軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

家族に

橋の下で泣いたあの日から、龍臣様の神域で過ごす時間は少しずつ形を変えていった。

ここに来た最初の頃は、ただ守られているだけだった。

温かい食事を用意され、人の沸かしてくれた清い湯を使わせてもらい、柔らかな布団で眠る。何もしなくても怒られない。

それだけでも、不思議で仕方がなかった。

けれど龍臣様は、それだけでは足りないと思っているようだった。

「千咲」

ある朝、龍臣様は朝餉の席で私を見た。

「今日は何が食べたい」

「え?」

私は箸を持ったまま固まった。

「何が食べたいかと聞いた」

「い、いえ、用意していただいているものですから、何でも」

「何でも、は答えではない」

龍臣様は当然のように言った。

「魚か。肉か。甘いものか。食えぬものはないのだったな」

そんな事を聞かれるのは、ひどく落ち着かなかった。

御影家では、私の意志が献立に反映する事はなかった。家にあるものや、安く手に入る季節のもので、無駄にならないように献立を組み立てる。

澪や要、お父様の好物を用意するよう言われる事はあるけれど、自分が何が食べたいかなんて、考える暇もなかった。

「私は……その、何でもいただきます」

「千咲」

龍臣様の声が少し低くなる。

怒っているわけではない。でも、ごまかすなと言われているようで、私は肩を縮めた。

「昨日の魚は箸がよく進んでいた。汁物も残さなかったな」

「見ていらしたのですか」

「見るだろう」

龍臣様は不思議そうに言った。

「お前が食えているかどうかは、大切な事だ」

私が何を食べられるか、そんなものが大切だと言われて、胸の奥が変なふうに揺れた。

「では……魚が、好きかもしれません」

「かもしれません、ではなく」

「あの、海魚の照り焼きが、好きです」

言い直すと、龍臣様は満足したように頷いた。

「なら、今日は鰤の照り焼きでも出すように言っておこう」

ただそれだけの事だった。

でも、その日から明らかに、魚の照り焼きが出てくる頻度は上がった。どうやら私は、甘辛く煮付けた魚も好きだと分かると眷属達は喜んだ。

「千咲様、この味付けがお好きなのですね」

「では次は肉も甘辛く炒めてみましょう」

そんなふうに言われるたび、私はどうしていいか分からなくなる。私に合わせて、誰かが何かを変えてくれる。

それはやっぱり慣れなくて、まだ少し怖かった。

龍臣様は、私が疲れている事にもすぐ気付いた。

社務の記録を整理している時、私はつい夢中になってしまう。

供物台帳の抜けを見つけたり、祭祀記録の不自然な並びを直したり、神祇省への返書の下書きを整えたりして集中していると、気付けば何刻も過ぎている。

でも御影家にいた頃は、それが普通だった。

それに、疲れていても、眠くても、今日中に終わらせなければならないものは終わらせなければいけなかった。

けれどここでは、同じようにはさせてもらえなかった。

「千咲。今日は終わりだ」

龍臣様がそう言うと、私は筆を止める。

「でも、あと少しでこの箱が」

「終わりだ」

「ですが」

「疲れているのだろう。さっきから二度、筆をおいて手首を撫でていた」

龍臣様は私の手を取って、指先に触れると「冷たいな」と呟いて眉をひそめた。

「あと少しだけ」

「駄目だ」

有無を許さないようにきっぱり言われてしまい、私は思わず口をつぐんだ。

龍臣様は、強引に書類を奪うわけではない。

けれど、私が疲れていると判断すると絶対に譲らなかった。

「お前は、自分の体を粗末に扱う」

「そんな事は」

「ある」

即答された。

「自分が疲れている事にも、痛んでいる事にも気付かないふりをする。なら、俺が気付くしかないだろう」

そう言われると、何も言えなくなる。

龍臣様は眷属達に湯を用意するよう言うと、温かい茶を運ぶように指示して、夕餉まで休むようにと私を部屋へ戻した。

こんなに大切に扱われる事に、まだ慣れない。

着物や簪も、どんどん増えていった。

湯殿の後に用意されている寝間着や、朝起きた時に用意されている着物。これが、ほとんど毎日のように見覚えのない、新しいものが用意されているのだ。

着物だけでなく、帯や帯揚げ、宝石を使った簪や帯留めなどの高価な装飾品もどんどん増えていく。

さすがに私は龍臣様に申し出た。

「あの、こんなに毎日いただくわけにはいきません」

「なぜだ」

龍臣様は本気で分からないという顔をした。

「高価なものばかりです。私には、今いただいている分だけでもう十分すぎます」

「十分かどうかは俺が決める」

「でも」

「お前に似合うものを用意するのが楽しい」

「楽しい……?」

「そうだ」

龍臣様は平然と言った。

「お前は今まで、自分を飾る事も、大切に扱う事もろくに許されてこなかったのだろう。なら、俺がする」

「でも、そんな、毎日は……」

龍臣様は少し考えた。

「なら、俺に贈り物をされるのは嫌なのか」

「嫌だなんて、そんな。でも畏れ多くて」

ちょっと不安げに聞いて来る龍臣様の言葉を、私は慌てて否定した。

「では、これくらいならいいか」

そう言って、龍臣様が次に持ってきたのは菓子だった。

小さな包み。中には、淡い色の金平糖と、薄い干菓子が入っていた。

それなら、受け取れる気がした。

着物や簪ほど高価ではない。食べ物なら、ありがたくいただけばいい。

「ありがとうございます」

私はその包みを受け取って、大事に一つだけいただいた。

残りはもったいなくて、食べられない。

包みを開いて、きらきらした金平糖を見て、また丁寧に閉じる。後で食べようと思った。今日ではなく、明日。もう少し落ち着いてから。

せっかく龍臣様がくださったものだから、大事に食べたい。

そう思って文机の端に置いておいたそれを、龍臣様に見つかってしまった。

「食べていないのか」

私の部屋へやって来た龍臣様は、文机の上の包みを見て言った。

「え、あの、後でいただこうと思って」

「いつだ」

「ええと……」

「千咲の『後で』は任せているといつまで経ってもこないだろう。休息だって、そう言っていつも自分からとらない」

私は言葉に詰まった。

龍臣様は、包みを手に取ると、中を開いて私を見た。

「食べろ」

「い、今ですか」

「今だ」

「でも、まだ仕事が」

「終わっているだろう」

「でも」

「千咲」

優しく、でも低い声で名前を呼ばれると背筋が伸びる。

次の瞬間、私は龍臣様に抱き上げられていた。

……抱き上げられていた。

「えっ」

気付いた時には、龍臣様の膝の上だった。

半分襖が開いている廊下に控えていた水李や他の眷属達が、息を呑んだように固まる。そんな反応が視界に入った私は顔が一気に熱くなった。

「た、龍臣様」

「嫌なら言え」

龍臣様は私の前に金平糖をひとつ摘まんで差し出した。私の唇に、龍臣様の指が触れる。

「本当に嫌なら立ち上がって俺から離れれば良い」

「え、あの」

「嫌か」

そう聞かれると、答えに困った。

恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。

眷属達も見ている。神様の膝の上に座って、金平糖を食べさせられるなんて、どう考えても普通ではない。

でも。

嫌かと聞かれると、嫌ではなかった。

龍臣様の腕は、私を閉じ込めるものではない。逃げようと思えば、きっとすぐに立ち上がれる。それが分かるから、なおさら困る。

「……嫌、というわけでは」

「なら食え」

金平糖が、唇の間にふにゅりと差し込まれる。

どうしようもなくなったカチコチになった私は、おそるおそる口を開けた。

金平糖が舌の先に触れる。

とても……甘かった。

ただの砂糖の甘さなのに、ひどく胸が落ち着かなくなる。

「美味いか」

「……はい」

「ならよかった」

龍臣様は満足そうに笑った。

その瞬間、襖の向こうから、眷属達の小さな歓声が聞こえた。

「食べた……」

「花嫁様が主様の膝で……」

「こらこら、あまり覗いてはいけませぬぞ」

「でも見たい」

「あとで皆に報告を」

「しなくていいです!」

私はそれに、思わず叫んでいた。眷属達がびくりと小さく跳ねたのが分かる。

龍臣様も少し目を丸くしていた。

「恥ずかしいので、やめてください」

私は顔を真っ赤にしたままそう言った。言ってから、はっとした。

けれど龍臣様は怒らなかった。むしろ、少しだけ目を細めた。

「よく言えた」

「え?」

「はは。これは嫌だったのか。嫌な事を、嫌だと言えた。偉い」

……褒められた。

膝の上に座らされて、金平糖を食べさせられて、眷属達に見られて、恥ずかしいからやめてほしいと言ったら……偉い、と言われた。

どう反応していいか分からず、私は口をぱくぱくさせた。

「た、ただ恥ずかしかっただけです」

「それでも言えた」

龍臣様は静かに言う。

「本当に嫌なら、嫌だと言え。そうすればやめる」

「……本当に嫌だったら、ですか」

「ああ」

龍臣様は、もうひとつ金平糖を摘まむ。

「では、これは本当に嫌か」

また口元へ差し出されて、私は固まった。

恥ずかしい。本当に恥ずかしい。

でも、どうしても嫌かと聞かれると。

「……どうしても、では」

「なら食え」

「龍臣様……」

結局、私はまた食べた。

まるで雛を餌付けするように、龍臣様は包みの中に入っていた金平糖を次から次に食べさせてくる。

私は顔を真っ赤にしたまま、龍臣様の膝の上で、龍臣様の指で金平糖を食べさせられた。

恥ずかしい。でも、嫌ではない。

嫌ではないから、余計に困る。

それから、そのおやつの時間は妙な形で恒例になってしまった。

龍臣様は、毎日ではないけれど、時々小さな菓子を持ってくる。

「千咲は眷属に見られるのは恥ずかしいのだったな」

襖をぴっちり閉めて、膝の上に乗せられる。

もちろん、本当に嫌ならやめると言われている。だから、どうしても嫌なら言えるはずだ。

けれど、どうしても嫌ではなかった。

恥ずかしいだけで。困っているだけで。

龍臣様の腕の中が、少しずつ安心できる場所になっていくのが怖いだけで。

日が経つごとに、龍臣様は甘くなっていった。

私がそう感じるだけなのかもしれない。龍臣様は、ずっと同じようにしているつもりなのかもしれない。

けれど、私はそう思った。

朝餉で好きなものを聞かれて、自分でも気付いていないような疲労に気付いて休ませてくれる。

次から次へ新しい着物や簪を用意されて、手ずからお菓子を食べさせられる。

それは一つ一つは小さな事なのに、積み重なると胸の中に逃げ場のない熱を作っていった。

私は少しずつ、龍臣様を目で追うようになっていく。

龍臣様が水脈を見に行って神域を離れると、いつ戻るのだろうと思う。

社務を整理している時に龍臣様が顔を出すと、胸が跳ねる。

食事の席で向かいに座って私を見ている視線を感じるだけで、箸を持つ手が少し熱くなる。

おやつの包みを持ってきた龍臣様が襖を閉めるのが、恥ずかしいのに少し嬉しい。

龍臣様が私を見て少しだけ目元を緩めると、胸の奥が苦しくなる。

手に触れられると、そこから熱が広がる。

でも、そう感じてしまうのは畏れ多いという気持ちもあった。

龍臣様は神様だ。

大神の弟君で、国の水を司る龍神だ。

私は、人間の娘で、御影家でずっと雑用をしてきただけの、まだ自分の名前で立つ事にも慣れていないただの札師だ。

そんな私が、龍臣様に。そこまで考えて、私はいつも慌てて思考を止める。

けれど、止めても胸の鼓動は止まらなかった。

ある日の夕方、龍臣様に湖のほとりへ誘われた。

「千咲、少し歩かないか」

「はい。喜んで」

私は、いつもついてきてくれる水李や眷属達の方を何となく振り返った。しかし、歩き出した私達を誰も追いかけてきていない。

「今日は連れて行かぬ」

「え」

私は思わず顔を上げた。いつもなら、大丈夫だと言っても眷属達が何人もついてくる。それがここでの当たり前になっていた。

「二人で話したい」

そんな言葉を突然言われて、胸が跳ねた。

私は何か返事をしようとした、けれどうまく言葉が出なかった。

「……嫌なら、誰か連れて来るが」

「い、嫌ではありません」

慌てて言うと、龍臣様は頷いた。

「なら行くか」

湖のほとりは、神域の中でも特に静かな場所だ。

どこまでも透明な水は、底があるはずなのに見えない程深い。

水面は白い光を含んでいて、風が吹くたびに細かな波が生まれる。

遠くにある滝の音が、やわらかく響いている。

白い空には極彩色の雲が流れ、その奥で細い稲妻が音もなく光っていた。

龍臣様は、湖のそばで足を止めた。私は隣に立つ。

眷属達の声も、社の鈴の音も、ここまでは遠かった。龍臣様と、私だけ。

そう意識すると、顔が熱くなった。

「千咲」

「はい」

「家族になろうと約束したのを、覚えているだろう」

私は湖面を見つめた。

あの時の指切りげんまんを、忘れるわけがない。

「……覚えています」

「俺も覚えている」

龍臣様は静かに言った。

「約束通り、俺はお前の家族になりたいと思っている」

胸の奥が温かくなる。けれど次の言葉で、その温かさは一気に別の熱へ変わった。

「千咲」

龍臣様が、私を見て、手を取った。

「俺の妻になってほしい」

そんな、思いもよらぬ言葉を告げられて息が止まった。

湖の音も、滝の音も現実ではないように遠くなる。

……妻。

龍臣様の、妻。

その言葉が、頭の中で何度も反響していた。

「わ、私が……龍臣様の、妻に?」

私の声は震えていた。

「ああ」

「そんな、私が神様の妻だなんて」

反射的に、自分を下げる言葉が出そうになった。

私なんかが。ふさわしくありません。もっと立派な方が。

けれど、龍臣様の目を見た瞬間……私はその言葉を飲み込んだ。

「……私は、自分がふさわしいとは思えません」

正直に言った。これは私の本音だった。

「でも、それに……『私なんか』という言葉を使うのは、やめたいです」

「そうか」

龍臣様の目元が、わずかに和らぐ。

私の言葉は嘘偽りのない言葉だ。それでも、何か間違ったのではないかと胸が苦しい。

龍臣様の妻になる。

それは、家族になる約束とは違う。もっと近くて、もっと深い存在だ。

そこに立っていいのか、私はまだ分からなかった。

「千咲」

龍臣様は、静かに言った。

「幼い日の約束を理由に、お前を縛るつもりはない」

私は顔を上げた。

「俺は、あの日のお前に救われた。優しいお前が健やかに、幸せに生きる世界を作りたくて、神に成る事を決めた」

龍臣様の声は、湖の水面のように静かだった。

「お前が生きる世界を守りたかった。お前が渡る橋を川が奪わぬように。お前が飲む水が濁らぬように。お前が泣かずに済む場所が、どこかに残るように」

胸の奥が震える。

「だから、家族になる約束を果たしたいと思った。お前が疲れた時に帰れる場所に。傷付いた時に、傷付いたと言える場所に。何も返せなくても、ここにいていいと思える場所に、俺がなりたかった」

「龍臣様……」

「だが、今はそれだけでは足りぬ」

龍臣様は、私から目を逸らさなかった。

「俺は、ただの家族になるだけでは満足できなくなった」

低い声が、胸に響く。

「千咲を、女性として望んでいる」

顔が熱くなるどころではなかった。

全身が一気に熱を持ったようで、私は思わず息を止めた。

女性として……望んでいる。

その言葉は、あまりにもまっすぐだった。

今まで私は、そういうふうに見られた覚えがなかった。

加護を授かっている美しい妹の姉、家にいる年増、地味な長女。

でも龍臣様は、私を女性として望んでいると言ってくださった。

逃げ出したいくらい恥ずかしい。

でも、嬉しい。嬉しいから、また困る。

「だが……お前が望まぬなら、断っていい」

龍臣様が続けた言葉に、私は目を見開いた。

「断る、なんて……」

「ああ、そうだ」

龍臣様は当然のように言った。

「俺は妻になれ、と命じるつもりはない。あの日の約束も、俺への恩も、お前を縛る理由にはしない」

その言葉に、胸が苦しくなった。私は、まだすぐには答えられない。

嬉しい。畏れ多い。怖い。恥ずかしい。どうしたらいいか分からない。

でも、ひとつだけ、分かる事があった。

……龍臣様のそばにいたい。

この人のいる社へ帰りたい。この人に、今日は何が食べたいと聞かれたい。膝の上に乗せられて甘やかされたい。湖のほとりで、こうして隣に立っていたい。

それは恩だけではない。たぶん、もう、恩だけではない。

「……すぐには、分かりません」

私が小さく言うと、龍臣様は頷いた。

「待つ」

その一言が、あまりにも龍臣様らしくて、胸がまた熱くなる。

「俺はもう十五年待った。お前が自分の心を確かめるまで待つ事くらいできる」

涙が出そうになった……けれど、今度は泣かなかった。

ただ、湖の水面を見つめた。そこには、龍臣様と私の影が並んで映っている。

神様と、人間の娘。

まだ、その影が隣に並んでいる事が不思議だった。けれど私は、その影から目を逸らさなかった。

「……ありがとうございます」

そう言うと、龍臣様は少しだけ目元を緩めた。湖の向こうで、音のない稲妻が白く光る。

私の胸の中でも、何かが小さく光った気がした。