作品タイトル不明
16話
狗神に憑りつかれたはずなのに、満景が急に平然とした姿を取り戻した。
その事実に、英孝は驚いた後で睨みつけた。
「お前。どうやって狗神から逃れた。俺の狗神が呪えなかった相手なぞ、いままで居なかった!」
英孝の言葉を質問と受け取って、満景は自分が行った狗神の対処法を伝えることにした。
「兄さん。うちの――犬塚家の狗神の作り方は知っているよね。愛情を込めた犬を、顔だけ出す形で地面に埋める。その後で、その犬の目の前にご馳走を用意しつつ、食べられないように口輪をする。そのままの状態で放置し、ご馳走が腐り、埋められた犬も飢えと渇きで息絶え絶えになった頃、術者の手によって犬の首を切って殺す」
「俺は、一匹も狗神を作れなかったお前と違って、四匹もの狗神を作ったんだから、その程度のことは知っている!」
満景は、苛立っている英孝に、落ち着けと身振りしながら続きを話す。
「この作り方で出来た狗神の呪いの本質は、死にそうになるほどの飢餓と、ご馳走を目の前に飢えさせられた事に対する恨み。そして術者本人に恨みが向かわないのは、狗神化の儀式をする前までは、愛情を込めて育ててくれた恩があるからだ」
「だから講義など――」
「つまり狗神の恨み――呪いの本質は、飢餓感だ。つまり狗神の飢餓感を薄れさせることができるのなら、狗神の呪いも弱くなる」
理論的には満景の言い分は合っている。
だがしかしと、英孝は言い返す。
「狗神は霊的存在だ。実際に物を食うことなんて」
そこまで言葉を口にして、先ほどの満景の振る舞いを思い出したようだ。
そんな英孝に、満景は大きく頷く。
「さっき僕が狗神を体内に入れたのも、総菜を貪り食ったのも、狗神の飢餓感を薄れさせるための儀式だよ」
「儀式、だと……」
「 実家(うち) じゃやらない行事だけど、『施餓鬼』って知らない? 飢えと渇きに苦しむ 餓鬼(がき) に飲食を施し、供養する儀式なんだけど。普通は祭壇に食べ物をお供えしてお経を唱えるものだけど、一部地域では餓鬼を身体に入れて食事することで餓鬼の腹を満たす、って作法があるんだよ。僕が狗神に対してやってのも、このタイプの施餓鬼なんだ」
絶えぬ飢えと渇きを罰として与えられる餓鬼ですら、施餓鬼で飢えと渇きを忘れることができる。
いわんや、現世に留まる犬の霊の飢餓感をや。
そうした満景の説明に、英孝は眦を吊り上げる。
「それがどうした! 来い狗神ども!」
もう一度英孝が手の印を作ると、再び獣臭が強くなった。満景に憑りつかせた狗神を呼び寄せ、別の方法で呪う気のようだ。
しかし、臭ってくる獣臭は、最初のときよりも大分薄い。
この臭いの薄さは、狗神が抱える恨みの感情が薄くなっている証拠だった。
満景は、まだやる気の英孝を見て、合掌をする。
「兄さん。これ以上は、僕も容赦できないよ。それでもというのなら、狗神を失う覚悟をして欲しい」
満景の身体から、呪力とは別種の力が立ち上がる。
それは清廉であり、そして温かさを感じるもの。
英孝は、家で見ていた満景と違う姿に、気後れを起こした様子になる。しかし、弟にコケにされてたまるかとばかりに、呪力を込めて狗神を嗾ける。
「やれ、お前たち!」
再び、四匹の狗神が満景に迫ってくる。
しかし狗神たちの勢いは、最初とは雲泥の差で遅い。それこそ、施餓鬼によって渇きと飢えを癒してくれた、満景を害することを嫌がるように。
満景は、痛ましい狗神たちの姿を見て、目を伏せる。そして自然と、その口からは念仏が放たれた。
「 南無毘盧遮那仏(なむびるしゃなぶつ) 」
東大寺の建立において、国家の安定と疫病・飢饉で亡くなった人々の冥福を祈り、仏の慈悲で救済するために作られた、奈良の大仏―― 盧舎那仏(るしゃなぶつ) へ救済を願う念仏。
真摯に狗神たちの救済を願う満景の言葉に、盧舎那仏が応える。
満景に後光が発生し、その光が狗神たちを優しく包む。
光に包まれた狗神たちは、その首の傷が治り、痩せていた肉体はふっくらとしたものに変わり、毛並みも艶々に。そして恨みと飢えで淀んでいた目は、愛用の玩具を見つけた子犬のようにキラキラとしたものへ。
狗神から、すっかり普通の犬の霊に変わったものたちが、纏った光に導かれるように天へと昇っていく。
そして近くの家の屋根の上へと達したところで、光と共に犬たちも消え去った。
満景が合掌を解き、目を開ける。
その満景の目には優しい感情しか映っていなかったが、英孝にとってはそうは感じられなかったようだ。
まるで理解不能の化け物を前にしたかのように、英孝は満景から距離を取る。
「い、いまのはなんだ! くそっ。狗神ども、戻ってこい!」
英孝は手印を作るが、あの四匹の狗神たちは戻ってこない。二度三度と印を試すが、それでも戻ることはなかった。
「兄さん。あの犬たちは仏に導かれて彼岸を渡った。もうこちらに戻ってはこないよ」
満景が事実を伝えると、英孝は震えんばかりに怒り出した。
「お、お前。なんてことをしてくれたんだ! 狗神たちを、どうしてくれる!」
要領を得ない怒声に、満景は首を傾げてみせる。
「何に対して怒っているのかな。僕を呪う方法が亡くなったことに対して? それとも、他者を呪う道具を失ったことに対してかい?」
満景が問いかけると、英孝がいきなり殴りかかってきた。
「弟で、落ちこぼれの分際で!」
理由らしい理由も告げずの暴行に対して、満景はさっと身を躱した。その躱す際に、用心のために衣服に忍ばせている、紙の 人形(ひとがた) を出し、その人形で英孝の肌を拭った。
英孝の肌を滑った人形には、英孝の汗が染みている。
「兄さん。本当に、もう止めてよ。でないと、もっと酷いことになるよ」
「やれるものなら、やってみ――」
英孝は言葉の途中で、腹を押さえて蹲った。
満景は、そんな英孝に見せつけるように、英孝の汗で濡れた人形を掲げて示す。その人型の腹の部分は、満景の力を入れた手指によって皺になっている。
「呪いの人形。呪う対象者の頭髪や体液を媒体にすることで、人形につけた傷を対象者に与える呪い。古くてメジャーな呪術だけど、それだけ長く有名になるほど効果のある呪術でもあるよね」
「お、お前……」
「兄さんには、もう狗神はいないんだ。受けた呪いを、狗神の力でもって返すなんて真似はできないよ。それと、その腹痛の中で、僕の呪いを跳ね返すだけの呪力を練れる?」
満景が人形を押す指を強くすると、英孝の苦しむ様子が強くなった。
「ぐああああっ。やめて、くれ。謝る。謝る、から」
「謝罪はいらないよ。これから先、僕に関わらないと約束してくれるのなら、それでいいから」
「約束する。約束する、から。呪術を、止めてくれ」
「……分かってくれたなら、それでいいよ」
満景が人形を押さえる指を緩めると、途端に腹痛が治まったのだろう、英孝が急いで立ち上がって距離をとった。そして、満景を馬鹿にした言葉を吐き始める。
「腹痛さえ治まってしまえば、こちらのものだ! 狗神四匹を賄ってきた、俺の呪力を舐めるなよ!」
英孝が自分の呪力を高めて、満景の呪いの人形の呪術にかからないよう対策する。
しかし、満景は既に対策をとっていた。
「ダメだよ、兄さん。呪術師を相手に簡単に約束なんかしたら。同意さえあれば、破れないよう呪術を込めた約束にすることが出来るんだから」
満景の言葉を証明するように、英孝の汗を吸った紙の人形が、白色から黒色へと変化していた。
その黒い人形は、独りでに満景の手から離れると、英孝の額へと張り付いた。
直後、黒い人形は白色に戻り、英孝の額から地面へと落ちた。
たったそれだけの変化だったが、英孝には新たな変化が生まれた。
英孝は呪力を練って構えていたのだが、満景に背を向けて先へと歩き始めたのだ。それも、両手両足を不自然に大きく振る歩き方で、まるで誰かに操られているかのようだ。
「お、お前。なにをしたんだ!」
「兄さん。おたっしゃで。もう二度と『会える』ことはないでしょう」
満景が手を振って見送る中、英孝は街の寄闇の向こうへと去っていった。