軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

龍神様の神域

翌朝、目を覚ました時、私は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。

美しい白木の天井。木目は滑らかで、節なんて見当たらない。障子の隙間から差し込む光は人の世の朝日とは少し違う。白くて、澄んでいて、体の奥まで静かに染み込んでくるような光だった。

布団は信じられないくらいに柔らかくて、ほんのり花の香りがする。私はしばらく現実かどうか分からなくて、そのまま瞬きをしていた。

……そうだ。

私は、龍臣様の神域にいるんだった。

昨日、御影の家を出て……龍臣様に連れられて、界渡りをして、人の脚では辿り着けないというこの神域へやって来た。

温かい食事をいただいて、湯を使わせてもらって、何もしなくても怒られない夜を過ごしたんだった。

大変、今何時だろう。朝餉の支度は間に合うだろうか――布団の上に体を起こしたその時、襖の向こうから控えめな声がした。

「千咲様、お目覚めでいらっしゃいますか」

「は、はい」

慌てて返事をすると、昨日私を湯殿へ案内してくれた小柄な女の眷属が顔を出した。紺色の衣に、小さな角。手の甲に細かな鱗のような模様がある。

「おはようございます、千咲様。朝餉の支度が整っております」

「朝餉……」

そうだ、ここは御影家ではないのだ。客人扱いされている私が家事に手を出したら失礼になってしまう。

「はい。主様もお待ちですので、お仕度が済み次第お部屋にご案内します」

「す、すぐ参ります」

龍臣様がもうお待ちになっているなんて! ぐっすり眠ってしまった、と私は慌てて布団を畳もうとした。

けれど眷属は、ぱっと目を丸くする。

「千咲様、お手を煩わせるわけには参りません」

「でも、私が使った布団ですし」

「お客様にそのような事をさせたと知れたら、主様に叱られてしまいます」

「叱られる……」

私は思わず手を引っ込めた。この方達が叱られるのは困る。私が余計な事をして誰かを困らせるのは嫌だ。

そう思って大人しくしていると、眷属はにこりと笑った。

「主様の大切なお客様のお世話をできるのが嬉しいのですよ」

嬉しい。そう言われて、私は何だか不思議な気持ちになった。

何もしない事が、誰かの迷惑になるのではなく、むしろ喜んでもらえるなんて。

そんな感覚に慣れないまま、私は新しく用意してもらった着物に着替えると部屋を出た。

朝餉の部屋へ通されて、龍臣様の向かいに用意された御膳を見た私は思わず固まった。

昨日の夕餉も立派だった。けれど、今朝の膳は、それよりさらに豪華になっている。

一人分なのだろうか……と思うほど、膳の上にはたくさんの皿が並んでいた。

「おはよう、千咲」

龍臣様の声がして、はっと顔を上げる。

昨日よりも少し寛いだ衣を着ているのに、やはりそこにいるだけで空気が変わる。白銀の衣は朝の光を受けて昨日より淡く光り、黒髪の間の銀の角は自ら光っているかのような輝きを放っていた。

「お、おはようございます」

私は頭を下げると、促されて座布団に座った。

膳を間近にすると、ますます緊張してしまう。どこから箸をつければいいのか分からない。

龍臣様は私の膳を一瞥して、少しだけ眉を寄せた。

「昨日の夕餉は、急にお前を連れてきたせいで有り合わせになってしまったそうだ。すまなかった」

「えっ」

私は顔を上げた。

昨日の食事を思い出す。白いご飯に、温かい吸い物。焼いた魚と煮物。金平糖まであった。

あれが、有り合わせ。

「そんな事ありません。昨日のお食事、とても美味しかったです」

気を遣うためではなく、本当にそう思った。どの品も本当に美味しかった。

それに、自分のために用意された温かい食事というだけで、泣きそうになるほどだった。

だから、私はまっすぐ偽りなく口にする。

「本当に、美味しかったです」

「そうか」

たったそれだけの返事なのに、龍臣様は目を細めて、どこか嬉しそうに応えた。

その事に気付いて、私はまた落ち着かなくなる。

神様を喜ばせた?

私が?

そんな事を考えた途端、急に畏れ多くなって、箸を持つ手に力が入る。そうして眷属達が給仕で控えている中、私はゆっくり食事を始めた。

昨日と同じ、とても美味しい。

白米はつやつやしていて、噛むと甘みを感じる程。汁物は出汁が澄んでいて、焼き魚は照り焼きになっていて皮まで香ばしい。小さな煮物も、ひとつひとつ丁寧に味を含んでいる。

でも、全部は食べられなかった。

お腹は空いていたはずなのに、緊張しているせいか、すぐにいっぱいになってしまう。

それでも残すのは申し訳なくて、私は箸を止められずにいた。

「無理に食うな」

何とか押し込むように口を動かしていると、龍臣様が言った。

「せっかく用意していただいたのに、残してしまうのが気がかりで……」

「食べきれぬ事を、そこまで気にするのか」

「……用意していただいたものですから」

「ならば、次から量を減らさせる。今は残して良い」

「い、いえ、勿体ないですから」

「お前に無理をさせたい訳ではない。遠慮ではなく、事実を言え」

そう言われると、黙るしかなかった。神様相手に嘘は吐けない。私は少し考えてから、小さく答えた。

「……今朝の半分くらいで、十分だと思います。夕餉も、昨日の量でちょうどいいくらいです」

「分かった」

龍臣様は眷属へ目を向けた。

「次からそうしろ」

「はい、主様」

命令された眷属が嬉しそうに頷く。

私はまた、不思議な気持ちになった。

私の食べられる量を気にして、誰かが合わせてくれるなんて初めての経験で、なんだか不思議だった。

朝餉を終えた後、私は部屋へ戻るつもりだった。

けれど、何もしないまま戻る事がどうしても落ち着かなかった。

自由に過ごせ、と言われても私はどうしたらいいか分からない。

それに、自分の事すら何もしていない。布団すら畳んでないのだ。このままでは、私はただ守られているだけになってしまう。

こんな過ごし方、極楽でしかできないだろう。でも、落ち着かない。

あまりに身の置き所がなかった私は、社の中を少し見て回ってもいいかと近くにいた眷属に尋ねた。

すぐに紺色の衣の眷属が案内してくれる事になった。今朝も部屋に来てくれたものだ。

「主様の社は広いですから、迷われてはいけませんもの」

「ありがとうございます」

そうして歩き始めると、改めてこの神域がどれほど整えられているかが分かった。

廊下は磨き上げられている。柱にも手垢ひとつない。

庭に面した縁側には水を打ったような静謐さがあり、社の外の石畳にも落ち葉一つなかった。

厨では料理を担当する眷属達が昼餉の下ごしらえに手際よく動いている様子が見える。

龍臣様が三百年余り神座を離れていた間も、この社はずっと守られていたのだ。主が戻る日を待って、眷属達が磨き続けていたのだと思うと、胸が少し熱くなった。

けれど、社の奥へ進むにつれて、少しずつ様子が変わっていった。

掃除はされている。

けれど、部屋の隅に積まれた文箱の量が多い。棚には巻物が詰め込まれ、紐で括られた紙束がいくつも重ねられている。畳の上には埃こそないが、書類の山があちこちにある。

そのうち、ひとつの部屋の襖が半分ほど開いていた。そこから、紙がなだれのように少しはみ出している。

「……あの」

私は思わず立ち止まった。

「あのお部屋は?」

案内してくれていた眷属が、ぎくりとしたように肩を揺らした。

「しゃ、社務の記録を保管する部屋でございます」

「社務の記録……」

「はい。主様がお戻りになられたので、いずれ整理しなければならないとは思っておりまして」

いずれ。その言葉に、私は嫌な予感がした。

襖の前へ行って、開いていた隙間から中を覗いた私は……、思わず息を呑んだ。そこには一面、書類が積み上がっていたのだ。

私は、しばらく声が出なかった。

掃除もお料理も、湯殿の管理も部屋の支度も完璧なのに……書類だけが、きちんと手を付けられず山のように積みあがっている。

「あの……これらは、いつから」

「主様が神座を離れられてから、少しずつでございます。三百年余り、どうにか最低限の返書などはしていたのですが……主様がいらっしゃらない間、社として大きな祭祀はできませんけど……それでも水を司る神として供物は届きますし、水脈の報告も届きますし、色々と……」

「龍臣様が神座を離れていらした間の……」

という事は、ほぼ三百年分の書類という事だ。

「はい。それに、十五年前からは、主様が水を司る神へ戻るための修行を始められましたので、その記録も急に増えまして」

眷属は困ったように笑った。

「私達、妖異と戦う事や、社を掃き清める事や、料理をする事は得意なのですが、こういう紙の事はどうにも」

なるほど、と思った。確かに、昨日から見ていて分かる。

眷属達はよく働く。

湯殿を整え、食事を用意して、社を清らかに整えるのも、驚くほど手際がいい。

けれど、書類仕事というものは別の技術だ。両方やっている私だからそれがよく分かる。

記録をきちんと管理しないと、後で何かあった時に確かめられない。

書状もちゃんと処理しているのだろうか。何にどう返礼をしたのか分からない状態は恐ろしくないのだろうか。

神域に納められた御札の在庫も、補充の時期も、誰がどの札をいつ使ったかも分からないままになる。

私は、気付いたら部屋の入口に立っていた。

「千咲様?」

「これは、まず年ごとに分けた方がいいと思います」

口が勝手に動いた。

「その後で、祭祀記録、水脈や神域の報告、供物、調伏記録など内容ごとに分けます。その次に返書が必要なものと、記録だけで良いものを分類します。供物は、届いた日、奉納者、品目、返礼の有無を記録して……」

言いながら、私は近くの紙束を手に取った。紐が緩んでいたので結び直し、上から年月を確認する。続けて、すぐ下にあった紙束を見た。

やはり、内容も、記載されている日付も考えずにひと山にされてしまっている。

どうして、これが一緒に。

そう思った瞬間、手が勝手に動きそうになった。

年ごとに分けて、内容ごとに束ね直して、急ぎのものを手前に置いて、返書が必要なものには目印をつけて。そうすれば、少なくともこの山が何の山なのか分かるようになる。

けれど、すぐにはっとした。

ここは龍臣様の社だ。この書類は、龍臣様の神域の記録だ。

いくら気になるからといって、私が勝手に触れていいものではない。私は慌てて、手に取った書状を元の場所へ戻そうとした。

「何をしている」

その時、低い声がして私はびくりと肩を跳ねさせた。振り向くと、襖の前に龍臣様が立っている。

朝餉の時とは違う、少しだけきちんとした衣に着替えている。青い縞の入った白銀の衣の裾が、光を受けて水面のように淡く揺れていた。

「す、すみません」

私は反射的に頭を下げていた。

「勝手に触るつもりではなくて。ただ、少し見えてしまって、気になってそれで……」

「怒ってはいない」

龍臣様は首を伸ばし、私が足を踏み入れていた部屋の中を見回すような動きをした。

「……相変わらずだな」

「相変わらず、なのですか」

「俺が戻る前からこうだ」

後ろで案内してくれていた眷属が、気まずそうに目をそらした。

「主様が神座を離れられている間も、社は掃き清めておりました。供物も受け取り、水脈の報告も受け、大神宮への最低限の返書も……その、どうにか」

「どうにかした結果がこれか」

「申し訳ございません」

眷属はしゅんとしてしまって、私は慌てて首を振った。

「いえ、掃除はとても行き届いていますし、お料理の支度も、本当に素晴らしいです。ただ、書類は少し……その、ちゃんとした分け方をしていないだけで」

「分け方?」

「はい」

口が、また勝手に動いた。

「これは、まず年ごとに分けた方がいいと思います。その後で、祭祀記録、水脈や神域の報告、供物、調伏記録、大神宮や神祇省から来た書状に分けます。さらに返書が必要なものと、記録だけで良いものを別にして、供物は品目と奉納者、日付を台帳にまとめ直して……」

言いながら、途中で自分の声がだんだん大きくなっている事に気付いて、私は慌てて口を閉じた。

龍臣様が私を見ている。

また、勝手な事を言ってしまった。私が口を出していい事ではないのに。

そう思ったのに、書類の山が視界の端に入ると、どうしても気になって仕方がなかった。

これは、ただ散らかっているだけではない。神域を守るための大切な記録なのだと思うと、つい。

私は祖母の筆を持つ時のように、両手を胸の前で固く握りしめた

「龍臣様」

「何だ」

「この書類を、整理させていただけませんか」

言ってしまった。言ってから、胸がどくどく鳴った。

「勝手に触ってはいけないものだとは分かっています。でも、このままだと、必要な記録や返書が埋もれてしまうかもしれません。私、こういう事ならできます。ですから、もしお許しいただけるなら」

龍臣様は、黙って私を見ていた。その沈黙に、だんだん不安になる。

余計な事を言ったのだろうか。

神様の社の仕事を、人間の私が整理させてほしいなんて、あまりに分をわきまえない願いだったのではないか。

私は慌てて言葉を足した。

「もちろん、龍臣様や眷属の皆様のご迷惑にならない範囲で。重要なものは確認していただきますし、私が勝手に判断する事はしません。あの、ただ、少しでもお役に立てればと」

「千咲」

「はい」

「返礼しようなどと考えなくていい」

静かな声だった。

「昨日も言った。俺は、お前から返されるために部屋や飯を用意したのではない。お前を大切に扱いたいからしただけだ。だから、この書類も、ここにいるための対価として片付けようとしているなら、やらなくていい」

言われて、胸の奥が少し痛んだ。

たしかに、そう思っていたかもしれない。

何かをしないと落ち着かない。何かを返さないと、ここにいてはいけない気がする。

でも、それだけではなかった。

この紙束がこの神域の記録だと思うと、どうにかしたいと思った。

困っている眷属達の顔を見て、役に立ちたいと思った。

そして何より、龍臣様の社の大切な記録がこのまま埋もれているのが、どうしても気になってしまったのだ。

私は小さく息を吸った。

「返礼……という気持ちが、まったくないとは言えません」

龍臣様の目を見て、正直に言う。

「何かをしていないと落ち着かないのも、本当です。何かを返さないと、ここにいてはいけない気がしてしまうのも、本当です」

でも。

「でも、それだけではないと思います」

私は部屋の中の書類を見た。

「この記録は、龍臣様の社にとって大切なものですよね。供物をくださった方、祭祀をした土地、龍臣様が水を司るこの国の水脈の様子、妖異の調伏の記録。きちんと残っていないと、きっと後で困ります」

龍臣様は黙っている。けれど、遮らなかった。

「私が、龍臣様のためになる事を、ただやりたいからするのです」

言ってから、顔が熱くなった。

龍臣様のためになる事……なんて事を言ってしまったのだろう。

でも、嘘ではなかった。

「龍臣様が私にしてくださった事を、返すためだけではなくて……私が、そうしたいと思ったから」

言い終えると、中庭に面したこの縁側が少し静かになった気がした。眷属達も、息をひそめてこちらを見ている。

龍臣様は、しばらく何も言わなかった。その表情は読みづらい。でも、怒っているようには見えなかった。

むしろ。ほんの少しだけ、目元が柔らかくなったように見えた。

「そうか」

龍臣様は低く言った。

「お前が、俺のためにそうしたいと思ったのか」

「……はい」

「ならば、任せる」

あまりにあっさり許されて、私は一瞬、聞き間違えたかと思った。

「よ、よろしいのですか」

「ああ」

龍臣様は、書類部屋の前に集まっていた眷属達を見た。

「皆、千咲の指示に従え」

眷属達が一斉に背筋を伸ばした。

「はい、主様!」

「書類の扱いに関しては、千咲の方がお前達よりはるかに上だ。邪魔をするな。必要なものがあれば用意しろ」

「承知いたしました!」

「千咲様、何をお持ちすればよろしいでしょうか」

急に皆の視線が私に向いて、私は少し怯んだ。けれど、もう許可はいただいた。

なら、ちゃんとやらなければ。

「まず、空の文箱をできるだけたくさんお願いします。それから、分類を書ける短冊状の紙と、紐を。できれば、赤と黒の紐があると助かります。急ぎのものと、記録だけで良いものを色で分けたいので」

「赤と黒の紐!」

「短冊状の紙!」

「空の文箱を持ってまいります!」

眷属達が一斉に動き出した。私は部屋の入口で、もう一度書類の山を見る。

大きな山だ。

きっと、今日一日で全部は片付かない。でも、どこから手をつければいいかは分かる。

私にはそれができる。そう思うだけで、体が軽くなるように感じた。

それから、私はほとんど一日中社務の記録を扱っていた。

眷属達は驚くほど素直に働いてくれた。次から次へ書類の束をめくって分類する私に、さっと文箱を差し出してくれる。

「これは三十年前の水脈の報告です。肥州の国、年代別の水脈の箱へ」

「はい!」

「これは今年の大神宮からの通達です。龍臣様の確認が必要なものとして、そちらへ」

「確認が必要!」

「これは供物と共に捧げられた書ですが、返礼済みかどうかが分かりません。ひとまず未確認の供物関連の箱へ」

「未確認の供物箱!」

「これは妖異調伏寮への報告控えですね。調伏記録の箱へ。日付は確認してください」

「調伏記録!」

眷属達は、いちいち大きく頷いてくれる。

その反応が真剣すぎて、少しおかしくなりそうだった。けれど、笑っていいのか分からず、私は口元を押さえた。

まず内容ごとに分けたものを、年代順に並べていく。

龍臣様の確認が必要なものには赤い紐をかける。

台帳へ写すだけでよいものには黒い紐をかけて内容ごとに積んでいく。

供物は、届いた日、奉納者、品目、返礼の有無でまとめて、水脈の記録は、後で参照しやすいように土地ごとにまとめる。

整理し始めると、頭の中が澄んでいった。

こういう事は、分かる。

御影家でずっとやってきた事と似ているから。でも今は、こうして役に立てている事が心から嬉しいと感じる。

夕暮れに似た光が、神域の白い空の端に滲む頃には、記録部屋は見違えるほど変わっていた。

もちろん、全部が終わったわけではない。

三百年余りの間に積もった記録は、そんな簡単には片付かない。

けれど、床に崩れていた紙束は文箱に収まり、年ごと、内容ごとに仮の分類がついた。

処理が必要な書状はひとつの机にまとめた。龍臣様が確認するべきものは赤い紐で括った。

供物台帳は、今年の分だけは書き直した。水脈の報告も、いくつかの地域ごとに分けるところまでは終わった。

眷属達は、まるで荒ぶる妖異が鎮まったのを見たような顔をしていた。

「紙の山が……山でなくなりました」

「千咲様、すごいです」

「これが人の世の事務の力」

「主様の社に、文の神が来たのでは」

「違います。私はただ、少し整理しただけで」

そう言うと、眷属達は一斉に首を振った。

「少しではありません」

「我らが何年も見て見ぬふりをしていた山です」

「三百年余り、少しずつ積もった山です」

「それを一日でここまで」

見て見ぬふり。

自分達でそう言ってしまうのが少し可愛らしくて、私は今度こそ小さく笑ってしまった。

自分を下げるためではなく。ただ、少しおかしかったから。

そうやって零れる笑いもあるのだと、気付くのに少し時間がかかってしまった。

「随分、変わったな」

その時、入り口から声がかかった。龍臣様だった。

私は反射的に立ち上がる。

「龍臣様」

慌てて頭を下げようとしたけれど、龍臣様は手で制した。

「そのままでいい」

そのまま。

そう言われて、私は少し戸惑いながらも顔を上げた。

龍臣様は部屋の中を見回した。朝まで積み上がっていた書類の山。今は文箱に収められ、赤や黒の紐で分けられ、短冊の分類札が整然と並んでいる。

龍臣様は、赤い紐で括られた書状の束を手に取った。

「これは?」

「龍臣様の確認が必要なものです。大神宮からの通達が二通と、神祇省からの返書待ちのものが一通。それから妖異調伏寮への報告が戻っていない記録がありましたので、そちらも分けてあります」

「これは」

「今年分の供物台帳です。まだ全部ではありませんが、届いた日と奉納者、品目、返礼の有無が分かる分だけ書き直しました」

「こちらは」

「水脈報告です。地域ごとに分け始めたところです。まだ整理の途中ですが、いくつか気になる記録もあるので、後で確認できればと」

龍臣様は、ひとつひとつ見てから、私を見た。

「一日で、ここまでやったのか」

「はい。といっても、まだ仮に分けただけです。全部をきちんと整えるには、もう少しかかると思います」

「十分だ」

龍臣様は言った。

「助かった」

助かった。その言葉に、胸の奥がきゅっと熱くなった。

「俺も、こいつらも、こういう事は苦手だ。必要な事だとは分かっていても、つい後回しにする。お前が手を入れてくれたおかげで、ようやく何から片付ければいいか分かるようになった」

眷属達が気まずそうにしながらも、こくこくと頷いている。

「よくやった、千咲。ありがとう」

褒められた。今度は朝よりもはっきりと。

私は、反射的に今まで通りの笑みを浮かべた。

「そんな、大した事ではありません。こういう地味な事しか取り柄がありませんし、私はただ、家でもずっと雑用みたいな事を――」

「千咲」

龍臣様の声が、私の言葉を止めた。低い。怒りではないけれど、そこに私をたしなめるような響きを感じて、私は思わず肩を小さく震わせた。

何がいけなかったのだろう。

「まただ」

「……また、ですか」

「なぜ、自分の働きを低く言う」

私は言葉に詰まった。

「俺は礼を言った。助かったと言った。よくやったと言った。それを、お前はなぜ受け取らず、自分を下げる言葉に変える」

胸の奥が痛くなる。

褒められた時に、ただありがとうございますと言うのは怖い。

得意げにしていると思われたらどうしよう。褒めてもらいたくてやったのだと思われたらどうしよう。褒められたがっていてみっともないと思われたら。

母の声が頭の奥で響く。

褒めてもらいたくて仕方がないみたいで、少しみっともないもの。

私は思わず唇を噛んだ。

「……すみません」

「謝るな」

「す、すみ……」

私はまた謝りそうになって、慌てて口を閉じた。

龍臣様は小さく息を吐いた。

呆れているのではない。怒っているのでもない。少し困っているような顔だった。

「慣れろと言っただろう」

「……はい」

「褒められたら、ただ受け取ればいい」

簡単な事のように言う。でも、私には難しい。

それでも、龍臣様は待ってくれている。眷属達も、静かに私を見守っている。

私は両手を前で握りしめた。

「……ありがとうございます」

声は、とても小さかった。

「お役に立てたなら、嬉しいです」

言ってから、胸が変なふうに熱くなって。私を見ていた龍臣様は、ほんの少しだけ目元を緩めた。

「それでいい」

その言葉が、胸の中にゆっくり落ちていく。

完全に受け取れたかは分からない。でも、さっきみたいに龍臣様がくださった言葉を、自分を下げる話に切り替えなくて済んだ。

それだけで、少しだけ息がしやすくなった。