作品タイトル不明
自分の名の札
神域で過ごす日々は、不思議なくらい静かだった。
御影家にいた頃は、一日がいつ始まっていつ終わったのか分からないほどする事があったから。
朝餉の支度をして、洗濯をして、母の御札を書いて、澪の御札を書いて、父に頼まれた神祇省への返書を整えて、要の課題をまとめて、帳面をつけて、夕餉の支度をして。
それでも終わらないものは夜に回して、夜に終わらないものは朝へ回す。そうやっても、時間はいつも足りなかった。
けれど龍臣様の社では、そうではない。
私がやらなくてはいけない事は何もなくて、申し訳ないくらい。
だから私は龍臣様のお力になりたくて、許可をいただいた社務の記録整理を進めていった。
年ごとに分けてから、内容別に、祭祀記録、水脈報告、供物台帳、調伏記録、神祇省や大神宮との書状に分ける。未処理のもの、返書が必要なもの、龍臣様の確認が必要なものを分かりやすく分類する。
最初は山のように積まれていた書類も、何日かかけて少しずつ姿を変えていった。
何の山か分からなかったものが、細かく仕分けられていく。どこに何があるか分からなかったものが、必要な時に取り出せるものになる。
それだけで、眷属達も自分達で必要な記録を取り出せるようになっていた。
気になっていた水の祭祀の記録は、龍臣様にお見せした。
御影澪の名がある祭祀の後、水脈に細かな乱れが残っている事。
この国中で起きている事ではなく、他の祭祀では同じよう問題は見られない事。澪が出席した記録の上ではおかしくないのに、結果だけを見るとどこか噛み合っていない事。
龍臣様は、その記録をしばらく黙って見ていた。
『調べる』
それだけ言って、何枚かの記録を持って出て行かれた。水脈の様子を見てくるようだ。
だから、その日、龍臣様は社にいなかった。
私は昨日と同じように記録部屋へ行き、残っていた供物を台帳に残らず記録した。
返礼済みのものと、まだ返礼が必要なものを分けて、龍臣様の確認が必要な文箱へ入れた。
そうして、ひとまずその日にできる事が終わってしまったのだ。
「……終わってしまった」
文箱の前で、私はぽつりと呟いた。
正確には、社務としてはまだする事はたくさんある。だが三百年余りの間に積もった紙の山は、そんな簡単に終わるものではない。
なので、今日の分として手をつけられるものは終わった、というのが正しいだろう。
龍臣様の確認が必要なものは勝手に進められない。つまり、今の私には、する事がなくなってしまったのだ。
する事がない。
その言葉を心の中で繰り返すと、急に落ち着かなくなった。
いや、部屋へ戻って休むなり好きな事をするなりすればいいと思うだろう。眷属達も、龍臣様も、きっとそう言う。
でも、休むとは何をすればいいのだろう。
布団に横になるには昼間すぎる。お茶を飲むだけではすぐに時間は潰せなくなる。庭を眺めるのも、散歩するのも、「あまり根を詰めすぎるな」と仕事を切り上げるように言われて毎日しているので、じゃあ今日もそうしようという気持ちは何となく起きなかった。
私は文箱の前で、手持ち無沙汰のまま座っていた。
「千咲様、少しお休みになりませんか」
振り向くと、手の甲に鱗のある女の眷属、 水李(みずり) が立っていた。その後ろには、他の眷属達も顔を覗かせている。
「でも、まだ何かできる事があれば」
「今日は十分でございます。主様の確認が必要なものは、主様がお戻りになってからでないと進められませんもの」
「そう、ですよね」
分かっている。
分かっているのに、手が空いている事に罪悪感がある。
水李はにこりと笑った。
「では、琴などいかがでしょう」
「琴?」
「はい。神域にも琴はございます。水に縁の深い土地から奉納された、とても良い品があるのですよ」
私が少し固まったのに気付かず、水李達は楽しそうに言う。
「歌詠みもよろしいですよ。ここの湖のほとりは歌を詠むのに向いております。舟を出しましょうか」
「花の札遊びもございます」
「盤双六も」
「主様はそういった遊びをあまりなさらないので、私達もたまに嗜むだけでございますが」
優雅な遊び……そんな言葉が頭に浮かんだ。
琴に、歌詠み、花の札遊び。そういうものを、私はやってこなかった。
母は、澪にはそうした稽古をさせていたけど。
水神の加護を持つ娘だから、やんごとない方の催しに呼ばれた時に恥をかいてはいけないと言って。
澪は飽きっぽかったけれど、琴や和歌の先生のお宅に何度も伺って習っていたらしい。
要も、跡取りだからと教養として多少の事は習っていたっけ。
晴親さんや他家の高貴な子息と付き合うためにも、そういうものは必要なのだと父が言っていた。
私は。
……私は、澪や要がそういう事をしている時間には、たいてい御札を書いていた。
母と、澪の御札。家の名で納める御札。家で練習する澪の琴の音を、襖の向こうで聞いた事はある。
「……私は、そういう優雅なものはあまりできなくて」
私は小さく答えた。
「では、千咲様は空いた時間にどんな事をなさるのですか?」
眷属のひとりが不思議そうに尋ねて、私は少し考えた。
空いた時間なんて、あっただろうか。
でも、わずかに時間ができた時。家事と帳面と家族の用事が一段落した時。夜中、誰も起きていない時。早朝、予定よりも早く起きてしまった時。
私は、何をしていただろう。
「……御札を書いていました」
答えると、眷属達がぱっと顔を輝かせた。
「まあ」
「千咲様は、御札を書くのがお好きなのですね」
「なんとお勤め熱心な」
「さすが主様がお連れしたお方」
「い、いえ。趣味というか」
私は慌てた。御札を書くのは、私にとって仕事だった。やらなければいけない頼まれ事で、家を支えるためのものだった。
でも、好きではないのかと言われたら、違う。
私は御札を書くのが嫌いではない。
墨を磨り、筆を持って、墨を含ませ、白い札紙の上に線を置いていく。余白を読み、文字の流れを整え、神の名を正しく記し、祈りを形にする。
うまく書けた時の心の底まで澄み渡るような晴れ晴れとした感覚は好きだけど、言葉では上手く言い表せない。
だから、趣味と言われると少し違う。でも、間違っているとも言えなかった。
「ここでは御札は書かないのですか?」
「え?」
「千咲様の御札を見てみとうございます」
「主様があれほど褒めていらした御札ですもの」
「花嫁様の御札」
「これ、花嫁様とお呼びするなと言われてるでしょう」
「そんな、私の御札なんか」
反射的に言うと、眷属達が少しだけしゅんとした。
私は慌てて手を振って言葉を付け足す。
「あの、御札を書くのは構いません。ただ、その……」
言いかけて、胸の奥が詰まった。
御札を書くなんて、私にとって慣れた事のはずだ。何千枚、何万枚と書いてきた。母の名で、澪の名で、御影家の名で。
けれど、龍臣様の社で、私の名前で書くとなると、急に怖くなった。
私は、本当に自分の名で札を書いていいのだろうか。
*
御札とは、ただ綺麗な文字で決められた通りに書けばよいものではない。
霊力を持ったものが正しく書く事で、初めて効力を持つ。
神の名。詞、印。詞を書く順序、筆の運び方や線の太さ、文字同士の間合い、使う札紙の大きさや素材。
そういった細やかな事が一つでもおろそかになると、御札はただの紙になる。
けれど、形だけ整っていても駄目だ。
御札は、神の御名を記し、その御力の一端を借りるもの。
込めた祈りが、神名と詞を通って、札の中に道を作って神様に正しく届いた時に初めてお力を借りる事ができるのだ。
だから、祖母はよく言っていた。
『御札はね、使えば力が振るえるというものではないよ。守りたいと願う心を、形にするものなのだから』
幼い頃は、よく分からなかった。今でも全ては理解できていない。
ただ、祖母がそう言うから、線が乱れないように、祈りをきちんと込めて書いた。
母や澪の名義で札を書くようになってからも、祈りだけは本当に込めて書いていた。
名前は私のものではなくても、この札を持つ人が守られますようにと願った。
けれど、今。
龍臣様の社で。龍臣様の眷属達の前で、私の名前で御札を書くなんて。
それを考えただけで手が少し強張った。
眷属達が用意してくれた文机の前に座る。真新しい札紙が置かれている。
私の祖母の筆と硯箱も、横に置いてある。
筆を手に取って筆を走らせていく……でも、最後に御札の裏に名前を書こうと思った時に、動けなくなった。
簡単な戸口守りや、力の弱い病除けなら、今までもたくさん自分の仕事として書いていた。
けれど、きちんとした守り札に、自分の名前を記すのはいつ以来だろう。
私の名前で、龍臣様の社の札を書いていいのだろうか。
私の御札だなんて、言っていいのだろうか。
「どうした」
背後から声がして、私はびくりとした。龍臣様だった。
水脈を見に行かれていたはずなのに、いつの間に戻られたのだろう。
「龍臣様」
「筆が止まっている」
「……はい」
隠しても仕方がない。私は、名義を書くべき御札の裏を見つめたまま言った。
「自分の名前で、書いていいのか分からなくて」
周りで私が御札を書くのを見守っていた眷属達が静かになる。
「私ずっと、代わりに書くように言われて母や澪の名前で御札を書いていたんです。そうする方が、家のためにも、使う人のためにもいいのだと思っていました。私の名前で書いてあるより、使う人も安心するだろうからって思って」
言いながら、自分の声が少し小さくなっていた。
「だから、龍臣様の社で、私の名前で御札を書くのは……なんだか、畏れ多くて」
龍臣様はしばらく何も言わなかったが、静かに口を開いた。
「御札とは、祈りを形にしたものだ」
胸が、どくんと鳴った。その言葉が、祖母の声と重なったからだ。
守りたいと願う心を、形にするものだよ。
「札に記す名は、祈った者が誰であるかを示すものだ。お前が祈るなら、お前の名を書くべきだ」
「でも」
「お前の祈りを、他人の名で塗りつぶすな」
その声は、叱るようでいて、どこか切なげだった。
「札とは、ただの道具ではない。誰かの無事を願う心だ。祈った者の名を奪う事は、その祈りを奪う事と同じだ」
私は筆を握りしめた。祈った者の名を奪う。
それは、母や澪がした事だろうか。
それとも、私が許してきた事だろうか。
また自分を責めそうになって、私は唇を噛んだ。
「千咲。これは俺の社だ」
龍臣様は、少しだけ柔らかい声でそう言った。
「俺が許す。お前の名で書け」
その言葉は、静かだった。でも、私の胸の奥に深く届いた。
龍臣様が許す。
この社の主である龍臣様が。私の祈りを、私の名前で形にしていいと。
私は、息を整えて、札紙へ向き直った。私以外の名前を書かなくて良い。
書くのは、守り札。強い力を持つものではない、持つ者の身を水と雷のあらゆる災いから穏やかに守るための札。
神名には、鳴神龍臣命の名をお借りする。
私は改めて筆に墨を含ませて穂先を整えると、自分の名前をそこに記した。
御札に自分の名前を書くのは久しぶりだったので、ほんの少し、違和感すら覚えた。
御影千咲。
何の変哲もないその文字を書いた瞬間、札紙が淡く光った。
最初は、ただ墨が乾く前に外から差し込む光を受けたのかと思った。
けれど違う。
白い札紙の上に、澄んだ光が広がっていく。
水面に朝の光が差したような、強いのに柔らかい光。
その光は詞の線をなぞり、神名のところで一度深く輝き、最後に私の名前の上で静かに落ち着いた。
部屋の中が、しんと静まった。眷属達が息を呑む。
「……美しい」
誰かが、小さく言った。
「なんて澄んだ札」
「祈りの道が、真っ直ぐに通っております」
「千咲様は、素晴らしい札師でいらっしゃる」
「さすが主様が見込まれたお方だ」
少しずつ広がっていく賞賛の言葉に、私は慌てて首を振った。
「そんな、たまたまです」
口が、いつものように勝手に動いた。
「今日は紙も墨も良いものですし、龍臣様の神域だから力が通りやすかっただけだと思います。私なんて、本当にそんな大したものでは――」
「千咲」
龍臣様の声が、静かに私の言葉を止めた。
私ははっとした。まただ。そう思うより早く、龍臣様が私を見ていた。
「お前はなぜ、自分を低く言う」
答えられなかった。どうして、と聞かれても分からない。褒められると怖い。
私なんて、そんな大したものでは。
そう言えば、その場は丸く収まる。
相手も、私が得意になっているとは思わないだろう。母にも、みっともないと言われずに済む。
でも、ここには私を「みっともない」と思うような人はいないはずなのに。
「……分かりません」
私は小さく言った。
「そう言わないと、落ち着かないんです」
「落ち着かない?」
「はい。褒められた時に、ありがとうございますって言うだけだと……得意になっているみたいで、嫌な子に見える気がして」
言ってから、胸の奥が痛くなった。これは、誰の声だろう。
百点を取って報告した時の母の顔。
褒めてもらいたくて仕方がないみたいで、少しみっともない。
その言葉が、今も私の中に残っている。私は、ずっとその言葉に従っていたのかもしれない。
褒められた時に受け取らずに、謙遜する。そうするのは、自分の癖だと思っていた。
でも、本当は……傷だったのかもしれない。
そう気付いた瞬間、胸の奥がじわりと痛んだ。
私は橋の下で拾われた子ですから。
出来が悪くて、地味な事しかできないので。
自分で言えば、誰かに言われるより少しだけ痛くない。
私は、まだ光を帯びている守り札を見つめた。
自分の名前が、そこにある。その名前の上で、光が静かに滲んでいる。
私は、何も言えなかった。
龍臣様は、急かさなかった。
ただ、私の胸の中でずっと笑ってごまかしてきたものが、少しずつ痛みとして形を取り始めていた。