作品タイトル不明
2
自分の名前で御札を書くようになってから、数日が経った。
眷属達が水脈の見回りへ行く時に持つ水難避けや、調伏へ向かう眷属達が懐へ入れていく守り札。
どれも、今まで書いた事のある御札ではある。けれど、今までとは違う。
最後に記す名が、母や澪のものではない。
御影千咲……自分の名前である事。
まだ慣れなくて、その文字の前で毎回少しだけ筆が止まってしまう。
私が書いた事を隠さなくていい。
そう分かっているのに、自分の名を置く時だけ、胸の奥がざわついた。
けれど龍臣様の神域で書く御札は、不思議なくらい筆が動かしやすい。
紙が墨を吸う感覚も、筆の下で線が伸びていく感覚も、今までよりずっとよく分かる。
神名を書いた時、まるで龍臣様の気配がして、遠くから静かに道を開いてくれるような気がした。
もちろん、私の気のせいかもしれない、そう思っていた。
「千咲様の御札、すごいです!」
最初に報告に来たのは、水脈の見回りへ行っていた白蛇の眷属だった。まだ若い眷属で、いつも尻尾の先を落ち着きなく揺らしている。
「昨日いただいた水難避けを持って東の沢へ行ったのですが、いつもならぬかるみに体を取られる場所が、すっと水が道を開けてくれたんです」
「水が……道を?」
「はい。無理にぬかるみを押し退けるのではなくて、こちらを邪魔しないように避けてくれるような。あんなに綺麗に通れたのは初めてです」
私は首を傾げた。
「それは、龍臣様の神域だからではないでしょうか」
「いいえ、神域の外れです。いつもは少し荒れている場所です」
別の日には、調伏へ向かった眷属が戻ってきて、同じような事を言った。
「千咲様の守り札を持っていたおかげで、妖異の瘴気が肌に届きませんでした」
「瘴気が?」
「はい。普通の守り札なら、普通の守り札なら、少しは瘴気が衣の内まで染みるのですが。千咲様の札は、膜が一枚ではなく、澄んだ水が何枚も重なったように守ってくれるんです」
「そんな大げさな」
「大げさではありません。皆で試しました」
「試したのですか」
「はい!」
眷属達は真剣な顔で頷いた。そして他にも次々に報告が上がってきた。
戸口守りを貼った蔵の湿気が引いた。水脈見回りの時、道を外れそうになると札が淡く光った。
小さな怪我をした眷属が、病除けの札を枕元に置いて眠ったら、翌朝には痛みが引いていた。
私は聞くたびに落ち着かなくなった。
嬉しい。たぶん、嬉しいのだと思う。
自分の名前で書いた御札が誰かの役に立っている。その事は喜ばしい。
けれど同時に、怖かった。
そんなに効くはずがない。
たまたまではないのだろうか。龍臣様の神域にいるから、御札の力が本来より強く見えているだけではないのだろうか。
そう考えていると、眷属達から報告を受けていた龍臣様が、当然のように言った。
「千咲には俺の加護があるのだから、効き目が強く出るのは当然だ」
私は筆を持つ手を止めた。
「龍臣様の、加護?」
「ああ」
龍臣様は、私の前に置かれた守り札を見た。
「お前は十五年前、俺を救った。俺はあの日から、千咲に加護を与えている」
「でも、私には加護なんて……」
「調べた事はあったのか? 神祇省の連中は、千咲に加護を与えた年に『加護を授かった子が生まれた』と思い違いをして、その年に生まれた赤子しか調べなかったと言っていた」
そう言えば、そうだった。私は、加護を調べに来たという大人が澪を囲むのを見ていただけだったのだから。
龍臣様は、静かに続ける。
「だが、今の俺は神座へ戻った。俺の加護も、より強まっているだろう」
私は自分の手を見た。
墨の染みた指先、荒れていた肌はここにきて水仕事をしなくなってから大分綺麗になったけど。
この手に、龍臣様の加護があるなんて。そんな事を言われてもあまり現実味がなかった。
「だから、御札の効き目が強くなっているのですか」
「それもある。だが、それだけではない」
龍臣様は、昨日私が書いた守り札を一枚取った。当然その裏には、御影千咲と記されている。
「これまで、お前の御札は名が正しくなかった」
胸の奥が、ひやりとした。
「……頼まれて、母や澪の名前でずっと書いてきました」
「書いた名義が違えば、札の中に嘘が混じる」
嘘。その言葉は、私の胸に重くのしかかった。
「御札とは、祈りを形にしたものだ。神名、詞、印、順序、線。そのすべてが正しく通って初めて、力を借りる道になる。そこに、祈りを込めた者の名が違うという大きな嘘があれば、道は歪む」
龍臣様の声は、責めるものではなかった。けれど私は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「では、今まで私が書いてきた御札は……」
「本来の効力を出していなかっただろうな」
頭の中が、一瞬白くなる。
私が書いた御札を持った人が……守られると思って使った人達が。
病除け、厄除け、水難避け。
誰かが困って、願って、神祇省や御影家へ御札を求めた。その御札が、もし、本来の力を出していなかったのだとしたら。
私が、母や澪の言う通りに書いていたから。私が、他人の名前で御札を書く事を受け入れていたから。
「私のせいで」
言葉が漏れた。龍臣様の目が、すっと細くなる。
「違う」
「でも、言いなりになって書いていた私のせいで」
「お前が悪いのではない」
強い声だった。大きくはない。
でも、逃げ道を塞ぐような声だった。
「名を偽らせた者が悪い。お前の名を奪った者が悪い。お前が家族に逆らえなかった事を、お前の罪にするな」
私は唇を噛んだ。そう言われても、すぐには頷けなかった。
だって、私は知っていた。自分以外の名前を偽って書く事が、本当はおかしいのではないかと時々思っていた事も。
それでも書いた。笑って、受け入れて、書き続けてしまった。
「ですが、効き目が低い御札を使った人がいたのなら申し訳なくて」
「低いと言っても、お前の場合は普通とは違う」
「え?」
「普通の者が別人の名で札を起こせば、半分の力も出ないだろう。名が違えば、祈りの道が途切れるからだ」
龍臣様は、私の札を指先で撫でた。
「だが、お前は俺の加護を持つ。加えて、お前自身の祈りが澄んでいる。名が違っていても、札は働いただろう」
「でも、本来の力ではなかったと……」
「ああ。本来の力ではなかった。だが、お前が書いた札は、別の名で覆われていても、並の札師が正しく書いた札と同じ程度には働いたはずだ」
私は龍臣様を見上げた。
「同じ程度……」
「お前が正しく自分の名で書いていれば、眷属達が言う通り普通の札師の倍は効き目が違う。違う名で書かされた時は、その嘘で力が削がれて、ようやく普通の札程度……いや普通よりも少し効き目が良い札になっていただろう」
普通の札程度。
それなら、大きな害はなかったのかもしれない。多くの人は守られたのかもしれない。
でも。
もし、私が最初から自分の名前で書いていたら、もっと強く守れたものもあったのではないか……そう思うと、胸が苦しくなった。
「千咲」
龍臣様の声が、私の思考を引き戻す。
「お前は今、また全部を自分のせいにしようとしている」
「……している、のでしょうか」
「している」
断言されて、私は言葉を失った。
「すぐに、ではない。今すぐ全部を納得しろとは言わぬ。だが覚えておけ。お前の祈りは、人を守ってきた。名を奪われ、力を削がれてもなお、守ってきた」
その言葉を聞いて、目の奥が熱くなった。
「それでも、私はすぐに、じゃあ大丈夫、とは思えません」
「それでいい」
「いいのですか」
「お前は今まで、自分の痛みも怒りも、すぐに笑って終わらせてきた。今は、簡単に終わらせなくていい」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。
私は札紙の上の自分の名前を見た。
御影千咲。
まだ、そこにある事に少し慣れない。けれど、そこにある名前はたしかに私のものだ。
私の祈りを、私の名で形にしたものだった。
*
その日の夕方、神域に書状が届いた。
湖の向こうから、白い鳥の姿をした式神が飛んできた。
鳥は参道の鳥居を越えると、空中で白い鳥を象った折り紙へ姿を変え、眷属の手の中に静かに落ちると紙の書状に変じた。
大神宮と神祇省、両方の印が入った正式な書状だった。眷属がそれを龍臣様へ運ぶと、龍臣様は私のいる文机の横で封を切る。
書状を読んだ龍臣様は、少しだけ目を細めた。
「審議の日取りが決まった」
私は、筆を置いた。
「審議……」
「ああ。俺が千咲を見出したあの御札の名義と、本来の起符者について、公の場で見定めるそうだ」
ついに来てしまったと、そう思った。
いつか来る事は分かっていた。
神祇省の大広間で、龍臣様が私の御札だと言った時から。御影家へ戻らず、龍臣様の神域へ来た時から。
けれど、いざ正式な書状として届くと、息が苦しくなった。
「公の場で……私の事を、調べるのですか」
「お前ではない。御影澪の名で納められた札の、名義人と起符者を照らし合わせるのだ。まぁ今回の札の他にも、普段から神祇省に納められている札についても調べは及ぶだろうが」
胸がどんどん重くなる。
「私も、呼ばれるのですよね」
「当然だ。お前が書いた札だからな」
「お母様も、澪も、お父様も……」
「呼ばれるだろうな」
私は両手を膝の上で握った。
また家族と向き合う。母が私を責める顔を、澪の泣きそうな目を見る事になるだろう。
父もきっととても怒っている。その場で、私は何を言えばいいのだろう。
母に頼まれて書きました。澪に頼まれて書きました。でも、私も断りませんでした。
ずっと、そうする事を受け入れていました。
それを言えば、母と澪を売る事になるのではないか。
そう言えば、どうなってしまうだろうか。家族は、私は。そう思うだけで、喉が詰まる。
神祇省の方々の前で。また帝やその側近もいるかもしれない場所で。
私の名前が取り上げられるなんて。
怖い。
こんなに大事になるなんて思っていなかった。私はただ、家族の言う通りに御札を書いていただけなのに。笑って、我慢して、家の中を丸く収めようとしていただけなのに。
それが、審議になって、公の場で調べられるなんて。
私の事で。
「やっぱり」
声が漏れた。龍臣様が私を見た。
「やっぱり、私なんかが龍臣様に目を止めていただいたなんて、何かの間違いで」
「千咲」
静かな声が、私の言葉を遮った。
怒鳴られたわけではない。けれど、静かに怒りを感じるその声に私は口を閉じた。
「お前が自分を下げても、俺はそれを事実として扱わぬ」
龍臣様は、まっすぐ私を見ていた。
「私なんか、という言葉で、お前自身を小さくするな。俺はそれに付き合わぬ」
私なんか。
何度言ってきただろう。
私なんかが褒められるわけがない。
私なんかの名前で札を出しても、誰も安心しない。
そう言えば、少しだけ楽だった。自分で先に卑下しておけば、誰かに傷付けられる時の痛みが少しだけ和らぐ気がした。
でも龍臣様は、私が自分を卑下する言葉を事実として扱わないと言う。私がどれだけ自分を下げても、龍臣様はそれを信じないのだと言う。
「でも……怖いです」
今度は、自分を笑わなかった。
「家族と、また会うのが怖いです。お母様に何を言われるのか、澪がどんな顔をするのか、お父様に怒られるのか。考えるだけで、息が詰まりそうになります」
「そうか」
龍臣様は静かに頷いた。
「ならば、怖いままで来い」
「怖いままで」
「怖くないふりをする必要はない。笑って流す必要もない。お前が言えぬ時は、俺が代わりに言ってやろう。お前が震えているなら、俺が支える」
その言葉に、喉の奥が熱くなった。
「でも、審議はお前のためだけではない」
龍臣様は書状を文机に置いた。
「本来そうあるべきだったものを正しい形に戻すためのものだ。名義を偽られた札が納められた事で、水の祭祀に歪みが出ている。それも明らかにする必要がある」
私は、水祭祀の記録を思い出した。
澪の名がある祭祀の後、細かく乱れていた水脈。御札の名義と起符者が違うから生まれたのかもしれない歪み。
それが本当なら、これは私の家だけの話ではない。土地の水に関わる話だ。
もっと怖くなった。
でも、逃げてはいけないのかもしれないとも思った。
私は、御札を書いてきた。名前を偽るよう言われても、祈りだけは嘘にしないように書いてきた。
なら、その祈りがどう扱われてきたのかを、知らなければならない。
「……私、ちゃんと話せるでしょうか」
龍臣様は、少しだけ目を細めた。
「話せるだけ話せばいい。すべてを一人で背負おうとするな」
「……はい」
返事をしたものの、胸の奥の不安は消えなかった。
私は、家族と向き合えるだろうか。
母に、澪に、父に。そして、私自身がずっと笑って流してきた事に。
神域の窓の外では、湖が静かに光っていた。
審議の日は、三日後。
その短い文字を見て、私は祖母の筆をまたそっと握った。自分の名前で札を書くよりも、ずっと怖い。
それでも、もう笑って、なかった事にはできない。
そう思うと、胸の奥が痛んだ。
けれどその痛みは、以前のようにただ飲み込むための痛みではなかった。
私が、少しずつ自分のものを取り戻そうとしている痛みなのかもしれない。そう思いたかった。