作品タイトル不明
第125話 ヴァイス、負ける
一粒のチョコレートで最低限の糖分を補給した俺たちを待ち受けていたのは、俺がこの世で一番嫌いな時間だった。
「さて、休憩も済んだところで……勉強の時間だ」
「べん、きょう……だと……?」
出来ればその言葉だけは聞きたくなかった。どうしてこの歳になって、しかも夏休み初日から勉強なんぞしなきゃならんのか。そういう窮屈さが嫌で、俺は帝都を飛び出したというのに。
「子どもの成長において教育は最も重要だ。我々がリリィちゃんを正しく導いてやらなければならない。それはお前も分かっているだろう」
「……それはそうだけどよ」
昨日の成績表を見せられた直後では何も言い返せなかった。
ジークリンデはどこから用意してきたのか、テーブルの上に数枚の紙を並べた。そこには、いくつかの円と線が組み合わさった、簡素な魔法陣が描かれている。
「一年生用の基礎プリントだ。内容は難しくない」
プリントが二枚。
──嫌な予感がする。
「……ちょっと待て。それ、二人分あるように見えるんだが」
「見間違いではない」
「俺の分もあるのか?」
「当然だ。リリィちゃんに教える以上、保護者も理解していなければ意味がない」
「俺も勉強する流れなのか……」
学生時代、座学でジークリンデにどれだけ世話になったと思ってる。あの頃から何一つ成長していない自覚がある分、胃が痛い。
「では、最初は確認からだ」
ジークリンデは淡々と視線をリリィに向ける。
「リリィちゃん。風属性の基本魔法陣は、何色で構成される?」
「みどり!」
即答だった。
「正解だ」
「えへへ」
誇らしげに胸を張るリリィ。どうやら、座学が完全にダメという訳ではないらしい。
次いで、ジークリンデの視線が俺に向いた。
「ヴァイス」
「……嫌な予感しかしねえ」
「魔法陣は、何の為に存在する?」
「それはお前……魔法を……こう……かっこよくする為だろ」
「違う」
即座に切り捨てられた。いや、正解じゃないかもしれないが嘘でもないんだって。形を変えたりも出来るんだよ。
「リリィちゃん、答えられるか?」
「まほーが、ばくはつしないよーに!」
「惜しいな。魔力の流れを安定させ、術者の負担を減らす為だ」
「あ、そっちか!」
「ほらな。今の問題は一年生レベルじゃねえんだよ。俺が答えられないのも無理ない」
ジークリンデが小さく息を吐く。俺の抗議はしれっと無視されていた。
「リリィちゃんの理解は悪くない。基礎はきちんと身に付いている」
「ほんと!?」
ぱっと顔を輝かせるリリィ。その反応を見て、ジークリンデの口元がわずかに緩んだ。
「だが、問題はそこではない」
その一言で、リリィの背筋がぴんと伸びる。
「本当は分かっている内容でも、深く考えずに答えようとする癖がある。授業中の私語や注意散漫も指摘されていたな」
「う……」
「魔法は感覚だけでは扱えない。理解と集中があって、初めて安全に使える」
ジークリンデは怒っている訳じゃなかったが、リリィはしょんぼりと肩を落とす。
「まほー、だいすきだから……」
「知っている。だからこそ、だ」
ジークリンデはリリィの目線に合わせて、少し身を屈めた。
「好きなものを、ちゃんと守る為に勉強するんだ。分かるな?」
「……うん」
小さく頷くリリィ。
その様子を見ながら、俺は内心で溜息をついた。
こりゃ敵わねえ。俺がどんな言葉を尽くしても、ここまで綺麗には伝えられない。
「ヴァイス」
「はい」
「お前もだ。実技だけで生きてきたつもりだろうが、基礎を疎かにすればいつか足元を掬われる」
「耳が痛ぇな……」
「痛いうちに治せ」
正論だった。
リリィがちらりと俺を見上げる。
「ぱぱも、いっしょにがんばる?」
「あ、ああ……そうしようかな」
「やった!」
嬉しそうに笑うリリィを見て、ジークリンデは小さく頷いた。
「では、夏休みの間はこの方針でいく。まずは生活習慣の立て直しと、基礎の積み重ねだ」
「思ったよりガッツリだな」
「当然だ。今まで崩れていた分を戻すだけで、十分に時間がかかる」
リリィは一瞬だけ口をぽかんと開けたが、「いいお姫様になる為には頑張らないとな」と言われ、すぐにぐっと拳を握った。絵本の中のお姫様に憧れているリリィに一番効くセリフはそれかもしれないな。
「じゃあ……がんばる!」
「よし」
「なあリリィ、本当に分かってるか? 夏休みだぞ? 毎日これだぞ?」
「うん!」
即答だった。まさかリリィが勉強を楽しむようになるなんて。ジークリンデが来る前なら考えられなかったことだ。
「……俺の方が先に音を上げそうなんだが」
「その時はお前はおやつ抜きだ」
「やめろ」
リリィがくすくす笑い、ジークリンデも小さく口元を緩める。
どうやらこの夏は、リリィの成長と引き換えに、俺の平穏が犠牲になるらしい。
……まあ、逃げ場がないなら、せめて面白がるしかないか。