作品タイトル不明
崩れゆく
神祇省では、鳴神龍臣命が探し求めた娘、すなわち神嫁候補に関する正式な審議が開かれる事になった。
大神の弟君であり、三百年前に追放されて以来長く神座を離れていた水を司る龍神が、久方ぶりに人の世へ深く関わる。
その龍神が探していた娘が、神祇省の記録上では御影澪でありながら、実際に手を取ったのは御影千咲だった。
それだけでも、神祇省にとっては十分すぎるほど大事だった。
しかも龍臣は、大広間に集まった高官達の前で、澪の名で納められていた御札を書いたのは千咲だと断言した。
札には書いた者である起符者固有の霊紋が残り、神にはそれが分かるのだと。
この札に残る祈りは、十五年前、橋の下で自分を救った娘と同じものだと。
その言葉を、神祇省の者達が軽んじる事はできなかった。
相手は神である。それも、大神の弟君にして、水と雷を司る龍神だ。
人の鑑定では見抜けないものでも、神が見抜くというならば当然の理でもある。
だが同時に、神祇省は人の世の役所だった。
その御札はたしかに御影澪の書いたものとして登録されていたのだ。
そして十五年もの間、その御影澪を「水神の加護を持つ娘」として扱い、国の水の乱れを鎮めた神に愛された子として厚く庇護してきた実績がある。政府の要職の人間にも御影澪を後援している存在は多い。
そして龍神様が御影澪を探していると聞いて、国はすでに「御影澪が龍神様の神嫁に選ばれた」として動いていた事も影響が大きい。
それを、突然、すべて誤りでしたとは言えない。
神の言葉を疑うわけではない。
けれど、人の世の制度として、その原因となった御札の名義について公の場で正式な審議を行い、誰もが納得する形で事を収めなければならない。
そうした人の世の都合もあって、審議の場は設けられる事になった。
御影家からは、すぐに申し立てが出された。
御影澪こそが水神の加護を受けた娘である。
十五年前、国の水の乱れが鎮まった年に生まれ、神祇省の鑑定でも加護持ちと認められている。
問題の御札も、名義は御影澪である。ならば澪が言ったように、血を分けた姉妹の気配を何らかの理由で取り違えられたのではないか。
御影宗継は、そのような趣旨の文を神祇省へ提出した。
尤もらしい文章で。だが、行間に滲むものは明らかだった。
千咲が神に選ばれたなんて間違いだ。澪が選ばれた娘であるに違いない。
御影家がこれまで誇ってきたものが、間違った栄光の上に成り立っていたわけがない。
そして、鷹宮晴親もまた、声高に訴えていた。
「澪こそが、鳴神様に見出されるべき娘です。水神の加護を持つ巫女であり、十五年前より国の水を鎮めた神に愛された存在なのですから」
晴親は政府高官の息子である。
まだ十七の少年とはいえ、鷹宮家は神祇省の中でも一定の力を持つ家だった。その婚約者である澪が龍神に見出されるなら、鷹宮家にとっても大きな誉れとなる。
逆に、澪ではなく千咲が選ばれたとなれば、晴親と鷹宮家にとって望ましくない事態になる。
水神の加護を持つ美しい婚約者。
神に愛された娘。
自分の価値をさらに高める存在。
そう思っていた澪が、御影家で古い着物を着て裏方をしていた姉に立場を奪われた。晴親は、そう受け取っていた。
実際、澪は晴親に泣きついていた。
「晴親さん、お姉様は私の立場を奪おうとしているのよ」
水色の袖で涙を押さえながら、澪は言った。
「龍神様は、きっと何か勘違いをなさっているの。あの御札は私の名前で出していたものだし、私は水神様の加護を持っているのに。なのにお姉様が……」
澪は、肝心な事をすべて言わなかった。
その御札を実際に千咲に書かせていた事。巫女として覚えなければならない作法も、式次第に沿ってどう動くか確認する事も、都合の悪いものはいつも千咲に任せていた事。
晴親に渡した御守りすら、千咲の筆によるものだった事。
それらは、涙の中に隠していた。澪の涙を見た晴親は、その言葉を疑わなかった。
澪は可哀想な、守るべき婚約者だった。姉に嫉妬され、立場を奪われそうになっている、神に愛された娘にしか見えなかった。
「安心してくれ、澪」
晴親は澪の手を握り、強く言った。
「僕が必ず君を守る。あの女が嘘をついているのなら、父にも話を通して必ず暴いて見せる」
澪はうつむき、涙をこぼした。
「晴親さん……」
その姿を見て、晴親はますます怒りを強めた。
千咲は嘘吐きだ。何か卑怯な手を使って御札に細工して、龍神様の気を引いて澪の立場を奪おうとしている。
あの女を放っておけば澪が傷付く。ひいては、澪をこの国を水難から救った巫女として後援してきた我が家へ弓引く行為だと、晴親はそう父へ訴えた。
それを聞き入れた鷹宮家からも、神祇省へそれとなく圧がかかった。
御影澪は長年、水神の加護を持つ娘として扱われてきた。実際水神の加護を持っている。何か細工をされたやもしれない御札一枚を取り上げて今さらそれを覆すのは、神祇省自身の記録の信用にも関わる。慎重な審議を望む。
慎重な審議。言葉だけ見れば正しい。
けれどその裏にあるのは、澪を守り、千咲を疑う方向へ天秤を傾けたいという意図だった。
神祇省の中にも、それを望む者達がいた。
彼らは長年、澪を「国を水難から救った娘」として扱ってきた。
澪のために祭祀を組み、澪の名で納められた水守りを高く評価し、御影家と鷹宮家との縁も、水神の加護を持つ娘にふさわしいものとして認めた事をはじめ様々な特別扱いをしてきた。
神が探せと言った娘を取り違えただけでなく、自分達がありがたがっていた御札がもしかして別人の手によって書かれたものかもしれないだなんて。それは、認めがたい事だった。
だから、神祇省の一部の者達は、心から願っていた。
龍神の言葉が、何かの取り違えであってほしい。御影千咲が神嫁に選ばれたなど、間違いであってほしい。
御影澪こそが、これまでの記録通り、神に愛された娘であってほしい。
その方が、人の世の帳尻は合うのだから、と。
*
御影家では、審議を前に重苦しい空気が流れていた。
千咲がいなくなった家は、驚くほど不便になった。
家事をするものがいなくなったからと急遽通いの使用人を雇ったものの、朝餉の支度はやらなければいけない。しかしそれが、長く家事をしていなかった菊乃には難しかった。もちろん、澪なんて手伝いもした事がない。
宗継の出仕の衣は、昨日帰宅して脱いだ時のまま誰も片付けずいつもの場所に整えられていない。
要の課題も、菊乃が頼まれた御札も、澪の名前で提出されるはずだった水守りも全て、千咲の机の上で未完成のまま残っていた。
そして何より、誰も御影家の家計を正しく把握していなかった。
菊乃は苛立っていた。
千咲は、たしかに地味な娘だった。
華やかさもなく、気も利かないところがあり、澪のように人前で可愛がられる事もない。けれど、家の中の細々した事を任せるには便利だった。
いなくなって初めて、その便利さを惜しく思った。
千咲がいなくなった事でわざと自分達を困らせているようで、菊乃には気に入らなかった。
困るのは、千咲の方であるべきだ。
御影家に育ててもらって、特筆する長所もないのに家に置いてやっている娘。その娘が、勝手に家出をして困っている。そうであれば分かる。
そうでなければ、筋が通らない。
それなのに、千咲は龍神様に招かれて神域へ行ってしまった。
しかも、龍神自らが迎えに来たのだ。その事実が、菊乃の胸をざらつかせていた。
「どうして龍神様は、澪の御札なのに千咲が書いたなんて言われていたのかしら」
菊乃は、澪の部屋でそう呟いた。
審議へ向けて、その場へ着ていく澪の衣や髪飾りにどんなものを用意するか相談していたはずだった。けれど、話はどうしても千咲や御札の事へ戻ってしまう。
澪は、少しだけ視線を泳がせた。
「それは……」
「澪?」
菊乃が見ると、澪は唇を噛んだ。しばらく迷った後、小さな声で言う。
「実は……何枚か、お姉様に手伝ってもらった事があるの」
菊乃の表情が止まった。
「澪も、千咲に札を書かせていたの?」
澪はびくりと肩を震わせた。
「も、って……お母様も?」
今度は菊乃が一瞬、言葉を失った。二人は、互いを見つめる。
母と娘は、その時初めて知ったのだ。
自分だけが千咲に少し頼んでいるつもりだった事を。自分だけが、忙しい時に少しだけ、家族だからと手伝わせているつもりだった事を。
けれど実際には、母も妹も、それぞれ別に千咲へ札を任せていた。しかも、そのほとんどを。
だが、菊乃も澪も、その事実をきちんと見つめる事はしなかった。
「わたくしは、ほんの少し頼んだだけよ」
菊乃はすぐに取り繕って言った。
「社交や茶会で忙しい時に、たまに手を借りているだけ。千咲の手習いにもなると思って」
「私だって、少しだけよ」
澪も慌てて言った。
「水神の加護の事で呼ばれたり、晴親さんとのお付き合いがあったりして、どうしても時間がない時に、お姉様が手伝ってくれただけ」
「そうよね」
菊乃は頷いた。
「家族内の手伝いに過ぎないわ」
「そうよ。だって、お姉様は御札を書くのが好きでしょう?」
「それに、あの子にはこういう地味な事くらいしか取り柄がないもの」
菊乃の声は、次第に落ち着きを取り戻していく。
「家族の役に立てるよう、気を効かせてあげただけよ」
澪はすぐに、ほっとしたように頷いた。
「そうよね。お姉様だって、家の役に立てて嬉しかったはずだわ」
「ええ。千咲は昔から、役に立たないと拗ねるところがあるもの。すぐ、自分だけ拾われた子なんだ、などと言って」
「でも、たまたまお姉様に手伝ってもらった時の御札を取りざたされて、こんなに大ごとにされてしまって、困るわ」
「その通りよ」
菊乃は背後から、澪の肩にねっとりと手を置いた。鏡越しに、不安げな瞳をした澪と目が合う。
「審議では、家族の仕事の手伝いをしたのだと申し上げましょう。千咲は母や妹を手伝っていただけ。鳴神様は、勘違いなさった。手伝いで霊紋とやらが残っていたのか、姉妹だから似ていて間違えたのかもしれないわ」
「勘違い……」
「そうよ。たまたま家族の手伝いをした札を、龍神様が千咲が書いた、名義は誤りだと大ごとになさっただけ。あの子はそれを否定せず、むしろ利用して神域に押しかけた」
澪の目に、少しずつ光が戻っていく。
「そうね。お姉様が、勘違いを利用したのね。酷いわ」
「ええ。神嫁になるべきなのは、十五年前から水神様の加護をいただいてきた澪です。千咲は、それを羨んでいたのでしょう」
「お姉様、昔から私に嫉妬していたもの」
澪はそう言った。自分の言葉に、自分で納得するように。
「だから、龍神様の前で私の立場を奪おうとしたんだわ」
「可哀想な子ね」
菊乃は、ため息をついた。
「でも、家のためにも、澪のためにも、はっきりさせなければ」
二人の間で、方針は決まった。
御札は、あくまで澪と菊乃のもの。千咲は家族として一部を手伝っただけ。
龍臣は神であるがゆえに、人間の家族内の事情を知らず、千咲の手伝いを本来の作り手と勘違いした。
千咲はその勘違いを利用して、神域へ押しかけた恥ずかしい娘。
それが、御影家の主張となった。
「でも、霊紋の事を言われたら……」
澪が不安そうに言う。
「龍神様は、霊紋というものが見えるとおっしゃっていたわ」
「霊紋は神には分かるかもしれないけれど、人には分からないでしょう」
菊乃は冷静に言った。
「神祇省の人間が見て、すぐに千咲のものだと分かるなら、今まで誰かが気付いていたはずよ」
「そう、よね」
「手伝ったから霊紋が残った……いいえ、龍神様の思い込みよ。手伝いをしてほんの少し残っていた気配とか、十五年前の思い出に引きずられて、千咲が書いたと思い込んでいらっしゃるの。そうに違いないわ」
神が間違いを犯したと扱うなど、本来なら恐れ多い事だった。
だが菊乃は、それを真正面から言うつもりはなかった。神祇省の高官達に、それとなく思わせればよい。人間の制度の上では名義が澪であり、記録も澪を指している。
龍臣だけの、他の者には分からない根拠なら、正式な登録は覆せない。
そういう流れにしてしまえばよい。
「それに」
菊乃は、さらに声を落とした。
「政府は御札に、検非違寮の筆跡鑑定とやらを行うと言っていましたけれど。この筆跡鑑定師という方には、こちらの事情を分かってもらいましょう」
澪が目を丸くした。
「検非違寮の?」
「ええ。鷹宮様の繋がりで、今回審議で呼ばれるという方の名前が分かっているの。少し心付けを渡して、説明しておきましょう」
「でも、本当はお姉様が書いているでしょう?」
「千咲は私達と同じ手本を見て書いていたのだから、似ていて当然よ」
菊乃は当然のように言った。
「それに、御影家の中で教えられた筆なら、字の癖が似るのも自然でしょう。鑑定師がそう言えば、神祇省の方々は納得するわ」
澪は、少しずつ安心したようだった。
「さすがお母様ね」
「あなたは堂々としていなさい」
菊乃は澪の髪に触れた。
「水神の加護を持つ娘にふさわしく。加護を持った事を嫉妬された可哀想な妹として、姉に立場を奪われかけた娘として、けれど気丈に振る舞うのよ」
「はい、お母様」
澪は頷いた。その顔には、先ほどまでの不安が薄れていた。
千咲は戻ってくる。
審議で私達の言葉が通れば、龍神様の所に図々しく居続ける事も出来ないだろう。あの姉はそういう人だ。御札は、たまたま家族の手伝いをしたものを龍神様が勘違いしただけのものになる。
水神の加護を持つ特別な娘は、自分のままでいられる。
人の世の方はそれで問題ないだろう
そして龍神様だって落ち着いてよく見れば、姉よりも自分の方が加護を与えるべき存在だとすぐに分かるに違いない。
「だいたい、ずるいわ。十五年前なんて、私生まれたばかりじゃない。そんな時に神様にもう媚を売ってたなんて」
「そうねぇ、千咲は昔から、ちゃっかりしてるところがあるからねぇ」
澪はそう信じた。
菊乃もそう信じていた。
神祇省の一部も味方に付いている。晴親をはじめ鷹宮家も、澪を支持している。
審議で呼ばれる筆跡鑑定師も、こちらの味方にしてある。
龍神がいかに神であっても、人の世には人の世の手続きがある。
その中で、御影家にも、まだ十分に打つ手はある。澪はこの国一番の水神の加護を持つ特別な娘でいられる。
二人は、そう思っていた。それが、どれほど浅い考えであるかを知らないまま。
だから二人は安心して、審議の日を迎える準備を進めた。
澪は、淡い水色のお召しを着る事にした。龍神様との対面の日よりは控えめに、それでいて水神の加護を持つ娘らしく清らかに見えるように。
涙をこらえながらも毅然と立つ、傷ついた妹として見えるように。
菊乃は、自分もまた上品な巫女として見える着物を選んだ。
母として、娘を守る。長女の過ちを正し、御影家の名を守る。そういう顔で審議へ向かうために。
千咲がいない部屋で、母と妹は互いに頷き合った。
自分達が何を奪ってきたのか。その御札に込められた祈りが、誰のものだったのか。
名前を偽る事が、どれほど大きな嘘であるのか。
それらを、まだ本当の意味では理解しないまま、審議の日は近付いていた。