作品タイトル不明
1年経過
第23話 1年経過
工場を立ち上げてから、一年が過ぎた。
北地区に広がる敷地には、石鹸の甘い香りと、金属を削る乾いた音が絶えず漂っている。
電球工場の煙突からは白い煙がゆらゆらと立ちのぼり、孤児院の畑では子供たちが土を耕していた。
笑い声と、機械音と、生活の匂い。
一年前には何もなかった場所だ。
それが今では――
「……百人、か。」
帳簿に記された数字を見て、ヤマタニは小さく呟いた。
従業員は、いつの間にか百人を超えている。
売り場。工場。警備。孤児院。炊き出し。研究室。
すべてが繋がり、一つの“組織”として動いていた。
(もう、一人の仕事じゃないな。)
夕方。
帳簿を閉じ、椅子に背を預ける。
その瞬間を見計らったように、声が飛んできた。
「社長は一人でやり過ぎです。」
顔を上げる。
経理課長ケイトが、腕を組んで立っていた。
真面目で厳格。
数字の狂いを一銭も許さない女。
「浮浪者へのパンの支給が多すぎます。」
淡々とした口調。
「寮費も食費も、無駄が多い。」
「無駄じゃない。」
ヤマタニは即答した。
「投資だ。あいつらは将来、うちを支える。」
ケイトの眉が、わずかに動く。
「理想で会社は回りません。」
ぴしゃりと切り捨てた。
その言葉には容赦がない。だが――
帳簿を差し出す手は、微動だにしない。
逃げる気はない。
この会社を守る覚悟が、そこにはあった。
「……数字は?」
ヤマタニが問う。
「黒字です。ですが、余裕はありません。」
即答。
「今の規模で何かあれば、簡単に崩れます。」
静かな警告だった。
(……正しいな。)
ヤマタニは内心で認める。
だが、引く気はない。
「それでもやる。」
短く言う。
「拾うべき人間は拾う。」
ケイトは数秒、黙ってヤマタニを見た。
そして――小さく息を吐く。
「……では、せめて管理を強化してください。」
譲歩だった。
完全な否定ではない。
「社長一人で抱える規模ではありません。」
「分かってる。」
ヤマタニは頷いた。
それでも――まだ手放せない。
すべて自分で見ていたい。
その危うさを、ケイトは見抜いている。
「それと。」
ケイトは話を切り替える。
「社長はもっと立派な服をお召しになるべきです。」
「服?」
「屋敷も購入してください。」
淡々と続ける。
「みすぼらしい姿では、貴族も大商人も本気で相手にしません。」
ヤマタニは少し考えた。
技術があれば通じると思っていた。
だが現実は違う。
(信用も、見た目で作るか。)
「……なるほどな。」
数日後。
ヤマタニは中古の屋敷を買った。
広い庭。納屋。使用人部屋。
服も仕立て直した。
鏡に映る自分は、以前とは別人のようだった。
その姿を見て、ケイトは小さくうなずく。
「これでようやく“社長”です。」
短い言葉。
だが評価だった。
しかし――
その直後。
空気が変わる。
「……それと奥様をお迎えください。」
「は?」
思わず間の抜けた声が出る。
「家格と後継のためです。」
一切の迷いがない。
「必要なら、私が嫁ぎます。」
さらりと言い切った。
冗談ではない。
その目は、完全に本気だった。
ヤマタニは言葉を失う。
五十を過ぎた身。
前の世界には、妻も子もいた。
息子はもう自立している。
(……今さら、か。)
だが。
この世界では違う。
今の自分は、“社長”であり、“権力者”だ。
家も、血も、求められる。
胸の奥に、かすかな罪悪感がよぎる。
過去を裏切るような感覚。
そして同時に――
未来を選ばなければならない現実。
その矢先。
さらに話が舞い込む。
「商人協会長の娘ヒラリー様が、社長に興味を。」
巨大な一手だった。
後ろ盾。信用。資金。
すべてが手に入る。
だが――
(自由は、消える…。)
誰かの“駒”になる可能性。
無視できない代償。
夜。
屋敷の書斎。
一人、窓の外を見る。
孤児院の子供たちが、まだ遊んでいた。
笑い声が、夜に溶ける。
(あいつらの未来は、守りたい。)
それは揺るがない。
だが――
(俺の人生は、どうする。)
机の上。
新型モーターの設計図。
そして――婚姻の打診書。
並んでいる。
どちらも、“未来”だ。
だが意味が違う。
発明で世界を変える。
そう決めたはずだった。
なのに今――
問われているのは。
技術でも、金でもない。
「……俺は。」
小さく呟く。
答えは、まだ出ない。
だが逃げることもできない。
ヤマタニは、ゆっくりと椅子に座った。
設計図に手を伸ばす。
次に、婚姻の書状へ視線を移す。
そして――
どちらも、机の上に置いたままにした。
選ぶのは、まだ先でいい。
だが――
選ばなければならない日は、確実に近づいている。