作品タイトル不明
かつて兄弟だったはずの弟が今は。
第31話 かつて兄弟だったはずの弟が今は。
「太陽の家の地下にいた子供の中に、弟がいたんだ。」
そう言った少年は、手に古びた片方の靴を握りしめていた。
小さなそれは、明らかに子供のものだ。
「これ、あいつのなんだ。昔、なくしたって泣いててさ……俺、ずっと持ってたんだ。」
笑おうとして、笑えない。
顔が歪み、今にも崩れそうだった。
「……やっと会えたのにさ。」
声が震える。
「別人みたいなんだよ。」
ヤマタニは黙って聞いていた。
「目、合わないし……名前呼んでも、何も反応しないんだ。触っても、ちょっと遅れて動くだけで……。」
少年は靴を胸に押し当てる。
「なぁ……弟、どうしちゃったんだよ?」
問いは、まっすぐだった。
だが――重すぎた。
「…………。」
ヤマタニは、何も言えなかった。
言葉を探そうとした瞬間、すべてが嘘になる気がした。
助ける?
治す?
元に戻る?
――どれも、確証なんてない。
ただ現実だけがそこにあった。
壊れた子供と、どうしようもない事実。
「……。」
足が、動かない。
その場に立ち尽くすしかなかった。
やがて、近くにいたクレナが静かに歩み寄り、
兄と、そして無表情のままの弟の手を引いて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
重たい空気だけが残った。
「……くそ。」
小さく、吐き出す。
ヤマタニは椅子にも座らず、その場で考え続けた。
何かできることはないのか。
金ならある。
人もいる。
仕事も回せている。
――だが。
「人の心は……別かよ。」
ぽつりと漏れる。
経営は立て直せても、
壊れた心までは直せないのか。
そんな現実を突きつけられた気がした。
しばらく、何も思いつかない時間が続いた。
……その時。
ふと、昔聞いたどうでもいい言葉が頭に浮かぶ。
「腹が減ってたら肉を食え。元気なんてあとからついてくる。」
誰が言っていたのかも思い出せない。
くだらない話だ。
だが――
「……それでも、やらないよりはマシか。」
立ち止まっているのが、一番駄目だ。
ヤマタニは顔を上げた。
「よし……焼くか。」
◆
翌日。
仕事終わりの敷地に、香ばしい匂いが広がっていた。
炭火の上で焼かれる肉。
滴る脂。
立ち上る煙。
「うおおお!肉だ!!」
元気な子供達が一斉に群がる。
串を受け取っては、夢中でかぶりつく。
笑い声と、はしゃぐ声が広がっていく。
だが――
太陽の家の子供達は、動かなかった。
並ばない。
見もしない。
ただ、そこに立っているだけ。
「ほら、早くしないと無くなるぞ。」
ヤマタニが声をかける。
一階にいた子供達は、言われるがままゆっくりと歩き出した。
感情のない動きだった。
地下にいた子供達は――動かない。
まるで命令が届かない機械のように。
「……仕方ねぇな。」
ヤマタニは自分で串を取り、一本ずつ手に持たせていった。
手に乗せる。
数秒遅れて、口に運ぶ。
食べる。
ただ、それだけ。
味わっている様子もない。
喜びも、嫌悪もない。
「……。」
ヤマタニは、奥歯を噛んだ。
少しくらい、笑うと思った。
ほんの少しでも、反応があると思っていた。
だが現実は――無。
それでも、他の子供達は楽しそうに食べている。
その光景が、救いであり、同時に胸を刺した。
「……まだ、ある。」
ヤマタニは思い出したように立ち上がる。
運んできたのは、大きな鍋だった。
湯気が立ちのぼる。
「炊き出しのスープだ。食べたい奴は来い。」
その言葉に、数人が反応する。
列ができる。
その中に――あの兄の姿があった。
順番が来る。
器に注がれるスープを、じっと見つめている。
受け取ると、少年はそのまま立ち去ろうとした。
「おい。」
ヤマタニが声をかける。
少年が振り返る。
「忘れ物だ。もう一杯、持ってくんだろ。」
一瞬、理解できていない顔をした。
だが次の瞬間――
「あ……。」
小さく声を漏らし、頷いた。
二杯目を受け取る。
その顔に、ほんのわずかに光が戻る。
少年は駆け出した。
弟の元へ。
無表情のまま立っている弟。
その前に、息を切らしながら立つ。
「ほら……スープだ。」
差し出す。
反応は――ない。
一拍。
二拍。
ゆっくりと、弟の手が動いた。
器を受け取る。
そして、口元へ運ぶ。
スープを飲む。
……沈黙。
兄の手が震える。
「……なぁ。」
声が、かすれる。
「覚えてるか?これ……よく飲んでたよな……。」
返事はない。
それでも、弟はもう一口飲む。
その時だった。
「……ありがとう。」
かすかな声。
聞き間違いかと思うほど、小さい声。
「兄ちゃん。」
――時間が、止まった。
「……っ。」
少年の顔が、崩れた。
涙があふれる。
「お前……お前……!」
泣きながら、笑う。
何度も、何度も頷く。
弟はそれ以上何も言わない。
だが確かに、そこに“戻ってきたもの”があった。
◆
少し離れた場所。
その光景を見ていたヤマタニの頬に、涙が流れた。
静かに、地面へと落ちる。
「……なんだ。」
小さく笑う。
「ちゃんと、戻ってくるじゃねぇか。」
全部じゃない。
完全でもない。
それでも――
確かに、届いた。
ヤマタニは袖で涙を拭った。
「……焼肉も、無駄じゃなかったな。」
空を見上げる。
ほんの少しだけ、軽くなった気がした。