作品タイトル不明
第131話 ヴァイス、起きる
目を覚ますと、小さな違和感が俺を襲った。
何がおかしいのか最初は分からなかった。伸びを一つして、ぐるりとリビングを見渡したところでようやく気付く。
────静かすぎる。
普段ならこの時間帯は「ぱぱー! おやつー!」だの「くまたんがおっこちたー!」だの、悲鳴とも歓声ともつかない声が飛んできているはずだ。それが今は、窓の外を通り抜ける風の音しかしない。
「……リリィ?」
声をかけながらリリィの部屋を覗く。いない。
リビングをくまなく探す。いない。
台所も、洗面所も、俺の部屋にも──いない。
広い家というのも考えものだ。人の気配が消えると、途端に空気が冷たくなる。
まさか、またクローゼットに入り込んで昼寝してるってオチじゃないだろうな、と一応扉を開けてみる。
……いない。
じわじわと胃の奥から嫌な物がせり上がってくる。全身が総毛立つ。夏なのに身体の芯が冷たくなっていく。
「……まさか」
玄関へ駆け出す。頼む、頼む、頼む。頼むから、そこにあってくれ。
靴箱を見た瞬間、その祈りは綺麗さっぱり粉砕された。
リリィの靴が──ない。
◆
状況は、ほぼ最悪に近い。
だが、まだ「本当の最悪」ではない。最悪というのは勿論、リリィが誰かに攫われたケースだ。
今回は違う、と俺は判断した。子供にきちんと靴を履かせてから誘拐する奴はいないし、部屋に争った形跡もない。くまたんとぽよぽよまでいないのもおかしい。リュックが消えているのを確認して、俺の中で答えは一つに絞られた。
──自分の意思で、どこかへ出かけた。
そう分かったからこそ、ギリギリのところで冷静さを繋ぎ止められた。
「……こうなったら、ゼニスの方がまだ安全だぜ」
あの街で、俺の娘に手を出す命知らずはいない。冗談みたいな話だが、世界で一番リリィが安全なのは、もしかするとゼニスかもしれない。
深呼吸を一度。
冷静さを取り戻したところで、俺は家を飛び出した。いつ家を出たのかは分からない。だが、子供の足で行ける範囲なんざたかが知れている。くまたんとぽよぽよを連れているなら、なおさらだ。
「……やっぱり、魔力検知には引っ掛からねぇか」
空間に魔力を散らしてみるが、うっすらとした残り香しか掴めない。魔力検知ってのは、自分の家とか学校みたいな慣れた場所に網を張ってこそ真価を発揮する技術だ。屋外じゃ範囲も精度もガタ落ち。おまけに、俺はその手の魔法が得意って訳でもない。
となれば、やり方は一つだ。
「まずは聞き込みだな」
くまたんとぽよぽよを引き連れているはずのリリィは間違いなく目立つ。目撃情報を得るのは容易いだろう。もし誰も見てなかったら…………いや、それはない。大丈夫なはずだ。
通りに出て、まずは近所のパン屋に飛び込む。カウンターでうたた寝をしていた店主がベルの音で俺に気が付く。パン屋は午前中が本番で、今は惰性で店を開けているだけといった雰囲気だった。
「あら、ヴァイスさん。いらっしゃい」
「悪い、今日はパンを買いに来た訳じゃない。ちょっと聞きたいことがあってな」
「あ、もしかしてリリィちゃん?」
「知ってるのか!?」
思わずカウンターに詰め寄っていた。店主は何を思い出したのか、ふふっと笑いながら頬に手をやる。
「ついさっき──そうね、一時間くらい前かしら。リリィちゃんが通ったわよ。冒険中って言ってたから、余ったパンを持たせてあげたの。どっちかっていうと、ペットのお散歩にしか見えなかったけどね。可愛かったわ」
「リリィ……」
俺は頭を抱えた。あれほど勝手に外に出たらダメだと言ったのに……。
「迷惑かけて悪い」
「いいのいいの。捨てるより食べて貰った方が、パンも喜ぶもの」
「そう言って貰えると助かる。またちゃんとした客として来るよ」
礼を言い、パン屋を後にする。目指すは商店街だ。誰に声をかけるか考えているところで、先に肉屋の親父の方から声が飛んできた。
「おう、ヴァイス! さっきリリィちゃんが通ったんだがよ、あれは立派だったぞ!」
「立派?」
「ああ、まずペットにメシを食わせるんだ。自分は後回しにしてよ。子供に出来るか? そんなこと」
「ちょっと待て。何の話だ?」
情報量の多い親父の喋り方に、思考が置いていかれそうになる。
「いや、だからよ。リリィちゃんが来たからソーセージをプレゼントしたんだよ。そしたらあの子、くま……なんだ? あれとスライムに全部食わせちまってな、自分は我慢するって言うんだ。こんなちっこいのがだぞ? 俺ぁ感動しちまってよ、気が付いたらコロッケ握らせてたよ」
「なに、それは本当か!? リリィがそんな立派な事を!?」
「本当だとも。俺はお前にはやく教えてやりたくってよ。良いところに通りがかったぜ」
くそっ……俺はどうしてそのシーンを見逃がしてしまったんだ。昼寝さえしなければこんなことにはならなかったのに。
強い後悔の波が心に押し寄せ──ている場合じゃなかった。危うくどれだけリリィが日々成長してるか語り尽くすところだったぜ。
「悪い、実は今そのリリィを探しててな。どっちに行ったか教えてくれないか?」
親父が指差した方向は商店街を真っすぐ進むルートだった。
「リリィちゃんは、この通りの人気者だからな。他の連中にも、色々話しかけられてたぜ」
「リリィが人気者?」
気になる単語だったが、それを肴に話し込んでいる場合じゃない。親父に礼を言い、俺は勢いよく地面を蹴った。