作品タイトル不明
龍神の誓い
その夜、龍臣は社の縁側に座り、湖を見ていた。
神域の夜は静かだ。人の世の夜のように、虫の声も、車の音も、誰かの話し声もない。
ただ、湖の水が銀色の月光を反射して山間で輝いている。滝の音が遠くから聞こえて来る。風はないが、軒に吊るされた銀の鈴が時折かすかに鳴る。
千咲は、ようやく眠った。
審議の知らせを受け取ってから、あの娘の顔色は悪かった。家族と向き合う事を恐れているのだろう。
無理もない。
あの家で、千咲はずっと無理をして笑っていた。
傷付けられても、名を奪われても、自分を低くけなして、場を収めるために自分を差し出して笑ってしまう。
龍臣には、それが腹立たしかった。
千咲を傷付けた者達にも。千咲が込めた祈りを奪った者達にも。
そして、自分を傷付ける言葉に慣れてしまった千咲自身にも。
けれど、急かすつもりはなかった。
これは、千咲が自分の痛みを痛みとして認められるようになるまで待たなければいけない事だ。
ふと、遠い昔の記憶が水面に浮かぶ。
三百年余り前。龍臣は、神座を離れた。
いや、離れたなどという穏やかなものではない。追放されたのだ。
かつての龍臣は、荒ぶる力そのものだった。
水と雷を司る龍神。その力は強く、雨を呼び、川を動かし、雷を落とし、山の奥に眠る水脈を目覚めさせる事ができた。
だが、その力をどう使うべきかなど、当時の龍臣は考えた事もなかった。
怒れば川を荒らした。苛立てば空を裂いて、気に食わぬ神があれば、雷を落とした。
水の道を巡って争った土地神を、力で押し潰した事もある。
人の祈りも、神々の諫めも、当時の龍臣には煩わしいだけだった。
人間達は勝手だ。
雨がなければ雨を寄越せと言い、雨が多ければ晴れを寄越せと言う。川が静かなら水が足りぬと嘆き、川が荒れれば祟りだと泣く。
神々も同じようなものだ。
しかしなぜ自分が、それに合わせなければならない、そう思っていた。
だから、また何がしかの行いが気に食わないらしい天照大神が目の前に立った時も、龍臣は頭を下げなかった。
白い光をまとった姉神は、静かに龍臣を見ていた。その瞳には怒りがあった。けれど、ただの怒りではない。
深い失望と、悲しみと、最後の慈悲。それが、当時の龍臣には何より苛立たしかった。
大神は言った。
『お前の力は、国を守るためのものです。傷付けるためのものではありません』
『傷付くほど弱い者が悪い』
龍臣はそう返した。今思えば、愚かな言葉だった。
だがその時の龍臣は、本気でそう思っていた。
力を持つ自分が正しい。力に耐えられぬ者が弱い。人も、神も、傷付く者が悪いのだと。
大神は、長い沈黙の後、告げた。
『ならば、お前は力を失いなさい』
その言葉と共に、龍臣の体を光が貫いた。
神としての姿が崩れた。鱗は剥がれ、角は消え、纏っていた雷も見えなくなり、神として司っていた水脈も閉ざされた。
代わりに与えられたのは、枯れた老人の姿だった。
背は曲がり、手は震え、膝は痛む。まとっていた神気は一瞬で剥がされ、神々の坐から遠く引き離された。
そして、地上に落とされた衝撃で、胸から腕にかけて黒く焼け焦げたような傷が刻まれた。
罰として与えられたその傷は癒える事がなかった。
『神に相応しい優しい心を知るまで、戻る事は許しません』
大神は言った。
『お前が誰かの痛みを、自分のものとして知るまで。お前の力が、傷付けるためではなく守るためのものだと知るまで。神座へ戻る事は許しません』
くだらない、と龍臣は笑った。
自分にそんなものが必要だとは思った事は一度もない。
神の世から落とされ、人の世の橋の下へ追われても、その思いは変わらなかった。
二百八十五年。
龍臣は、そこで時を腐らせ続けていた。
橋の下の水は季節ごとに色を変えた。春には雪解けの水が増え、夏には夕立で川が濁り、秋には落ち葉が流れ、冬には浅い氷が張った。
人間達は、龍臣の前を通り過ぎていった。
子供は老人を怖がり、大人は迷惑そうに目をそらす。時には、憐れみの目で小銭や食べ物を寄越す者もいたが、彼らは龍臣を見ていたわけではない。
橋の下にいる、汚れた老人。近付けば厄介事になりそうな者。
可哀想なものを見て、自分に安心するための相手……そんなものとして見ていた。
龍臣は、すべてを憎んだ。
人間達を憎んだ。神々を憎んだ。大神を憎んだ。
こんな姿に落とされた自分自身も憎んだ。
なぜ自分が、こんな痛みに耐えなければならない。なぜ自分が、誰かの痛みなど知る必要がある。
そうして二百八十五年が過ぎていった。
龍臣が不在の間に世界の水は、ゆっくりと乱れていった。
水を司る神が神座を離れた事で、この世界に大きな空白が生まれてしまった。
小さな水神達はそれぞれの土地を守ろうとしたが、すべてを受け止める大きな流れがなければ、均衡は少しずつ崩れる。
雨の降らぬ土地、降れば荒れる土地。井戸の涸れる村。川に呑まれる橋。
人々が苦しんでいる事は、龍臣にも分かっていた。橋の下にも人々の嘆きは聞こえてきた。
けれど、当時の龍臣は何とも思わなかった。
困ればよい。苦しめばよい。自分を縛った世界など、壊れてしまえばいい。
そう思っていた……その日までは。
十五年前。橋の下に、五歳の千咲が来るまでは。
泣き腫らした目をしていた。
小さな手に紙包みを握っていて、草履の鼻緒が少しずれていて、袖は涙で濡れていた。
あまりにも小さな人間だった。龍臣は最初、その娘を追い払おうとした。
『失せろ』
それだけで、大抵の人間は逃げていく。子供ならなおさらだ。
だが千咲は逃げなかった。
怖がってはいた。小さな肩は震えていて、龍臣の目を見て、今にも泣きそうになっていた。
それでも、逃げなかった。
龍臣の腕に刻まれた、黒く焼けたような傷。癒えぬ神罰。誰も触れようとしなかったもの。
龍臣が神かどうかなど、当然知る由もない。汚い、傷付いた目つきの悪い老人だ。
なのに、傷付いた者がそこにいると。だから、放っておけなかったと。
千咲は金平糖を分け与えてくれて、癒える事のない自分の傷にまじないをかけてくれた。
そこには一切の嘘がなかった。痛む者の痛みが、どうか少しでも軽くなりますように。
ただ、それだけの祈りだった。その瞬間、龍臣は初めて知った。
誰かが自分の痛みを、自分の都合ではなく、自分の恐怖でもなく、ただ痛みとして見てくれる事があるのだと。
憐れみではない。施しでもない。恐れでもない。
ただ純粋な優しさで。
大神が言っていたものの意味を、龍臣はその時初めて知った。
涙が落ちた。
神であった頃、龍臣は泣いた事がなかった。怒りなら知っていた。苛立ちなら知っていた。嘲りも、憎しみも、退屈も知っていた。
だが、誰かに優しくされて胸が痛むという事を知らなかった。
痛かったのか、と慌てる千咲に違うと答えるので精一杯だった。
痛かったのは傷ではない。いいや、傷も痛かった。
けれど、もっと深いところが痛んだのだ。
自分が二百八十五年、何を拒み続けていたのか。何を見ずにいたのか。何を踏みにじってきたのか。
その一端を、初めて知ったからだ。
千咲は、自分は拾われた子だと言った。
母親に、橋の下で拾ったと言われたのだと。だから本当の父と母を……自分を可愛がってくれる人を探すのだと。
その言葉を聞いた時、龍臣は初めて怒りではない感情で胸を焼かれた。
この小さな娘が、なぜそんな言葉で傷付かなければならない。
この子は、傷付いた恐ろしい老人にも金平糖を分けるような子だ。怖がりながら、それでも他者の痛みに手をかざすような子だ。
こんな子が、自分を要らない子だと思わされる世界であっていいはずがない。
『なら、俺がお前の家族になってやる』
気付けば、そう言っていた。そんな言葉に、自分でも驚いた。
家族など、神である自分には縁のない言葉だと思っていた。
大神を姉と呼んでいるが、神などある日突然木の根や岩の間から生まれ出ずるもので、ただ神々の序列を現す言葉に近い。
人間のように、血を分けた肉体を持たない。帰る場所や、抱きしめる腕や、同じ食卓を囲むぬくもりなど知らなかった。
それなのに、千咲には「家族になってやる」と言った。
その時、千咲が笑った。涙で濡れた顔で、嬉しそうに笑ったのだ。その笑顔を見た時、龍臣の中で何かが変わった。
この子が生きる世界を、守りたい……と、心からそう思った。
人間達の世界などどうでもいいと思っていた龍臣が。
神々を憎み、世界が壊れても構わないと思っていた龍臣が。
この子が明日も生きる世界なら、壊れてほしくないと思った。
この子が生きる世界では、雨は人の恵みであってほしい。
この子が渡る橋を、川が奪わないように。
この子が飲む水が、清らかなものであるように。
この子が眠る家を、水が侵さないように。
この子が笑って生きていく場所が、この世界にありますように。
たった一人の子供のために、世界を守りたいと思った。
それが、龍臣にとって初めての、神としての願いだった。
それから十五年、龍臣は神に戻るために修行をした。
荒ぶる水脈を、ただ暴れさせるのではなく、恵みの雨へ変える事。降るべき土地に雨を降らせ、降りすぎた場所の水を堤を壊さず海に逃がす事。
井戸を清らかな水で満たし、川を鎮め、田へ偏りなく水を届ける事。雷を怒りとして落とすのではなく、雲を割り、水の道を開く力として使う事。
それは容易ではなかった。
龍臣の力は強すぎた。
少し気を緩めれば、恵みの雨は豪雨になる。川を動かそうとすれば、いともたやすく堤を壊す。雷を走らせれば、すぐに山の木々を焼いてしまう。
何度も失敗した。
そのたびに、千咲の小さな手を思い出した。
痛いの、痛いの、とんでいけ。
あのまじないをかけてくれた小さな手が、優しい千咲が安心して生きていける世界を作らなければ。
龍臣は、その願いを水に宿した。
そうして十五年の間に、国の水の乱れは少しずつ鎮まっていった。
これは後で知った事だが、人々は、それをその年に生まれた加護持ちの子のおかげだと思ったらしい。
人の世を治める者達――神祇省と呼ばれる者達は、御影澪という娘を水神の加護を持つ特別な子として扱っていたらしい。
龍臣は、その頃まだ神座へ戻る事を許されていない。自分が国の水を整えている事を、人の世に告げる事もしていなかった。
国の動きなどどうでもよかった。だから、最初から知ろうともしていなかった。
千咲が生きる世界が、少しでも穏やかになるなら。
千咲が豪雨に怯えず寝られて、雨が千咲が食べる作物を育て、千咲が飲む水が濁らないなら。
それでよかった。
そして十五年目。大神は、龍臣へ神座へ戻る事を許した。
『ようやく、お前の力は神に相応しい、守るためのものになりましたね』
大神がそう告げた時、龍臣はかつてのように笑わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
神として戻ったその日、龍臣は人の世の雲州にある水神の総本社に顕現していた。
現世にある神社とは、神域と人界をつなぐ表の社である。
これから、人の世に通さなければならない話も多い。水は人の生活に、あらゆる形で深く密接に関わっている。
龍臣は三百年余り離れていた社をぐるりと見まわした。
眷属達が守り続けているであろう神域と違って、主である龍臣が永く不在にしていたこの社を守る人数はそれほど多くないようだった。無理もない、祈りを捧げる神がいないのだから。
その空白だった神の力を少しでも埋めるために奥に納められていた御札の山の中で、龍臣はひとつの気配を感じた。
懐かしい気配だった。怪我を心配してかざした小さな手と同じ。
龍臣は、その御札を手に取った。間違いない、この札の祈りは千咲のものだった。
十五年前、龍臣を救った娘。橋の下で家族になる約束をした娘。
あの小さな花のような子が、どこかで生きている。
しかし、札に書かれていた名前が別人だったからこそ『この札の作り手を探せ』と命じたというのに。人間とは、目に見えるものをまず信じてしまう。
あいつらが連れてきた娘が千咲の肉親で、千咲もあの場に連れてきていたからよかったものを。「お探しの娘を連れてまいりました」と言われて千咲がいなかったら、あの広間には嵐が吹き荒れていたかもしれぬな。
龍臣は湖を見つめたまま、静かに息を吐いた。
千咲は今、自分の部屋で審議を恐れて眠れずにいるだろう。また家族に責められる事を恐れて、自分が悪いのではないかと考えているかもしれない。
あの娘は、すぐに自分を責める。だが、それを許すつもりはなかった。
十五年前、龍臣は「俺がお前の家族になってやる」と言った。
その約束を果たすには、ただ神域へ連れて来るだけでは足りない。温かい飯を食わせ、清い部屋で眠らせ、美しい着物を与えて不自由ない生活を送らせる事でも足りない。
千咲が、自分の名を取り戻すまで。
自分の祈りを、自分のものだと受け取って、傷付いた時に、傷付いたと言えるようになるまで。
本当の家族とは、ただ血を分けた者の事ではない。
疲れた時に帰りたいと思える場所。傷付いた時に、傷付いたと弱音を吐ける相手。泣いても、役に立たなくても、何も返せなくても、自分はここにいていいと思える場所。
龍臣は、千咲にとってそういうものになりたかった。千咲の心をそこまで守って、自分は初めて家族になれるだろうと思っていた。
龍臣は立ち上がった。湖の水面に、細い稲妻が静かに走る。
もう二度と、千咲を橋の下で泣かせるつもりはなかった。