作品タイトル不明
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それから私は、少しずつ龍臣様の社の仕事を手伝うようになった。
真綿にくるまれるように大切にされるだけでは、どうしても落ち着かない。
龍臣様は、何もしなくていいと言った。
けれど、ただ守られているだけでは、足元がふわふわしてしまう。それに、龍臣様のお役に立ちたいと純粋に思う。
だから私は、許しをいただいたうえで、記録の整理を続けさせてもらった。
祭祀記録を年ごとに分ける。供物台帳と返礼の記録を付き合わせて確認する。
神祇省への返書を下書きする。古い記録と新しい記録を照らし合わせる。
眷属達は、何かを頼むとすぐ動いてくれる。そしてパタパタと私の動きについて回り、仕事を本当に珍しそうに見ているのだ。
「千咲様、また紙束の山が減りました」
「この前まで、供物台帳は供物台帳置き場という名の混沌でしたのに」
「これで主様に何を聞かれても答えられます」
「主様が聞いてくだされば、ですが」
最後の言葉に、眷属達が少しだけ目を泳がせた。
龍臣様は力のある神だ。水脈を見れば異常を見抜き、妖異が出ればすぐに調伏できる。嵐を鎮め、雨を恵みに変える力を持つ。
けれど、どうやら記録や書類仕事は本当に苦手らしい。
祭祀を行った事は覚えている。どの水脈がどう乱れていたかも分かっている。どの妖異を調伏したかも忘れていない。
ただ、それを紙に残す事を後回しにしてしまう。
眷属達も龍臣様に似ているのか、体を動かす仕事は得意だった。
社を清める。料理を作る。水脈を見回る。妖異が出た時の戦闘に備える。そういう事は、目を見張るほど素早い。
でも、帳面を開いてそれらの仕事を記録するとなると、皆そっと目をそらす。
「この社には、事務が得意な方はいらっしゃらないのですか」
私がそう尋ねると、眷属達は互いに顔を見合わせた。
「昔は、ひとりおりました」
「ですが主様が神座を離れてから、大神宮へ移りまして」
「それからは、皆で少しずつ」
「少しずつ積み上げて」
「山になりました」
最後は、皆でしょんぼりしたので少しだけ、笑ってしまった。
今度は、笑っても胸が痛くなかった。
誰かを下げるためでも、自分を傷付けるためでもなく、ただ少しおかしかったから笑ったのだ。それがまた、不思議だった。
そうして何日か記録を整えているうちに、私はひとつの違和感に気付いた。
最初は、ほんの小さなものだった。
水の祭祀の記録を、地域ごとに分けていた時の事だ。
水鎮祭。雨乞い。井戸清め。水脈鎮め。川筋の調整……水を司る神である龍臣様の社にはそれら全ての報告が舞い込んでくる。
神祇省から派遣された巫女や陰陽師が、どの土地で、どの御札を納め、どの神に祈り、その後、水脈がどう変わったか。
そういう記録が、ばらばらの紙束の中あちこちに埋もれていた。
私はそれを土地ごとに並べ直し、祭祀の日付と、使われた御札の名義、それから祭祀後の水の変化を一枚の紙に書き写していく。
最初は、ただ見やすくするためだった。
同じ土地の記録が別々の箱に入っていると、後で探す時に困る。
雨量の記録と、井戸の水位と、川筋の変化が別々に置かれていると、祭祀がうまくいったのかどうか分かりづらい。
だからまとめ直しただけだった。けれど、並べると、見えてしまう違和感があった。
「……あれ」
私は筆を止めた。
手元にあるのは、東国の村で行われた豊水祈願の祭祀の記録だった。祭祀に出席した巫女の中に、御影澪の名前がある。当然、納められた御札の中にも御影澪の名義のものが記録されていた。
水神の加護を持つ澪が出席した祭祀だ。なら、本来なら、その土地の水脈は整うはずだった。
けれど、祭祀後にその土地の記録と付き合わせるとこうなる。
井戸の水位、変化なし。田へ引く水路が末端まで届かず。
雨量、平年を下回る。ただし、村の北側の沢のみ一時的に増水したので、別の陰陽師を呼び、式を使って溜め池に水を満たしてもらったそうだ。
私は眉を寄せた。
雨がきちんと降っていない。いいえ、全く降っていないわけではない。ただ、必要な場所に降っていないのだ。
水を願った田畑には届かず、山の沢だけが少し荒れただなんて。水神の加護を持つ澪が出席した祭祀なのに。
私はもう一つ思い出して、先ほどまとめ直した別の紙を引き寄せた。
今度は、南の地方の井戸清めの記録だ。これにも、出席者の中に御影澪の名前がある。当然、納められた御札の中に御影澪の名義があった。
祭祀後、その地方の井戸の濁りは一時的におさまった。
けれど三日後、隣の村の井戸に濁りが出たのだ。そしてそのさらに五日後、大雨が降ったのに田畑に水を引く川はほとんど水が増えなかったという記録もある。
大きな災いではない。だから、切り取ってひとつずつ見ればほとんど問題はないように見える。
井戸の濁りは一度おさまっている。近くの沢も水は増えた。雨も、降らなかったわけではない。
けれど、並べると分かる。水の流れが、細かくずれている。
水神の加護で整えられたというより、どこかから無理に水を引っ張ってきて、別の場所を歪ませているように見える。
私は、さらに記録を探した。確信めいたものをじわじわと感じて、澪が出席した祭祀だけを抜き出していく。思った通り、祭祀後の各地の記録はどこかおかしかった。
ひとつひとつは、小さなずれである。局所的に見れば祭祀の効果は出ている。
けれど、いくつも並べると、その「ずれ」は偶然とは思えなかった。
「千咲様?」
隣で文箱を運んでくれていた眷属が、不思議そうに私を見た。
「どうされました?」
「あ、いえ……」
私は慌てて首を振りかけて、でも手元の記録から目を離せなかった。
「少し、気になる記録があって」
「気になる記録?」
「はい。とある巫女……いえ、私の妹の、御影澪が出席した水の祭祀の後、水の加護がきちんと通っていないのです」
口にしてから、胸の奥が少し冷えた。
妹の名前をこんなふうに口にするのは落ち着かない。私は澪を責めたいわけではない。
澪は妹だ。
甘やかされていて、ずるい所もあって、私を困らせる事も多かったけれど、それでも私は、澪を傷つけたいわけではない。
澪はたしかに水神の加護を持つ娘で。神祇省も、御影家も、ずっとそう言ってきた。
だから、澪が出席した祭祀の記録がおかしいなんて、本当は考えたくない。
私は別の束を取り上げる。
「この国の水脈自体が乱れているのかと思いました。でも、他の祭祀後の記録は問題ないんです」
それは、澪が出席していない記録だった。つまり、他の巫女や陰陽師が自分の名で御札を書き、その本人が祭祀に出席した記録だった。
雨乞いをした土地には、種を流さない程度の穏やかな雨が降っている。
井戸清めをした井戸は澄み、その後も周囲へ濁りは広がっていない。
川筋の鎮めをした土地では、支流までその力が及んで、堤防も橋も雨が降っても壊されていない。
私は、澪の記録をもう一度見た。
御札の名義は御影澪、祭祀に立ったのも御影澪となっている。 記録の上では、何もおかしくない。
けれど、私は知っている。
少なくとも、そのうちいくつかの……いいや、ほとんどの御札を書いたのは澪ではない。
私が書いて、澪の名義で納めた。
そして澪が、その御札を書いた、水神の加護を持つ巫女としてその場に立った。
胸の奥が、ざわりとした。
もしかして……そんな考えが浮かんで、私はすぐに打ち消した。
だって、そんな話聞いた事がない。
でも……龍臣様は言っていた。
御札には、作り手の霊紋が残ると。札に込められた祈りは、名義として記録された澪ではなく千咲、私のものだと見抜いた。
なら、私の祈りを込めた御札を、澪のものとして神前に納めたら。
その土地の水神様は、どう受け取るのだろう。
私はその答えを知らない。知らないけれど、手元の記録は、どこか噛み合っていない。
澪が出席した土地だけ、水の加護が少しずつずれている。
水が足りない場所に降らず、別の場所で増えすぎる。井戸は一つ澄んでも、隣が濁る。川は一筋鎮まっても、支流が荒れる。
大きく破綻しているわけではない。
「千咲様、お顔の色が」
眷属が心配そうに言った。
「大丈夫ですか?」
大丈夫、そう答えかけて私は言葉を止めた。
私は息を整えてから、少しだけ言い直す。
「少し、怖い推測が浮かぶ記録です」
眷属は目を瞬かせた。私は、澪の名前が並ぶ記録を見つめた。
「これが偶然なのか、何か理由があるのか、まだ分かりません。でも、同じような記録が他にもないか、調べた方がいいと思います」
「龍臣様にお伝えしますか?」
龍臣様のお手を煩わせていいのだろうか。
不安に思ったけど、あの方は例えそうでも怒ったりしない。
「はい。後で、見ていただきたいです」
これは、私一人で考えていい事ではない。
そう思った胸の中ではもう、嫌な予感が静かに形を取り始めていた。
私は澪に関係した記録を、別の文箱へそっと分ける。私は何を見つけてしまったのだろう。
私が澪の名で御札を書いてきた事が、ただ家の中の不正に留まらず、どこかの土地の水にまで影響していたのだとしたら。
それは、誰の責任なのだろう。
澪の……いいえ、名前を違える事を受け入れて書き続けた私の責任ではないだろうか。