作品タイトル不明
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そう告げた後、座敷はしばらく静まり返っていた。
私はもう、私を笑いものにしてこの家を守るのをやめます。
……家族を拒絶した声が、まだ畳の上に残っているようだった。
母は扇を握ったまま、信じられないものを見るような目を私に向けている。
父は眉間に深く皺を刻み、何を言えばいいのか、決めかねているようだった。
要は、私が本当に戻らないのかをようやく理解し始めた顔をしている。
そして澪は、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
薄紫色の小袖の袖を両手で握りしめ、肩を震わせて、まるでこの場で一番傷付いたのは自分だと言いたげに泣いている。
「お姉様が……」
澪の声は、細く震えていた。
「お姉様が、我慢していればよかったのに」
その言葉は、大声ではなかった。けれど、私の胸にまっすぐ刺さった。
きっと、澪は本気でそう思っているのだろう。
私が澪の代わりに御札を書いて、着物も用意して、予定を管理して、参加する儀式の手順を毎回教えて、支度も整えて、澪が恥をかかないように裏で支えればいい。
私が古い着物で後ろにいて、澪が綺麗な衣で人前に立てばいい。
それが、澪にとっての当たり前だった。
雑用しか能のない地味な姉と、それに対して澪は特別な娘だった。水神の加護を持つ、神に愛された娘。
その世界を壊したのは、私なのだと……澪はそう思っているのだろう。
「どうしてこんな事をするの」
澪は、私を責めるように見た。
「お姉様が黙って、今まで通り御札を書いていればいいじゃない。お母様も、お父様も、私も、要も、みんな困らなかったのに」
今まで通り。
母の名で御札を書く。澪の名で御札を書く。要の課題をやって、家事をして、帳面をつけて、家の中の面倒な事を引き受ける。
そして、何を言われても笑う。それが、今まで通り。
「お姉様が我慢してくれていれば、全部うまくいっていたのに」
澪の声が、少しずつ高くなった。
「なのに、どうして? どうしてお姉様は、私を困らせるの? 私、何も悪い事してない。私はただ、水神様の加護をいただいた娘として、ちゃんとしていただけなのに」
「澪」
私は、妹の名前を呼んだ。
小さな頃、熱を出した澪の額を冷やした事がある。雷が怖いと泣く澪の耳を塞いで、お母様が帰って来るまで抱きしめていた事もある。
水神の加護を持つ特別な子だと言われるようになってからも、私は澪を妹だと思っていた。
今だって、澪が泣いているのを見ると胸が痛む。
けれど、私はもう謝らなかった。
ここで謝ったら、私はまた元の場所に戻ってしまう。
澪のために、お母様のために、お父様のために、自分を傷付ける場所へ戻ってしまう。
「私は、あなたのために自分を傷付けるのをやめるだけよ」
そう言った声は、自分でも驚くほど静かだった。
澪は目を見開いた。
「何、それ」
「私はもう、あなたのために私の名前を消さない。あなたのために嫌な冗談を笑わない。あなたのために、傷付いていないふりをしない」
「ひどい」
澪は震える声で言った。
「お姉様、ひどいわ。私がこんなにつらいのに」
晴親さんが、澪を庇うように一歩前へ出ようとしたその瞬間、龍臣様の気配が鋭くなった。
水面に雷が落ちる直前のような、張りつめた神威。
龍臣様が怒ろうとしている……私にはそれが分かった。
けれど、龍臣様の神威が広がるより早く、澪の胸元で何かが揺れた。
水の匂いがした。清い沢の底から立ちのぼるような、細く冷たい水の気配。
「……え?」
澪が自分の胸元を押さえた。
淡い紫色の小袖の襟元から、一筋の水がこぼれるように光った。その光は床へ落ちる前に宙で丸まり、蛇の姿を取る。
審議の場で見た、水蛇神だった。
人の腕ほどの長さしかない、水の蛇。その淡い青の鱗が覆った細い体を持ち上げて、丸い目で澪を見上げている。
龍臣様の神域にいる眷属達のような威厳はない。清い沢に棲む、幼い水の神。
けれど、その目は審議の時よりもずっと悲しそうだった。
『みお』
幼い声が、座敷に響いた。澪の顔がぱっと明るくなる。
「水蛇様……! ねえ、言って。私は悪くないって。私は水神様の加護をいただいた娘として、十分頑張っていたでしょう? 神祇省に呼ばれて忙しくしている私がお姉様に手伝ってもらうのは、しょうがなかったわよね?」
澪は縋るように、水蛇へ手を伸ばした。
「お姉様が全部おかしくしたのよね? 私は悪くないのよね?」
水蛇は、澪の手から逃げるように少し身を引いた。
『みお、ちがう』
「何が違うの?」
『みお、ちさきの、いもうと』
澪の動きが止まった。
『おおきい龍のひかりの、そばにいた子。だから、みず、あげた』
水蛇の言葉はたどたどしい。でも、その声は澄んでいた。
『みお、みずで、ひとの役にたつと、おもった』
「役に立っていたわ」
澪は必死に言った。
「私は水神様の加護を持つ娘として、ずっと大切にされてきたのよ。皆、私を必要としていたわ」
『みお、みずを、とくべつのしるしにした』
水蛇は、悲しそうに首を振った。
『みずで、ひとを、こわがらせた』
「そんな事してない!」
『みお、ちさき、いたくした』
澪の顔が強張った。
『ちさき、たくさん、いたかった。みお、わらった。みお、ちさきの祈り、じぶんのものにした』
「違うわ。お姉様が書いてくれたのよ。私は頼んだだけで」
『ちがう』
水蛇は、また首を振った。
『みお、ありがとう、いわない。みお、ちさきに、いたいの、させた』
座敷が、しんと静まった。水蛇は、澪の胸元に残っていた淡い水の光を見つめた。
『みお、みず、かえして』
「……え?」
『もう、みおに、みず、あげない』
澪の目が大きく見開かれた。
「待って」
『みお、龍のひかりのそばの子だった。ちさきの、いもうとだった』
水蛇の声は、少し震えていた。だってこの小さな神様は、間違いなく澪と十五年一緒にいたのだ。
『だから、みず、あげた。ちさきといっしょに、この世の水の役にたってほしかった』
「やめて」
『でも、みお、だめ』
澪の胸元から、細い水の糸のようなものが抜け出した。澪は慌てて両手で胸を押さえる。
「やめて! 返して! これは私の加護よ!」
『みず、かえして』
水蛇の体が、淡く光った。
『みお、もう、だめ』
最後の水の光が、澪の胸元から離れた。その瞬間、澪の周囲に漂っていた淡い水の気配が消えた。
ほんの小さな変化だった。けれど、その場にいる者達には分かった。
澪から、水の加護が失われたのだ。
「いや……」
澪は小さく呟いた。
「いやよ。そんなの、いや」
澪は自分の手を見た。水蛇を見た。そして、最後に私を見た。
「返して」
その声は、ひどく幼かった。
「お姉様、返してよ。私の加護を返して」
「澪……」
「お姉様のせいよ!」
澪は泣き叫んだ。
「お姉様が黙っていてくれたら、こんな事にならなかったのに!」
涙に濡れた澪の顔を見て、喉の奥がグッと痛くなった。でも、私は謝らなかった。
澪の顔を見るのはつらい。
でも、これは私が奪ったものではない。水蛇神が、澪を見限ったのだ。
小さな水蛇は、私を一度だけ見た。
『ちさき』
私は息を呑む。
『ごめんね』
そう言うと、水蛇は清水のような光になり、ふっと消える。
……座敷には、長い沈黙が落ちた。
澪は、その場に崩れるように座り込んだ。
かつて、国を救った加護持ちの姫巫女と呼ばれていた妹。
けれど今は、水神の加護を失った、ごく普通の巫女見習いになってしまった。
いいえ。
ただの巫女見習いとしても、きっと最初から学び直さなければならないのだろう。
「千咲」
母の声が低く響いた。私は母を見た。母は泣き崩れる澪ではなく、私を睨んでいた。
「あなた、育ててやった恩を忘れて、家族にこんな仕打ちをするなんて」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
私も何度もそう思い込もうとした。育ててもらったのだと。
でも、今の私はそれをそのまま飲み込まなかった。
「育てた事は、傷付けていい理由にはなりません」
母が息を呑む。
「私がしていた事が、明らかになっただけです」
「何を偉そうに」
父の声には焦りが混じっていた。
御札の名義を長年偽っていただけでなく、澪の加護まで失われた。それに、また私に代わりに書けと言うからには御札を作れていないのだろう。お父様の俸禄だけでは、この家の維持は難しいはずだ。
「千咲、考え直せ」
父は初めて、縋るような声を出した。
「御影家には、お前の力が必要だ。家を立て直すためにも、お前が戻り、和解したと世間に示して……名義については誤解だった事にしてもいい」
「私が悪かった事にして、ですか」
私が聞くと、父は一瞬言葉を失った。その沈黙だけで、十分だった。
父が欲しいのは、私自身ではない。私の力を使って回復させる御影家の名誉だ。
要も、青ざめた顔で私を見ていた。
「姉さん、本当に戻らないの?」
その声は、今までよりずっと小さかった。
「俺、困るよ……就職に関わる小論文だって、まだ書けてないのに……」
要はそこで口をつぐんだ。私を見る目は、不安そうに揺れている。
でも、それは私を失う不安ではない。私がやってくれていた事を失う不安だ。
そう思ってしまっても、今はもう自分を責めなかった。
「要も、自分で書かないとよくないと思う」
「でも」
「私はもう、何を言われても書かない」
要の顔が歪んだ。
母はまだ何かを言いたそうだった。
父も、家の名誉がどうだと続けようとしていた。
澪は床に座り込んだまま、水蛇の消えた場所を見つめていた。
「どういう事だ……? 僕の婚約者が水神の加護を……失ったのか……? そんな……」
崩れ落ちる澪をもう気遣わずに、晴親さんは呆然としている。
私は、家族を見回した。
憎みきれない。それは本当だった。
母に言われた言葉は痛かった。父に見てもらえなかった事も、澪に奪われ続けた事も、要に当然のように使われてきた事も、全部つらかった。
それでも、この家で過ごした二十年すべてを、黒く塗りつぶす事はできない。
祖母がいた。
家族との間にも、温かい思い出はあった。
だから余計に苦しかった。
でも、もう助けない。助けるために、私を消費する事はしない。
「おばあ様に、挨拶をしてもいいですか」
私がそう言うと、父は何か言いかける。けれど龍臣様が視線を向けると、口を閉じた。
*
仏間は、少し埃っぽかった。私が家を出てからちゃんと掃除がされていないようだ。
花も、線香もしばらく供えられている気配がない。それに気付いた瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
私は位牌の前に座り、手を合わせる。
「おばあ様」
声に出すと、少しだけ泣きそうになった。
「私、もうこの家には戻りません」
祖母なら、何と言うだろう。
よく頑張ったね、と言ってくれるだろうか。それとも、もっと早く逃げてもよかったんだよと、静かに笑うだろうか。
「おばあ様が教えてくれた御札を、これから私は私の名前で書きます」
そう言うと、胸の中にあった痛みが、少しだけ温かいものへ変わった。
おばあ様がいなければ、私はきっと御札を書く事まで嫌いになっていた。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。
しばらくして頭を上げると、ちょうど龍臣様の声がした。
「もういいのか」
振り向くと、龍臣様が仏間の入口に立っていた。私は頷く。
「はい」
立ち上がると、少し足が震えた。けれど倒れなかった。
龍臣様は私の隣へ来て、歩き出すのを待ってくれた。
手を引かれるのではない。背中を押されるのでもない。
隣にいてくれる。
私はその隣を、自分の足で歩いた。応接間の方から、母の声が聞こえた。父の声も、澪の声も。
でも、私は立ち止まらなかった。
玄関を出て、御影家の門が背後になってから、私は一度だけ振り返った。
ここで生まれ、ここで育ち、ここで笑い、ここでずっと傷付いてきた。
家族を憎みきれない。けれど、もう戻らない。
そう決めたのだ。
私は前を向いた。龍臣様が、私の隣を歩いている。
私は初めて、自分の判断で家族に背を向けた。
ようやく離れられる、そんな思いが胸に浮かぶ。けれど私の目からはずっと涙がこぼれていた。