軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

審議場の空気は、最初とはがらりと変わってしまった。

龍臣様が可視化した霊紋は、全て私のものだと示されて、澪は龍臣様が「この札を書いたものを探せ」と示したものと同じ御札を書けなかった。

それだけで、もう誤魔化しようがないはずだった。

澪は俯いたまま、唇を震わせている。

神祇省の役人達の間にも、ざわめきが広がっている。

「名義を偽装したという事になるのか」

「いや、家族を手伝っていたからという見解でも十分に説明できる」

「それに、御影澪殿は水神の加護を持つ娘として長年神祇省に貢献して……」

「そうだ、御影澪殿が水神の加護を授かっている事には変わりない。御札は、澪殿の言う通り手伝わせていただけでは」

「だが、その加護そのものもどうなのだ」

水神の加護と、その言葉が出た瞬間澪が顔を上げた。

涙で濡れた目にほんの少しだけ光が戻る。

「そうですわ」

澪は震える声で言った。

「私は、水神様の加護をいただいています。それは嘘ではありません。神祇省の皆様もご存じのはず」

その声には、力が込められていた。まるで、たった一つ残ったよりどころにすがろうとしているようだった。

澪に宿る加護。それは本物だと私も知っている。

澪が水神の加護を持っていると判定されたのは、十五年前。国の偉い人達が家を訪れて何度も確認をしていたのを、私も見ていたのだから。

澪は特別な子。水神様に愛された子。国を救った水の神に選ばれた娘。

その言葉は、私の中にも深く染み込んでいる。

たとえ御札を私に書かせて自分のものとして偽っていたとしても、澪に水神の加護がある事とは関係ないはずだった。

けれど、審議場の人々の視線は変わり始めていた。

澪の名で出された御札の多くが、実際には私の手によるものだった。水の加護を持つ巫女なら書けるはずの水守りを、その場で書けなかった。

けれど、澪を信じる人達はまだ多い。

……だが、その加護は本当に国を水難から救った水神のものなのだろうか。そう疑う空気も静かに広がっていた。

「御影澪殿の加護についても、改めて確認が必要ではないだろうか」

大神宮の神官の一人が言った。あの方は……神祇省で、鷹宮家と敵対する派閥の家の方だったはず。澪の加護の話に、人の世のしがらみが絡みついてきている。

その言葉に、澪の肩が強張った。

「なぜですか」

感情的に否定する澪の声が少し高くなる。

「私の加護まで疑うのですか? 御札の事は、お姉様が勝手に大げさにしただけで……私は、本当に水神様の加護を」

「嘘ではない」

龍臣様が言った。その一言で、澪がはっと縋るような眼で龍臣様を見た。

澪の顔に、希望のようなものが浮かぶ。けれど、龍臣様の声は冷たかった。

「その娘には、確かに水の加護がある」

「ほら」

澪が小さく言った。

「ほら、やっぱり」

次に噛みしめるように、審議の場に響くほど大きな声で。けれど、龍臣様は続けた。

「ただし、国全体の水を鎮めるほどのものではない」

審議の場が水を打ったように静まった。

「その娘についているのは、水神と言っても小さな水蛇の加護だ。せいぜい地域の細い水脈や、沢ひとつを守護する程度のものだ」

その言葉に、澪の顔から血の気が引いた。

「水蛇……?」

信じられないという顔で母が呆然と呟く。

龍臣様は、神鏡の目の前に置かれていた、清水が満たされた丸盆へ手をかざした。

「呼べば分かる」

低い声が落ちる。

「水の末に棲む小さき蛇よ。御影澪に加護を与えし者。鳴神の名において姿を見せよ」

澪から一番近くに置いてあった器の水が、ふるりと震えた。

最初は、ただ水面に波紋が立っただけだった。けれど、次第に水が細く伸び上がる。

透明な管のような水がくるくると巻き、やがて小さな蛇の形を取った。

それは、神と呼ぶにはあまりにも小さな……いや普通の蛇の姿をしていた。人の腕ほどの長さしかない。

鱗は淡い青で、目は丸く、龍臣様の神域にいた、眷属の大蛇のような存在感はまるでない。

神というより、清い沢に住む小さな水の精のようだった。

その水蛇は、器の縁にちょこりと乗ると、きょろきょろと周囲を見回す。

『こわい』

幼い子供のような声だった。審議場の空気が、少しだけ動揺したように揺れる。

周囲を見回す蛇に向かって、龍臣様は目を細めた。

「お前が、御影澪に加護を置いた水蛇神か」

『うん』

水蛇は、こくりと頷いた。

『みおに、ちょっと、みず、あげた』

澪は、呆然と水蛇を見つめていた。

あまりにも小さい。あまりにも幼い。

十五年間、澪が誇ってきた「国の水難を救った水神様の加護」の主が、こんなにも頼りない姿で現れるとは誰も想像していなかったのだろう。

「なぜ、御影澪に加護を与えた」

龍臣様が尋ねる。水蛇は、少し考えるように頭を傾げた。

『おおきい、りゅうの、ひかりをもってる子がそばにいたから』

龍臣様の瞳が、わずかに鋭くなる。

『おみずの、おおきい、りゅう。こわいけど、きらきら。ずっと、とおくにいたのに、あの日からあったかい光になった』

その日……それに気付いた私は息を呑んだ。

十五年前は……橋の下で、私が龍臣様に会った事を言っているのだ。

『みお、あかごだった。おおきな光をもってる子と、おなじ家にいた。あかご、ちいさい。みずの名、持ってた。みお、みおって。だから、ちょっと、みず、あげた』

水蛇は、たどたどしく言う。

『おおきい龍の光が、その家にあった。だから、みおといっしょにいることにした』

審議場に、奇妙な沈黙が落ちた。

「そんな……」

澪の声が震えた。

「そんなはずない。私は、水神様に選ばれた娘で……国の水を救った、大きな力を持つ神に愛されていて……」

澪は、ショックを受けたように唇を震わせていた。龍臣様は、予想していたように静かに言う。

「そんな事だろうと思っていた」

その声は、冷ややかだった。

「この水蛇程度に、国全体の水不足や水害を鎮める力はない。今言ったように、俺の神威に引き寄せられただけだ」

水蛇は、こくこくと頷いた。

『おおきい龍の光がやどった子のそばに、いたかったの』

その言葉を聞いて、龍臣様の表情に納得の色が浮かんだ。

龍臣様は、目を合わせていた水蛇から顔を上げて神祇省の人達を見渡す。その声は、水蛇に事情を聴いている時より少しだけ低くなっていた。

「国の水不足と水害が鎮まったのは、御影澪の加護の力ではない」

その言葉を聞いて、審議の場にいた者達は皆息を呑んだ。

「五歳の千咲に救われた俺が、神として修行を始めたためだ」

静かに動揺が広がる気配がする。誰もすぐには声を出さなかった。

「俺は三百年余り、追放されて神座を離れていた。その間、この国の水は乱れていた。雨は降らず、降れば荒れ、川は橋を流し、井戸は涸れた」

自分の過去を語る龍臣様の声は静かだった。そこに痛みが滲んでいるように思えて、私は膝の上の手を固く握る。

「だが十五年前、千咲に救われた。俺は千咲のおかげで初めて、人を守る神になる心を持ったのだ」

その言葉に、顔が熱くなった。こんな大勢のいる審議の場で、そんな事を言われるのは恥ずかしい。

けれど、龍臣様は真剣だった。

「その日から、俺は神に戻るための修業を始めた。千咲が生きる世界を、守るために。この国の水難が解決したのは、そのためだ」

千咲が生きる世界を。そう言ってくれた龍臣様の横顔に、胸の奥が震えた。

龍臣様は、澪を見ていた。

「御影澪。お前は俺の威光に寄ってきた小さな水蛇神の加護を得たに過ぎぬ」

澪は、しばらく何も言わなかった。

澪に加護があったのは、本当だった。けれど、その理由は……澪自身が国を救う特別な娘だったからではないと明かされた。

龍臣様の加護の余波。

十五年前、橋の下で龍臣様が私に救われたその時の神威、それに惹かれて、同じ御影家にいた赤子の澪へ、小さな水蛇神が加護を与えた。

それだけだったのだと。

そう言われた澪は、美しい染めの水色の袖を握りしめ、目を見開いたまま震えていた。

けれど次の瞬間、その顔がくしゃりと歪む。

「嘘よ」

小さな声だった。

「嘘。そんなの嘘だわ」

澪は水蛇を見た。龍臣様を見た。そして、最後に私を見た。

その目に、涙と怒りが混じっていた。

「どうして」

澪の声が高くなる。ぽろぽろと紅潮した頬に雫が流れる。

「どうしてお姉様なの? どうして御札も、龍神様も、国の水難を救った事まで、全部お姉様のものになるの?」

「澪」

私は思わず名前を呼んだ。けれど澪は聞かなかった。

「お姉様はずっと地味で、家にいて、私の手伝いをしていただけじゃない! 私が特別だったのよ。水神様の加護を持っているのは私だった。お父様だって、お母様だって、神祇省の皆様も晴親様も、私を神に愛された娘だって……」

澪の声が涙で崩れる。

「なのに、どうしてお姉様が出てくるのよ!」

胸が痛んだ。

澪の世界を壊したのは、私ではないはずだった。それなのに、私を責める澪の目を見ていると私が何かを奪ったような気がしてしまう。

澪の言葉はひどい。でも、今まで当たり前だった澪の世界が崩れて動揺しているのも分かった。

十五年間、澪は特別な娘として育てられてきたのだ。

水神の加護を持ち、国を救った神に愛された子として。それが澪にとって当然だった。

その芯が、今、折れようとしている。

だからといって、私にぶつけていいわけではない。そう分かっているのに、私はまた謝りそうになった。

ごめんね、澪。私のせいで。

そう言いそうになった。

「ふざけるな」

晴親さんの声も響いた。彼は顔を赤くして立ち上がっていた。

「こんな茶番があるか。澪が特別な娘ではないなど、認められるものか」

その目は、龍臣様ではなく私を見ていた。

「やはりお前だ。醜い嫉妬で、澪からすべてを奪おうとしている。御札も、龍神様も、澪の名誉まで。お前がいるから、澪が苦しむんだ」

その言葉に、胸が鋭く痛んだ。

まただ。私がいるから。私が余計な事をしたから。私が本当の事を言ったから澪が苦しむ。

「私は……」

言いかけた声は、小さかった。でも、何と言えばいいのか分からない。

私は澪から奪いたかったわけではない。御札も、龍神様の関心も、国の水を救った事も、私が欲しがったわけではない。

けれど、結果として澪は失ってしまったのだ。そう考えた瞬間、また言葉が出なくなっていた。

「おい小僧、千咲を傷付けたな」

龍臣様の低い声が、その場を切り裂いた。

その一瞬で空気が変わった。

部屋の中が、息が白くなるほどに寒くなったかと思ったら、審議の場の外で大きな雷が鳴った。そんな、今日晴天だったはずなのに。

いいえ、外の天気だけではなかった。

神鏡の前の火がかがり火のように大きく燃え上がり、丸盆の水が器から浮き上がる。

建物全体が激しく軋み、どこからともなく冷たい風が吹き込んだ。

板間の上を水気を帯びた突風が走り、突然真冬の屋外のような気温にさらされた人々が悲鳴を上げる。

嵐。

審議場の中に、嵐が生まれようとしていた。

神祇省の役人達は体勢を崩して倒れるものもいた。母も、父も青ざめてすぐ後ろにいた要と身を寄せ合って震えている。

澪は言葉を失って座り込み、晴親さんは神威を真正面からぶつけられて腰を抜かしていた。

それをじっと睨み据える龍臣様の目には、雷が宿っていた。

この方は、龍神なのだ。その事実が今さらのように胸に浮かぶ。

怖い。

龍臣様が私のために怒ってくれているのは分かる。

私を責める言葉を許さないために、晴親さんを、澪を、皆を威圧しているのだと分かる。

でも、審議の場そのものが嵐に呑まれそうになる光景を前に、体がすくんだ。

以前、御影家の応接室で見た時と同じだ。

龍臣様の力は、とても強い。神座へ戻った今、その感情の揺らぎは、そのまま天変地異になりかねない。

「龍臣様」

私の声は、小さかった。けれど、龍臣様には届いたようだった。

すぐに振り返って、私を見る。その瞬間、風が止まった。浮き上がっていた水が、器の中へ静かに戻る。大きく燃え上がっていた火も元の穏やかな灯火に戻る。外で鳴っていた雷も、雷鳴となって遠ざかっていった。

それらが全て収まるころには審議の場は嘘のように静かになっていた。晴親さんだけでなく、澪の加護について不服がありそうだった神祇省の方々の勢いもすっかり消え失せている。

龍臣様の目に宿っていた雷が、ゆっくりと薄れると、振り返って私を見た。

「……すまん」

龍臣様は、低く言った。審議の場にいた人々すべてが、驚いたようにこちらを見る。

大神の弟君である龍神様が。つい今しがた嵐を呼びかけた神が、私に向かって謝ったのだからそれも当然なのかもしれない。

「お前を怖がらせないと約束したのに」

不安そうに眉を寄せる龍臣様のお顔を見て、私の胸の奥は震えた。

怖かった、それは本当だ。

でも、龍臣様は、私が怯えていると気付いた瞬間に止めてくれた。約束を覚えているのだと思うと、嬉しかった。

私を怖がらせないようにする、と。

私を傷付ける方向へ力を向けない、と。

そんな言葉を、はっきり聞いたわけではない。けれど龍臣様は、何度も行動で示してくれている。

その事が、私の胸の中に龍臣様の優しさを感じさせた。

「……大丈夫です」

私は、少しだけ震えた声で言った。でも、今の「大丈夫」はこれまでとは違う、心からの言葉だった。

「怖かったけど、大丈夫です。龍臣様が私を怖がらせないようにしてくださっているのが、分かりましたから」

龍臣様の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。

「そうか」

「はい」

私は両手を膝の上で握った。

心臓はまだ早く鳴っている。澪の言葉も、晴親さんの言葉も、胸に刺さったままだ。

けれど、龍臣様の優しさを感じて、少しだけ息ができた。

この人は、大神様の弟の力を持った神様なのだ。

感情が乱れれば天変地異すら起こす。けれど、それでも私を怖がらせたら謝ってくれる優しさも持っている。

龍臣様は、もう一度晴親さんを見た。今度の声は、嵐を呼ぶような激しいものではない。

けれど冷たく、逃げ道のない声だった。

「次に千咲を責めるなら、言葉の責任を取れ」

晴親さんは、青ざめたままもう何も言えなかった。

澪は、涙をこぼしながら俯いている。

小さな水蛇神は、丸盆の影に隠れるように、こわい、と呟きながら丸まっていた。

この審議の場には、もう先ほどまでの澪を守ろうとする空気はなかった。御影澪は、確かに小さな水蛇神の加護を持つ娘だった。

けれど、国を救った娘ではなかった。龍神に選ばれた娘でもなかった。

その事実は、ゆっくりと、けれど確実に、その場にいた者達の胸へ沈み込んでいった。