作品タイトル不明
家賃と掃除と生活準備
第5話 貸家の掃除と生活準備
貸家に足を踏み入れた瞬間、ヤマタニは眉をしかめた。
空気が重い。 湿った埃と、長く閉め切られていた匂いが混ざり合い、肺の奥にまとわりつく。
「……ひどいな。」
短く吐き捨てるように呟き、すぐに動いた。 窓と戸を一つずつ開けていく。
軋む音。 固まった木枠。 開いた瞬間、外気が一気に流れ込んできた。
淀んだ空気が押し出されるように逃げていく。
それでも――まだ足りない。
「こんな場所で寝たら、体を壊すな。」
独り言が自然に漏れる。
誰に聞かせるでもない。 だが、声に出さなければ、この場の現実に押し潰されそうだった。
部屋を見渡す。
机、椅子、床。 どれも一様に埃を被り、長く使われていないことを物語っている。
だが――
「……あるだけマシか。」
何もない場所を思えば、壁と屋根があるだけで十分だった。
掃除用具は、前の住人が置いていったものらしい。 ほつれた布、歪んだモップ、ひびの入った木のバケツ。
どれも頼りない。
それでも、ないよりはいい。
ヤマタニはバケツを持ち上げた。
ずしり、と重みが手首に食い込む。
「……重いな。」
思わず眉を寄せる。
現代の軽いプラスチックとは違う。 ただの水を運ぶ道具でさえ、体力を削ってくる。
裏手へ回り、井戸の前に立つ。
縄を掴み、桶を落とす。 水音が響き、しばらくして手応えが返ってきた。
引き上げる。
一度で腕に負荷がかかる。
「っ……。」
歯を食いしばる。 だが、力を抜けば落とすだけだ。
ようやく引き上げた水を覗き込み――ヤマタニは黙り込んだ。
濁っている。
土の色が混ざり、底も見えない。
「……これが、普通か。」
呟きは、半ば諦めに近かった。
喉が乾いている。 それでも、これは飲めない。
いや――飲まない。
一瞬だけ、迷いがよぎる。
だがすぐに首を振った。
「……やるしかないか。」
再び桶を落とす。
汲む。 捨てる。 また汲む。
単純な作業。
だが、確実に体力を奪っていく。
三回目で腕が重くなる。 五回目で呼吸が荒くなる。 七回目で、肩が軋み始めた。
それでも止めない。
止めたところで、水は綺麗にならない。
「……こんなことで、止まれるかよ。」
小さく吐き出す。
誰かに言われたわけでもない。 ただ、自分に言い聞かせるための言葉だった。
十回目を過ぎた頃には、腕の感覚が曖昧になっていた。
それでも繰り返す。
そして――
十数回目。
ようやく、水は透明になった。
底が見える。
ゆらりと揺れる水面に、空が映り込んでいた。
「……やっとか。」
その一言に、わずかな達成感が滲む。
葉が浮いている。 細かなゴミも混じっている。
だが、手で取り除ける範囲だ。
飲める。
そう判断できるだけで、十分だった。
バケツを抱え、部屋へ戻る。
今度は掃除だ。
はたきで天井の隅を払う。 蜘蛛の巣が落ち、細かな塵が舞う。
咳き込みながらも手を止めない。
テーブルを拭く。 椅子を拭く。
一度拭くだけでは足りない。
布はすぐに黒くなる。
何度も、水に浸し、絞り、また拭く。
単純な繰り返し。
だが――少しずつ、確実に変わっていく。
最初は灰色だった木の表面が、本来の色を取り戻していく。
床も同じだ。
完全には落ちない。
何度擦っても、薄い汚れは残る。
それでも――
「……まぁ、こんなものか。」
小さく息を吐く。
完璧じゃなくていい。
使えるなら、それでいい。
窓を拭く。
曇っていたガラスが、少しずつ透明になる。
光が差し込む。
さっきまで暗かった部屋が、わずかに明るくなる。
その変化を見て、ヤマタニは手を止めた。
「……悪くない。」
ぽつりと漏れる。
ほんの少しだが、確かに“自分の場所”になり始めていた。
一通り終えた頃には、体は限界に近かった。
腕が重い。 足がだるい。 指先に力が入らない。
「今日は……ここまでにしておくか。」
壁にもたれ、ゆっくりと息を吐く。
無理をして倒れれば、元も子もない。
明日は生活用品を揃える。
水を溜める容器。 食べ物。 寝るための何か。
やることはいくらでもある。
だが――
それでも。
ヤマタニは窓の外を見た。
夕方の光が、静かに差し込んでいる。
胸の奥に、じわりと広がる感覚があった。
ほっとする。
そんな感覚。
「……こんな感覚、いつ以来だ。」
思い出そうとして、やめた。
過去を掘り返しても、何も変わらない。
今、ここにあるものだけでいい。
まともに眠れる場所。 雨をしのげる屋根。
それだけで、十分だった。
「……ようやくだな。」
小さく呟く。
誰に向けたものでもない。 だが確かに、自分自身に向けた言葉だった。
ヤマタニは静かに息を吐く。
ここから――
生活が始まる。