軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

決別

その頃、御影家は静かに崩れ始めていた。

千咲がいた頃は、宗継の出仕の衣は夜のうちに整えられ、要の神祇学校高等科の課題は着替えの支度と共に部屋の前に置かれていた。菊乃の茶会に着ていく着物と帯と小物も、澪が神祇省に納める御札も、一目で分かるように揃えられていた。

けれど今は、誰もそれをしない。

宗継は朝になってから衣の皺が伸ばされていないと苛立ち、要は書きかけの小論文を前に顔を青くし、澪はその日水神の加護を受けている巫女として水守りの札を十枚神祇省に納めなければいけない事を思い出して言い逃れる術を探す。

菊乃は、自分の名で納めなければいけない厄除け札を前にして、何度も筆を止めていた。

昔は書けたはずだった。

巫女として御影家に嫁いできて、菊乃はそれなりに御札を書いていた。けれど長く千咲に任せているうちに、複雑な御札の印や詞を書きながら祈りを込められなくなっていた。

昔使っていた御札の教本を引っ張り出してきて、それを見ながら書いても力が通らない。

見た目は辛うじて「御札」と呼べるものができたものの、札はただの紙のまま沈黙している。

「少し社交で忙しくしていた間に、千咲に任せていただけなのに……」

菊乃はそう呟いた。けれど、その「少し」はあまりにも長かった。

澪も同じだった。

水神の加護を持つ娘として扱われてきたのに、書ける札は驚くほど少ない。今までそのほとんど全てを千咲に任せていたからだ。菊乃とは違って、手本を前にしても印も神名を書く文字も歪み、諦めて途中で筆を置いてしまう。

「こんなの、急に書けと言われても無理よ」

澪はそう言って泣いた。

要も、就職にも関わる小論文の締切を前にして、千咲の机から小論文の下書きと試験用の要点まとめを探し出した。

けれど、途中までしかない。

資料のどこを読めばよいのか。何を結論にすればよいのか。どう考察を書けば神祇学校高等科の教師や配属を選ぶ神祇省の人間に評価されるのか。

それを自分で考えなければならないと気付き、要はようやく焦り始めた。

「姉さん、なんで最後までやってないんだよ……」

誰も、その言葉に違和感を抱かない。

そして宗継も、帳面を開いて初めて顔色を変えた。

菊乃は今まで通りに金を使っていた。いや、澪の持つ加護の力が今まで評価されていたほどではなくなった事や、千咲に書かせた御札を自分の物と偽っていた事で落ちた御影家の評判を取り戻すためと言って以前よりさらに外向きに金を使うようになっていた。

けれど、御札の売上は止まっている。

いや、御札を納めるように指示は来ている。しかし千咲がいなくなった事で、今の御影家には作れる札がほとんどないのだ。

菊乃の名義、澪の名義、御影家として神祇省や奥方衆へ納めていた札。そのほとんどを書いていたのが千咲だったのだと、宗継は帳面を見てようやく理解した。

御影家の収入は、自分の俸給では支えきれない。妻の巫女としての名声でも、澪の加護に寄せられる評判でもなく、千咲の書く御札によって支えられていた。

その事実が、宗継の胸に冷たく横たわる。

それを数字として突きつけられて、ようやく認識していた。

「……千咲を呼び戻す必要がある」

宗継は低く言った。その横で聞いていた菊乃も、少し間を置いて頷いた。

「ええ。家族なのですから。あの子も、少し頭を冷やした分、こちらの事情も分かるでしょう」

その言葉には、千咲を搾取していた反省の色はなく、苛立ちが滲んでいた。

神域へ、御影家からの使いが来た。

白い鳥の式神ではなく、人の世の、水神を祀る分祀を経由して届いたという。眷属達が取り次いでくれたその文を、私は両手で受け取った。

そこには母の字で、こう書かれていた。

家族なのだから、一度帰って話し合いましょう。

御影家も困っていて、千咲に戻ってきて欲しいと私達は思っています。

あなたもいつまでも拗ねていないで、家族を助けるべきです。

家族を、助けるべき。

その言葉が胸に刺さった。

お母様が困っている。澪も……要も、お父様も。

そう思うと、息が詰まった。

審議の場であれだけの事が明らかになったのに、私の中にはまだ、家族を困らせてはいけないという気持ちが残っていた。

全部を憎めたら楽なのかもしれない。

でも、できなかった。

小さな頃の私は、母に抱かれた記憶もある。

父の膝に座った記憶はないけれど、それでもいつも難しそうな書物を広げている父の背中を尊敬していた。

澪が赤ん坊だった頃、夜泣きする妹を抱いてあやした事もある。

要がまだ幼くて、私の袖を掴んで歩いていた頃もあった。

そういう記憶が、全部なくなったわけではない。だから、苦しかった。

「千咲」

龍臣様が静かに私を見た。

「戻れとは言わぬ」

「……はい」

「だが、会うなら俺も行く」

命令ではなかった。

戻るなとも、行けとも言わない。ただ、私が選ぶなら隣にいると言ってくれている。

それがありがたくて、少し怖い。私は文を握りしめて、自分に言い聞かせるように言った。

「一度だけ、話します。……ちゃんと、自分の言葉で……」

決意した私の声は少し震えていた。

「ああ。俺も共に行こう」

龍臣様は頷くと、私の手を握って静かに言ってくださった。

御影家に再び足を踏み入れた私に、母は最初だけ優しかった。歓待するように応接室に通してくれる。以前龍臣様が呼んだ嵐の跡はもう残っていなかった。

「千咲、よく帰ってきたわね」

今まで澪にしか向けられた事がないような、柔らかな声だった。けれど、その目は私の横に立つ龍臣様を何度も気にしていた。

父も、当主らしい作り笑いを浮かべて龍臣様の方だけを見ている。

澪は、私がいつも見ていたような、内からにじみ出るような眩しさを感じなくなっていて、私の記憶の中の澪よりも小さく感じた。

要は落ち着かない様子で、何度もこちらを……いえ、龍臣様を盗み見ている。

そして晴親さんは、澪の婚約者として当然のように座敷にいた。俯く澪の肩を抱いて、私の方を憎らしそうに見ている。

少し前なら、それだけで私は身を縮めていたと思う。けれど今は、龍臣様が隣にいてくれる。

そう思うと、それだけで、少しだけ息ができた。

「千咲」

父が口を開いた。

「今回の事は、家族内の行き違いだ。分かっているよな? お前が御影家と和解したと周囲に示せば、家の名誉は保てる」

母がすぐに続けた。

「そうよ。家族なのだからちょっと仕事を手伝ってもらっていた事くらい、許してくれるわよね。それに、今のあなたが龍神様の寵を受けている事を、家のために少し役立てればいいの」

澪が、涙を拭いながら言う。

「それに、御札もまた書いてくれないと困るわ。今まで通りでいいの。そのくらいいいでしょう? お姉様は御札を書くのが得意なのだから」

今まで通り。

その言葉が、胸の奥に冷たく落ちた。

今まで通り、母の名前で。澪の名前で。御影家の名前で……私の名前を消して。

それは、自分を大切にする事を知った私には受け入れがたい事だった。

「……私はもう、誰かの名前で御札を書きません」

私はゆっくり息を吸うと、そう言い切った。私の顔色を窺うようだった座敷の空気が、少し変わる。

「名義を偽った事は、償うべきです。言いなりになっていたのは、間違っていたのだと気付きました」

母の顔から、優しいふりが一瞬で消えた。

「千咲がいないせいで、わたくし達がどれだけ困っていると思っているの」

父も低い声で言った。

「家の名誉を守るためには、千咲の力が必要なんだぞ。このままでは、我が家が何と言われるか」

その言葉の下にあるものは分かった。

私が泥を被ればいい。私が笑って、家族の手伝いでした……と言えばいい。

そうして私がまた母や澪の名前で御札を書けば、御影家は立て直せる。

父と母に追従するように、澪は涙をこぼした。

「お姉様のせいで、私がどれだけ恥をかいたか分かる?」

晴親さんが、澪を庇うように身を乗り出す。

「妹に嫉妬して名誉を傷つけ、龍神様まで奪ったと自覚はあるのか? 澪に謝ってくれ」

その言葉が胸に刺さって、いつもの言葉が反射的に浮かんだ。

すみません。私なんかが選ばれたせいで、皆さんを困らせてしまって。

そう言って笑えば、家族は納得するかもしれない。

でも、言えなかった。

龍臣様が大切にしてくれた私を、私自身が悪く言いたくなかった。

龍臣様が、私を女性として望んでいると言ってくれた。大切に扱うと言ってくれた。

私の名前で御札を書けと許してくれた。

龍臣様の妻になると答えたわけではない。

でも、龍臣様が大切にしてくれた私を、私自身がまた笑いものにする事は、もうしたくなかった。

母が苛立ったように、少し荒れた爪をカチカチと机で鳴らす。

「なんて親不孝なのかしら、誰に似たんだか。本当に橋の下で拾ってきた気がするわ」

その言葉が落ちた瞬間、私は息が止まりそうになって……いつの間にか手を握ってくれていた龍臣様の体温に気付くと、静かに息を吸った。

「その冗談、やめてください。私……ずっと、ずっと心底傷付いていました」

誰も、すぐには反応しなかった。

橋の下で拾ったと、そう言った母は目を瞬かせていた。父も、澪も要も。

私が、笑わなかったからだ。

「ちょっとした冗談でしょう。あなたが空気を悪くしたから、どうにかしようと思って……」

母はすぐに取り繕った。

「千咲は大袈裟なんだから。そんな事で傷付いたなんて大騒ぎされたら、冗談ひとつ言えないわ。これじゃあわたくしが悪者みたいじゃない」

「……はい。傷付いていました」

私ははっきりと言い切った。声は、震えていたけれど……自分を笑いものにしなかった。

「小さい頃から、ずっと傷ついていました」

母の顔が強張る。

「私が家族の名義で御札を書いてきた事も、家事も、家計の管理も、当たり前のように押しつけられてきた事も、つらかったです。感謝すらされず、出来て当然だと言われるのが、つらかったです」

「親に向かって何だ。誰が育ててやったと思っている」

父が怒鳴った。その声に体が一瞬すくむ。

けれど、龍臣様の気配が隣にあった。

龍臣様は何も言わない。ただ、晴親さんや父が私へ近付きすぎないよう、静かに私の隣で神威を滲ませていた。

私の言葉を、奪わずに待ってくれている。

「姉さんはそういうのが得意なんだから、適材適所だろ」

要が慌てたように言った。

「それに、札づくりは好きだって言ってたじゃん。好きでやってた事だろ」

「好きでやる事でも、押しつけられてやるのは違います」

私の声は小さかった。でも、要には届いたようだった。

「御札を書くのは嫌いではありません。けれど、私の名前を消されて、誰かの名義で納められて、感謝もされず、当然のように押しつけられるのは嫌でした」

要は、何か言い返そうとして口を閉じた。澪がまた涙をこぼして、晴親さんの袂を掴む。

「やっぱりお姉様は私が羨ましかったのね。ご自分だって納得して書いてたのに、龍神様のご威光を手に入れて急に手のひらを返すなんて酷いわ」

「おい。妹を陥れた事を謝れよ」

晴親さんがそう言うと、龍臣様の気配がすっと鋭くなった。

けれど龍臣様は、まず私を見た。

自分で応えられるか、そう問われている気がして私は両手を握りしめた。

怖い。

母の顔も、父の怒りも、澪の涙も、要の態度も、晴親さんの蔑む目も、全部怖い。

でも、もう笑って終わらせたくなくて、私はゆっくり口を開いた。

「私はもう、私を笑いものにしてこの家を守るのをやめます」

座敷が、しんと静まった。

「私は、もうあなた達の名前で御札を書きません。あなた達の罪を、私がかぶる事もしません」

母も、父も何かを言おうとした。澪は信じられないという顔で私を見る。

でも、私はもう笑わなかった。この家の空気を守るために、自分を差し出すのはやめる。

その時初めて、私は本当に家族と訣別するのだと分かった。