軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

橋の下

御札の名義と起符者について審議はこうして結論が出た。

神祇省の役人達は、まだ慌ただしく動いていた。

審議場の中央に並べられた御札を囲み、大神宮から来た神官達と何やら低い声で話し合っている。御影家の名で納められていた御札についても、過去の記録を洗い直す事になったらしい。

そして、澪に与えられていた加護についても、これまでの扱いを見直す事になった。

水神の加護を持つ、国を救った特別な娘。

そう呼ばれてきた澪は、確かに小さな水蛇神の加護を持っていた。けれど、それは地域の小さな水脈を守る程度のもの。国中の水不足や水害を鎮めるほどのものではなかった。

国の水脈が整ったのは、十五年前龍臣様が神として修行を始めたからだった。

私にはまだ、龍臣様が言った言葉がうまく飲み込めていない。

私に救われた龍臣様が、私が生きる世界を守るために神になる事を決意しただなんて、あまりにも大きすぎる話だったからだ。

鷹宮家や、鷹宮家と懇意にしていて今まで澪を特別取り立ててきた人達は口を閉ざしていた。

神祇省の役人達の中には、龍臣様を恐れるように視線を下げる者もいる。

無理もない。

少し前まで、この審議の場には嵐が吹き荒れていた。

龍臣様の怒りに呼ばれて、丸盆の水が浮き、神鏡の前の蝋燭はかがり火のように大きく膨らみ、外には雷雨が走っていた。

その事も、きっと彼らには恐ろしかったのだろう。真実も明らかになった今、食い下がって異を唱える人はもういなかった。

私は、家族に視線を向ける。

澪は泣き腫らした目で水色の袖を握りしめていた。母は、澪の肩を抱いてうつろな目をしている。

父は難しい顔で、今まで収めてきた御札について事情を聞いて来る神祇省の役人達と話していた。要はその父の後ろで小さくなっていた。

けど誰も、私に謝らなかった。

いや、私は、家族に謝って欲しいのだろうか。

悲しいのか。悔しいのか。腹が立っているのか。寂しいのか。

自分の気持ちが、うまく分からなかった。

自分が今傷付いているのは分かる。けどそれを知っても、どう反応すればいいのか分からない。

「お姉様」

澪の声がして、私は反射的に顔を上げた。

澪は泣いていた。水色の袖で頬を拭いながら、それでも私を睨むように見ている。

「どうして」

その声は、審議の前よりずっと細かった。

「どうして、お姉様はそんな顔をしているの」

「そんな顔……?」

「被害者みたいな顔をしないで」

澪は、自分こそが被害者である、そう思っているような声でそう言った。

「お姉様が黙っていてくれたらよかったのに。私が水神様の加護を持っているのは本当だったじゃない。少し小さい神様だったとしても、嘘じゃなかったのに」

澪の声が、少しずつ高くなる。

「それなのに、お姉様が全部大げさにしたから。御札の事だって、家族の手伝いだったのに。私の名前で出すって分かって、納得して書いていたじゃない。なのに、後から自分が書いたって言うなんて、ずるいわ」

ずるい。そう言われて、体が固まった。母が澪の肩へ手を置き、宥めるように撫でる。

「澪……もうやめなさい」

そう言いながら、母の目は私を責めていた。澪を虐める悪い姉から可愛い娘を守る目をしていた。

父も、私を見ない。見ようとしない。

審議場の人達が、こちらを見ている。神祇省の役人達も、大神宮の神官達も、帝も。

頭が真っ白になりかけた瞬間、いつもみたいに口が動きそうになった。

ごめんね、澪。大げさにするつもりはなかったの。私が悪かったね。

そう言えば、澪は少し落ち着くかもしれない。母も、父も、これ以上恥をかかずに済むかもしれない。

けれど、私が何か言う前に龍臣様が私の前へ出た。

「行くぞ」

低い声だった。それだけで、澪の言葉が止まる。他の人達も、こちらの様子を窺うような視線に変わった。

「龍臣様」

「この場に、これ以上お前を置いておく必要はない」

龍臣様は、神祇省の役人達へ視線を向けた。

「審議で必要な事は済んだ。以後の処分や確認は、人の側で進めろ。千咲に用があるなら、俺の社へ正式に文を寄越せ」

役人達は、慌てて頭を下げた。

「承知いたしました」

「鳴神命のお言葉の通りに」

その声には、はっきりと畏れがあった。

龍臣様が先ほど顕現させた嵐が、神の怒りがどれほど危ういものか、審議場にいた全員が見たのだ。

私は立ち上がろうとして、足にうまく力が入らない事に気付いた。

ただ座っていただけなのに、私はこんなに疲れ果ててしまっていたらしい。

御札を一枚書いて、家族に向けてほんの少し言葉を発しただけだったのに。体の芯が鉛に変わってしまったように重い。

龍臣様はそれに気付いたのか、私の手を取った。

「立てるか」

「……はい」

そう答えたものの、手は少し震えていた。龍臣様の手が、私の手を包む。

「すみません」

「謝るな」

手に触れる温かさに縋りたくなってそう口にすると、即座に言われた。

「でも、私がもっと上手くやっていれば」

言いかけた瞬間、龍臣様の目が細くなった。

「千咲」

静かな声だった。けれど、否定する事を許さないという強い意思を感じた。私は反射的に口を閉じる。

「お前が、自分が悪いと思い込む癖を俺は許さん」

喉の奥がきゅっと締まったように苦しくなる。

「くせ……」

「そうだ。傷付けられた時に、お前はまず自分の落ち度を探す。名を奪われても、断れなかった自分が悪いと思う。家族に責められても、自分がうまく収められなかったからだと考える」

龍臣様は、私の手を少しだけ強く包んだ。

「その癖を、俺は許さん」

責められているわけではない。でも、逃がしてもくれない声だった。

「でも、私がもっと早く言っていたら、こんな大事には……」

「千咲」

「……はい」

「お前が、傷付いたと口にして責めたのは誰だ」

息が止まった。……母の声が、耳の奥で蘇る。

冗談でしょう、何泣いているの。これでは、わたくしが悪者みたいじゃない。

そんな顔をしないの。お母様がひどい事を言ったみたいでしょう。

私は、泣くと母を困らせるのだと学んだ。傷付いた顔をすると、母が悪者になってしまうからダメなのだと覚えた。

だから笑うようになった。

私が私を少しだけ傷付ければ、家は丸く収まる。

「……普通では、なかったのでしょうか」

声が震えた。龍臣様は私を静かに見つめる。

「何がだ?」

「私が、橋の下で拾われた子だって言われて、泣いた時に。お母様に、冗談なのに泣くなんて、わたくしが悪者みたいじゃないって言われた事も」

言葉にすると、胸が痛んだ。

「嬉しい事を報告したら、褒めてもらいたくて仕方がないみたいでみっともないって言われた事も。御札を書いても、私の名前では出してもらえなかった事も。澪やお母様の分を、家族の手伝いだからって全部書いていた事も」

ひとつひとつ口にするたび、痛みが形になっていく。

「私が嫌だと思うのは、我慢が足りないからだと思っていました。傷付くのは、私が大げさだからだと思っていました」

目の奥が熱くなる。

「でも、普通ではなかったのでしょうか」

龍臣様は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。

「普通ではない」

胸の奥がじわりと温かくなり、水にほどけるように痛みが広がった。

「お前を傷付けた者達が、傷付いたお前をさらに責めた。それは普通ではない。お前の名を奪い、込めた祈りを奪い、なお当然だと言った。それも普通ではない」

その言葉が、私の中へゆっくり沈んでいく。

分かっていたはずの事だった。いいえ、分かっていなかった。

私はずっと、自分がうまく受け流せないから苦しいのだと思っていた。

家族の冗談が分からないから。私が要領悪くて、可愛げがなくて、すぐ傷付くから。

でも、龍臣様は、それは普通ではなかったのだと言う。

なら、私は傷付いてもよかったのだろうか。

……そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。

「千咲」

「はい」

「少し、寄り道をして帰ろう」

「寄り道……?」

「ああ」

龍臣様は私の手を取ったまま、審議の場を出て、神祇省の敷地の外へと歩き出した。

外に集まっていた神祇省の役人達が慌てて道を空ける。

審議が行われた広間を出る時に、母が何かを言いかけた。澪も、涙に濡れた顔でこちらを見ていた。

私はその視線を感じたけれど、もう振り返らなかった。

界渡りは、前より少しだけ怖くなかった。

龍臣様に横抱きにされるのは、やっぱり恥ずかしい。もう慌てたりはしていないけど、そうすると余計に龍臣様の腕の力強さや、体の片側に感じる体温を意識してしまって顔が熱くなってしまう。

今の私は風呂敷を持っていない。だから両手が空いていて、何も持たない手をどうすればいいのか分からず、私はそっと自分の胸の前で手を握っていた。

寄り道をすると言ったきり、龍臣様は何も言わなかった。

何もない所から水が湧いて花びらと一緒に噴き出る。

青く澄んだ水が、空中を薄い絹のようにたなびき帯になって流れていく。

その向こうには夜の色をした雲があり、稲妻が音もなく光っている。

重なり合う世界の間に、細い白い道が生まれて、常世ではない世界はゆっくりとうねりながら龍臣様の行く先を開けていった。

また水の膜の中を通り抜けるような感触と、眩しさに瞼を閉じると、次の瞬間土の匂いがする事に気付いた。

湿った草の匂い。川の水音。どこか高い空から鳥が鳴く声が降ってくる。

私が目を開けると……そこは夕暮れの川だった。

茜色の光が川の水面に落ちて、周りの景色と一緒に映りこんでゆっくり流れている。

橋の影が、水の上に長く落ちてゆらゆらと揺れていた。

私は、息を呑んだ。

ここは……十五年前のあの橋だ。

御影家の近くを流れる川。子供の頃、家を飛び出して辿り着いた橋。橋の下で、ぼろぼろのおじいさんに金平糖を分けた場所。

そして、私がずっと「橋の下で拾った子」と笑われるたびに思い出していた場所。

「……ここ」

龍臣様は、私をゆっくり下ろした。

足が地面につく。湿った土が、草履越しに柔らかく沈む感触がした。

橋は、今も残っていた。

少し古くなっている。欄干には補修の跡があり、水面に近い橋脚にも厚く苔がついている。けれど、形は記憶の中のままだった。

幼い私が泣きながら走ってきた橋。橋の下で、傷だらけの龍臣様に出会った橋。

「私は、ずっとここを……」

言葉がうまく出てこなくて、胸が苦しくなった。

橋の下。

その言葉は、母が私を笑う言葉だった。

橋の下で拾ってきた子。だから家族に似ていなくて、要領が悪くて、出来が悪いの。

「私が……笑いものにされる言葉の場所だと思っていました」

龍臣様は、黙って聞いていた。

川の音がする。十五年前より少し穏やかな流れだろうか。橋の下には、もう傷だらけの老人はいない。

けれど私は、あの日の自分をまだ見ている気がした。

五歳の私。

橋の下で拾われた子だと言われて、自分を可愛がってくれる、本当のお父さんとお母さんを探すのだと泣いていた私。

あの子は、ずっとここにいるように思えてしまう。

「千咲」

龍臣様の、低く穏やかな声がした。

「ここは、俺が救われた場所だ」

その言葉に、私は龍臣様を見た。

龍臣様は橋を見ていた。あの時と同じ川の流れを、静かに見つめている。

「二百八十五年、俺は何もかもを憎んでいた。人も、神も、世界も、自分自身も。水が荒れようが、人が苦しもうが、どうでもいいと思っていた」

龍臣様の声は、いつもより少し遠く聞こえた。

「だが、ここでお前に会った」

龍臣様は、私へ視線を戻した。

「お前は俺を神とは知らなかった。何も知らず、ただ、傷付いた者として優しさを分けてくれた」

胸の奥が熱くなる。

「お前の小さな手に、俺は救われた」

龍臣様は、私の手を取ると正面から目を見つめてゆっくりそう言った。

「橋の下で拾われたのは、お前ではない」

息が、止まった。

その言葉は川の音に混じって水の中へ落ちた。

「俺だ。お前が俺を拾った。お前が、俺に痛みを教えた。お前が、俺に守りたいものを教えてくれた」

私は、何も言えなかった。

橋の下は……ずっと、私を笑うための言葉だった。

でも、龍臣様は違うと言ってくれた。

ここは、私が捨てられた場所ではない。私が笑われる言葉の場所でもない。

龍臣様が救われた場所。

私が、神様を拾った場所。

胸の奥で、何かがほどけた。あまりにも長い間、固く結ばれていたものが、ゆっくりと。

「私……」

声が震える。

ここには母はいない。澪も、要も、父もいない。

目の前にいるのは、龍臣様だけだった。

私を笑わない人。私が自分を傷付ける言葉を、止めてくれる人。

「私、ずっと……本当は、嫌でした」

涙が滲んで、言った瞬間こぼれた事に自分でも驚いた。

嫌でした。

そんな簡単な言葉を、私はずっと言えなかったのだ。

「橋の下で拾った子だって言われるの、嫌でした。笑われるの、嫌でした。自分で笑って言うのも、本当は嫌だった」

涙が次々に落ちる。

「でも、泣いたら、お母様が怒るから。わたくしが悪者みたいじゃないって言われるから。冗談なのにって。そんな事で傷付くなんてって」

声が崩れる。

「だから、笑うしかなくて」

龍臣様は、何も言わなかった。ただ、手を握って私の前に立っている。

それだけで、涙が止まらなくなった。

「私、ずっと傷付いていたんですね」

そう言うと、胸の奥がひどく痛んだ。今さら気付いたみたいだった。

いいえ、本当は知っていた。知っていたのに、知らないふりをしていた。

笑えば、なかった事にできると思っていた。

自分で自分の事を先に笑えば、痛みはマシになると思っていた。

家族が笑うなら、私も笑えばいいと思っていた。

でも、ずっと痛かったのだ。ずっと。

「泣け」

龍臣様が、私に一歩近付いて低い声で囁く。

私は涙でぼやける視界の中、龍臣様を見上げた。

「お前は傷付いていたのだ。お前が泣いて悪い事など何もない」

その言葉で、もう駄目だった。私は、声を殺す事もできずに泣いた。

五歳の時に泣いて怒られてから、ずっと我慢していたもの。

百点を取って嬉しかったのに、みっともないと言われた時の痛み。

祖母の振袖を澪に取られた時の寂しさ。

母や澪の名で御札を書き続けた時の苦しさ。

父に、千咲がそんな御札を書けるわけがないと言われた時の痛み。

澪に、どうしてお姉様なのと責められた時の痛み。

全部が、涙になって出ていくようだった。

龍臣様の腕が、私を包む。

強く抱きしめられたわけではない。ただ、私が崩れ落ちてしまわないように、しっかり支えてくれる腕だった。

私が顔を押し付ける白銀の衣からは、透き通った水の匂いがした。

「泣いたら……怒られると思っていました」

しゃくり上げながら、私は言った。

「泣いたら、お母様を悪者にするって。空気が悪くなるって。私が面倒な子になるって」

「俺は怒らぬ」

龍臣様は言った。

「俺は、お前が泣いても怒らぬ」

「本当に?」

「ああ」

「面倒なやつだって、思いませんか」

「千咲にかけられる面倒なら、いい」

あまりに龍臣様らしい言い方で、泣きながら少しだけ笑い声が漏れた。

笑ったのか、泣いたのか、自分でも分からない。

「お前が泣くための場所くらい、俺が作る」

龍臣様の手が、私の背に添えられる。

「千咲。ここはもう、お前を傷付けた場所ではない」

川の音がする。

橋の下。私がずっと、恥ずかしい言葉として抱えてきた場所。

「ここは、千咲が俺を救ってくれた場所だ」

涙がまた溢れて、私は龍臣様の衣を掴む。

私は生まれて初めて安心できる腕の中で泣いていた。

橋の下で拾われた子だと笑われてきた私が。本当はずっと傷付いていた私が。

初めて、泣いてもいい場所をもらった。

その事が、涙が出るくらいに嬉しかった。