作品タイトル不明
03
(えっ、私、今何を……!?)
なぜ微笑んでしまったのか。
混乱に立ち尽くしていると、今度は別の方向から人々のざわめきが聞こえてきた。
見れば、ネロがこちらを見つめたまままっすぐこちらに向かってきていた。
ただ歩いているだけなのにどうしてそんなに早いのかと聞きたくなるようなスピードで距離を詰められ、気がついた時には目の前に立たれていた。
全身の毛が総立つような感覚に襲われる。
「――見つけた」
聞こえた声は、前世で聞いたものよりも少しだけ高音で澄んでいた。
見つけたとはどういうことだろうか。
まさかネロも前世の記憶があるのだろうか。
ちらりと腰元を見てみるが、幸いなことに剣の類いは身につけていないが、この体格差なら素手でくびり殺される可能性もある。
最悪な想像がひととおり頭の中をかけめぐった。
「あ、の」
ようやく絞り出せた声は掠れていた。
ネロは美しい瞳をうっとりと潤ませ微笑んだ。
心臓が止まりそうな神々しさに目がくらむが、次に聞こえた言葉で一気に思考が冷える。
「ようやく見つけた、俺の、運命」
成り行きを見守っていた周囲の人々が一斉にざわめく。
(う、運命? どういうこと?)
意味がわからず無言で固まっていれば、ネロが恭しく腰を折った。
「俺はネロ。オランジュの第二王子だ。君の……名前を聞いてもいいかな?」
返事ができずにいると、傍にいたリリアナが急かすように肩を叩いてきた。
我に返ったビアンカは慌てて淑女らしく頭を下げる。
「わ、私はビアンカと申します。アプリコ伯爵家の娘です。王子殿下にお会いできて、光栄です」
ひどく震えた声になったがなんとか形式通りの挨拶はできた。
「ビアンカ……ビアンカ、そうか、ビアンカというんだね」
どうしたことかネロはビアンカの名前を何度も繰り返し呟きはじめた。
その間も一切ビアンカから目をそらさないので非常に怖い。
出会ってから今までこの人は瞬きをしていないのではないだろうかと錯覚しそうになるほど強い視線に、冷や汗が滲んできた。
(ど、どうすればいいの)
リリアナに助けを求めようにも、彼女はネロの美貌に見蕩れておりビアンカの救いを求める視線に気づく気配はない。
「ビアンカ」
「は、はい!」
そうこうしているうちに呼びかけられ、ビアンカは悲鳴じみた声で返事をした。
「この場にいるということは、君には決まった相手はいない、そうだね」
「えっ? ええ、まあ」
なんでそんなことを聞くのだろうか。
「ああ、よかった。もしそんな相手がいたら殺してしまうところだったよ」
「えっ?」
とてつもなく物騒な言葉が聞こえた気がしたが、肝心のネロがニコニコと嬉しそうなので聞き間違いに違いない。
そう信じようとしているビアンカの前に、ネロがおもむろに片膝を突いてしゃがみ込んだ。
そして何かを願うようにそっとこちらに片手を伸ばしてくる。
「ビアンカ。君は俺の運命の人だ。俺と結婚しよう」
きゃあ! とリリアナが黄色い悲鳴を上げた。
まわりの人々も様々な音色の声を上げている。
ビアンカだけは何を言われたか理解できず、ただ呆然とネロを見つめた。
いつの間にかネロの手がビアンカの手に触れていた。
お互いに手袋を嵌めているというのに、彼の手がひどく熱いのが伝わってくる。
「あ、の?」
戸惑いで動けないでいると、緩く手を引かれた。
逆らえなかった身体はあっというまに近づいて、ネロの顔がビアンカのそれに寄せられる。
ふわりと漂ってくるよい香りに頭がクラクラと揺れる。
怖いくらいにきれいな顔が目の前でうっとりとした笑みを浮かべた。
「そしてどうか、俺と一緒に死んでくれ」
「――っ!」
(また、殺される)
全身の血がざっと引いていくのがわかる。
腕を引いて逃げようとするが、掴む力は強くびくともしない。
(だ、誰か)
恐怖のせいで言葉がでてこない。
助けを求めてまわりに目を向けるが、彼らは興奮した様子であれやこれやと声を上げており、どうやら先ほどネロの口から発せられた恐ろしい言葉は聞こえなかったらしい。
「ビアンカ」
音がしそうなほどぎこちなく視線を戻せば、ビアンカの手を掴んだまま立ち上がったネロがうっとりとした笑みを浮かべながら見下ろしてきていた。
「愛しているよ」
隣にいたリリアナがきゃあと甲高い悲鳴を上げた。
だがビアンカは凍り付く。
ネロの姿に、前世の姿が重なる。
『お前を愛することはない』
結婚式の直後。夫婦の寝室で見下ろされながら最初に告げられた冷酷な言葉。
前世のビアンカはそれがとても悲しかった。
夫となった彼のことを、愛し支えようと決意していたのに。
「……う、うそよ!」
気がついた時には渾身の力でネロの腕を振り払っていた。
そして勢いよく身体を回転させると、その場から走り出していた。
「待ってくれ!」
制止の声が聞こえたが振り返らなかった。
リリアナであったり見知った誰かの呼ぶ声も聞こえたが、ビアンカは足を止めずに会場を飛び出す。
そして待たせてあった家の馬車に飛び乗り、具合が悪いから今すぐに連れ帰ってと叫んだのだった。
取るものも取り敢えず家に帰ったビアンカは心配する家族に「とにかく具合が悪から寝る」とだけ伝え、部屋に引きこもった。
(あれは悪夢よ、悪夢。疲れすぎてて幻覚を見たんだわ)
前世の夫が隣国の第二王子で、出会った瞬間に求婚してきたなんて悪夢ではなければなんなのか。
ベッドに潜り込んだビアンカは、ぶるぶると震えながら一夜を過ごしたのだった。