軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

禁酒の誓い

第28話 禁酒の誓い

約束どおり、ヤマタニはドクターの部屋を訪れた。

机の上には、いつものように酒瓶――が、ない。

代わりに、空になった瓶が一本だけ、端に転がっていた。

「どうした?」

ヤマタニが尋ねる。

ドクターは椅子に深く腰掛けたまま、その瓶を指先で転がした。

カラン、と乾いた音。

「わしは、酒をやめる。」

思わず聞き返す。

「それは何故です?」

ドクターは顔を上げた。

酔いの赤みはない。逃げ場もない目だった。

「実はな。酒を飲んでも、本当は楽しくもなんともない。」

ぽつりと落ちる声。

「嫌なことを忘れようとして、逃げていただけなんだ。」

ヤマタニは黙って頷く。

「お前さん、よく死にそうな子供を連れて帰るだろう?」

「……はい。」

「ほとんど虫の息だ。正直、手の施しようもない」

事実だった。

「わしは最初から諦めていた。」

拳が、わずかに震える。

「助からんと、心のどこかで線を引いていた。」

視線が落ちる。

「期待すれば、裏切られる。……そう思ってな。」

沈黙。

「だがな。」

ゆっくりと顔を上げる。

「お前さんは諦めなかった。」

静かな視線が向けられる。

「わしが見捨てかけた命を、お前さんは最後まで握っていた。」

あの少年の、冷えかけた手。

「昔のわしもな、そうだったんだ。最後まで看取る医者だった。」

苦笑が浮かぶ。

「いつの間にか、守るために心を鈍らせたつもりが――ただ逃げていただけだった。」

ヤマタニは少しだけ間を置いてから言った。

「……感動なんて、してませんよ。」

ドクターが目を細める。

「俺はただ、見捨てるのが嫌なだけです。」

静かな声。

「助かるかどうかじゃない。見捨てたら、そこで終わりになる。」

ドクターは何も言わない。

ただ、その言葉を受け止める。

「……だから、やるだけです。」

短く言い切った。

ドクターはゆっくりと息を吐く。

「……そうか。」

そして、机の上の空瓶を見る。

「逃げる道具は、もういらん。」

ヤマタニは棚へ向かった。

酒ではなく、白いティーポットを取り出す。

茶葉を入れ、湯を注ぐ。

静かな時間が流れる。

立ち上る湯気が、張り詰めていた空気をわずかに緩めた。

やがて、二つのティーカップに茶を注ぐ。

琥珀色の液体が、静かに満ちていく。

二人は向かい合い、それを手に取った。

ドクターは一口すすり、わずかに顔をしかめる。

「……酒の方が分かりやすいな。」

「でしょうね。」

ヤマタニは淡々と返す。

「その分、逃げる暇もありません。」

ドクターは小さく鼻で笑った。

「違いない。」

カップの中の苦みを、ゆっくりと飲み下す。

「医療を整えましょう。」

ヤマタニが切り出す。

「隔離室、清潔な寝具、薬草の備蓄。見習いも正式に育てたい。」

ドクターが頷く。

「衛生の徹底も必要だな。」

「井戸水の管理、手洗いの習慣、器具の煮沸。」

言葉が続く。

だが、その途中でヤマタニは一度止まった。

「……次も来ます。」

ドクターの視線が上がる。

「同じような子供が、また。」

静かな声だった。

「準備がなければ、また同じ結果になります。」

ドクターはカップを見つめたまま、しばらく黙る。

「……間に合わなかった。」

ぽつりと落ちる。

「次は、間に合わせる。」

ヤマタニは頷いた。

それは誓いではない。

願いでもない。

ただ、現実だった。

酒ではなく、言葉が進む。

夜は更けていく。

だが二人の目は冴えていた。

救えなかった命は戻らない。

それでも。

「次は救いたい。」

ドクターが小さく言った。

ヤマタニは短く返す。

「はい。」

カップの中の茶は、もう冷めかけていた。

それでも、二人は飲み干した。

苦みは、はっきりと残った。

しばらくたったある日、ヤマタニはまた浮浪者の少年をまた運んできた。

「……しぶといのう。」

ドクターがぼそりと言った。

かすかな呼吸が続いている。

「まだ息がありますよ。」

ヤマタニが言う。

「そうじゃろうが、じゃがな。」

興味なさそうに返す。

「助かった、とは言えんぞ。」

「うむ。」

「あ〜はいはい。」

手をひらひらさせる。

「あんたが見ていても、患者は治らん。どいてみ。」

ヤマタニは一歩下がる。

ドクターは軽く様子を見る。

触れて、少し確かめて、すぐ離れる。

「……まぁ、今は持っとる。」

椅子に腰を落とす。

「はぁ〜、つかれたわい。」

深く息を吐く。

しばらく沈黙。

ヤマタニが口を開く。

「いずれは、大きな施設が必要になりますね。」

「ほう、作るのか。」

興味は薄い。

「だが、今は無理です。人も金も足りない。」

「それもそうじゃな。」

即答。

「だから、手が届く範囲だけやります。それ以上はまだ…。」

ドクターはちらりと見る。

「うむ。」

ヤマタニは続ける。

「助けられないかもしれない。でもやるしかない。」

「上等じゃ。」

間を置いて、ぽつり。

「欲張ると、全部あんたが駄目になるぞ。」

ヤマタニは黙る。

ドクターは目を閉じる。

「……昔はのう。」

少しだけ言いかけて、やめる。

「まぁいいじゃろう。」

手を振る。

「今日はまぁ〜、こんなもんじゃろ。」

外は静かだった。

だが同じような命は、まだどこかにある。