軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

界渡り

玄関まで来ると、父が慌てて前に出た。

「鳴神命」

さっきまで青ざめていたのに、声だけは何とか取り繕っている。長年、神祇省に勤めてきた陰陽師として、神の前で無様を晒すわけにはいかないと思っているような緊張感が籠っていた。

「お車を呼びます。神祇省へ向かう際に使ったものよりも大きなものを。千咲の荷もございますし」

でも龍臣様は、父を一瞥しただけで足を止めなかった。

「いらん」

「しかし、鳴神命。水神を祀る神社の総本社は雲州でございましょう。歩いて行くには遠すぎるかと。それとも今夜は都の中にある分祠をお使いですか」

「俺は神だぞ。人の道理で語るな」

龍臣様は静かに言った。その声を聞いた瞬間、胸の奥がすうっと冷えた。

この世界と地続きではない違う場所……私は、本当にそんな場所へ行くのだ。それぞれの神社が、それぞれの神様の神域に繋がっていると聞いた覚えはあるけど、たしかに水神を祀る総本社、龍臣様の社は遠く離れた地にある。

そこまでどう行くのだろうと考えると、風呂敷を抱く手に力がこもった。いや、どんなに遠くても、歩いてついていくつもりだった。

一度手を放された私は、龍臣様の後に続いて玄関のかまちの下、 沓脱石(くつぬぎいし) の上に置いてある草履に足を入れる。

「千咲」

「は、はい」

「荷をしっかり持っていろ」

「え?」

何を、と聞く前に、視界がふわりと浮いた。

龍臣様の腕が、私の背と膝の裏に回って……次の瞬間、私は龍臣様に横抱きにされていたのだ。

……横抱きに。

「え、あ、あの、龍臣様っ」

自分の声が裏返った。風呂敷を胸に抱いたまま、私は硬直した。

近い、近すぎる。

龍臣様の衣の白銀が、頬に触れそうなくらい近くで淡く光っている。

あの大広間で腕に抱えられた時と同じ、水の清らかさと雷の熱を同時に帯びたような香りが鼻先をかすめる。

腕はたくましくて、私の体を軽々と持ち上げている。

神様に抱えられている。そう認識した瞬間、慌てた私は体がカチコチに固まっていた。

「お、おろしてください!」

「危ないからじっとしていろ」

「自分の脚で歩きます。龍臣様のお手を煩わせる訳には……」

「人の世の道ならな」

龍臣様は当然のように言った。

「これより先は、界渡りをする。人の脚では越えられぬよ」

「かい、わたり……?」

「人の世と神域の境を抜けてこの世ではない場所を渡って直接神域に向かう。人の身で狭間に落ちれば、どうなるか」

怖い言葉だった。

私は思わず風呂敷を抱きしめて、体を小さくして少し震えた。

龍臣様の腕の中でなければ、その場にしゃがみ込んでいたかもしれない。

「だから抱いている」

龍臣様は、私を見下ろした。

「怖いなら目を閉じろ」

怖い。けれど、目を閉じるのも怖かった。

何が起こるか分からない。どこへ連れて行かれるのかも分からない。

でも、龍臣様は私を怖がらせた時、すぐに力を収めて謝ってくれた人だ。私の意思を聞いてくれた人だ。迎えに行くと言って、本当に迎えに来てくれた人だ。

私は、ゆっくりうなずいた。

「……じゃ、じゃあ……目を閉じています」

「ああ」

龍臣様の声が、頭の上で静かに響く。

私を抱き上げた龍臣様が歩き出して、後ろの方から家族の声が聞こえてきた気がする。けれど、それらはすぐに遠くなった。

龍臣様が、家の門から一歩踏み出す。舗装されていない砂利と土の道に出たはずなのに、足音はしなかった。

代わりに、水の中に潜った時のように私の体が何かを通り抜けた。

閉じたまぶたの裏に、青白い光が満ちる。耳元で風が鳴っていた。

いいえ、風だけではない。水の音。雷の音。遠くの滝が落ちる音。近くの草むらを何かが走り抜ける音。

体が沈むような、浮くような、不思議な感覚があった。

私の体は龍臣様に抱えられている。でも、その周りを流れるものは、道ではなかった。

足元も、空も、左右も分からない。世界そのものが重なり合っていて、そこを龍臣様がすり抜けていくようだった。

怖くなって、私は思わず龍臣様の衣を掴む。

「千咲」

低い声がすぐ近くで響く。

「ここにいる」

その言葉だけで、少し息ができた。私は閉じていた目を、ほんの少しだけ開ける。

すると、目の前にはいつの間にか水があった。それは不思議で、川でも海でもない。ただ青く澄んだ水が、空中をたゆたう絹のように流れているのだ。

その向こうには、夜のように暗い雲があり、雲の奥では稲妻が静かに光っている。

けれど、恐ろしい雷鳴はない。水の流れも荒れてはいない。すべてが龍臣様の呼吸に合わせるように、ゆっくりとうねり、道を開いていく。水と雷の間に、細い白い道が生まれていた。

龍臣様は、その道を歩いている。

人の脚では歩けない場所……その意味が、少しだけ分かった気がした。

ここは、人のために作られた道ではない。神が通る場所だ。

祈りや神威や、長く積み重なった祭祀の声が流れていく場所。本来だったら私なんかが足を踏み入れる事なんてできない場所。

怖い。けれど、美しかった。

青い水の向こうで、白い花のような光がいくつも咲いて空中に溶けるように消えていく。遠くで誰かが祝詞を唱えているような声が響いた気がした。それは今の声ではなく、過去から積もった祈りの残響のようだった。

私は、息を呑んだ。神様の世界というのは、こんなにも人の世と違うのか。

「着くぞ」

周りに広がる光景に目を白黒させていると、龍臣様が言った。

次の瞬間、青白い光が一気にほどける。

足の裏ではなく、体全体に清らかな水の中をくぐったような感覚があった。でも濡れてはいない。

一瞬、あまりの眩しさに目を閉じていた私が再び瞼を開けると……そこには、神域が広がっていた。

最初に見えたのは、水だった。

広く、静かな水面。湖のようで、けれど湖と呼ぶにはあまりにも澄んでいる。底まで見えるはずなのに、底がどこにあるのか分からない。

水面には空が映っていた。けれどその空は真っ白でひたすら明るく、一目で人の世の空と同じものではないと分かった。

真っ白い空に、極彩色の雲がたなびきゆっくり流れている。雲の奥では、時折、細い稲妻が花の根のように広がった。

でも雷鳴はない。

その白い空が映る湖の中央には、長い石畳の参道が伸びている。

水面から直接立ち上がる鳥居がいくつも連なり、その向こうに大きな社が見えた。

その大きな社は、白木と黒檀と銀の金具で造られていた。

屋根は深い藍色の、龍の鱗のような瓦が並んでいる。軒からは銀の鈴が吊るされ、風がないのに、かすかに澄んだ音を鳴らしていた。

足を踏み入れる前から胸が震える。

神聖な空気に心が洗われ、理由なく涙が滲んでくるほどの感動が自分の内から湧いてきた。

ただ綺麗なのではない。ただ美しいのでもない。

すべてがあまりにも神聖で……私は息をするのもためらいを感じた。自分の吐く息で、この場所を濁してしまうのではないかと思ったからだ。

「龍臣様……ここは」

「俺の社だ」

龍臣様は静かに言った。

「長く不在にしていたがな」

その声には、ほんの少しだけ苦いものが混じっていた。

十五年前、橋の下で会った龍臣様は、神の世から追放されていた。その後、修行を続けて、今日ようやく神座へ戻られたのだ。

追放されて……その後修行をされている間も……この社は、ずっと主を待っていたのだろうか。

そう思った瞬間、参道の向こうから、ざわめきが起きた。

「主様!」

「主様がお戻りになった!」

「本当に、本当にお戻りになったのですね!」

声がいくつも重なって押し寄せてきて、私は驚いて体を縮めた。

社の方から、たくさんのもの達が駆けてくる。

人の形をした者もいた。水干姿の童子のような者。神社の出仕のような装束を着た、白い鱗の生えた青年。巫女のような装束を身につけた、小さな角を生やした女性。

石畳を滑る大きな白蛇もいる。

そしてその全員が、龍臣様を見ていた。

「神の世から追放されてから、三百年余りも経ちましたぞ、主様!」

「社守一同、ずっとお待ちしておりました!」

「大神様の使いより神の坐にお戻りになるとは伺っておりましたが、本当に……!」

龍臣様は、少しだけ気まずそうに目をそらした。

「騒ぐな。客がいる」

客。その言葉で、眷属たちの視線が一斉にこちらへ向いた。

そして今気付いたのだが……私はまだ、龍臣様の腕の中にいるのだ。

……まだ、抱えられている。こんなに大勢の前で。

その事に気付いた瞬間、私の顔は茹ったように熱くなった。

「あ、あの、龍臣様。もう下ろしていただいても」

「そうだな」

龍臣様は、ようやく私を石畳の上へ下ろしてくれた。

足が、神域の真っ白な参道に触れる。その瞬間、足裏から冷たい清水が染み込むような感覚があった。

でも不快ではない。むしろ、疲れきった体の奥まで、澄んだものが流れ込んでくるようだった。

人の世から遠く離れた、龍神様の清らかな神域。古いお召しを着て、風呂敷ひとつだけ抱えた私が場違いに感じて、少し申し訳なくなる。

「……すごい」

思わず漏れた声は、自分でも幼いと思うほど小さかった。でも、他の言葉が出てこなかったのだ。

眷属達は、輪になって私を取り囲むと顔を覗き込むように頭を動かしている。それから、誰かが小さく叫んだ。

「花嫁様だ!」

え。

「花嫁様!」

「主様が人間の娘を神域にお連れになった!」

「花嫁様だ、花嫁様だ!」

あっという間に、眷属たちの間で声が広がった。

「ち、違います!」

私は慌てて首を振った。

「花嫁だなんて、その、畏れ多いです。私は、十五年前のお礼にって、しばらくお世話になるだけで」

そう言うと、眷属たちが一斉に戸惑ったような顔をした

「神嫁ではないのですか?」

「人間の娘さんを神域にお連れしたのに?」

「主様がご自分の腕でお連れしたのに?」

「しかも主様、あんなにお優しいお顔を」

私は居たたまれなくなって、ますます顔が熱くなった。

龍臣様は、眷属たちを見下ろしてため息をつく。

「お前達、あまり千咲を困らせるな」

「でも主様」

「今はまだ、これでいい」

今はまだ。

その言葉が、耳に残った。今はまだ、とはどういう意味だろうか。

私は龍臣様を見上げた。けれど尋ねる前に、眷属の一人が私の前へ進み出た。

水色の衣を着た、小柄な女性だった。

人間のように見えるけれど、髪の間から小さな角が覗いていて、手の甲には細かな鱗のような模様がある。

「千咲様」

「さ、様なんて」

「主様がお迎えしたお方です。どうぞ、まずはお召し替えを」

「お召し替え?」

「はい。人の世の疲れを清める湯も用意しております。お食事もすぐに。お湯を使われている間に、お部屋も整えておきますので」

「い、いえ、そんな。私はこのままで、お構いなく」

「なりません」

別の眷属が、きっぱり言った。

「主様が抱き上げて大切にお連れしたお客様に、何もしないわけには参りません」

「抱き上げて……」

そうだった。仕方がないとはいえ、神様に抱っこされてしまったのだった。そう思うと、胸の奥がまた落ち着かなくなってしまう。

「千咲。任せてよい……こいつらは少し騒がしいが、悪いようにはせぬ」

「……はい」

龍臣様にまでそう言われてしまっては、私は頷くしかなかった。

そうして眷属達に案内され、私は社の奥へ連れて行かれた。

龍臣様の眷属達は、私の荷物を預かると湯殿へ案内した。

滝から引いた清水を温めた、神気の融け込んだもので、湯気の中には白い花が浮かんでいる。人が沸かしてくれたお湯を使うなんていつぶりだろう。子供の頃、まだ使用人がいた時以来かも知れない。それに花が浮かんだ湯に入るなんて初めてだ。(背中を流すという申し出には抗わせてもらった)

そして、湯から上がると私が持って来たものより何倍も上等な着替えも用意されていた。

柔らかな薄青の小袖に、白い襦袢。淡い銀鼠の帯。

どれも、派手ではない。でも、私の好みに合っている。

それにしても、どうして裄も丈もぴったりの着物が用意されているのだろう?

私が着替えを身に着けて廊下に出ると、待っていた眷属達が嬉しそうに笑った。

「お似合いです」

「千咲様は、澄んだ色がお似合いですね」

「主様にお見せしたら、きっと……」

「こら、千咲様を困らせるなと主様が」

眷属たちは楽しそうだったけれど、私はどう反応していいか分からずただ小さく頭を下げた。

「こんな素敵な着物を用意していただいて、ありがとうございます」

そう言うと、眷属たちはますます嬉しそうにしていた。

お礼を言われる事に慣れていない私が、お礼を言うと、相手が嬉しそうにする。

それが、何だか不思議で、落ち着かなかった。

「ささ、はやくこちらに。主様がお待ちです」

案内された広間の一番奥には、龍臣様が神祇省で見た時よりゆったりした御着物にお召し返されていた。

広い空間で、龍臣様の向かいに畳の上に一つだけ置かれた御膳には、温かい食事が用意されている。どうやらそこが私の席であるようだった。

白いご飯に、湯気の立つ吸い物。鮎を焼いたものと、綺麗に盛り付けられた野菜と厚揚げの煮物。白い花びらを浮かべた水と水差し……それから、甘いものとして、金平糖が小皿に少し。

金平糖を見た瞬間、私の胸が震えた。眷属が用意したのだろうか。それとも龍臣様が?

用意された御膳の向かいに座った龍臣様は脇息に体重を預けて徳利を傾けて何かを飲んでいた。お酒だろうか。神様なのに、私と一緒の食事の席に当たり前のように座っているのが不思議な光景だった。

「食え」

「は、はい」

ぼんやりしてしまっていた私は座布団に座ると箸を取った。

朝は早くて、澪の準備の手伝いで忙しくてろくに食べ物を口に入れていないからお腹は空いているはずだった。でも、緊張で手がうまく動かない。

私は粗相をしないように気を付けながら、ゆっくりと一つ一つ口に運んでいく。こんなに温かい食事を、自分のためだけに用意された事があっただろうか。

家では、家族の分を先に用意して、給仕が終わった後に残ったものをかき込むように食べる。冷めていても、量が少なくても、そういうものだと思っていた。

ここでは、私の前に温かいご飯がある。私のために、湯気が立つ程作り立ての物が用意されていた。

恐る恐る吸い物を口にすると、温かい出汁の味が体の奥へゆっくり広がって。美味しいと、そう思った瞬間、急に泣きそうになって慌てて目を伏せた。

「どうした」

「い、いえ。美味しくて」

「そうか」

龍臣様は少しだけ目を細めて口の端だけで笑った。

「ならば食え。お前は痩せすぎている」

「そんな事は」

「ある。お前を抱き上げた時、とても軽かったからな」

きっぱりと言われて、私は言葉を失った。神様に抱き上げられて、重さまで知られてしまったという事を自覚して、顔が熱くなってしまったのだ。

恥ずかしくなって黙ったまま食事を続ける。龍臣様は、何が興味深いのか、食事をする私をただじっと見つめて杯を傾けていた。

湯舟も、この着物も、御膳に添えられていた金平糖も。

こんなにたくさんのものを用意していただいている。

私は、何を返せばいいのだろう。十五年前の約束を果たすためだけにここまでしてくださるなんて、申し訳なさ過ぎて、何かをしなければここにいてはいけない気がした。

「龍臣様」

「何だ」

「こんなにしていただいて、私、何をお返しすればよろしいでしょうか」

口にした途端、龍臣様の表情が少しだけ変わった。怒ったわけではないようで、でもほんの少し悲しそうに見える。

「返さなくていい」

「でも」

「ただ、俺がお前にしてやりたいだけだ」

静かな声だった。

「お前は、あの日、俺に見返りを求めたか」

「それは……私は子供でしたし」

「子供であっても、あれはお前の優しさだった」

龍臣様は、私を見る。

「あの日、お前は俺に金平糖を分けた。傷を見て、痛いの痛いの飛んでいけと言った。俺が神だなどと知らず、何の得にもならぬと分かっていて、それでも優しさを向けた」

「でも、そんな大した事では」

「俺にとっては大きな事だった」

言葉が止まった。龍臣様の声は、私が自分を否定する言葉を許さないほど静かだった。

「だから、これは返礼ではない。取引でもない。俺が、お前に温かい飯を食わせたい。温かく整えた部屋で眠らせたい。美しい着物を与えたい。ただそれだけでした事だ」

胸の奥が、ぎゅっと苦しくなった。……たぶん、嬉しいのだと思う。でも、どう受け取ればいいのか分からない。

何も返さなくていいと言われると、足元がなくなるようだった。役に立たない私は、何かの役に立たないと落ち着いていられない。

「……こんな大切に扱っていただく事に、慣れていなくて」

「なら、慣れろ」

申し訳なさそうに答えた私に、龍臣様は言った。少し乱暴な言い方なのに、不思議と怖くなかった。

「俺は、お前を大切に扱うつもりしかない」

とても勝手な言い方なのに、その内容は優しくて、私は思わず小さく笑った。

その夜。

湯を浴び、食事を終え、用意された部屋へ戻ると、私は風呂敷をほどいて祖母の筆を手に取っていた。

何かを書こうと思ったわけではない。ただ、持っていないと落ち着かなかった。

窓の外には、神域の湖が静かに光っている。人の世の月とは違う、白く澄んだ光が水面に落ちて銀色に輝いた。

遠くで滝の音がする。銀の鈴が、風もないのにかすかに鳴っている。

何もしなくていい夜なんていつぶりか分からなくて、私は落ち着いていられなかった。

夕餉の片付けも、明日の朝餉の下ごしらえもしなくていい。帳面も書かなくてもいいし、家族の繕い物をしなくてもいい。

母や澪に頼まれた御札を書かなくてもいいし、要に頼まれた課題をしなくてもいい。

何もしなくていい。

そう言われたわけではないのに、誰も私に何も頼まなかった。

私が湯を使った後はとっくに片付けられていて、食事の膳も私が下げる事はなかった。

何か手伝わせて欲しいと言っても、みんな困ったように笑って「お客様にそんな事。今夜はお休みください」と言った。

今夜はお休み。

そんな言葉を、いつ以来聞いただろう。私は筆を握ったまま、これまた用意していただいた布団の横に座っていた。

清潔な寝具が敷かれている。柔らかく、白く、ほんのり花の香りが焚き染められている布団。部屋の中には、「筆をお持ちになった千咲様のために」と文机まで用意されていた。

その上には真新しい墨と札紙、それから小さな皿に盛られた金平糖が置かれていた。

私のために用意されたもの。

その横で座り込んだまま、眠ればいいのに眠れなかった。どうしても家の事を考えてしまう。

お母様は、今どうしているだろう。澪は泣いているだろうか。

お父様は、御影家の体面がどうなるか考えているだろうか。

私は、ひどい事をしたのだろうか。

家族が困ると分かっていて、家を出た。澪の御札も、母の御札も、要の課題も、途中のままだ。誰もが澪が選ばれると思っていた。色々な所から事情を聞かれるだろう。

私がいなければ、家はきっと困る。

それなのに、私はこんなに美しい神域に連れてきていただいて、温かいご飯を食べた。

湯を使わせていただいて、綺麗な着物を着せてもらった。

そして今は与えられた部屋で、のんびり何もせず祖母の筆に触れている。

胸の奥に、罪悪感がじわじわと広がっていた。

やっぱり戻った方がいいのではないか。

そんな考えが浮かんだ瞬間、襖の向こうで気配がした。

「起きているか」

龍臣様の声だった。

「はい」

返事をすると、襖の向こうで少しだけ間があった。

「入ってよいか」

神様が、私の部屋に入る許しを求めている。言葉にするとあまりにも現実感のない出来事で、それだけで、胸の中でまた変な風に動揺してしまう。

「は、はい。どうぞ」

私が手でさっと身嗜みを整えて返事をすると、龍臣様が部屋に入ってきた。

夜の神域の光を背に受けた龍臣様は、昼間よりもさらに人ならざるものである事がよく分かった。

白銀の衣は薄暗い部屋の中でも淡く光り、黒髪の間の銀の角には、水面の光が宿っている。

龍臣様の視線が、私の握っている筆に落ちた。

「……落ち着かなくて」

「そうか」

私はつい、それに対して言い訳するような言葉を口にする。龍臣様はそれだけ答えると、少し離れた場所に腰を下ろした。

「戻りたいか」

龍臣様が静かに聞いた。一瞬、何を聞かれているのか分からなかった。言葉の意味を理解してからも、私はすぐには答えられなかった。

戻らなければいけない気がする。でも、戻りたいのかと聞かれると、多分そうではない。

「家族が困ると思いまして……」

「そうだろうな」

龍臣様は、あっさり言った。

「だが、それはお前が悪いのではない」

その言葉を、すぐには受け取れなかった。

だって、頭の中で、母の声がする。私が澪に恥をかかせたとなじる母の声が。

「……まだ、そう思えません」

正直に言うと、龍臣様は少しだけ頷いた。

「すぐに思わなくていい」

「え?」

「今すぐ何もかも分かろうとしなくていい。お前は今日、一歩出た。それで十分だ」

一歩。

私は、風呂敷を抱えて家を出た時の事を思い出した。

罪悪感は消えなかった。

澪の涙も、母の声も、父の怒りも、全部胸に刺さったままだ。でもそれで十分だと、龍臣様は言う。

私は手にしていた祖母の筆を、縋るように両手で握りしめた。

「……何もしない夜って、変ですね」

自分でも驚くほど、ぽつりとした声が出た。

「変?」

「あ……何もしていないと、怒られる気がしてしまうんです」

「誰に」

「分かりません。でも、誰かに」

いいえ、きっと家族に。

龍臣様は何も言わなかった。ただ、私を責めなかった。

「何もしなくても、怒られないんですね」

「ああ」

「不思議です」

「慣れろ」

また、その言葉。少し乱暴に聞こえるのに、優しい。

私は小さく笑いそうになって、今度は反射的に出そうになった自分を下げる言葉を呑み込んだ。

窓の外で、湖が静かに光っている。神域の夜は、人の世の夜よりずっと静かだった。この社と月以外に灯は一切ない。

私は何もしなかった。

ただ祖母の筆を手に、龍臣様が少し離れた場所で静かにいてくれる気配を感じながら、初めて、何もしなくても怒られない夜を過ごした。