽装だった。

そう記されて納められていた札の多くに、私が書いたものだと認められた。

神祇省は、龍臣様の神術で霊紋を可視化した後、大神宮から派遣された神官達と共に、過去の札も改めて調べたらしい。

さらに、母が茶会や奥方衆との付き合いの中で、正式な帳面に載せず御札を渡し、個人的に謝礼を受け取っていた事も明らかになった。

母はそれを「社交の一環」と言ったそうだが、監査官達はそうは見なかった。

その謝礼は御影家の正式収入として扱われておらず、帳面にも記録されず、国へ納めるべき税金も逃れていた。

実際は、慣習的に知り合いに個人的に依頼をされた陰陽師や巫女が御札を書く事もあるし、それに対して謝礼を受け取る事もあり、その多くは見逃されている。けれど母が帳面に記録しなかった金額は大きすぎたので、脱税と不正蓄財の罪に問われる事になったのだという。

その言葉を聞いた時、私は思わず目を伏せた。

私がした事ではない。

そう分かっているはずなのに、胸の奥は重い。

鷹宮家にも監査の手は伸びた。

私は知らなかった事だが、澪の婚約者である晴親さんやその家は、澪の加護を政治的な道具にしていたらしい。

水神の加護を持つ娘を婚約者にしている事を盾に、地方の小さな神社や、水脈管理に関わる家へ圧をかけていたという。

『澪様の加護を使えば、お前の土地の井戸など枯らせる』

『水神の加護を受けた姫巫女に逆らうのか』

そんな言葉で脅され、言いなりになって不正に加担させられていた者達がいた事が、神祇省からの報告には記されていた。

私はその文を読んで、しばらく何も言えなかった。

澪は、この事を知っていただろうか。知らなかったのかもしれない。知っていたのかもしれない。けれど、水蛇神が去った時の言葉が胸に残っている。

みお、みずで、ひとをこわがらせた。

小さな水蛇神は、きっと見ていたのだろう。

御影家との訣別で、ようやくひと段落したのだと、そう思っていた時。

ある朝、神域に緊急の使いが来た。

何度か見た、白い鳥の形をした式神が湖の上をまっすぐ飛んでくる。鳥は鳥居を越えた瞬間、折り紙の鳥に姿を変え、眷属の手の中で書状になる。

大神宮と神祇省の印が押された、正式な協力要請だった。書状には、硬い役所の言葉で、事態が記されていた。

大神宮ならびに神祇省、謹みて鳴神龍臣命に奉請申し上げる。

先般、鳴神龍臣命より御通達ありし水脈異常につき、神祇省にて該当地域の再検分を行いしところ、御影澪殿を中心として執り行われし水鎮祭の後、複数の土地において水脈の細乱を確認せり。

当該祭祀に用いられし札には、名義人と起符者の相違が認められ、御札に込められし祈りと、祭祀の場に立ちし者の名が一致せぬ事により、水の道に歪み生じたるものと推察す。

加えて、御影澪殿に宿りし水蛇神の加護が失われたる事により、これまでかろうじて保たれていた小水脈の支えも失われ、右の歪み、急速に表面化しつつあり。

現在、該当地域にて大雨、渇水、井戸枯れ、支流水の乱れ等、相反する水難が同時に発生し始めている。

右、神祇省のみの力にて速やかに鎮定する事、極めて困難なり。

つきましては、水と雷を司る鳴神龍臣命に、水鎮めの儀を正式に願い奉る。

また、御影澪殿名義の札の真の起符者と認められし御影千咲殿には、同儀に用いる大鎮水札の作成につき、併せて御協力を請い願い奉るものなり。

私の部屋を訪れた龍臣様から見せられたその書状の中身を読んだ瞬間、背中がひゅっと冷たくなった。

顔を青ざめさせる私に、龍臣様は説明をした。きっかけは、私が龍臣様の社で保管されていた記録を、整理していた時に気付いた事だった。私の話を聞いて、龍臣様は実際にいくつかの水脈を検分し、神祇省へ通達を出していたらしい。

そして実際、納められた御札の名義人と起符者の相違によって、水脈には確かに歪みが出ていた。そこに、澪の加護が水蛇神によって引き上げられて、かろうじて保たれていた小さな水脈まで支えを失い、今各地で大雨と渇水が同時に起こり始めているのだという。

それは、十五年前までこの国が苦しんでいた水難と似ていた。

「私のせいで……」

つい、そう言葉が漏れた。

龍臣様は、私の手元から書状を取り上げるような事はしなかった。ただ、隣に座り直すと、震える私の手を上からそっと大きな手を重ねてくれる。

「違う」

低い声だった。

「けれど、私が澪の名前で御札を書いていたから……」

「歪みを生んだのは、お前の祈りではない」

龍臣様は、はっきりと言った。

「お前の祈りを、嘘で塗りつぶした者達だ」

私は顔を上げた。

「それに、自らを省みる事なく水蛇の加護を失った、あの娘自身の咎でもある」

「でも……」

「千咲」

龍臣様の声が、少しだけ強くなる。

「お前の札は、人を守ってきた。嘘の名に覆われてもなお、土地を完全に崩さぬよう支えていた。今、歪みが表へ出たのは、お前の祈りが悪かったからではない」

私は、書状の上の文字を見た。その最後に、私の名前がある。

御影千咲。

神祇省が、今まで納められていた御札を本当に書いていた者として、私に協力を求めている。

それは、少し前の私なら考えられない事だった。

私の名前で、公の場で、国の水を鎮めるための札を書くなんて。

「私に、出来るでしょうか」

声が震えた。

「人の家や田畑を守るための、大きな札なんて。私が失敗したら、もっと水が荒れるかもしれない」

龍臣様は、私を見ていた。

「お前の札は、人を守る札だ」

その声は、静かだった。

「五歳の時、お前は神名も知らず、正しい詞も知らず、ただ俺の痛みが軽くなるようにと祈ってくれた。その祈りで、俺は救われた」

龍臣様は、文机の上に置かれた私の筆を見た。

「今のお前は、札師としての技もある。祈りも持っている。俺の加護もある。なら、恐れるなとは言わぬが、疑いすぎるな」

私は、祖母の筆に触れた。

細い筆管。何度も握って、私の指に馴染んだ筆。

御影家では、母や澪の名で札を書いていた。

家の空気を守るために。怒られないために。家族にいらない子だと思われないために。

でも、今度は違う。

この札で田畑が助かりますように。人々の家が流されませんように。井戸の水が戻りますように。荒れた川が静まりますように。

そう願って、祈りを込めて、私の名前で書くのだ。嘘のない名で。

……私は息を整えた。

「書きます」

言ってから、足が震えそうになった。

怖い。それでも、逃げたくない。

「私の名前で、水鎮めの儀の中で鎮水札を書きます」

龍臣様の目元が、ほんの少し和らいだ。

「それでいい」

水鎮めの儀は、神祇省の祭祀場で行われる事になった。

界渡りをして出た先の大きな空間では、もう全ての準備が整っていた。

この大儀式には御臨席される帝、大神宮から来た大勢の神官や、神祇省の役人達。各地の水に関わる社でお勤めをされている神職の方々もいる。

彼らの視線が一斉にこちらに向いて、私は思わず気圧されそうになった。

神鏡の前で龍臣様の腕の中から降りた私は、祭祀場の中央に置かれた大きな毛氈の前に座る。

そこに用意されている札紙は、普通の御札とは比べものにならないほど大きかった。襖と同じくらいの大きさだ。神域で練習はした。けれど、こんな大きさの紙にこんな大勢の前で書くのは初めてなので怖かった。

神域で育てられたミツマタを白く厚く、清められた水で専門の神職が紙漉きをしたものだという。墨も、大神宮の蔵から下されたものだった。

周囲には多くの人がいて、たくさんの視線が私の手元に集まっていた。

怖い。でも、私はもう「私なんか」とは言わなかった。

筆を持つ前に、私は深く頭を下げた。

「鳴神龍臣命の水鎮めの儀を受け、札師として、鎮水札を書きます」

声は大きくなかった。けれど、祭祀場に静かに響いた。

龍臣様が、私の後ろに立つ。

いつもよりさらに神々しい、光の加減によって浮き出る観世水の白銀の衣をまとい、龍神として水を導く準備をしている。

その神威は深く、静かで、けれど遠くの水脈まで届くほど大きいと感じた。

「俺は水脈を正しく導く」

龍臣様は言った。

「千咲、お前は祈りの道を作れ」

「はい」

私は筆に墨を含ませて、一度深呼吸をして札紙に向かった。

この御札は、他の誰でもない……私の名で書く札だ。

墨が、札紙へ広がる。水を示す印、水脈を鎮める詞。龍臣様の名。私が込める祈り。

私は、ひとつずつ形にしていく。

龍臣様が神としてこの場に降ろすお力はとても強く、それを一部とはいえ受け止めてお借りし、御札に正しく道を作るのは至難の業だった。荒れ狂う川に流されないように支流を作るようなものだ。

怖さは消えない。けれど、筆は止まらなかった。

この札で、人々の家が流されませんように。田畑が助かりますように。井戸が濁らず、川が荒れず、雨が恵みとして届きますように。

私は、その祈りを御札に込めて、筆を動かしていく。

神名、鳴神龍臣命。

そう札紙に記した瞬間、鎮水札が神域で書いた時のように、強く澄んだ光を放ちはじめた。この御札に龍臣様のお力が流れ始めている。

同時に、龍臣様の神威が祭祀場を満たし、柱も、神鏡も、供物の水も、同じ水脈に触れたように震えた。

水と雷の気配が、私の札の光と重なった。この世に吹き荒れる、荒ぶる水を鎮めるための儀式が始まったのだ。